「暦法」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
暦法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
一定の法則によって時間を区切り年月日を数え(暦法)、それによって構築されたカレンダー(暦表)、またその方法論を暦という。『日本書紀』が紀年・暦日を有し、時間を明示していることは即ち、ある暦法によって計算された年次・日が記された資料に基づいて書かれたか、あるいは編纂時に暦の計算が行われたことを意味する。暦法は天体運動を基準に作成されるのが基本であり、太陽暦、太陰太陽暦、太陰暦の3種に大別されるが(詳細は暦を参照)、『日本書紀』の暦法は中国に起源を持つ太陰太陽暦に依っている。 『日本書紀』には約900個の月朔(その月の1日の干支)が記載されている。これもまた十干と十二支の組み合わせによって表現される。例えば、『日本書紀』2番目の暦日である神武天皇が東征に出発した日は「太歳甲寅」の年の「冬十月丁巳朔辛酉」の日であり、即位の日は「辛酉」の年の「春正月庚辰朔」と表記される。 この六十干支による日付表記は、実際の天体運動が完全な等速運動でないことや、基準になる月や太陽の運動周期が厳密には整数でないこと、地球の自転・公転周期と同期しないことから様々な調整を要する。具体的には、朔望月(月の満ち欠け)の周期が約29.53日であることから、一か月の日数を30日とする大の月と29日とする小の月を設定し、月の周期と暦を同期させる調整が必要になる。さらに、朔望月による12か月(約354.36日)と地球の公転周期(約365.24日)が同期しないため、適時13カ月目(閏月)を挿入する年を作る必要がある(詳細は閏月を参照)。この調整の仕方、暦法によって、同じ日の干支や閏月が異なる場合がある。 日本では江戸時代以来、『日本書紀』が用いている暦法を復元する試みが行われており、初期の頃は日本独自の暦、あるいは百済の暦などの説が出されていたが、20世紀半ばに東京天文台(現:国立天文台)の職員・天文学者であった小川清彦によって中国からもたらされた元嘉暦と儀鳳暦(麟徳暦)が使用されていることが明らかにされた。 即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている。しかし、儀鳳暦は7世紀に唐で作られた新しい暦であり、日本にもたらされたのは持統天皇代であるのに対し、元嘉暦は5世紀に作られた古い暦であり、時代の新旧が逆転している。このことから、『日本書紀』の暦日は古い時代、5世紀前半以前の時代のものは『日本書紀』編纂時に最新の暦であった儀鳳暦を使って推算したものであることが明らかとなっている。
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暦法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:17 UTC 版)
ネパールの公式の暦として現在太陽暦のビクラム暦(विक्रम संवत्、Bikram Sambat)が採用されている。略号はवि. सं.(B.S.)。それまで使用されていた太陰暦に代えて、宰相チャンドラ・シャムシェルがB.S.1961年の新年(1904年4月)より、太陽暦のビクラム暦を公式の暦として用い始めたとされる。歴史的には年代、地域、王朝によって、さまざまな暦が使用されてきたが、太陽暦のビクラム暦以外はすべて太陰暦だった。これまで用いられてきた暦には、ビクラム暦の他、シャハカ暦、ネパール暦(ネワール暦)、マンデーブ暦(マーナ・デーヴァ暦)、ラクシュマン・セーン暦(ラクシュマナ・セーナ暦)などがある。 西暦4月の半ば(年によって1〜2日のずれが生じる)を新年とし、ひと月の日数は29日〜32日の月があり、前半の月が多めの日数、後半の月が少なめの日数という傾向があるものの、一定していないので西暦とはずれが生じる。なおビクラム暦はネパールの公式の暦であり、実生活でも一般に広く普及している暦であるため、日本語でネパール暦と呼ぶ例がみられるが、ネパール暦(नेपाल संवत्, Nepal Sambat)はビクラム暦とは別の暦で、新年が秋に来る太陰暦(太陽太陰暦)である。この暦は主にネワール族の間での使用に限られているので、暦名の用法に注意が必要である。 ビクラム暦は、インドのウッジャイニー(現ウッジャイン)を統治していたヴィクラマーディティヤ(ヴィクラマ・アーディティヤ)という王が、シャカ族との戦争に勝利した記念に始めた暦だといわれている。この暦の起年は紀元前57年で、西暦2008年4月13日はB.S.2065年バイサーク月(第1月)第1日にあたる。ネパールでは中世前期カス・マッラ朝時代頃からビクラム暦の使用が銘文等に認められる。 なお太陰暦(厳密には太陽太陰暦)のビクラム暦は、月名は太陽暦のものと基本的に同じであるが、日の呼び方は太陽暦ではガテといい、太陰暦ではティティという。太陰暦のビクラム暦は約3年に1度閏月をはさむことによって太陽暦のビクラム暦とのずれを調整している(太陽太陰暦)。祭り(ビスケート・ジャートラーを除く)や宗教行事等は基本的に太陰暦のビクラム暦によっているので、西暦とのずれが生じる。 近年都市部を中心に西暦の使用も広まっているものの、実生活においてはビクラム暦の方が馴染みが深い。毎年西暦3月頃に売り出される市販のカレンダーには太陽暦のビクラム暦をベースに、西暦と太陽太陰暦のビクラム暦を併記しているものが多い。
