藤田平とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
藤田 平
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | (1947-10-19) 1947年10月19日(77歳) |
身長体重 | 177 cm81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1965年 ドラフト2位 |
初出場 | 1966年4月10日 |
最終出場 | 1984年9月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
和歌山市立和歌山商業高等学校 阪神タイガース (1966 - 1984) | |
監督・コーチ歴 | |
阪神タイガース (1981 - 1984, 1995 - 1996) 佐川急便(軟式) 福井ミラクルエレファンツ (2008) 紀州レンジャーズ (2009) | |
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藤田 平(ふじた たいら、1947年10月19日[1] - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。阪神タイガースの生え抜き打者で初めて名球会入りした選手[2]。
経歴
プロ入り前
少年時代、打球が飛び過ぎてボールが無くなるので「左で打て」と言われた[3]。市和歌山商では長谷川治監督から徹底的に基本を叩き込まれ[3]、遊撃手として活躍。2年次の1964年には春の選抜に出場するが、1回戦で金沢高に完封負けを喫す。同年夏の甲子園県予選は準決勝で海南高の山下慶徳らに抑えられ大敗し、秋季近畿大会では準決勝に進むも育英高の鈴木啓示に完封を喫するが、3年次の1965年の選抜へ2年連続出場を決める。大会では岡本喜平(住友金属)の好投もあり、1回戦でエース・安田猛を擁する小倉高を完封するなど勝ち進み、2回戦では中京商から選抜大会41年ぶり2人目[4]の個人1試合2本塁打を放つ。毎日新聞の松尾俊治記者は「天才的」と評し、ヨギ・ベラ、スタン・ミュージアルに例えた[3]。準決勝は高松商の小坂敏彦を9回に崩し辛勝し、決勝は岡山東商の平松政次と岡本との投手戦となるが、延長13回裏にサヨナラ負けし準優勝に終わった[5]。この試合では平松から2安打を放ち、大会通算20塁打の新記録を達成した[6]。
同年夏の県予選は準々決勝で、後にプロで同僚となる南部高の上田二郎に抑えられ敗退。高校卒業後は明治大学に進学する予定であったが、同年の第1回ドラフト2位で阪神タイガースへ入団。この一件から阪神と明大は十数年後に和解するまでずっと不仲であり、阪神ファンであった星野仙一の指名も出来なかった程である。
現役時代
1年目の1966年から「誰に野球を教わった?」と先輩に聞かれるほどで[3]、一軍で起用され、三塁手、遊撃手として39試合に先発出場。1年目の藤田が打席に入ると外野手が前進守備を取ることに憤慨し、オフにハンマー投げで鍛え上げて2年目は外野手を後ろに下がらせている[7]。2年目の1967年には開幕から1番・遊撃手の定位置を得ると[8]、二塁手に回った吉田義男と共にチャンスメーカーとして活躍。初めて規定打席に達しリーグ9位の打率.291、リーグトップの154安打を放った[9][10]。初のベストナインにも選出されるなど吉田の後継遊撃手としての道を歩み始め、1970年からは3番打者として起用され、シーズン後半には三塁手に回る。
1971年には遊撃手に戻るが、同年はフレッド・バレンタインが退団し、田淵幸一がシーズン前半を欠場。その穴を埋める自己最高の28本塁打を放っている。流れるような美しいフォームでしばしば巧打を放ったが、チャンスに初球をポップフライすることが多かったり、第1打席で安打が出れば猛打賞になるなど、職人肌特有の著しい調子の波もあり、規定打席に達しての3割は4度しか経験していない。
1970年代には江夏豊・池田純一・谷村智啓と共に『若虎四天王』と呼ばれ、1974年はシーズン後半に故障欠場するものの、自身初の3割でリーグ7位の打率.302を記録。1978年には208打席連続無三振の日本記録を樹立するが[11][12]、同年後半からハル・ブリーデンが故障離脱し、藤田の守備の負担を減らすために一塁手での起用が多くなった。1979年4月17日のヤクルト戦(神宮)での一塁守備時に左足太ももの肉離れを起こし[13]、経過が思わしくなくドン・ブレイザー監督が「**日本の医者は何をしているんだ? アメリカなら簡単に治る!**」と激怒。同年7月に渡米し、ロサンゼルスの外科手術専門治療所で筋肉強化のリハビリを受けシーズンを棒に振った[14]。このアメリカでのリハビリ中にドジャースの試合を観戦し、ファンも選手も野球を楽しんでいることに衝撃を受けたという[15]。以後は足に不安を抱えながらも1980年に復帰し、コーチ兼任となった1981年に打率.358で首位打者となりカムバック賞を受賞。藤田はこの年チーム内に結膜炎が流行したので20試合ほど欠場しており、最終日のダブルヘッダーで規定打席に到達しての獲得であった[16]。1982年8月31日の大洋戦(横浜)で三塁線上にサードフライを放つが、これを石橋貢が落球。若手の鷲谷亘三塁塁審がファウルと判定したことから、鷲谷審判が島野育夫コーチと柴田猛コーチに暴行されるきっかけとなった(横浜スタジアム審判集団暴行事件)。その試合では9回に遠藤一彦から決勝2ラン本塁打を放ちチームに勝利をもたらした。
