藤原実頼とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
凡例藤原 実頼 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 昌泰3年(900年) |
死没 | 天禄元年5月18日(970年6月24日) |
改名 | 牛養(幼名)→実頼 |
別名 | 小野宮殿 |
諡号 | 清慎公(漢風諡号)、尾張公(国公) |
官位 | 従一位、摂政、関白、准摂政、内覧、太政大臣、贈正一位 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原忠平母:源順子(宇多天皇の皇女) |
兄弟 | 実頼、貴子、寛子、師輔、師保、師氏、師尹、藤原諸房室養兄弟:_忠君_ |
妻 | 藤原時平娘、藤原定方娘能子、源氏の娘 |
子 | 敦敏、**頼忠**、斉敏、慶子、源高明室、述子養子:_佐理、実資_ |
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藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。
概要
関白・藤原忠平の長男。藤原北家の嫡流として、藤氏長者となり、村上天皇の天暦の治を支えたが、外戚となることができず、嫡流は弟・師輔の子孫(九条流)へと伝えられた。ただし、若くして没した師輔の代理の形ではあるが、関白、次いで摂政に就任している。
経歴
延喜15年(915年)正月20日、16歳のときに元服し、翌21日に叙爵(従五位下)。この叙位は、宇多法皇の口添えによって実行されたと『醍醐天皇御記』にある。その後、右衛門佐、右近衛権少将、右近衛権中将等を歴任し、延長8年(930年)に蔵人頭となる。朱雀天皇の延長9年(931年)に参議に任じた。天慶2年(939年)に大納言に任じられ、天慶7年(944年)に右大臣を拝する。実頼が大納言であった天慶年間に一上の宣旨を蒙っている事が、『台記』や柳原家記録中の『砂巌』等によって分かる。
村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣に就任。同時に弟・師輔は右大臣に任ぜられた。実頼・師輔の兄弟で共に村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。
兄弟の間では、兄である実頼が先んじ、天暦3年(949年)、父・忠平の薨去のあとを受けて藤氏長者となる。しかし、後宮争いでは、実頼は述子を、師輔は安子をそれぞれ村上天皇の女御としたが、述子は皇子を生む事なく死去し、一方、安子は東宮憲平親王を始め、為平親王、守平親王を生んでおり、これにより、のちに師輔の子孫が藤原氏の嫡流の座を得ることになる。天暦4年(950年)には憲平親王が立太子が決定されたが、『九暦』逸文によれば、これは村上天皇・藤原穏子(天皇生母)・朱雀法皇・師輔の密談によって決定されたものであり、実頼は関与できなかった。
康保4年(967年)、村上天皇が崩御して憲平親王が即位した(冷泉天皇)。冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要であったことから、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活。天皇の外祖父にあたる師輔は既に没しており、その子らはいずれも若年であったことから、実頼が外戚の長老として関白に就任、同時に太政大臣に補任された。名目上は引き続き臣下筆頭であったものの、外戚にあたる師輔の子達が栄達する見込みであったことから何かと軽んじられることを嘆き、自身の日記では「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。同じ年に天皇の病気を理由として実頼を准摂政としたが、その宣旨は師輔の子である権中納言伊尹・蔵人頭兼家の主導で準備され、実頼の息子である頼忠は、公式に宣旨を発給する任である左大弁であるにもかかわらず、事前に知らされていなかった。
冷泉天皇はその病から、長い在位は望めないことにより、弟皇子から早急に東宮を定める事になった。同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と右大臣の師尹(実頼、師輔の弟)が、源氏の高明が将来外戚となる事を恐れたためであった。安和2年(969年)失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、大宰府へ流される(安和の変)。実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、師尹、伊尹、兼家を擬定する説もある。
