「穢多非人(えたひにん)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
読み方:えたひにん
「穢多非人」とは・「穢多非人」の意味
穢多非人(えたひにん)とは江戸時代における被差別民の名称である。江戸時代には一般的に士農工商という身分制度が存在したが、穢多非人はその下に位置していた。日本では古来より身分制度が存在し、奈良時代には既に被差別階層が存在したという文献が散見される。身分制度は中央集権国家が成立し、特に都市というものが形成され、人々が定住するなかで形成されていったものである。江戸時代にはこのなかで特に動物の屠殺やその皮を使った製品をつくることを生業とする人々を穢多、今日でいう犯罪者やホームレスなど庶民から転落したものを非人という名称で呼ぶようになった。中世では穢多、非人はそれぞれ賤民身分の名称の1つであったが、江戸時代に穢多と非人は区別され別の身分となった。それぞれの詳しい特性はそれぞれの項目で後述することとする。
明治時代に入り正式に身分制度は廃止され彼らは平民となったが、大正、昭和期に入ってもなお差別は存続された。また、かつての身分を問わず徴兵した旧帝国陸海軍においても深刻な差別が存在し、かつて穢多、非人身分だった祖先を持つ被差別部落出身者は昇進できない、軍隊内でいじめられるなどの事例が多くあった。さらに、平成を挟み令和の世になった現在においても彼らの居住地域であった同和地区は全国に存在しており、なお差別が続いている地域がある。
穢多とは
穢多とは江戸時代の封建社会において、死牛馬の処理やその皮を使った製品をつくること、藁細工などを生業とする人々に名付けられた名称である。また、彼らは罪人の逮捕、処刑などに使われ、居住地も強制的に定められていた。この身分は基本的に固定されていて流動性はあまりみられなかったことを特徴とする。当時の社会において最底辺に位置する人々であった。穢多とはその名の通り穢れが多いという意味合いである。日本においては有史以来穢れという概念が非常に重要であった。大和民族は、古来、穢れるということを非常に嫌う民族である。また、穢れを落とすということも宗教上非常に重要なことである。日本の民族宗教である神道では穢れを落とすということが儀式において特に重視される。卑しい血は一度混ざると元には戻らないという意味合いの言葉があるが、これも穢れを怖れる民族である大和民族にとっては自然なことと言えよう。
また、古墳時代以来日本に移入された仏教では、発祥地であるインドでの輪廻転生の世界観と着想から殺生することを極端に嫌う。このことも、穢多という身分が日本において定着した要因の1つであろう。殺生することを生業とする人々が穢れ、その穢れは代々続くと思われるようになったことはこのような背景がある日本の風土においては必然のことであった。鎌倉時代、室町時代には神社に関連した雑芸者や手工芸者などを川原者、穢多、非人などの名称で呼んだがまだ明確な身分としての穢多は存在しなかった。江戸時代に入り安定した封建制のシステムが確立されるにあたり士農工商の身分の下に被差別階層の1つとして正式に穢多という身分が確立されたのである。
非人とは
非人とは江戸時代において犯罪者を中心とする人々に名づけられた名称である。犯罪者だけでなくホームレスである乞食や多様な被差別民を包括する身分として定着した。非人とは仏教に由来する言葉からとられた名称である。穢多と違い流動性がみられた。これは、例えば農民の身分であっても犯罪などにより、身を落とし非人の身分になることもあったということである。また、一度非人の身分に転落してしまったとしても、そのあとの善行により身分を回復できた事例もあった。その意味では、非人は身分上は穢多より下に位置したが、必ずしも社会の最底辺であったとはいえない。
また、非人には代々身分が固定された非人と他身分から転落した非人とがいた。非人という身分は穢多とは違い職業に由来する身分ではないが、彼らが就ける職業は制限された。それは、物乞、行刑、遊芸などであった。同じ被差別階層であっても基本的に穢多とは居住地域も異なっていた。非人の居住地域は非人部落と呼ばれる。非人はあくまでも固定された身分であり、その身分はカーストの中にあった。その意味で、カーストにすら属さない人々(アウトサイダー)とは区別される。士農工商という身分制は明治4年(1871)に廃止されたがこの時点で全国に23480人の非人身分の者がいた。
その他の被差別階層との関係
江戸時代には穢多、非人だけでなく多くの被差別民が存在した。呪術者である陰陽師や定住しない放浪民である山窩(サンカ)、猿使い、貧困者である細民、露天商である香具師などである。今日の被差別部落では穢多や非人だけでなくこれらの人々の居住地域だった場所も同和地区として一括りにされていることが多い。また、現代においてはその流動性から穢多や非人の居住地域であった場所に、在日韓国朝鮮人などの外国籍の者、新しく転落した貧困者、暴力団員などが多く流入している。これらの者が混在しているのが今日の多くの同和地区の現状である。日本において差別される境遇の者が、肩を寄せ合って暮らしているというのが今日における多くの同和地区の現状である。
関東地域には浅草弾左衛門という穢多頭がいて、彼は非人身分の者も管理していた。少なくとも関東地方では穢多と非人は濃厚に交わっていたということが伺える。また、彼は遊女屋や芸能民なども傘下に収めており、これらの被差別身分にあった者が濃厚に接触していたことを推測することができる。これは、西日本と東日本とで、また各地域によっても大きな違いがある部分であろう。
大正、昭和期においては朝鮮の植民地化に伴い多くの朝鮮人が日本に定住した。彼らは、日本国内で深刻な差別を受け、その一部は、元々の被差別民である穢多、非人などの住む地域に定住し、接触したものとみられる。在日朝鮮人は近現代の日本における新しい被差別階層であり、その彼らが既に形成されていた被差別部落に定住したり、新しい部落を形成していったのだ。また、現代においても暴力団員に同和地区出身者や在日朝鮮人が多いことは事実であり、近代的な暴力団というものが被差別階層のひとつの大きな受け皿になっていることも確かだ。今日においては、穢多、非人などの旧来の被差別民と在日朝鮮人という新しい被差別民、また庶民社会からの転落者や逸脱者を含むいわゆるヤクザ者、暴力団員がそれぞれ混在しているのが現状である。このような事実から、かつて存在した、穢多、非人という存在を考えるときにその他の被差別民や被差別階層のことを視野に入れて考えることが必要であろう。
今日における同和地域との関連性
今日において、穢多、非人などの居住地域だった場所は同和地区に指定されていることが多い。特に九州や中国および山陰地方、関西地方などの西日本では、江戸時代以来の差別が強く残っているといわれる。関東地方にも多くの同和地区が存在する。しかし、早くより流動性がみられ一般的に西日本よりは差別の風習は残存していないといわれている。しかし、これは関東地方の被差別地域が西日本のそれよりも差別が少ないと意味するものではない。関東地方の同和地区にも地域差がある。また、東北地方にも同和地区は存在し、その北限は古来大和民族の居住地域であった青森県である。逆に南限は種子島であり、アイヌ民族や琉球民族の居住地域であった北海道や沖縄には、かつて、穢多、非人の居住地であった同和地区は存在しない。