1983年5月3日の巨人戦(後楽園)では角三男から通算2000安打を達成し、阪神の生え抜き打者としては初の2000安打と名球会入りとなった[17]。達成すると王貞治から花束を手渡された[18]。チーム新記録となる2010試合出場を置き土産に1984年に現役を引退[19][20]。安藤統男が1984年に限りで監督を辞任した原因の一つに藤田の監督批判が表沙汰になった事が報じられたが、田中隆造オーナーさえ初耳で、テレビ報道でこれを知り仰天したという逸話が残る[21]。
現役時代は無口でおとなしく、遠井吾郎・藤井栄治とともに「阪神三奇人」と呼ばれた。また、チームメイトとの付き合いが悪かった上に、努力しているところを人に見られることを極度に嫌った[22]。在籍当時頻発した球団やスタッフと選手の内紛にも、遠井と共にほとんど関与していなかった。阪神が優勝した翌々年に入団し、19年間阪神の主力として活躍したが現役選手としては優勝を経験せずに引退した。通算安打は2064本記録したが[23]日本国内での2000安打達成者の中でリーグ優勝・日本一経験無しは藤田と土井正博の2人だけである。
現役引退後
引退後は朝日放送テレビ・ラジオ・サンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家(1985年 - 1994年)を務め、解説者就任初年にはバックスクリーン3連発の時にはテレビの解説者として、21年ぶりの優勝の場面はラジオの解説者としてそれぞれ立ち会った。1987年オフには監督に就任した村山実から「ブチ、ユタカ、タイラも帰ってこい」と江夏、田淵と共に入閣を呼びかけられたが、球団の意向もあり、どのコーチも実現しなかった[24]。
その後、中村勝広監督の要請で1995年、二軍監督として10年ぶりに阪神に復帰。同年1月17日に阪神・淡路大震災が発生し、自宅が半壊した藤田は選手寮「虎風荘」で若手選手らと共に生活していたが、食事の貧弱さに驚く。そこで武庫川女子大学教授に意見を求め、球団に食事改善要求を出している[25]。
同年7月に新庄剛志正座事件が起きる。当時、練習に遅刻した新庄を正座させたと事実を歪曲して伝えられたが[26]、藤田曰くこれは平気で遅刻する選手があまりにも多いため「選手同士で何か規定を作りなさい」と提案したところ、選手の方から「遅刻した時間だけ正座する」と言ってきて、新庄はそれを実行しただけであった[27][28]。一方で別のスポーツ紙では、新庄は足を痛めて別メニューであったのに、監督にそれが伝わっていなかったと記してある[29]。
新庄は後に自らの著書[30]でこの一件について触れ、規定の存在には触れておらず「当時の故障状態の悪さから判断して練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行った行動について、藤田から遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった」[31]と綴っている[32]。
中村の途中休養に伴い一軍監督代行を務め、同年のオールスター中の練習では炎暑の中50分のダッシュを課した。オールスター後は就任初戦で入団4年目の桧山進次郎を4番起用、関川浩一を外野にコンバート、レギュラーが固定化されていた前半戦と違って若手の目の色が変わってきたほか、さらにはベテランをのぞいて、若手を試合後に呼んでミーティングを始めた[33]。こうやって色は出したが、17勝36敗と成績は上向かなかった[34]。シーズン終了恒例のオーナー報告が10月18日にあり、正式な監督に昇格。12月の契約更改では新庄が球団への要求を吐き出し、「ここまで来たのは2人のおかげ」という中村前監督の退任、柏原純一二軍打撃コーチの解任も不満だが「理解できない交代や抹消や昇格がある」と藤田の采配を批判。新庄は「阪神を辞めたい。環境を変えたい」とトレードを志願し、「僕にはセンスがない」と引退まで宣言した。結局は「倒れた父親に野球する姿を見せるのが一番の薬」と撤回して契約したが、3週間に及ぶ騒動であった[35]。