同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位(円融天皇)。実頼は関白から摂政に転ずる。
翌天禄元年(970年)に病に倒れ[注釈 1]、5月薨去。享年71。正一位が追贈され、尾張国に封じられ、清慎公と諡号された。
略系図
藤原忠平 | ||||
---|---|---|---|---|
実頼 | 師輔 | 師尹 | ||
頼忠 | 村上天皇女御述子 | 伊尹 | 村上天皇女御安子 | 兼家 |
〔小野宮流〕 | 冷泉天皇憲平親王 | 為平親王 | 円融天皇守平親王 | 〔九条流〕 |
〔現皇室〕 |
人物
政治家として
実頼は、最終的に弟の師輔の家系に嫡流を譲ることになったことから、『栄花物語』が師輔を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評するなど、政治的実権が乏しく、直接の外戚の座を獲得した師輔、伊尹・兼家親子に実権を持たれていたと考えられている。
しかし、村上朝においては、太政官符・宣旨発給の責任者である上卿の回数が師輔と較べて多い。また、冷泉天皇即位式の際、通常は大極殿で行うべきところを、天皇御悩のために、異常事に備えるべく内裏内の紫宸殿で挙行するように変更、これが実頼の功績であると称賛され、以降、これが通例となったことなどから、実頼の政治的才覚がうかがえる事例もあり、更なる議論が必要と思われる。
文化人として
有職故実に詳しく、父・忠平の教命を受けて『小野宮故実旧例』を執筆。朝廷儀礼の一つである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
また、日記『清慎公記』[注釈 2]を著していた事が『小右記』等の逸文によって知られる。なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任・実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている[2]。その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『北山抄』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』の事と考えられている。なお、実頼は忠平の『貞信公記』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場する事から、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている。
和歌に秀で、歌集『清慎公集』がある他、『後撰和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に34首が採録されている[3]。ほかに笙・箏の名手として知られ、特に箏は醍醐天皇より学んでいる。
実頼は多才で趣味も豊富である上に、きちんとした性格で人の模範として引かれる程であった[4]。一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある[5]。
逸話
- 実頼は私邸の南庭に出る時、常に冠を被っていた。人がこれを怪しんで聞くと、稲荷山が南庭から望まれ、敬して威儀を正しているのだと答えた。もしも、これを忘れれば袖で頭を隠して邸内に駆け入っていた。彼の謹直なる事かくの如し[6]。
- 実頼の幼名が「牛養(うしかい)」であったため、実頼の一族は牛車の牛を扱う「牛飼童(うしかいわらわ)」の事を、「牛つき」と呼んだ[6]。
- 異母弟の師輔が長身であったのに対し、実頼は背が低かった。そのため、糊のきいた強装束を用いていた[7]。
- 平将門追討の将軍であった藤原忠文は、東国到着以前に乱が決着したためそのまま帰京した。その論功行賞について、「賞の疑はしきはゆるせ」と主張する師輔に対し、実頼は「疑はしきことをば行はざれ」と主張し通して恩賞を出さなかったので、忠文の恨みをかった。そのため忠文の怨霊によって実頼の子孫が繁栄しなかったといわれている[8]。
- 実頼の邸宅小野宮第は、もとは文徳天皇皇子惟喬親王の邸宅であり、双六賭博の質種として得たものであるといわれている[9]。
- 実頼は小野宮第の大炊門前に菓子を置き、それを食べる京の民衆の雑談を聞いて世情を知った[8]。
- 小野宮第の四足門に菅原道真の霊が来て、実頼と終夜対談したといわれている[10]。
