読み方:そうしょ中国の二十四史の一のこと。Weblio国語辞典では「宋書」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。">

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宋書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 06:44 UTC 版)

「珍」の記事における「宋書」の解説

ウィキソースに宋書倭国伝の原文あります『宋書』列伝 夷蛮倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の讃の死後に珍が王に立ち、宋に遣使貢献し「使持節 都督倭・百済新羅任那秦韓・慕韓六国諸軍安東大将軍 倭国王」と自称して上表文奉り除正を求めたところ、文帝は「安東将軍 倭国王」とするよう詔したとするまた、珍が倭隋13人に対する平西・征冠軍・輔国将軍号の除正も求めたところ、文帝は詔して全て認めたとする。 『宋書』本紀 文帝紀 元7年430年正月是月条では、倭国王が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(讃または珍の遣使か)。 また文帝紀 元15年438年己巳条では、倭国王の珍を「安東将軍」となしたとする。 さらに文帝紀 元15年438年)是歳条では、武都王・河南国・高麗国・倭国扶南国林邑国が遣使して方物を献上したとする。

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宋書

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「讃」の記事における「宋書」の解説

ウィキソースに宋書倭国伝の原文あります『宋書』列伝 夷蛮倭国の条(宋書倭国伝)では、永初2年421年)に宋の武帝は詔し、倭讃万里から貢物修めているとして、除授を賜う爵号与える)よう命じたとする。 また元嘉2年425年)には、讃はまた司馬曹達を宋に遣わし文帝上表文奉り方物(地方名産物)を献じたその後、讃が死んだのちに弟の珍が王に立ったとする。 『宋書』本紀 文帝紀 元7年430年正月是月条では、倭国王が遣使して方物を献上したとする(讃または珍の遣使か)。

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宋書

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武 (倭王)」の記事における「宋書」の解説

ウィキソースに宋書倭国伝の原文あります『宋書』列伝 夷蛮倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済新羅任那加羅秦韓・慕韓七国諸軍安東大将軍 倭国王」と自称したとする。 また順帝昇明2年478年)には、武は宋に遣使して上表文奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔した。『宋書』倭国伝にある武の478年遣使の際の上表文には「東は毛人55国を征し、西は衆夷66国を服す渡りては海北95国を平ぐ云々とあって大和朝廷国土統一朝鮮半島遠征状況過程伝えている。武の上表文内容次の通り封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。^ 「逕」各本並作「遙」,據南史通典邊防典改。 ^ 各本並脫「各」字,據南史通典邊防典補。 — 『宋書』倭国伝所引 倭王武上表文 『宋書』本紀 順帝昇明元年477年11月己酉条では、倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(興または武の遣使か)。 また順帝昇明2年478年5月戊午条では、倭国王の武が遣使して方物を献上したので、武を「安東大将軍」となしたとする

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宋書

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「興」の記事における「宋書」の解説

ウィキソースに宋書倭国伝の原文あります『宋書』列伝 夷蛮倭国の条(宋書倭国伝)では、父の済の死後世子の興は宋に遣使貢献をしたとする。 また大明6年462年)には、孝武帝は興を「安東将軍 倭国王」に任じるよう詔した。その後、興が死んで弟の武が王に立ったとする。 倭王武の上表文には、済と興が高句麗討とうとしたが、その直前亡くなった記されている。 『宋書』本紀 孝武帝大明4年460年12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。 また孝武帝大明6年462年3月壬寅条では、倭国王世子の興を「安東将軍」となしたとする。 さらに順帝昇明元年477年11月己酉条では、倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする(興または武の遣使か)。

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宋書

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扶桑」の記事における「宋書」の解説

『宋書』22志第12楽4(楽志)「白紵舞」歌の1つで 東造扶桑紫庭 西至崑崙増城(東、扶桑造り紫庭に游び、西、崑崙至りて増城戯る) — 『宋書』22志第12樂志四 載及 白紵舞 歌詩三篇之二 と、対句崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの「(白)紵」(カラムシ)というのは呉に産する織物である。

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「済」の記事における「宋書」の解説

ウィキソースに宋書倭国伝の原文あります『宋書』列伝 夷蛮倭国の条(宋書倭国伝)では、元嘉20年443年)に「倭国王」の済は宋に遣使奉献し、珍と同様に安東将軍 倭国王」に任じられたとする。 また元嘉28年451年)には、済の爵号に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられ、「安東将軍」は元のままとされた。さらに済がすすめた23人は軍(将軍または軍号の意か)・郡(太守)に任じられた。その後、済が死に世子の興が遣使貢献したとする。 倭王武の上表文には、済が高句麗討とうとしたが、その直前亡くなった記されている。 『宋書』本紀 文帝紀 元20年443年)是歳条では、河西国・高麗国・百済国・倭国が遣使して方物(地方名産物)を献上したとする。 また文帝紀 元28年451年7月甲辰条では、「安東将軍 倭王」の倭済が「安東大将軍」に進号されたとする倭国伝の進号記事将軍号異同)。 さらに孝武帝大明4年460年12月丁未条では、倭国が遣使して方物を献上したとする(済または興の遣使か)。

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宋書

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古代朝鮮半島関連の中国文献」の記事における「宋書」の解説

百済百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東百濟略有遼西。(百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったが、その後高句麗遼東を略有すると、百済遼西を略有した。)

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