9月12日の巨人戦(東京ドーム)、0対3とリードを許した7回1死一、二塁の場面で代打・石嶺和彦が追い込まれると、藤田はダブルスチールのサインを出した[36]。二塁ランナーの関川は途中で止まったが一塁ランナーの新庄は二塁ベース直前まで走っていた[36]。チーフスコアラーの三宅博は「この作戦には2通りある。2人同時に走るのか、一塁走者が二塁走者を見ながらスタートを切るのか。だけど、どちらにするかの指示はなかった。巨人がランダウンプレーをミスしたおかげで、結果的にアウトにならなかったけど、平は新庄を怒ったんや」、試合後のミーティングで三宅は「ダブルスチールの約束事としてどちらにするか決めるべき」と主張しすると藤田は「そんなもんいらん。一塁走者が二塁走者を見るのは当たり前や」と激昂、三宅は「初めに決めておかないと選手はわからない」と繰り返した[36]。藤田の監督就任直後球団社長が三宅に先乗りスコアラーへ格下げを通告された[36]。
監督昇格後は参謀役のチーフ兼バッテリーコーチに柴田猛、外野守備走塁コーチには小林正之を招聘[37]。高橋重行が一軍投手コーチに昇格し、古沢憲司が二軍投手コーチとして復帰[37]。二軍監督時代から目を付けていたオリックスの平塚克洋を金銭トレードで獲得し、ぬるま湯体質に浸かった阪神の再建に取り組み、長谷川平蔵をもじった『鬼平』と呼ばれるほどの熱血指導を進めた[38]。春季キャンプではOBのグラウンド立入を禁止する等、徹底したものであった[39]。調整不足のグレン・デービスを開幕二軍に落としたほか、クールボー(グレンと共に6月に解雇)を始め、一部主力選手との対立が埋まらず[40]、悪質ファンが移動の新幹線にまで押し掛ける等、フロントが全く機能していない状態であった[41]。
同年9月12日の午後球団の取締役会で藤田の監督解任が承認される[42]と、藤田は夕方急遽球団事務所に呼び出され、三好一彦球団社長から監督解任を通告された。しかし藤田はこれを不服として久万俊二郎オーナーとの面会を求めるものの応じられず、話し合いは夕方5時から延々続き、翌13日の深夜2時半になって一度水入り。同日午後2時から話し合いを再開し、球団が藤田に金銭保証する事で決着。藤田は解任を受諾した[42][43][44][45][46][47]。
フロントは藤田がすぐに解任を承諾するものとして、夕方から「辞任に関する記者会見」を行うと報道陣に通知していたが、話し合いが延びたために「本日(12日)中の会見ができなくなった」と異例の発表が行われた。報道陣は球団事務所前で深夜まで待ちぼうけを喰らい、近所の喫茶店は彼らの為に軽食の出前販売を行なったという。後日、この時のやりとりについて藤田は「三好社長はこちらの言い分を電話で久万オーナーに伝えて、いちいち確認するだけ。あれじゃ自分の意思がない伝書鳩以下だ」と酷評している[42]。藤田によると求心力の欠如を理由に解任されたという[48][49]。監督代行はシーズン終了まで柴田が務めた[50][51]。
解任について当時阪神の常務であった野崎勝義は著書の中で「この数字が(48勝69敗)解任を決める大きい要素になったが、実は采配以外で藤田監督の評判が良くなかった。営業部からも選手からも周辺からの反発が彼には致命的だった負け越し21である。ファンの指弾は無論、マスコミの監督降ろしは痛烈だった。首位打者を取ったほどの藤田平氏だけに野球の技術や理論は卓越している。采配も悪い批判はない。が、何せ背広組からの評判が良くなかった。監督は全能であるそういう考えを彼は強く持っていたのかもしれない。営業に編成に球場に口出しが過ぎるという声が多くあったのは確かだ。藤田平監督は周辺の支持を得られず、去って行ったのである。悪い後味を残して藤田平氏はユニフォームを脱いだ。酷い土産も残していった。負け越し21、勝率5割も1度もないまま。そして最下位。さらに観客動員200万人も割った。挙句の果てに28年ぶりに赤字となった。誰にとっても苦々しいシーズンになった」と記している[42]。
テリー伊藤は自身の著書の中で「改革叫んだ相手が“のれん”だった『鬼平』監督」と評している[52]。
監督解任後の1997年からはサンテレビ解説者・デイリースポーツ評論家に復帰し、2005年には村田兆治が設立した「対馬まさかりドリームス」に参加。村田と一緒に日本全国の野球少年への指導のため全国を飛び回りながら、1年間だけ佐川急便野球部で監督も務めた。2008年、妻の勧めと「野球界に恩返ししたい」という想いからBCリーグ・福井ミラクルエレファンツ初代監督に就任。野手コーチに野田征稔、投手コーチ(選手兼任)に天野浩一を招聘。選手寮と目と鼻の先のアパートに住み込み、毎晩のように選手の素振りを見るなどの熱血指導ぶりであったが、前後期ともに北陸地区(3チーム)の最下位に終わり、シーズン終了後の9月30日に退任。在任中の給与の一部が支払われていないとして、支払いを求め2010年8月19日付で神戸地方裁判所尼崎支部に提訴した(裁判結果は報じられていない)[53]。
2009年、郷里・和歌山に本拠地を置く関西独立リーグ・紀州レンジャーズ初代監督に就任。前期は3位と健闘したが、後期は最下位に転落。同年限りで退任。2017年9月20日、阪神タイガース生え抜き野手として2人目の2000安打を達成した鳥谷敬を祝福し、甲子園で記念写真プラークを贈呈した[54]。
詳細情報