- 師輔の亡霊が生前実頼家の子孫断絶の祈願をした事を語ったという話を、実頼孫藤原実資が観修僧都から聞き、「骨肉と云ふと雖も、用心あるべきか」と述べた[11]。
- 村上天皇の御前で、実頼が、師輔と醍醐天皇皇女康子内親王の密通を暴露した[12]。『栄花物語』に「いとたはしき(淫しき)」と評価される程、師輔が好色であったのに対し、実頼が当時の貴族としては珍しく堅物であったという。また、『中外抄』(藤原忠実の語録)は、摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述がある。
- 実頼薨去の折、諸人が小野宮第の門前に集まって挙哀した[7]。
官歴
※月日は旧暦。特に指示のない限り『公卿補任』の記載による。
年紀 | 事歴 |
---|---|
延喜15年(915年) | 正月21日:叙爵(従五位下)。9月23日:昇殿 |
延喜16年(916年) | 3月28日:阿波権守 |
延喜17年(917年) | 5月24日:右衛門佐 |
延喜18年(918年) | 9月9日:次侍従[13] |
延喜19年(919年) | 正月28日:右近衛権少将 |
延喜20年(920年) | 9月21日:備中権介 |
延喜21年(921年) | 正月7日:従五位上。正月30日:兼備前介 |
延喜22年(922年) | 正月30日:兼近江介 |
延長4年(926年) | 正月7日:正五位下。2月25日:五位蔵人 |
延長5年(927年) | 正月12日:兼紀伊権守 |
延長6年(928年) | 正月7日:従四位下。正月29日:昇殿。6月9日:右近衛権中将。 |
延長7年(929年) | 正月29日:兼播磨権守 |
延長8年(930年) | 8月25日:蔵人頭(醍醐天皇近侍)[14]。9月25日:蔵人頭(朱雀天皇近侍)。 |
延長9年(931年) | 3月13日:参議 |
承平元年(931年) | 12月17日:兼讃岐権守 |
承平2年(932年) | 11月16日:従四位上 |
承平3年(933年) | 5月27日:兼右衛門督検非違使別当 |
承平4年(934年) | 12月21日:従三位、中納言 |
承平5年(935年) | 2月23日:兼左衛門督[13]。6月10日:初めて政を聴す[15] |
天慶元年(938年) | 6月23日:兼右近衛大将を兼任。9月5日:右馬寮御監[15]。12月14日:兼按察使 |
天慶2年(939年) | 8月27日:大納言 |
天慶3年(940年) | 11月19日:見大歌所別当[16]。12月7日:東大寺俗別当[17] |
天慶4年(941年) | 12月27日:勘解由検校[15] |
天慶6年(943年) | 正月7日、正三位 |
天慶年間 | 実頼大納言の時、一上宣旨を蒙る[18] |
天慶7年(944年) | 4月7日:右大臣。8月19日:東大寺検校[17] |
天慶8年(945年) | 11月25日:左近衛大将を兼任。12月16日:数所の別当に補任[19] |
天慶9年(946年) | 正月7日:従二位。5月4日、蔵人所別当 |
天暦元年(947年) | 4月26日:左大臣 |
天暦3年(949年) | 8月14日:氏長者[15][20]。 |
天暦4年(950年) | 7月23日:兼皇太子傅 |
天暦8年(954年) | 5月15日:正二位 |
天徳元年(957年) | 3月20日:辞左近衛大将(依病) |
康保元年(964年) | 正月7日:従一位 |
康保4年(967年) | 6月22日:関白。8月19日:准摂政(冷泉天皇御悩の間)[21][19]。12月13日:太政大臣 |
安和2年(969年) | 8月13日:摂政。 |
天禄元年(970年) | 5月18日:薨去。5月20日:贈正一位、封尾張国、諡号清慎公 |
系譜
源能有の女・昭子を母とする藤原師輔・師氏・師尹らは異母弟にあたる。
和歌
- 勅撰集
- 後撰和歌集
* 山里の 物さびしさは 荻の葉の なびくごとにぞ 思ひやらるる
* まだしらぬ 人もありける 東路に 我も行きてぞ すむべかりける
* 松もひき わかなもつます 成ぬるを いつしか桜 はやもさかなむ
* 鈴虫の おとらぬねこそ なかれけれ 昔の秋を 思やりつゝ - 拾遺和歌集
* 桜花 のどけかりけり なき人を こふる涙ぞ まづはおちける
* おくれゐて なくなるよりは 葦鶴の などて齢を ゆづらざりけむ
* あな恋し はつかに人を みづの泡の きえかへるとも しらせてしがな - 新古今和歌集
* をみなへし 見るに心は なぐさまで いとど昔の 秋ぞこひしき - 続古今和歌集
