周倉とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
周倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「周倉」の解説
元黄巾賊の大将。関羽に惚れこみ部下にしてもらう。水練が達者であり、樊城郊外の戦いでは龐徳を水中での組み合いの末捕えている。
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周倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:45 UTC 版)
関羽の配下。樊城の戦いで龐徳と一騎討ちになった場合龐徳に「樊城が落ちた」と騙し討ちをかける。
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周倉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
周倉は『演義』第28回で初登場。黄巾賊の残党として臥牛山で山賊をしていたが、通りがかった関羽に同行を許され、その後無二の忠臣として活躍する。見せ場として第66回「単刀会」と呼ばれる関羽と魯粛の外交交渉の席で魯粛を罵る場面や、第74回に魏の猛将龐徳を捕らえる場面がある。関羽を神として祀る各地の関帝廟では、関羽像の両脇に関平と周倉の像が並ぶのが普通であり、庶民に親しまれた英雄であるが、彼も史書に記載のない架空の人物である。三国志物語に加わった時期についても明らかでない。 「単刀会」の元となった事件は正史『呉書』魯粛伝に載るが、「土地はただ徳のある所なるのみ」と叫んだ関羽の部下の名前は出ていない。一方『平話』では、終盤の諸葛亮の北伐の段で、木牛流馬を管理する武将として周倉が登場するものの、周倉は関羽と何の関係も持っていない(登場は関羽の死後である)。『花関索伝』では、周倉は成都の元帥として登場し劉備軍と戦うが、関索に敗れて降伏する。その後呉によって荊州が攻められると、関羽ととも玉泉山に逃げ、飢えた関羽に自らの股の肉を与えて死ぬという役回りとなっている。 他方で『平話』以前の宋末元初の関漢卿による元曲『関大王独赴単刀会』にはすでに周倉が関羽の侍者として登場している。また道教の儀礼書『道法会元』巻259には、関元帥(関羽)に従う将軍として関平・関索とともに「周昌将軍」が登場する。周昌は前漢建国期の高祖の側近であり、本来関羽の従者となっているのはおかしいが、道教の冥界秩序としては珍しくない。昌(chāng)と倉(cāng)は、平水韻ではともに下平声陽韻に属する字で発音が非常に近い。ここで周倉を周昌と書き損じたのか、あるいは周昌将軍が後に周倉という武将に変化したかは不明である。
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