年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗 塁 死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併 殺 打 | 打率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | 阪神 | 68 | 166 | 153 | 9 | 36 | 7 | 2 | 1 | 50 | 13 | 1 | 3 | 4 | 0 | 9 | 0 | 0 | 28 | 0 | .235 | .278 | .327 | .605 |
1967 | 131 | 561 | 530 | 67 | 154 | 30 | 10 | 16 | 252 | 44 | 7 | 6 | 1 | 2 | 24 | 1 | 4 | 65 | 7 | .291 | .325 | .475 | .800 | |
1968 | 129 | 560 | 516 | 66 | 124 | 30 | 4 | 11 | 195 | 32 | 7 | 7 | 6 | 3 | 28 | 1 | 7 | 61 | 8 | .240 | .287 | .378 | .665 | |
1969 | 130 | 556 | 526 | 62 | 154 | 25 | 3 | 19 | 242 | 54 | 12 | 7 | 0 | 2 | 27 | 2 | 1 | 57 | 0 | .293 | .327 | .460 | .787 | |
1970 | 121 | 486 | 443 | 48 | 122 | 26 | 3 | 9 | 181 | 51 | 5 | 5 | 2 | 7 | 33 | 0 | 1 | 53 | 6 | .275 | .322 | .409 | .731 | |
1971 | 122 | 509 | 460 | 64 | 125 | 11 | 4 | 28 | 228 | 61 | 12 | 4 | 0 | 3 | 43 | 7 | 3 | 71 | 3 | .272 | .336 | .496 | .832 | |
1972 | 130 | 580 | 522 | 64 | 144 | 27 | 4 | 18 | 233 | 64 | 4 | 11 | 1 | 0 | 54 | 7 | 3 | 67 | 11 | .276 | .347 | .446 | .794 | |
1973 | 130 | 569 | 519 | 73 | 146 | 27 | 2 | 17 | 228 | 59 | 8 | 2 | 10 | 2 | 36 | 5 | 2 | 53 | 6 | .281 | .329 | .439 | .768 | |
1974 | 100 | 417 | 374 | 51 | 113 | 21 | 2 | 16 | 186 | 47 | 6 | 2 | 1 | 4 | 30 | 3 | 8 | 20 | 5 | .302 | .363 | .497 | .860 | |
1975 | 102 | 429 | 386 | 42 | 112 | 18 | 3 | 9 | 163 | 56 | 1 | 2 | 3 | 9 | 29 | 0 | 2 | 23 | 6 | .290 | .336 | .422 | .758 | |
1976 | 103 | 433 | 395 | 56 | 110 | 18 | 4 | 12 | 172 | 39 | 5 | 4 | 1 | 5 | 30 | 2 | 2 | 23 | 5 | .278 | .329 | .435 | .764 | |
1977 | 119 | 514 | 473 | 62 | 142 | 23 | 3 | 11 | 204 | 43 | 6 | 6 | 4 | 0 | 35 | 2 | 2 | 35 | 5 | .300 | .351 | .431 | .782 | |
1978 | 130 | 575 | 522 | 77 | 157 | 26 | 4 | 13 | 230 | 58 | 4 | 3 | 9 | 2 | 37 | 2 | 5 | 18 | 7 | .301 | .352 | .441 | .792 | |
1979 | 18 | 43 | 40 | 1 | 11 | 0 | 0 | 0 | 11 | 3 | 3 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | .275 | .302 | .275 | .577 | |
1980 | 103 | 313 | 280 | 22 | 85 | 11 | 0 | 6 | 114 | 38 | 0 | 3 | 0 | 5 | 24 | 3 | 4 | 22 | 3 | .304 | .361 | .407 | .768 | |
1981 | 107 | 403 | 369 | 41 | 132 | 24 | 0 | 11 | 189 | 70 | 2 | 2 | 0 | 2 | 32 | 5 | 0 | 21 | 6 | .358 | .407 | .512 | .919 | |