* 池水に 国さかえける まきもくの たまきの風は いまものこれり - 新千載和歌集
* 鶯の やどの花だに 色こくは 風にしらせで しばしまたなむ
- 後撰和歌集
- 私家集
- 清慎公集
* 逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな
- 清慎公集
脚注
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注釈
出典
- ^ 『栄花物語』巻第一,月の宴
- ^ 『小右記』寛仁4年8月18日条
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 『大鏡』太政大臣実頼 清慎公
- ^ 『栄花物語』巻第一,月の宴
- ^ a b 『大鏡』
- ^ a b 『富家語談』
- ^ a b 『古事談』
- ^ 『古今著聞集』
- ^ 『富家後談』
- ^ 『小右記』
- ^ 『大鏡』『中外抄』
- ^ a b 『異本公卿補任』
- ^ 『蔵人補任』
- ^ a b c d 『本朝世紀』
- ^ 『吏部王記』
- ^ a b 『東南院文書』『東大寺別当次第』
- ^ 『台記』『砂巌』
- ^ a b 『小右記』
- ^ 『二中歴』
- ^ 『類聚符宣抄』
参考文献
- 川上多助『平安朝史 上』(昭和5年)
- 竹内理三「口伝と教命」(「歴史地理」75-3・4 昭和15年)
- 太田静六「右大臣藤原実資の邸宅、小野宮に就いて」(「早稲田建築学報」18 昭和17年)
- 山口博「源高明と藤原氏-西宮左大臣集成立の一問題-」(「国語と国文学」昭和35年11月号)
- 山中裕「栄花物語・大鏡に現われた安和の変」(「日本歴史」168 昭和37年)
- 赤木志津子「摂関家と小野宮家」(『平安貴族の生活と文化』所収 昭和39年)
- 山本信吉「冷泉朝における小野宮家・九条家をめぐって-安和の変の周辺-」(古代学協会編『摂関時代史の研究』 昭和40年)
- 稲賀敬二「実頼・師輔・師氏・伊尹・道長等とその歌集」(「国文学 解釈と教材の研究」10-12 昭和40年)
- 山口博「安和の変補考」(「日本歴史」211 昭和40年)
- 赤木志津子「小野宮家と四条大納言公任」(「歴史教育」14-6 昭和41年)
- 村井康彦「藤原時平と忠平」(「歴史教育」14-6 昭和41年)
- 山口博「藤原師輔論」(『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融朝篇』所収 昭和42年)
- 所功「延喜の治の再検討」(「皇學館大学紀要」6 昭和43年)
- 桃裕行「『北山抄』と『清慎公記』」(森克己博士古稀記念『対外関係と政治文化』所収 昭和49年)
- 河北騰「『九暦』から見た藤原師輔論」(「古代文化」31-7 昭和52年)
- 山中裕「藤原師輔論」(井上光貞博士還暦記念会編『古代史論叢』下所収 昭和53年)
- 朧谷寿「藤原実資論」(「古代文化」30-4・5 昭和53年)
- 木本好信「藤原実頼の『清慎公記』逸文」(『平安朝日記と記録と研究』所収 昭和55年)
- 角田文衛「師輔なる人物」(季刊「むすび」 昭和57年)
- 山中裕「安和の偽計-藤原実頼」(「歴史読本」昭和57年9月号)
- 森田悌「十世紀中期の政治について」(「金沢大学教育学部紀要」31 昭和57年)
- 武光誠「摂関家の太政官政治の特質」(「ヒストリア」106 昭和60年)
- 島田とよ子「藤原実頼の娘たち」(「大谷女子大国文」16 昭和61年)
- 真壁俊信「実頼と『新国史』」(『天神信仰史の研究』所収 平成6年)
- 能登好美「『清慎公集』研究-その原形をめぐって」(「東洋大学大学院紀要」37 平成12年)
- 中斎洋平「藤原実頼論」(「皇學館史學」16 平成14年)
- 坂本賞三「『愚管抄』の関白」(「日本歴史」693 平成18年)
- 立花真直「藤原実頼・頼忠にみる関白の政治的意味」(「国史学」197 平成21年)
- 渡辺滋「冷泉朝における藤原実頼の立場-『清慎公記』逸文を中心に」(「日本歴史」787 平成25年)
官職 | ||
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先代藤原仲平 | **左大臣**947 - 968 | 次代源高明 |
先代藤原恒佐 | **右大臣**944 - 947 | 次代藤原師輔 |
先代藤原扶幹 | **陸奥出羽按察使**938 - 944 | 次代藤原師輔 |
先代藤原仲平 | **左近衛大将**946 - 957 | 次代藤原顕忠 |
先代藤原恒佐 | **右近衛大将**938 - 946 | 次代藤原師輔 |
