中越国境紛争とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

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中越国境紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/01 23:16 UTC 版)

中越国境紛争(ちゅうえつこっきょうふんそう)は、中越戦争以降に両国国境の高地(中国名:老山・者陰山)に構築されていたベトナム人民軍の陣地と、これを奪還しようとした中国人民解放軍との間で発生した大規模な軍事衝突である。二つの高地群を中心に戦われたため中華人民共和国では両山戦役(中国語版)と呼ばれている。

  1. ^ 昆明軍区は1985年に成都軍区へ合併された。
  2. ^ 両山戦役以降、紛争の主体は中越双方の敵領への浸透合戦が主となり、双方の小部隊や工作員が山岳部の国境をはさんで盛んに活動したため、深夜になると中国語・ベトナム語の乱数表放送が頻繁に行われ、条件さえ良ければ日本でも傍受する事が出来た。 当時のハノイ市内では、中越国境から浸透する工作員を警戒して、徹底した住民管理と相互監視による防諜活動が行われ、折からの消費物資・食料の不足と相まって非常に重苦しい空気に支配されていた。当時のベトナム人は、見知らぬ者を見ればスパイと思って警戒するよう教育され、街中で写真を撮影しただけでも住民の保安組織の詰め所に連行されるような時代だった。
  3. ^ 戦時中よりひどい経済状況に耐えかねた多くのベトナム人は、コメコン諸国への出稼ぎへ積極的に赴き、帰国した人々を通じてベトナム社会はソ連・東欧の影響を強く受け、これが現在のベトナム文化にも引き継がれている。 こうしたレ・ズアン時代後期に良い思い出を持っているベトナム人はほとんどおらず、レ・ズアン本人も国民・党内からの失政への批判が高まる中で、1985年に病に倒れそのまま没したが、現在ではその存在自体も忘れられつつある。
  4. ^ 改革開放路線の大成功で自信を付けていた中国、特に製造業が急速に発展し始めていた広東省では、人口が多く関係の深いベトナムを自省で生産される工業製品の有望な市場と見なす姿勢に変化しており、きわめてベトナムに対する感情の悪かった香港でも、この影響を受けてベトナムとの商流開拓への参入がブームとなった。
    これを反映して、開戦から10年を経た1989年の旧正月にクアンニン省の中越国境の一部が、物資不足のベトナムから金塊を持って押しかけた買い物客によって突破された事で、中越双方の黙認の下に物々交換による交易が再開され始めた。
    当時の中越国境は大量の地雷が埋設されたままで自由な往来は困難だったが、ベトナム社会の経済活動が活発化して消費物資不足が更に深刻化した事を受けて、多数の冒険商人達が商品の仕入れのために中越国境の突破を目指し、触雷して死亡する者を出しながらも、その犠牲によって自然に形成された“けもの道”が“担ぎ屋”の通路となった。
    鋭く対立していた中越関係の変化は、西側諸国でも関心を呼び、当時の阿曾村邦昭駐ベトナム日本大使も1989年の秋にランソンを訪れ、現地の状況を視察している。
  5. ^ 当初、中国からベトナムに持ち込まれていた商品は、比較的単価の高いリンゴやビールといった商品だったが、中国側が辺境貿易受け入れの方針を決めると、大規模な中国製商品の流通が始まるようになり、ベトナム人の消費生活水準は急速に向上した。
    また、ほぼ同時期に急増した中国・台湾の黒社会組織による日本へのトカレフ型拳銃の密輸事件で、日本との捜査協力に当たった中国公安当局は、その供給源が中越辺境交易で、換金性の高い闇商品としてベトナム側から持ち込まれた銃器だとの見解を示し、これに沿った内容が中国国内の雑誌などに掲載された。
  6. ^ この建設労働者達の実態は、中国軍の工兵部隊やその退役軍人達とも言われている。
    利害衝突を抱えている相手国に対して、このような民間人を主体と(あるいは偽装)した集団を投入するのは、中国の伝統的な手法であり、相手の出方を伺った上で軍事力を動員するのが通例となっている
    1969年の珍宝島事件では家畜を伴った農民に中国軍部隊を囲ませながら前進する手法を用い、1978年4月には中国漁船約200隻が尖閣諸島沖に突然現れて上陸を試み海上保安庁の巡視船に阻止されるという事件も発生した。
  7. ^ 1988〜1989年にかけて、中越双方は日本のマスコミを経由してお互いに大規模侵攻の意思と準備が無い事を発信していた。
    この時期の朝日新聞「声」欄には“中国の大学生”から届いた謎の投書が掲載され、一見すると中国の悲惨な現状を告発するかのような内容となっていたが、その内容は広西に配備された中国側国境警備の兵士が“ボロをまとった乞食のような姿で、補給も滞っており悲惨な状況だった”、との見聞が記されているものだった。
    同時期に香港・台湾の雑誌多数に、中国側から取材した「中越国境」ルポが多数掲載されるようになり、臨戦態勢が解除された中国側の状況が公開され始めた。
    その後、当時NHKが放映していた「海のシルクロード」取材班がベトナム側からの国境地帯での取材を許可されたのを皮切りに、日本のマスコミ各社に中国・ラオスとベトナムの国境地帯の状況が公開されるに至り、この報道を通じてベトナム側は国境警備部隊が中国製の弾薬缶をいまだに使用している様子や、軽武装な民兵が主力である点を強調しつつ発信していた。

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