第一次ソロモン海戦とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
第一次ソロモン海戦
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「ヴィンセンス (重巡洋艦)」の記事における「第一次ソロモン海戦」の解説
「第一次ソロモン海戦」も参照 約1時間後、ヴィンセンスの見張りは南の方角に曳光弾や火炎、そして低く鈍い音声を確認した。これは、三川軍一中将率いる第八艦隊の一隊がサボ島西方からガダルカナル島沖に入り、シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、オーストラリア重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) および駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392) 、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) のグループに対して砲雷撃を行った戦闘を示すものだった。ヴィンセンスは総員配置を令したが、こちらから戦闘の様子が見えていたにもかかわらず、シカゴのグループからは警報の類は来なかった。三川艦隊はシカゴのグループを打ちのめすと2つのグループに分かれて北に向かい、ヴィンセンスらのグループに迫ってきた。 1時55分、三川艦隊からのサーチライトがヴィンセンスを照らし出した。ヴィンセンスは味方からの照射だと勘違いして味方識別信号を送るよう指示を出した。これに対し、三川艦隊は一斉砲撃で応答した。状況を理解しつつあったヴィンセンスが反撃の砲撃を行ったものの、2つのグループからの砲雷撃に挟み撃ちにされ、艦のあらゆる所に砲弾が命中した。リーフクール艦長は艦の通信が途絶した状態にもかかわらず、19.5ノットの速力で戦場を脱出しようとした。しかし、別の一隊からの攻撃を受けた。砲弾が格納庫に命中して搭載機が炎上、測距儀も破壊された。2時ごろ、ヴィンセンスは右側に逃れつつあったが、三川艦隊は大打撃を受けたヴィンセンスを見逃しはしなかった。追い討ちをかけるように魚雷がボイラー室に命中し、ついにヴィンセンスは行き足を止めた。8インチ砲弾と5インチ砲弾合わせて、少なくとも57発が命中したと判断されたヴィンセンスは、ボクシングでパンチを喰らってよろめくボクサーの如く気息奄奄となった。 やがて三川艦隊は去っていき、後には炎上し瀕死のヴィンセンス、クインシー、アストリアの3重巡洋艦が残された。リーフクール艦長は2時30分に総員退艦を令して乗組員はヴィンセンスから脱出し始めた。リーフクール艦長が最後に救助された後、ヴィンセンスはアイアンボトム・サウンドに沈没していった。後年、リーフクール艦長はヴィンセンスの記念碑に次のように記した。「ヴィンセンスは素晴らしい艦で、1941年4月23日以降、我々は皆ヴィンセンスを誇りに思っていた。ヴィンセンスは1942年8月9日2時50分にサボ島の東2.5マイルの、水深約500ファゾムの海底に眠っている」。 ヴィンセンスは1942年11月2日に除籍された。ミッドウェー海戦およびガダルカナル侵攻の功績によりヴィンセンスは2個の従軍星章を受章した。
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第一次ソロモン海戦
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「第一次ソロモン海戦」の解説
詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照 連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第二十五航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第8艦隊(三川軍一中将、増強を受け重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグアム島の一木支隊、パラオ諸島駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。 