先代藤原兼輔 | **左衛門督**933 - 934 | 次代源清蔭 |
表話編歴![]() |
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---|---|
飛鳥時代 | 藤原鎌足 669 中臣意美麻呂 669-698 |
奈良時代 | 藤原不比等 698-720 藤原房前 720-737 藤原武智麻呂 737 藤原豊成 737-757 藤原仲麻呂 757-764 藤原豊成 764-766 藤原永手 766-771 藤原良継 771-777 藤原魚名 778-782 藤原田麻呂 782-783 藤原是公 783-789 |
平安時代 | 藤原継縄 789-796 藤原内麻呂 796-812 藤原園人 812-818 藤原冬嗣 818-826 藤原緒嗣 826-843 藤原良房 843-872 藤原基経 872-891 藤原良世 891-897 藤原時平 897-909 藤原忠平 909-949 藤原実頼 949-970 藤原伊尹 970-972 藤原頼忠 972-974 藤原兼通 974-977 藤原頼忠 977-986 藤原兼家 986-990 藤原道隆 990-995 藤原道兼 995 藤原道長 995-1017 藤原頼通 1017-1064 藤原教通 1064-1075 藤原師実 1075-1094 藤原師通 1094-1098 藤原忠実 1098-1121 藤原忠通 1121-1150 藤原頼長 1150-1156 藤原忠通 1156-1158 近衛基実 1158-1166 松殿基房 1166-1179 近衛基通 1179-1183 松殿師家 1183-1184 近衛基通 1184-1186 |
鎌倉時代 | 九条兼実 1186-1196 近衛基通 1196-1202 九条良経 1202-1206 近衛家実 1206-1221 九条道家 1221 近衛家実 1221-1228 九条道家 1228-1231 九条教実 1231-1235 九条道家 1235-1237 近衛兼経 1237-1242 二条良実 1242-1246 一条実経 1246-1247 近衛兼経 1247-1252 鷹司兼平 1252-1261 二条良実 1261-1265 一条実経 1265-1267 近衛基平 1267-1268 鷹司基忠 1268-1273 九条忠家 1273-1274 一条家経 1274-1275 鷹司兼平 1275-1287 二条師忠 1287-1289 近衛家基 1289-1291 九条忠教 1291-1293 近衛家基 1293-1296 鷹司兼忠 1296-1299 二条兼基 1299-1305 九条師教 1305-1308 鷹司冬平 1308-1313 近衛家平 1313-1315 鷹司冬平 1315-1316 二条道平 1316-1318 一条内経 1318-1323 九条房実 1323-1324 鷹司冬平 1324-1327 二条道平 1327-1330 近衛経忠 1330 鷹司冬教 1330-1333 |
南北朝時代 | 二条道平 1333-1334 近衛経忠 1334-1337 近衛基嗣 1337-1338 一条経通 1338-1342 九条道教 1342 鷹司師平 1342-1346 二条良基 1346-1358 九条経教 1358-1361 近衛道嗣 1361-1363 二条良基 1363-1367 鷹司冬通 1367-1369 二条師良 1369-1375 九条忠基 1375-1379 二条師嗣 1379-1382 二条良基 1382-1387 近衛兼嗣 1387-1388 二条良基 1388 二条師嗣 1388-1394 |
室町時代 | 一条経嗣 1394-1398 二条師嗣 1398-1399 一条経嗣 1399-1408 近衛忠嗣 1408-1409 二条満基 1409-1410 一条経嗣 1410-1418 九条満家 1418-1424 二条持基 1424-1432 一条兼良 1432 二条持基 1432-1445 近衛房嗣 1445-1447 一条兼良 1447-1453 鷹司房平 1454-1455 二条持通 1455-1458 一条教房 1458-1463 二条持通 1463-1467 一条兼良 1467-1470 二条政嗣 1470-1476 九条政基 1476-1479 近衛政家 1479-1483 鷹司政平 1483-1487 九条政忠 1487-1488 一条冬良 1488-1493 近衛尚通 1493-1497 |