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暦法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/22 04:02 UTC 版)
木星は天球上を西から東に約12年で1周する。そのため木星は、天球を赤道沿いに12等分した十二次を約1年に1次進むことになり、木星の十二次の位置で年を記述することが可能であった。しかし、十二次は西から東に天球を分割したもので、地上の方位(十二支)と方向と合致した十二辰とは逆方向であった。このため、天球上の円軌道に直径を引き、その直径を基準に木星と線対称の位置にあり、東から西へ移動する仮想の星を設定した。これが太歳である。こうして「太歳在子(太歳が子にある年)」というように、太歳の十二辰上の位置で年を記述する太歳紀年法が用いられるようになった。これが後に太歳とは関係なく機械的に60年1周(十二支部分は12年1周)で年を記述する干支紀年法へと発展することになる。 なお太歳を決める直径の位置は暦法により異なっている。これは木星の公転周期が正確には11.862年であるため、木星の天球上の位置は約86年で1次(太歳は1辰)ずれ、改暦の際にそれを調整したからである。漢の三統暦ではこれを調整する超辰法を暦法に盛り込んだ。
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チェザーレ・エミリアーニ(英語版)が1993年に提唱した人類紀元(HE)は、その紀元を紀元前10000年としている。よって、西暦2022年は人類紀元12022年となる。
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暦法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 06:38 UTC 版)
詳細は「暦法」を参照 古代エジプトにおいて、ナイル川の氾濫の時期に周期性があることに気づいたのが暦の始まりといわれている(シリウス暦)。人類が農耕を行うようになると、適切な農作業の時期を知るために暦は重要なものとなっていった。まず昼夜の周期(地球の自転)が日となり、月の満ち欠けの周期(月の公転)が月に、季節の周期(地球の公転)が年となった。このように暦法は天体運動の周期性に基づいていることから、その観測と周期性の研究が重要であり、これが天文学の基礎となった。一方で、石器時代の35000年前に暦を創ったらしいとの意見もある。紀元前3000年頃のシュメール文明では、季節が冬と夏の2つで、1か月29日か30日の12か月の比較的簡単な暦を作り上げたといわれている。 何を基準として1年を定めるか、閏(閏日・閏月)をどのようにして決めるかなどにより、さまざまな暦法が作られた。大きく分けて以下の3種類がある。 太陽暦 太陰太陽暦 太陰暦 それぞれ、基準は「太陽」、「太陽と月の併用」、「月」である。 現在、世界各国で広く用いられているのは、太陽暦の一つであるグレゴリオ暦である。 それぞれの暦法の長所・短所 元々、「何月」というのは、月の運行を意識したものである。太陰暦は月の運行を強く意識した暦で、「何日」と月のみかけの形が一致する。したがって月が出てさえいれば、その日が何日であるか暦がなくてもわかる。深夜に月の明かりを頼りとして活動をする場合には、月のみかけの形がわかると都合がよい。また、潮の満ち引き(潮汐)は月の位置と密接な関係があるため、漁業や釣りなどの海での活動を行う場合に役に立つ。ただし、完全な太陰暦においては一年が約354日であり、太陽暦に比べ11日短くなるため、3年間で33日、つまり1か月ほどずれてしまい、実際の季節と大きく食い違ってしまう。このため、これを調整する方法として太陽暦を補助的に使用し、閏月を挿入することで実際の季節と暦とのずれを修正する方法がとられるようになった。これが太陰太陽暦である。それに対して、太陽暦は月の形とは関係なく暦が作られている。したがって暦だけではその日の月の形はわからない。また、各月の日数が一定ではない。しかし、太陽の運行と暦の月日が一致しているので、同じような月日に同じ季節の現象が起きる(草花の開花、鳥の渡りなど)。逆に、同じ月日なのに季節の現象が遅れたり早まったりすることを観察することによって、その年が寒い傾向の年なのか暑い傾向の年なのかを知ることができる。このことは農業や漁業、園芸にとって極めて大切なことである。
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