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かいぐん‐だいじん【海軍大臣】
読み方:かいぐんだいじん
もと、内閣各省大臣の一。海軍の行政を管理し、軍人・軍属を統轄した。海相(かいしょう)。
海軍大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/21 06:04 UTC 版)
日本海軍大臣 かいぐんだいじん | |
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担当機関 | 海軍省 |
任命 | 天皇 |
根拠法令 | 大日本帝国憲法 |
創設 | 1885年(明治18年)12月22日 |
初代 | 西郷従道 |
最後 | 米内光政 |
廃止 | 1945年(昭和20年)12月1日 |
表話編歴 |
海軍大臣(かいぐんだいじん)は、旧日本海軍の軍政を管轄する海軍省を担当した日本の閣僚。
概要
海軍大臣は海軍省の長であり、天皇によって海軍大将または海軍中将から親任された。軍令部総長(海軍軍令部長)が軍令を担当したのに対し、海軍大臣は軍政を担当した。海軍大臣は「軍人は政治に関与してはならない」という伝統があった海軍内では唯一政治に関わることが許された役職である。武官としては親補職であるが、同時に文官としては親任官であるため、中将の就任者であっても大将に対し行政命令を発することが出来た[1]。
特徴として、海軍におけるそのポストの重みがある。陸軍では陸軍大臣は必ずしも絶対的ではなかったが、海軍において海軍大臣は圧倒的な力を持っていた。海軍大臣は複数の内閣に渡って続けて長年、もしくは繰り返し務めることが多く、60年で18人の人物しかその職に就いていないことからもそれは窺える[2]。また、そのうち5人が総理大臣を歴任した。
なお現在の自衛隊(陸上・海上・航空)を管轄する防衛省担当の防衛大臣(旧防衛庁長官)は、原則として文民である現職の国会議員が務める[注釈 1](日本国憲法第66条2項及び第68条に基づく)。
歴代大臣
海軍大臣(海軍省官制(明治19年3月5日勅令第2号)) | ||||
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代 | 氏名 | 内閣 | 就任日 | 退任日 |
1 | 西郷従道 | 第1次伊藤内閣 | 1885年(明治18年)12月22日 | 1888年(明治21年)04月30日 |
黒田内閣 | 1888年(明治21年)04月30日 | 1889年(明治22年)12月24日 | ||
第1次山縣内閣 | 1889年(明治22年)12月24日 | 1890年(明治23年)05月17日 | ||
2 | 樺山資紀 | 1890年(明治23年)05月17日 | 1891年(明治24年)05月06日 | |
第1次松方内閣 | 1891年(明治24年)05月06日 | 1892年(明治25年)08月08日 | ||
3 | 仁礼景範 | 第2次伊藤内閣 | 1892年(明治25年)08月08日 | 1893年(明治26年)03月11日 |
4 | 西郷従道 | 1893年(明治26年)03月11日 | 1896年(明治29年)09月18日 | |
第2次松方内閣 | 1896年(明治29年)09月18日 | 1898年(明治31年)01月12日 | ||
第3次伊藤内閣 | 1898年(明治31年)01月12日 | 1898年(明治31年)06月30日 | ||
第1次大隈内閣 | 1898年(明治31年)06月30日 | 1898年(明治31年)11月08日 | ||
5 | 山本権兵衛 | 第2次山縣内閣 | 1898年(明治31年)11月08日 | 1900年(明治33年)10月19日 |
第4次伊藤内閣 | 1900年(明治33年)10月19日 | 1901年(明治34年)06月02日 | ||
第1次桂内閣 | 1901年(明治34年)06月02日 | 1906年(明治39年)01月07日 | ||
6 | 斎藤実 | 第1次西園寺内閣 | 1906年(明治39年)01月07日 | 1908年(明治41年)07月14日 |
第2次桂内閣 | 1908年(明治41年)07月14日 | 1911年(明治44年)08月30日 | ||
第2次西園寺内閣 | 1911年(明治44年)08月30日 | 1912年(大正元年)12月21日 | ||
第3次桂内閣 | 1912年(大正元年)12月21日 | 1913年(大正02年)02月20日 | ||
第1次山本内閣 | 1913年(大正02年)02月20日 | 1914年(大正03年)04月16日 | ||
7 | 八代六郎 | 第2次大隈内閣 | 1914年(大正03年)04月16日 | 1915年(大正04年)08月10日 |
8 | 加藤友三郎 | 1915年(大正04年)08月10日 | 1916年(大正05年)10月09日 | |
寺内内閣 | 1916年(大正05年)10月09日 | 1918年(大正07年)09月29日 | ||
原内閣 | 1918年(大正07年)09月29日 | 1921年(大正10年)11月13日 | ||
高橋内閣 | 1921年(大正10年)11月13日 | 1922年(大正11年)06月12日 | ||
加藤友三郎内閣 | 1922年(大正11年)06月12日 | 1923年(大正12年)05月15日 | ||
9 | 財部彪 | 1923年(大正12年)05月15日 | 1923年(大正12年)09月02日 | |
第2次山本内閣 | 1923年(大正12年)09月02日 | 1924年(大正13年)01月07日 | ||
10 | 村上格一 | 清浦内閣 | 1924年(大正13年)01月07日 | 1924年(大正13年)06月11日 |
11 | 財部彪 | 加藤高明内閣 | 1924年(大正13年)06月11日 | 1926年(大正15年)01月30日 |
第1次若槻内閣 | 1926年(大正15年)01月30日 | 1927年(昭和02年)04月20日 | ||