戦国時代 | 二条尚基 1497 一条冬良 1497-1501 九条尚経 1501-1513 近衛尚通 1513-1514 鷹司兼輔 1514-1518 二条尹房 1518-1525 近衛稙家 1525-1533 九条稙通 1533-1534 二条尹房 1534-1536 近衛稙家 1536-1542 鷹司忠冬 1542-1545 一条房通 1545-1548 二条晴良 1548-1553 一条兼冬 1553-1554 近衛前久 1554-1568 |
安土桃山時代 | 二条晴良 1568-1578 九条兼孝 1578-1581 一条内基 1581-1584 二条昭実 1584-1585 |
江戸時代 | 九条兼孝 1600-1604 近衛信尹 1605-1606 鷹司信房 1606-1608 九条忠栄 1608-1612 鷹司信尚 1612-1615 二条昭実 1615-1619 九条忠栄 1619-1623 近衛信尋 1623-1629 一条兼遐 1629-1635 二条康道 1635-1647 九条道房 1647 一条昭良 1647-1651 近衛尚嗣 1651-1653 二条光平 1653-1664 鷹司房輔 1664-1682 一条冬経 1682-1690 近衛基熙 1690-1703 鷹司兼熙 1703-1707 近衛家熙 1707-1711 九条輔実 1711-1722 二条綱平 1722-1726 近衛家久 1726-1736 二条吉忠 1736-1737 一条兼香 1737-1746 一条道香 1746-1757 近衛内前 1757-1778 九条尚実 1778-1787 鷹司輔平 1787-1791 一条輝良 1791-1795 鷹司政煕 1795-1814 一条忠良 1814-1823 鷹司政通 1823-1856 九条尚忠 1856-1862 近衛忠煕 1862-1863 鷹司輔煕 1863 二条斉敬 1864-1867 九条道孝 1868-1871 |
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表話編歴摂政 | |
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皇親摂政 | 飛鳥時代 厩戸皇子593-622 白鳳時代 (中大兄皇子655-661) (草壁皇子681-686) 大正時代 裕仁親王1921-1926 |
人臣摂政 | 平安時代 藤原良房858-872 藤原基経872-880 藤原忠平930-941 藤原実頼969-970 藤原伊尹970-972 藤原兼家986-990 藤原道隆990-993 藤原道長1016-1017 藤原頼通1017-1019 藤原師実1086-1090 藤原忠実1107-1113 藤原忠通1123-1129 藤原忠通1141-1150 近衛基実1165-1166 松殿基房1166-1172 近衛基通1180-1183 松殿師家1183-1184 近衛基通1184-1186 鎌倉時代 九条兼実1186-1191 近衛基通1193-1203 九条良経1203-1206 近衛家実1206-1207 九条道家1221 近衛家実1221-1224 九条教実1232-1235 九条道家1235-1237 近衛兼経1237-1242 一条実経1246-1247 近衛兼経1247-1252 鷹司兼平1252-1256 九条忠家1274 一条家経1274-1275 鷹司兼平1275-1278 鷹司兼忠1298-1299 二条兼基1299-1301 九条師教1308 鷹司冬平1308-1311 室町時代 二条良基1382-1387 近衛兼嗣1387-1388 二条良基1388 二条持基1428-1432 一条兼良1432 二条持基1432-1433 江戸時代 一条昭良1629-1635 二条康道1635-1647 九条道房1647 一条昭良1647 二条光平1663-1664 鷹司房輔1664-1668 一条冬経1687-1689 近衛家熙1709-1712 九条輔実1712-1716 一条道香1747-1755 近衛内前1762-1772 九条尚実1779-1785 二条斉敬1867 → 明治維新によって廃止。のち、旧皇室典範によって皇親摂政として再置。 |
中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。 | |
摂政・関白の一覧 カテゴリ:摂関 |
表話編歴関白 | |