アメリカ軍上陸当日から翌日にかけて行われた第二十五航空戦隊による爆撃は、直前で敵艦上戦闘機及び敵急降下爆撃機の撹乱銃撃を受けてしまい効果が薄かったものの、この地域に米空母部隊が進出しているという貴重な情報を得ることとなる。第二十五航空戦隊は34機喪失の大被害を受け、うち艦爆隊は当初から航続力不足による不時着覚悟の出撃のために全機体が失われているが、乗員救助のため駆逐艦の緊急派遣などの措置は取られており、収容された乗員から連合軍艦隊の詳細情報を得られた。 三川中将率いる第8艦隊は翌8月8日夜半に戦場海域に到達して、第一次ソロモン海戦が発生した。重巡4隻を撃沈し同1隻を大破させたが、戦闘艦艇の撃破には成功したものの本来の目的であった輸送艦隊への攻撃は中止された。このためアメリカ軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、これが結果的にガダルカナル島の戦いの戦略的な帰趨に重大な影響を与えることになる。 上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルのアメリカ軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給はアメリカ軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった。日本はこの手法を「鼠輸送」と称して常用するようになった。 8月18日、同川西岸の日本軍を危険視したヴァンデグリフトは、これを排除すべく第5海兵連隊の3個中隊を投入した。翌19日、同連隊B中隊は海岸沿いに西進してマタニカウ川東岸に向かい、マタニカウ村に向けて援護射撃を行い、L中隊は同川河口上流を渡河して西岸を北上し、マタニカウ村を攻撃した。日本軍は激しく抗戦し、特に日本側の狙撃兵によってアメリカ軍側の指揮官が次々と倒された。L中隊のある小隊では1日で小隊長2名が戦死している。海兵隊も偵察狙撃班を編成して対抗し、I中隊が日本軍の退路を遮断するためククムから西のコクンボナに上陸を敢行。午後には日本軍が戦闘からの離脱と後退を開始した。だが、海兵隊側には追撃を試みるだけの兵力や物資がなく、第5連隊は元の陣地に帰還している。
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第一次ソロモン海戦
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「アストリア (重巡洋艦)」の記事における「第一次ソロモン海戦」の解説
「第一次ソロモン海戦」も参照 8月初め、アストリアは第62.3任務群に加わり、ウォッチタワー作戦を支援することとなった。フランク・J・フレッチャー中将が空母機動部隊と遠征部隊の双方の指揮をとり、上陸作戦部隊司令官は元アストリア艦長のリッチモンド・K・ターナー少将、上陸部隊総指揮官はアレクサンダー・ヴァンデグリフト少将、掩護部隊指揮官はクラッチレー(英語版)少将であった。上陸作戦をフレッチャー提督が指揮する空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)と戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) および護衛の巡洋艦や駆逐艦部隊が支援していた。8月7日朝、アストリア以下の巡洋艦群はガダルカナル島沖に到着し、ガダルカナル島、ツラギ島(フロリダ諸島)など島嶼に対する上陸作戦全般を支援した(ガダルカナル島攻防戦、フロリダ諸島の戦い)。 上陸作戦が開始されるとラバウルから日本海軍の攻撃隊(一式陸上攻撃機27、零戦17、艦爆9)が飛来した。連合軍側は、フレッチャー機動部隊から派遣されたF4F 戦闘機と、各艦の対空砲火で応戦した。駆逐艦マグフォード (USS Mugford,DD-389) が損傷しただけで、輸送船団は無事だった。その後、クラッチレー提督が指揮する掩護部隊は3つのグループ(北方隊、南方隊、東方隊)に分かれて哨戒をおこなう計画であった。ガダルカナル島ルンガ泊地とフロリダ諸島の連合軍輸送船団に対する敵襲に備えたが、8月7日夜~8月8日朝にかけては平穏無事にすぎた。 8月8日昼間になると、ラバウル航空隊の一式陸攻23機と零戦15機がやってきた。