「宋書」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
宋書
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ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。 『宋書』列伝 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の讃の死後に珍が王に立ち、宋に遣使貢献し「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称して上表文を奉り除正を求めたところ、文帝は「安東将軍 倭国王」とするよう詔したとする。 また、珍が倭隋ら13人に対する平西・征虜・冠軍・輔国将軍号の除正も求めたところ、文帝は詔して全て認めたとする。 『宋書』本紀 文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(讃または珍の遣使か)。 また文帝紀 元嘉15年(438年)己巳条では、倭国王の珍を「安東将軍」となしたとする。 さらに文帝紀 元嘉15年(438年)是歳条では、武都王・河南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国が遣使して方物を献上したとする。
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宋書
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ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。 『宋書』列伝 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、永初2年(421年)に宋の武帝は詔し、倭讃が万里から貢物を修めているとして、除授を賜う(爵号を与える)よう命じたとする。 また元嘉2年(425年)には、讃はまた司馬の曹達を宋に遣わし、文帝に上表文を奉り方物(地方名産物)を献じた。その後、讃が死んだのちに弟の珍が王に立ったとする。 『宋書』本紀 文帝紀 元嘉7年(430年)正月是月条では、倭国王が遣使して方物を献上したとする(讃または珍の遣使か)。
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宋書
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ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。 『宋書』列伝 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとする。 また順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔した。『宋書』倭国伝にある武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す。渡りては海北95国を平ぐ云々」とあって、大和朝廷の国土統一、朝鮮半島遠征の状況過程を伝えている。武の上表文の内容は次の通り。 封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。^ 「逕」各本並作「遙」,據南史、通典邊防典改。 ^ 各本並脫「各」字,據南史、通典邊防典補。 — 『宋書』倭国伝所引 倭王武上表文 『宋書』本紀 順帝紀 昇明元年(477年)11月己酉条では、倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(興または武の遣使か)。 また順帝紀 昇明2年(478年)5月戊午条では、倭国王の武が遣使して方物を献上したので、武を「安東大将軍」となしたとする。
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宋書
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ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。 『宋書』列伝 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、父の済の死後に世子の興は宋に遣使貢献をしたとする。 また大明6年(462年)には、孝武帝は興を「安東将軍 倭国王」に任じるよう詔した。その後、興が死んで弟の武が王に立ったとする。 倭王武の上表文には、済と興が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている。 『宋書』本紀 孝武帝紀 大明4年(460年)12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。 また孝武帝紀 大明6年(462年)3月壬寅条では、倭国王の世子の興を「安東将軍」となしたとする。 さらに順帝紀 昇明元年(477年)11月己酉条では、倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(興または武の遣使か)。
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『宋書』巻22志第12楽4(楽志)「白紵舞」歌の1つで 東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る) — 『宋書』巻22志第12樂志四 載及 白紵舞 歌詩三篇之二 と、対句で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの「(白)紵」(カラムシ)というのは呉に産する織物である。
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宋書
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ウィキソースに宋書倭国伝の原文があります。 『宋書』列伝 夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、元嘉20年(443年)に「倭国王」の済は宋に遣使奉献し、珍と同様に「安東将軍 倭国王」に任じられたとする。 また元嘉28年(451年)には、済の爵号に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられ、「安東将軍」は元のままとされた。さらに済がすすめた23人は軍(将軍または軍号の意か)・郡(太守)に任じられた。その後、済が死に世子の興が遣使貢献したとする。 倭王武の上表文には、済が高句麗を討とうとしたが、その直前に亡くなったと記されている。 『宋書』本紀 文帝紀 元嘉20年(443年)是歳条では、河西国・高麗国・百済国・倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする。 また文帝紀 元嘉28年(451年)7月甲辰条では、「安東将軍 倭王」の倭済が「安東大将軍」に進号されたとする(倭国伝の進号記事と将軍号は異同)。 さらに孝武帝紀 大明4年(460年)12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。
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宋書
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「古代朝鮮半島関連の中国文献」の記事における「宋書」の解説
百済百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。(百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、百済は遼西を略有した。)
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