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平安時代 | 藤原基経 887-891 藤原忠平 941-949 藤原実頼 967-969 藤原兼通 974-977 藤原頼忠 977-986 藤原兼家 990 藤原道隆 990 藤原道隆 993-995 藤原道兼 995 藤原頼通 1020-1068 藤原教通 1068-1075 藤原師実 1075-1087 藤原師実 1091-1094 藤原師通 1094-1099 藤原忠実 1106-1107 藤原忠実 1114-1121 藤原忠通 1121-1123 藤原忠通 1129-1142 藤原忠通 1150-1158 近衛基実 1158-1165 松殿基房 1173-1179 近衛基通 1179-1180 |
鎌倉時代 | 九条兼実 1192-1196 近衛基通 1196-1198 近衛家実 1207-1221 近衛家実 1224-1229 九条道家 1229-1231 九条教実 1231-1232 近衛兼経 1242 二条良実 1242-1246 一条実経 1246 鷹司兼平 1252-1255 二条良実 1261-1265 一条実経 1265-1267 近衛基平 1267-1268 鷹司基忠 1269-1273 九条忠家 1273-1274 鷹司兼平 1279-1287 二条師忠 1287-1289 近衛家基 1289-1291 九条忠教 1291-1293 近衛家基 1293-1296 鷹司兼忠 1296-1298 二条兼基 1301-1305 九条師教 1305-1308 鷹司冬平 1311-1313 近衛家平 1313-1315 鷹司冬平 1315-1316 二条道平 1316-1319 一条内経 1319-1323 九条房実 1323-1325 鷹司冬平 1325-1327 二条道平 1327-1330 近衛経忠 1330 鷹司冬教 1330-1333 |
南北朝時代 | 南朝 二条師基 1352-1354? 近衛経家 1354?-1356 二条教基 1356-???? (近衛経家) ????-1361 二条教基 1361-???? 二条教頼 ????-???? 二条冬実 ????-???? 近衛某 ????-1392 北朝 近衛経忠 1336-1337 近衛基嗣 1337-1338 一条経通 1338-1342 九条道教 1342 鷹司師平 1342-1346 二条良基 1346-1359 九条経教 1359-1361 近衛道嗣 1361-1363 二条良基 1363-1367 鷹司冬通 1367-1369 二条師良 1369-1376 九条忠基 1376-1379 二条師嗣 1379-1382 (二条良基) 1388 二条師嗣 1388-1394 |
室町時代 | 一条経嗣 1394-1398 二条師嗣 1398-1399 一条経嗣 1399-1408 近衛忠嗣 1408-1409 二条満基 1409-1411 一条経嗣 1411-1418 九条満教 1418-1424 二条持基 1424-1428 二条持基 1433-1445 近衛房嗣 1445-1447 一条兼良 1447-1453 二条持通 1453-1454 鷹司房平 1454-1455 二条持通 1455-1459 一条教房 1459-1463 二条持通 1463-1467 一条兼良 1467-1470 二条政嗣 1470-1476 九条政基 1476-1479 近衛政家 1479-1483 鷹司政平 1483-1487 九条政忠 1487-1488 一条冬良 1488-1493 近衛尚通 1493-1497 |
戦国時代 | 二条尚基 1497 一条冬良 1497-1501 九条尚経 1501-1513 近衛尚通 1513-1514 鷹司兼輔 1514-1518 二条尹房 1518-1525 近衛稙家 1525-1533 九条稙通 1533-1534 二条尹房 1535-1536 近衛稙家 1536-1542 鷹司忠冬 1542-1545 一条房通 1545-1549 二条晴良 1549-1553 一条兼冬 1553-1554 近衛前久 1554-1568 |
安土桃山時代 | 二条晴良 1569-1578 九条兼孝 1579-1581 一条内基 1581-1585 二条昭実 1585 豊臣秀吉 1585-1592 豊臣秀次 1592-1595 |