空襲で兵員輸送艦ジョージ・F・エリオット(英語版) (USS George F. Elliott, AP-13) が炎上して雷撃処分され(三川艦隊襲撃時点では炎上中)、北方部隊の駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) が中破した。F4Fは9機が失われた。フレッチャー提督の機動部部隊(空母3、戦艦1、巡洋艦6、駆逐艦16)は「燃料不足」を懸念し、存在しない日本軍正規空母に恐れをなして、引き揚げていった。 連合軍輸送船団の揚陸作業中止と撤退を迫られたターナー提督は、ガ島陸上にいたヴァンデクリフト少将と、重巡オーストラリア艦上のクラッチレー少将を輸送船(旗艦)マコーレー号に召喚する。連合軍の指揮官たちは前後策を協議し、撤退の方針を決めた。 同8日夜の北方隊は、重巡ヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) 、重巡クインシー (USS Quincy, CA-39) 、重巡アストリア、駆逐艦ヘルム (USS Helm,DD-388) 、駆逐艦ウィルソン (USS Wilson,DD-408) 、駆逐艦ラルフタルボット (USS Ralph Talbot,DD-390) であり、サボ島とフロリダ諸島間の海域にいた。同8日深夜から9日未明にかけて、第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、先任参謀神重徳大佐)が率いる8隻が、サボ島西方からガダルカナル島沖に入ってきた。 三川艦隊はサボ島西方を進み、まず南方部隊に襲いかかって勝利をおさめた。撃破された南方部隊は警報を発しなかったか、他のグループの受信状態が芳しくなかったか、ともかく異変を周囲に知らしめることはなかった。三川艦隊は些細なミスから鳥海隊(鳥海、青葉、衣笠、加古)、古鷹隊(古鷹、天龍、夕張)、駆逐艦夕凪に三分割され、このうち鳥海隊と古鷹隊が北方隊(ヴィンセンス、クインシー、アストリア、ウィルソン、ヘルム)に迫りつつあった。襲撃前、グリーマン大佐(アストリア艦長)は連日の作戦と対空戦闘で疲労の極みにあったので、就寝中であった。アストリアは同夜の連合軍重巡の中で最もよく戦闘準備を整えていたが、万全の状態ではなかった。 鳥海隊はサーチライトで北方隊を照射し、鳥海がアストリアを、青葉がクインシーを、加古がヴィンセンスを認めた。リーフコール大佐(ヴィンセンス艦長)は「照射をやめよ、われら味方なり」と打電しようとしたが、まもなく同艦に20㎝砲弾が命中して炎上した。クインシーも砲撃により炎上し、周囲を明るく照らし出して良い目標となった。前から3番目を航行していたアストリアは、水上機からの照明弾投下をみて砲術長が戦闘配置を命じていた。さらに前方艦(ヴィンセンス、クインシー)に対する弾着を見て「那智型重巡洋艦」に対し主砲の斉射を開始した。相手は鳥海であったと思われ、また鳥海もアストリアを砲撃した。ところが起床して艦橋にかけつけたグリーマン艦長は、同士討ちと判断して射撃中止を命じた。艦長以下、少なくない者が同士討ちをしたと判断した。再び砲撃を再開したが、鳥海の第五斉射により20センチ砲弾4発がアストリアの中央部に命中し、飛行機格納庫を炎上させた。そこからは三川艦隊各艦から一方的に撃たれ始めた。砲塔が破壊され、機関部も破壊されて乗組員多数が戦死、速力が低下した。鳥海艦上で観戦していた丹羽文雄報道班員は「東京両国の花火大会のようだった」と記録している。 アストリアが、前方でのた打ち回っているクインシーを避けて追い越したその時、衣笠のサーチライトがアストリアを捉え、猛然と砲撃してきた。さらに被害が増えたアストリアは衣笠に対して2番砲塔で最後の反撃を行い、これが鳥海の第一砲塔に命中した。 三川艦隊は高速で去っていき、アストリアはコントロールを失いつつ南に向かったが、やがてすべての動力が止まった。3時ごろまでには、70名の負傷者を含む約400名の乗組員が船首楼甲板に集まった。アストリアはおよそ65発も被弾しており、依然炎上していた。乗組員はバケツリレーで消火にあたり、負傷者は艦長室に移送された。駆逐艦バッグレイ (USS Bagley, DD-386) が接近し、アストリア艦長をふくむ大半の乗組員を収容した。バッグレイがアストリアから離れた瞬間に、アストリアの艦尾で懐中電灯の信号がつけられ、生存者が残っていることがわかった。 