「出生地」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
出生地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:02 UTC 版)
「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」の記事における「出生地」の解説
ヴァルターの出生地は現在に至っても不明で、書かれた文書が少ないことから、正確に割り出すことは不可能である。名前も手掛かりにはなるかどうか微妙である。中世において、城や町の周辺に「フォーゲルヴァイデ」と呼ばれる場所は多く、そこは鷹狩りのための鷹や、家々のための鳴き鳥を捕まえておくところだった。 この点から、ヴァルターが広い地域で活動するのに、そういう名前を名乗っていたとは考えられない。なぜかというと、その名前が指し示すものはあまりに漠然としていて、役に立たないからである(普通、主人と旅する他の上流貴族や詩人は、彼らが何者か明らかにするため、所有するものか出身地を名乗っていた)。つまり、「フォーゲルヴァイデ」という名前は、その名前がその地域に一つしかない、あるいは比喩的に誰のことを言っているのかを理解してもらえる、狭い範囲でしか通じないわけである。 1974年、ヘルムート・ヘルナー(Helmut Hörner)は Rappottenstein の土地台帳の中の1556年の記載に、ある農家のことが „Vogelweidhof“ と書かれていることを突き止めた。この時期、そのあたりは Amt Traunstein に属していて、現在はシェーンバッハ(Schöbach、低地オーストリアのヴァルトフィアテル Waldviertel)という町の中にある。その存在は1911年にアロイス・プレッサーも言及していたが、正確な位置がどこかわからなかったので、注釈していなかった。ヘルナーは、今なお残っている Weid という農家がVogelweidhof であることを立証し、ヴァルターがヴァルトフィアテルの生まれであるという説を打ち出した。彼はその説を、1974年出版の800 Jahre Traunstein(『トラウンシュタイン800年』)の中に記したが、ヴァルター自身の „ze Ôsterrîche lernt ich singen unde sagen“(オーストリアで私は詩を吟じ、歌を歌うことを学んだ)という言説をも根拠とした。当時「オーストリア」とは、今日の「ウィーンを中心とし、ヴァルトフィアテルを含む低地オーストリア」をさしていたからである。 中世末期のマイスタージンガー(職匠歌人)の世界では、ヴァルターはマイスターゲザング(職匠歌)創始者の一人とみなされ、身分はボヘミア出身の Landherr(領主?)といわれる伝承があった。これもヴァルターのヴァルトフィアテル出身説を否定するものではない。なぜなら中世、ヴァルトフィアテルはオーストリア(今日の低地オーストリア)とボヘミアの境界と位置づけられていた(ラテン語で „versus Boemiam“、ドイツ語で „gegen Böhmen zu“)からだ。 この説に対して、ベルント・トゥム(de: Bernd Thum、1941-2018; ドイツ、カールスルーエ大学教授)は1977年と1981年に強力な援護をした。トゥムはヴァルターの作品、特に「エレジー」「悲歌」(Alterselegie)として知られる、十字軍勧誘の歌を分析し、ヴァルターの出生地は当時の旅行ルートから遠く離れたところにあり、その地域の土地は開墾地だったと推論した。ヴァルターが自分の悲しみを„bereitet ist daz velt, verhouwen ist der walt“(自然の荒野は整えられて 森の樹々も伐り払われてある)〔村尾喜夫訳〕と吐露したことが、その根拠だった。 さらに1987年、ヴァルター・クロムファーと図書館員シャーロッテ・ツィーグラーが、ヴァルターはヴァルトフィアテルで生まれたに違いないと主張した。2人の研究の出発点となったのは「ヴァルター」という名前である。それがどうして彼の出生地と関係あるのかという疑問に対して、クロムファーは17世紀にツヴェットル修道院の修道士達が描いた古地図を示して反論した。その地図には „Walthers“ という村と„Vogelwaidt“ という野原が載っていて、関連のある家がその村に属することを示していた。やがて村はさびれてしまったようで、書き直されていたが、クロムファーはこの地域の所有権が「ヴァルター」なる人物に属していたと結論できると主張した。 一方、19世紀においては、フランツ・プファイファー(de:Franz Pfeiffer (Germanist), 1815–1868) が主張し始めた、南チロルのヴィップ渓谷説が広まっていた。イザルコ川のシュテルツィングの小さな町からそう離れていないところで、そこには „Vorder- und Hintervogelweide“ と呼ばれる森がある、というのがその根拠だった。しかし、これはヴァルターが何十年も生まれ故郷を訪れることがかなわなかったという嘆きと反するとされた。 その他、出生地としてスイス、ヴュルツブルク、フランクフルト等も取り沙汰われたことがある。
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出生地
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『五輪書』に「生国播磨」の記載があり、養子・伊織が建立した『小倉碑文』、江戸中期の地誌『播磨鑑』や泊神社棟札(兵庫県加古川市木村)等の記載による播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国(岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。 美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』などに採用されたため広く知られ、岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っている。