江戸時代 | 九条兼孝 1601-1604 近衛信尹 1605-1606 鷹司信房 1606-1609 九条忠栄 1609-1612 鷹司信尚 1612-1615 二条昭実 1615-1619 九条忠栄 1619-1623 近衛信尋 1623-1629 一条兼遐 1629 一条昭良 1647-1651 近衛尚嗣 1652-1653 二条光平 1653-1663 鷹司房輔 1668-1682 一条冬経 1682-1687 一条冬経 1689-1690 近衛基熙 1690-1703 鷹司兼熙 1703-1707 近衛家熙 1707-1709 九条輔実 1716-1722 二条綱平 1722-1726 近衛家久 1726-1736 二条吉忠 1736-1737 一条兼香 1737-1747 一条道香 1747 一条道香 1755-1757 近衛内前 1757-1762 近衛内前 1772-1778 九条尚実 1778-1779 九条尚実 1785-1787 鷹司輔平 1787-1791 一条輝良 1791-1795 鷹司政煕 1795-1814 一条忠良 1814-1823 鷹司政通 1823-1856 九条尚忠 1856-1862 近衛忠煕 1862-1863 鷹司輔煕 1863-1864 二条斉敬 1864-1867 (明治維新により廃止) |
摂政・関白の一覧 カテゴリ:摂政 |
表話編歴太政大臣 | |
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皇親太政大臣 | 白鳳時代 大友皇子671-672 高市皇子690-696 刑部親王(知太政官事)703-705 穂積親王(知太政官事)705-715 奈良時代 舎人親王(知太政官事)720-735 鈴鹿王(知太政官事)737-745 |
人臣太政大臣 | 奈良時代 藤原恵美押勝(太師)760-764 弓削道鏡(太政大臣禅師)765-766 平安時代 藤原良房857-872 藤原基経881-891 藤原忠平936-949 藤原実頼968-970 藤原伊尹971-972 藤原兼通974-977 藤原頼忠978-989 藤原兼家990 藤原為光991-992 藤原道長1017-1018 藤原公季1021-1029 藤原頼通1062 藤原教通1070-1071 藤原信長1080-1089 藤原師実1089 藤原忠実1113 源雅実1123-1124 藤原忠通1129 藤原忠通1149-1150 三条実行1150-1157 藤原宗輔1157-1160 藤原伊通1160-1165 平清盛1167 藤原忠雅1168-1170 松殿基房1171 藤原師長1177-1179 鎌倉時代 九条兼実1190 藤原兼房1191-1196 藤原頼実1199-1204 九条良経1205 藤原頼実1209 三条公房1218-1222 近衛家実1222 西園寺公経1222-1223 九条良平1238-1239 近衛兼経1241-1242 西園寺実氏1246-1247 久我通光1247-1248 鷹司兼平1252-1253 徳大寺実基1253-1254 西園寺公相1262 花山院通雅1275-1276 鷹司兼平1277 鷹司基忠1285-1287 堀川基具1289-1290 西園寺実兼1292-1293 洞院公守1299 二条兼基1299-1300 土御門定実1301-1302 徳大寺公孝1302-1304 一条実家1307-1309 大炊御門信嗣1309-1311 鷹司冬平1311 三条実重1318-1319 久我通雄1319-1323 鷹司冬平1323-1327 今出川兼季1332-1333 南北朝時代南朝 久我長通1352-1352? 洞院公賢1353-1354? 西園寺公重????-1364 北朝 久我長通1341-1342 洞院公賢1348-1350 久我通相1366-1368 二条良基1381-1387 室町時代 徳大寺実時1394-1395 足利義満1395 久我具通1395-1396 三条実冬1402-1407 徳大寺公俊1420 二条持基1432-1433 一条兼良1446-1450 久我清通1452-1453 西園寺公名1455-1457 二条持通1458-1460 近衛房嗣1462 久我通博1481-1482 鷹司政平1485 近衛政家1488-1490 戦国時代 一条冬良1493-1497 徳大寺実淳1510-1511 近衛尚通1514-1517 花山院政長1518-1521 三条実香1535-1536 近衛稙家1538-1541 安土桃山時代 近衛前久1582 豊臣秀吉1587-1598 江戸時代 徳川家康1616 徳川秀忠1626-1632、武家官位 近衛基熙1709-1710 近衛家熙1711 近衛家久1733-1734 一条兼香1746-1751 近衛内前1768-1770 九条尚実1781 徳川家斉1827-1841、武家官位 鷹司政通1842-1848 明治時代 三条実美1871-1885 → 内閣制度発足にともない廃止 |
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