曲輪(クルワ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
曲輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:55 UTC 版)
主郭の北側に曲輪が複数存在するものの、平坦さを欠いているものも多く、曲輪跡でない可能性があるものも含まれる。
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曲輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:18 UTC 版)
本丸 郡山山頂に位置する一辺が約35メートルの曲輪。元就の屋敷があった。北端に一段高くなった櫓台(長さ23メートル、幅10メートル)がある。前述の吉田郡山御城下古図や、天正15-16年(1587-1588年)頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣が描かれている。 二の丸 高さ0.5メートル幅1メートルの石塁や石垣で囲まれ、27メートルと15メートルの方形に区画されている。二の丸の南側には石垣跡が残っているが、往年は東側・西側にも石垣があったと推定される。 三の丸 城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。石塁・石垣などが現存する。西側の虎口には、石垣の中に階段が組み込まれて内枡形となっており、近世城郭的な構造である。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷あった。 釜屋(かまや)の壇 本丸から15メートル下がった北側に位置し、炊事場があった。6つの段で形成される曲輪群。ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。 厩(うまや)の壇 三の丸の東から東南に400メートル伸びる尾根の基部で、壇の下に馬場があった。厩の壇は11段、馬場は9段の曲輪群である。 妙寿寺の壇 郡山南側を守る13段の曲輪。 勢溜(せだまり)の壇 御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。 釣井(つりい)の壇 本丸の西側にある1段の曲輪。直径2.5メートルの石垣で組まれた井戸があるが、現在は埋もれており深さは4メートルに止まる。 姫の丸 本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる。 満願寺の壇 満願寺を含む6段から成る曲輪群。 矢倉の壇 勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある8段の曲輪群。 一位の壇 矢倉の壇の北側にある10段の曲輪群。 尾崎丸 旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されている。独立的な性質を持つ17段の曲輪群であり、毛利隆元の居館があったと推定されている。 旧本城 尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、元就が城郭域を拡張するまでの本城。戦国時代初期の山城の形態をよく残している。尾崎丸との間(旧本城から見ると裏手側)には2つの堀切がある。旧本城の本丸にあたる曲輪には、西側の高台に物見台、隆元が一時期居住していたとされる屋敷などがあった。旧本城に相当する部分は、本丸・二の丸・三の丸など16の曲輪で構成され、曲輪の面積は4000平方メートル前後である。標高293メートル(比高90メートル)。 羽子の丸 本丸の北東(艮)の方角にあり、詰めの丸的な役割を与えられた独立的な曲輪。釜屋の壇とは幅7メートル、深さ3メートルの堀切で隔てられている。曲輪数は9段。 千浪郭群(せんろうかくぐん) 郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守る9段の曲輪群。
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曲輪(ぐるわ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:53 UTC 版)
「陣内流柔術武闘伝 真島クンすっとばす!!」の記事における「曲輪(ぐるわ)」の解説
2度の蹴りのフェイントを経て、実体は振り上げる踵蹴り。月形が得意としている。日本に伝わる十八ヶ条に存在しない技。
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曲輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 16:34 UTC 版)
本丸現在は第一公園として整備されている。当初は城址石碑のみ設置されていたが、NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の放映決定を受けて、2001年(平成13年)に利家と妻・芳春院(まつ)の銅像「前田利家松子之像」が設置された。櫓(巽櫓、坤櫓)跡には日像上人の銅像が設置されている。 宮丸愛宕山とも呼ばれ、愛宕神社が建立されていた。現在は七尾市愛宕山相撲場が整備されている。 天性丸第二公園として整備され、児童遊具が設置されている。また、本丸との間の堀上に橋が架けられている。北裾には前田家の菩提寺である宝円寺が建立されていたが失火で消失し移転・再建された。跡地には浄土宗の西光寺が建立された。 大念寺山御貸山とも呼ばれ、南方からの攻めに対する防御のため砦が設置されていた。現在は御祓川の拡幅や七尾線整備により掘削され、当時の面影は残っていない。
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曲輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:32 UTC 版)
本丸 - 戦国期の山城に多い「野面積み」石垣が残る。 二の丸 三の丸 西の丸 調度丸 - 多数の出土品が発見(「調度丸跡」説明板)。 長屋敷 遊佐屋敷 - 最も本丸に近い重臣屋敷(「遊佐屋敷跡」案内板)。 温井屋敷 寺屋敷 桜の馬場 - 石垣が五段に組まれ、七尾城でも最大規模(「桜馬場跡」説明板)。
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