1982 | 116 | 439 | 403 | 30 | 117 | 18 | 2 | 7 | 160 | 40 | 1 | 0 | 1 | 2 | 32 | 6 | 1 | 29 | 10 | .290 | .342 | .397 | .739 | |
1983 | 90 | 283 | 265 | 15 | 73 | 12 | 0 | 2 | 91 | 24 | 1 | 1 | 0 | 1 | 17 | 2 | 0 | 24 | 5 | .275 | .318 | .343 | .661 | |
1984 | 61 | 46 | 41 | 4 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 6 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 1 | 0 | 4 | 1 | .171 | .244 | .268 | .513 | |
通算:19年 | 2010 | 7882 | 7217 | 854 | 2064 | 355 | 50 | 207 | 3140 | 802 | 85 | 68 | 44 | 50 | 526 | 49 | 45 | 679 | 94 | .286 | .336 | .435 | .771 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度 | 年齢 | 所属リーグ | 打率 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 出塁率 | 四球 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | 18 | セ・リーグ | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1967 | 19 | 9位 | 1位 | 1位 | 1位 | - | - | - | - | - | |
1968 | 20 | - | - | 1位 | 8位 | - | - | - | - | - | |
1969 | 21 | 6位 | 2位 | 2位 | 4位 | - | - | - | - | 9位 | |
1970 | 22 | 6位 | 9位 | 2位 | 7位 | - | 10位 | - | - | - | |
1971 | 23 | 10位 | 7位 | - | 2位 | 4位 | 8位 | 7位 | 10位 | 6位 | |
1972 | 24 | - | 2位 | 1位 | 2位 | - | 10位 | - | 8位 | - | |
1973 | 25 | 7位 | 2位 | 2位 | 6位 | 9位 | 7位 | - | - | - | |
1974 | 26 | 7位 | - | - | - | - | - | 8位 | - | 7位 | |
1975 | 27 | 9位 | - | - | 7位 | - | - | - | - | - | |
1976 | 28 | - | - | - | 5位 | - | - | - | - | - | |
1977 | 29 | - | 10位 | 9位 | 10位 | - | - | - | - | - | |
1978 | 30 | - | 3位 | 10位 | 8位 | - | - | - | - | - | |
1979 | 31 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
1980 | 32 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
1981 | 33 | 1位 | - | 4位 | - | - | - | 3位 | - | 7位 | |
1982 | 34 | 10位 | - | - | - | - | - | - | - | - | |
1983 | 35 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | |
1984 | 36 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
- -は10位未満(打率、出塁率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | 阪神 | 6位 | 130 | 46 | 84 | 0 | .354 | 36.0 | 88 | .244 | 3.83 | 48歳 |
1996年 | 阪神 | 6位 | 130 | 54 | 76 | 0 | .415 | 23.0 | 89 | .245 | 4.12 | 49歳 |
通算 | 170 | 65 | 105 | 0 | .382 |
※1 1995、96年は130試合制
※2 1995年、中村勝広監督休養後の7月29日より閉幕まで指揮(53試合17勝36敗 勝率.321)