12 | 岡田啓介 | 田中義一内閣 | 1927年(昭和02年)04月20日 | 1929年(昭和04年)07月02日 |
13 | 財部彪 | 濱口内閣 | 1929年(昭和04年)07月02日 | 1930年(昭和05年)10月03日 |
14 | 安保清種 | 1930年(昭和05年)10月03日 | 1931年(昭和06年)04月14日 | |
第2次若槻内閣 | 1931年(昭和06年)04月14日 | 1931年(昭和06年)12月13日 | ||
15 | 大角岑生 | 犬養内閣 | 1931年(昭和06年)12月13日 | 1932年(昭和07年)05月26日 |
16 | 岡田啓介 | 齋藤内閣 | 1932年(昭和07年)05月26日 | 1933年(昭和08年)01月09日 |
17 | 大角岑生 | 1933年(昭和08年)01月09日 | 1934年(昭和09年)07月08日 | |
岡田内閣 | 1934年(昭和09年)07月08日 | 1936年(昭和11年)03月09日 | ||
18 | 永野修身 | 廣田内閣 | 1936年(昭和11年)03月09日 | 1937年(昭和12年)02月02日 |
19 | 米内光政 | 林内閣 | 1937年(昭和12年)02月02日 | 1937年(昭和12年)06月04日 |
第1次近衛内閣 | 1937年(昭和12年)06月04日 | 1939年(昭和14年)01月05日 | ||
平沼内閣 | 1939年(昭和14年)01月05日 | 1939年(昭和14年)08月30日 | ||
20 | 吉田善吾 | 阿部内閣 | 1939年(昭和14年)08月30日 | 1940年(昭和15年)01月16日 |
米内内閣 | 1940年(昭和15年)01月16日 | 1940年(昭和15年)07月22日 | ||
第2次近衛内閣 | 1940年(昭和15年)07月22日 | 1940年(昭和15年)09月05日 | ||
21 | 及川古志郎 | 1940年(昭和15年)09月05日 | 1941年(昭和16年)07月18日 | |
第3次近衛内閣 | 1941年(昭和16年)07月18日 | 1941年(昭和16年)10月18日 | ||
22 | 嶋田繁太郎 | 東條内閣 | 1941年(昭和16年)10月18日 | 1944年(昭和19年)07月17日 |
23 | 野村直邦 | 1944年(昭和19年)07月17日 | 1944年(昭和19年)07月22日 | |
24 | 米内光政 | 小磯内閣 | 1944年(昭和19年)07月22日 | 1945年(昭和20年)04月07日 |
鈴木貫太郎内閣 | 1945年(昭和20年)04月07日 | 1945年(昭和20年)08月17日 | ||
東久邇宮内閣 | 1945年(昭和20年)08月17日 | 1945年(昭和20年)10月09日 | ||
幣原内閣 | 1945年(昭和20年)10月09日 | 1945年(昭和20年)12月01日 |
記録
- 最長在任記録(通算) - 西郷従道:10年, 25日間
- 最長在任記録(連続) - 斎藤実:7003302200000000000♠8年, 100日間
- 最短在任記録 - 野村直邦:7000600000000000000♠6日間
- 最多就任記録(内閣数) - 米内光政:7回
- 首相に在任した海軍大臣経験者は山本権兵衛・加藤友三郎・斎藤実・岡田啓介・米内光政の5人。また、米内は首相退任後に再び海軍大臣に就いている。
- 海軍大臣の経験なしに首相に在任した海軍軍人として鈴木貫太郎がいる(侍従長を経て首相になった唯一の人物)。
- 元帥になった海軍大臣経験者は、西郷従道・加藤友三郎・永野修身の3人(加藤は没後追贈)。
脚注
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注釈
出典
関連項目
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海軍大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 19:28 UTC 版)
吉田は部下の使い方があまり上手ではなかった。同期の山本五十六は、吉田の大臣就任に際し、吉田の将来を危惧し海軍次官留任を申し出たが、山本は連合艦隊司令長官として海上に出ることとなった。しかし後任の住山徳太郎は山本や井上成美のように強力に吉田を補佐できるタイプではなかった。 第2次近衛内閣発足以後、日独伊三国同盟締結に向けた動きが加速し、海相である吉田はその対応に苦慮する事となった。外相松岡洋右は熱心な三国同盟推進派であり、松岡は「アメリカ国民の半数はドイツ系なので、日独同盟を結べばドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動き、アメリカとは戦争にならない」と自説を展開。これに説き伏せられた吉田は日独伊三国同盟締結に賛成する。吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したものの、内閣の予想に反し米軍は軍備に着手。吉田は心配のあまり強度の神経衰弱にかかった。周囲に辞任を勧められたものの、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避け、職務に励み続けた。しかし、限界を超えた吉田はついに自殺を図り、日独伊三国同盟締結直前、1940年(昭和15年)9月5日に海相を辞任した。後任の海相及川古志郎も前任・吉田が三国同盟に賛成した以上、自身が反対する訳にもいかず、同27日、日独伊三国同盟は締結された。なお在任中吉田は消極的ではあったが、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」や「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」、出師準備の発動を認めている。
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