バッグレイがアストリアの周辺を警戒しているうちに、ヴィンセンスの生存者が乗ったいかだを発見した。いかだを収容したバッグレイは再びアストリアの傍らに戻り、アストリア幹部(艦長、副長、機関長)がアストリアに移乗して損傷具合を確かめた。助かる見込みがあると判断し、グリーンマン艦長は決死隊を募る。約300名のアストリア乗組員がバケツリレーの援軍として志願し、アストリアに乗り移ると消火作業の一方で排水を行ったり戦死者を水葬にする準備も行った。7時ごろ、掃海駆逐艦ホプキンス (USS Hopkins, DMS-13) もかけつけ、アストリアをガ島の浅い海域まで曳航する準備に取り掛かった。ウィルソン (USS Wilson, DD-408) も9時ごろから消火と排水の手伝い、10時過ぎにホプキンスとウィルソンはアストリアの曳航を開始した。
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第一次ソロモン海戦
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「ワスプ (CV-7)」の記事における「第一次ソロモン海戦」の解説
アメリカ海軍は1942年(昭和17年)5月上旬の珊瑚海海戦で日本軍のポートモレスビー海路攻略作戦(MO作戦)を中断させ戦略的勝利をおさめたが、大型空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を失った。日本軍がミッドウェー島攻略を目指したミッドウェー作戦時、日本海軍は太平洋配備の米空母を3隻(エンタープライズ、ホーネット、サラトガ)と判断し、「レンジャーは大西洋にあり、ワスプの所在は不明、特設空母は6隻程度完成して半数は太平洋にあるが積極的作戦には用いない」と判断した。6月上旬のミッドウェー海戦でアメリカ海軍は勝利したが、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を失う。アメリカ太平洋艦隊の運用可能主力空母は3隻(サラトガ、エンタープライズ、ホーネット)となり、ワスプは太平洋に転戦することになった。 ワスプは修理と改修のためノーフォーク海軍工廠入りする。この停泊期間にリーヴス艦長に代わってフォレスト・P・シャーマン艦長が着任する。6月6日、戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) 、重巡洋艦クインシー (USS Quincy, CA-39) 、軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54) 、駆逐艦6隻から構成される第37任務部隊と共にノーフォークを出港した。部隊は6月10日にパナマ運河を通過し、ワスプは第18任務部隊に配置換えとなる。 6月19日にサンディエゴに到着すると、ワスプは艦載機の残りを搭載した。7月1日、第2海兵連隊を乗せた船団とトンガに向け出発した。当時日本軍の拠点であったソロモン諸島への進攻準備は進められていた。ワスプは第18任務部隊の旗艦となり、レイ・ノイズ(英語版)少将が将旗を掲げた。 ワスプが南太平洋へ向けて航行中の7月上旬、日本軍の第四艦隊の設営隊は飛行場建設のためガダルカナル島に上陸する。連合軍上層部は、日本軍がガダルカナルからニューヘブリデス諸島およびニューカレドニアを攻撃可能になったことを理解し、敵が強固な陣地を構築する前に攻撃を行うことを決めた(ウォッチタワー作戦)。南太平洋方面部隊(ロバート・L・ゴームレー中将)は、遠征部隊(フランク・フレッチャー中将)と基地航空部隊(マケイン少将)にわかれ、遠征部隊の麾下に航空支援部隊(3個空母機動部隊)と水陸両用部隊(ターナー少将)が配備されている。遠征部隊の指揮はフレッチャー中将(旗艦サラトガ)が執るが、航空母艦支援任務はノイズ少将(旗艦ワスプ)が執り、基地航空部隊(マケイン少将)はゴームレー中将の指揮下にあるという複雑な関係だった。 ワスプは空母サラトガ、エンタープライズ、戦艦ノースカロライナと共に、フレッチャー中将指揮下の第61任務部隊(英語版)に配属となる。第61任務部隊は航空支援攻撃を行うことになっていたが、フレッチャー中将は水陸両用部隊(第62任務部隊)のリッチモンド・K・ターナー少将と、海兵隊指揮官ヴァンデクリフト少将に「空母機動部隊は上陸開始から48時間で引き揚げる」と通告した。