※3 1996年、成績不振により9月13日から休養(117試合48勝69敗 勝率.410)。監督代行は柴田猛
※4 通算成績は、実際に指揮した試合
タイトル
表彰
- ベストナイン:7回 (1967年、1969年 - 1971年、1973年 - 1974年、1981年)
- ダイヤモンドグラブ賞:3回 (遊撃手部門:1973年、1975年、一塁手部門:1981年)
- カムバック賞:1回 (1981年)
記録
初記録
- 初出場・初先発出場:1966年4月10日、対サンケイアトムズ3回戦(阪神甲子園球場)、2番・遊撃手で先発出場
- 初安打:1966年4月26日、対サンケイアトムズ4回戦(明治神宮野球場)、1回表に渋谷誠司からバントヒット
- 初打点:1966年5月13日、対サンケイアトムズ7回戦(明治神宮野球場)、4回表に石戸四六から右翼線へ決勝2点適時二塁打
- 初本塁打:1966年7月9日、対広島カープ10回戦(広島市民球場)、5回表に竜憲一からソロ
節目の記録
- 100本塁打:1972年10月3日、対中日ドラゴンズ25回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に土屋紘から右越先制ソロ ※史上72人目
- 1000安打:1973年10月10日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場)、8回表に倉田誠から中前安打 ※史上84人目
- 1000試合出場:1974年5月30日、対読売ジャイアンツ11回戦(阪神甲子園球場)、1番・遊撃手で先発出場 ※史上171人目
- 150本塁打:1976年5月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、8回表に渡辺孝博から右越ソロ ※史上42人目
- 1500安打:1978年4月25日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、9回表に江夏豊から左翼線二塁打 ※史上34人目
- 1500試合出場:1978年9月9日、対ヤクルトスワローズ23回戦(阪神甲子園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上59人目
- 300二塁打:1980年9月24日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(横浜スタジアム)、2回表に宮本四郎から右翼線2点適時二塁打 ※史上17人目
- 200本塁打:1982年6月8日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、3回表に松岡弘から右越逆転決勝3ラン ※史上36人目
- 3000塁打:1982年8月28日、対広島東洋カープ19回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に小川邦和から右前安打 ※史上22人目
- 2000安打:1983年5月3日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、9回表に角三男から左中間安打 ※史上15人目
- 350二塁打:1983年7月29日、対中日ドラゴンズ14回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に小松辰雄から右翼線二塁打 ※史上12人目
- 2000試合出場:1984年8月25日、対横浜大洋ホエールズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に一塁手で出場 ※史上20人目
その他の記録
- 208打席連続無三振 (1978年4月30日 - 7月5日)
- リーグ最多二塁打:3回(セ・リーグ最多タイ)
- オールスターゲーム出場:8回 (1967年、1969年、1971年、1973年 - 1976年、1981年)
背番号
- 6 (1966年 - 1984年)
- 80 (1995年 - 1996年)
- 66 (2008年 - 2009年)
関連情報
の出演番組
- サンテレビボックス席
- ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。
- 平・多恵子のリレー球談〜プロ野球サンデー〜(ABCラジオ)
参考文献
出典
- ^ “藤田平 | 野球選手データ”. 週刊ベースボールONLINE. 2025年1月25日閲覧。
- ^ 藤田平:日本プロ野球名球会公式ホームページ
- ^ a b c d 猛虎人国記(64)~和歌山県(上)~ 美酒知らず、苦闘支えた2千安打 藤田平
- ^ 第1回大会の田嶋豊次郎(和歌山中)以来
- ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年2月17日、153頁。
- ^ 清原和博、松井秀喜、香川伸行……甲子園「歴代最強スラッガー」は誰だ?
