源庶明とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 05:58 UTC 版)
凡例源庶明 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 延喜3年(903年) |
死没 | 天暦9年5月20日(955年6月12日) |
別名 | 広幡中納言 |
官位 | 従三位、中納言 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:斉世親王、母:橘公廉の娘 |
兄弟 | 庶明、英明 |
子 | 計子 |
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源 庶明(みなもと の もろあきら/もろあき)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。宇多天皇の孫で、兵部卿・斉世親王の三男。
目次
経歴
醍醐朝の延長2年(924年)二世王待遇の蔭位により従四位下に直叙され、翌延長3年(925年)侍従に任官する。延長7年(929年)左京大夫に転じる。
朱雀朝の承平3年(933年)右兵衛督、承平6年(936年)従四位上に叙任されたのち、天慶4年(941年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として左京大夫・左兵衛督などを兼帯し、この間の天慶8年(945年)には正四位下に叙せられている。
村上朝に入ると、天暦元年(947年)兼官が左大弁に遷り、天暦5年(951年)従三位・権中納言、天暦7年(953年)中納言に叙任されている。天暦9年(955年)5月20日に薨去。享年53。最終官位は中納言従三位兼左兵衛督。
人物
天慶2年(939年)11月3日『慈覚大師伝』を弟・英明が延暦寺に進呈した際に、庶明は成立経緯を記した跋文を書いた[1]。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品4首が入集している。
広幡邸を邸宅とし[2]、広幡中納言と号した。
官歴
『公卿補任』による。
- 延長2年(924年) 正月7日:従四位下。7月9日:昇殿
- 延長3年(925年) 正月30日:侍従。11月20日:賀茂臨時祭祭使
- 延長7年(929年) 9月23日:左京大夫
- 承平3年(933年) 10月23日[3]:右兵衛督
- 承平5年(935年) 2月23日:丹波権守
- 承平6年(936年) 正月7日:従四位上
- 天慶4年(941年) 12月18日:参議、兼左京大夫、督如元
- 天慶5年(942年) 3月29日:兼左兵衛督。12月13日:兼紀伊権守
- 天慶8年(945年) 正月7日:正四位下
- 天慶9年(946年) 日付不詳:止紀伊権守
- 天暦元年(947年) 6月6日:兼左大弁、止督
- 天暦2年(948年) 正月30日:兼伊予権守
- 天暦5年(951年) 正月30日:従三位、権中納言
- 天暦7年(953年) 9月25日:中納言、兼左兵衛督
- 天暦9年(955年) 5月20日:薨去(中納言従三位兼左兵衛督)
系譜
脚注
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
軍職 | ||
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先代:藤原師尹 | **左兵衛督**953 - 955 | 次代:源重信 |
先代:藤原顕忠 | **左兵衛督**942 - 947 | 次代:藤原師尹 |
先代:橘公頼 | **右兵衛督**933 - 941 | 次代:源自明 |