ターナー少将は荷揚に5日程度かかると判断していたので、フレッチャー中将の判断に異を唱えたが覆らなかった。 8月7日朝、連合軍はフロリダ諸島(ツラギ)およびガダルカナル島に上陸を開始、フロリダ諸島の戦いとガダルカナル島の戦いがはじまった。日本海軍のラバウル航空隊は直ちに攻撃を決意、一式陸上攻撃機と九九式艦上爆撃機をおくりこんだが、特筆すべき戦果は駆逐艦マグフォード中破程度であった。エンタープライズ所属のF4F ワイルドキャット1機が、空戦のあとワスプに緊急着陸した。サラトガでは、フレッチャー中将が日本空母に恐怖を抱いていた。ニューブリテン島のラバウルを偵察したB-17が、同方面で空母1隻を発見していた為である。零戦と九九艦爆輸送任務のため、偶然にも改造空母の八幡丸がラバウル近海まで進出していた。フレッチャー中将はサラトガに日本空母攻撃のための準備を整えておくよう命じ、ワスプには翌日午前中にラバウル方面の空母を、エンタープライズには同日午後にラバウル方面を偵察するよう命じた。 8月8日、ラバウル航空隊は第61任務部隊を捜索したが発見できず、一式陸攻部隊(陸攻23、零戦15)はガ島沖の連合軍輸送船団を攻撃した。そして大損害を受けた。ワスプの戦闘機部隊は一式陸攻の攻撃がはじまる前に母艦に帰投しており、サラトガとエンタープライズの戦闘機が日本軍攻撃隊を邀撃した。駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) が大破し、輸送船ジョージ・F・エリオット (USS George F. Elliott,AP-13) が被弾炎上して放棄された。 同8日午前8時15分、ワスプから2機のSBDドーントレス(偵察)が発進し、ラバウル方面にむかった。ワスプ機はサンタイサベル島レカタ湾付近で日本軍の水上偵察機1機を撃墜した。これは重巡加古から発進した零式水上偵察機であった。 同8日昼前、オーストラリア軍のハドソン偵察機2機が相次いでブーゲンビル島キエタ沖合で外南洋部隊(第八艦隊司令長官三川軍一中将が指揮する重巡部隊)を発見した。1機のハドソン機は「0927(日本側標準時0827) 巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、水上機母艦または砲艦2隻、南緯5度49分、東経156度07分、針路120度、速力15節」と無線報告し、ワスプでも受信した。ワスプでは、この敵艦隊に水上艦艇部隊を派遣するか、空襲をおこなうかで、議論があった。 8月7日と8月8日の航空戦において、ワスプは7日にのべ223機を出撃させ、8日にのべ89機を出撃させた。空戦で戦闘機1機、SBD 1機を失い、戦闘機2を事故で失った。フレッチャー提督はロバート・L・ゴームレー中将からの正式回答をまたず、燃料不足になったという理由で、第61任務部隊を退却させる。「艦上戦闘機が各艦合計99機から78機に減少した/敵雷撃機や襲撃機が多数行動中で空母機動部隊が危険に晒されている/機動部隊は燃料不足になった」という理由であった。空母機動部隊の支援を失った連合軍輸送船団と護衛部隊に、三川艦隊が襲いかかった。8日深夜から8月9日未明の第一次ソロモン海戦(連合軍呼称:サボ島沖海戦)で大戦果をあげる。一方、三川艦隊の主要幹部は米軍空母機動部隊の空襲を懸念しており、敵護衛艦隊(第62任務部隊)撃破という戦果で満足して戦場を離脱することにした。 第一次ソロモン海戦が終わった8月9日早朝時点で、第61任務部隊はサン・クリストバル島南端を通過していた。第61任務部隊にも、第62任務部隊の苦戦や友軍機の掩護を求める電信がはいってきた。シャーマン大佐(ワスプ艦長)は、ラバウルにむけて撤退中の三川艦隊を追撃し、空襲をかけることをノイズ少将に提案した。ワスプには、夜間襲撃の訓練をした搭乗員がいたからである。もしシャーマン艦長の意見具申が通ったならば、ワスプ攻撃隊はニュージョージア海峡で三川艦隊を撃破した可能性がある。だがノイズ少将もフレッチャー中将も退避を選択し、ワスプの攻撃は実施されなかった。
※この「第一次ソロモン海戦」の解説は、「ワスプ (CV-7)」の解説の一部です。
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