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出生地
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出生地は、1917年から導入された。パスポートに記載される出生地名の基準は、国務省が発行する「外務マニュアル」の第8巻に記載されている。パスポートに出生地を記載したくないという申請は受け入れられない。
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出生地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:15 UTC 版)
公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生まれとされ、多数の刊行物また北九州市立松本清張記念館によるものを含め、大半の資料の年譜において、小倉生まれとされている。しかし小倉は出生届が提出された場所で、清張自身は1990年の読売新聞のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島」と話しており、実際には広島県広島市で生まれたと推察される。また松本清張記念館に展示される清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、広島市内の実在する地名「広島京橋」と、広島市内に実在した写真館の名前がはっきりと記載されている。 光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している。後年、櫻井は板櫃村(現・小倉北区)に行き、清張の家族が住んでいたと覚しき町を歩いたが、この頃の住民は清張の家族がどこに住んでいたか誰も知らなかったという。 この他、清張自身「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」と記述している『父系の指』の中で「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いており、清張研究の第一人者といわれる郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原は「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」「清張の出生地は広島」としている。郷原はこの「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)と推定している。 『松本清張の残像』(2002年)の中で、「松本清張は広島生まれ」と指摘した松本清張記念館館長・藤井康栄は「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」としつつも、2009年に朝日新聞や中国新聞紙上で、清張は広島生まれとしたうえで、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している。ただ藤井が「松本清張は広島生まれ」と指摘して以降、清張関連文献に於いて「広島生まれ」と記述するものが増えてきている。日外アソシエーツは2014年刊行の『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』で、松本清張の出生地を「広島県広島市」と記載している。清張自身が「広島で生まれた」と話し、藤井が「松本清張は広島生まれ」と公表したものの、藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れる一方、現在も「小倉生まれ」との見解をとっている。清張には、清張本人以外に"公式"なる存在があるという奇妙なことになっており、それは松本清張記念館と考えられるが、公立の文学館が広島生まれを証明する物証を展示しながら、なお「小倉生まれ」と言い張らざるを得ない理由として、清張を「広島生まれ」と認めてしまうと、清張は10歳〜11歳頃から小倉で育ったとされるため、「小倉出身」「北九州出身」とは言えない状況が生まれるためと考えられる。 清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが、以降、年譜関連の記述では出生地を福岡県小倉市(または単に福岡県)と記される。ただ清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と発言・記述したことはない。なお『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったことも指摘されている。この点について郷原宏は「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している。2010年の広島市郷土資料館展示では、清張の広島出身の可能性が、多くの資料により検証されている。
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出生地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 05:40 UTC 版)
恭平の出生地である岡山県井原市では、「まこし」ではなく「うまこし」と呼ばれている。恭平は郷土を深く愛し、墓参りに度々帰郷し、帰郷すれば必ず郷土の教育や土木に多額の金品を贈って、郷土の繁栄を念じていた。井原市の小田川には、恭平が架橋にかかわり、馬越の名前が付けられた「馬越橋」(うまこしばし)がある。当時の橋は老朽化によって架け替えられ、現存はしていないが、橋名は現在もそのまま存続している。また、恭平の生家は現在も残されている。
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