- ^ 「外野手の浅い守備位置が悔しくて…」徹底したハンマー投げでびっくりするほど打球が伸びた・藤田平さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(29) | 47NEWS
- ^ 藤田平 猛虎生え抜き初の2000安打を遂げたヒットメーカー/プロ野球1980年代の名選手
- ^ 2年目藤田平、レギュラー取りをアピール/復刻 - プロ野球 : 日刊スポーツ
- ^ “阪神・中野 初回先頭打で先制点お膳立て 近本と最多安打争うリーグ2位111本”. デイリースポーツ online (2022年7月24日). 2022年7月24日閲覧。
- ^ . 阪神タイガース 公式サイト. http://s.hanshintigers.jp/80th/history/+2020年4月8日閲覧。
- ^ 1997年にオリックスのイチローが216打席で更新
- ^ 元阪神・藤田平の思い出の試合 「プロ野球人生を生き抜くために必要な勉強の一打になった」
- ^ お目々腫らして藤田平“首位打者”争い 無口で話しづらく奥さんに電話攻勢かけたら…
- ^ 阪神生え抜きで唯一2000安打を達成した男の転機とは?
- ^ 規定打席ギリギリで首位打者獲得 81年阪神・藤田平の執念|NEWSポストセブン
- ^ 通算2064安打は、2018年10月4日に鳥谷敬が更新するまで球団最多記録。
- ^ 「外野手の浅い守備位置が悔しくて…」徹底したハンマー投げでびっくりするほど打球が伸びた・藤田平さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(29) | 47NEWS
- ^ 連続出場ストップの鳥谷敬に藤田平「僕と同じようになるな」
- ^ 巨人と阪神は対照的、プロ野球選手の引退時やその後の処遇
- ^ 吉田義男著『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314)、149頁
- ^ 野村克也『プロ野球 奇人変人列伝』(2017年、詩想社)
- ^ “阪神・大山は一塁、三塁佐藤輝と固定すべし 主軸の「複数ポジション」はNG 藤田平氏が指摘”. デイリースポーツ online (2021年12月10日). 2021年12月10日閲覧。
- ^ 【内田雅也の猛虎監督列伝(24)~第24代 村山実】激情家の「11」を襲った相次ぐ事件
- ^ 食事面から手をつけなければ…藤田平氏、阪神暗黒時代まっただ中の現場復帰
- ^ 練習遅刻の新庄に正座の厳罰 - ニッカンスポーツ、1995年7月24日、2015年8月8日閲覧。
- ^ 藤田平氏 “新庄正座事件”チーム全体にまん延する遅刻癖 選手間ルール決めた
- ^ 【引退宣言】新庄剛志との確執!?例の騒動を藤田平に直撃!チーム全体にまん延する遅刻癖の真実!WBCメンバーは〇〇が心配! - YouTube
- ^ 1995年暮れ、新庄「センスがない」退団騒動
- ^ 『ドリーミングベイビー』新庄剛志 (光文社 2001年4月 ISBN 978-4334972974)
- ^ わがままの果ての迷走 「新庄引退」のカラ騒ぎ
- ^ 前述のトレード志願発言についても含め「新庄剛志#阪神時代」を参照。
- ^ 大下英治「阪神タイガース変革論」KKベストセラーズ、ISBN 4584132453、2010年6月9日、p252。
- ^ 藤田平氏 初采配で4番桧山 どよめく甲子園…ノムさんも「なんで桧山なんや」
- ^ 【新庄剛志】「センスがないから野球を辞める」引退撤回の真相! #14|新庄剛志『わいたこら。』|新庄剛志|cakes(ケイクス)
- ^ a b c d “阪神監督とケンカで“まさかの降格”名物スコアラーが告白「試合後ミーティングで…」“電撃就任”の野村克也に訴えた「勝たせてください」”. Sports Graphic Number. 2023年12月23日閲覧。
- ^ a b 阪神タイガース変革論、p255。
- ^ 団塊世代が監督で大成せぬ理由 藤田平と谷沢健一による分析
- ^ 前代未聞!OBグラウンド立ち入り禁止「鬼平カーテン」
- ^ 監督編(13) 『最も軽く扱われた監督は唯一の名球会選手』
- ^ 1996年 最下位低迷、藤田平政権の悲劇…なんと暴走虎ファン新幹線乱入!
- ^ a b c d 野崎勝義著ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年、2011年、朝日新聞社、P34-39
- ^ 藤田平氏が振り返る1996年の阪神お家騒動、10時間籠城も
- ^ 阪神・藤田平監督 シーズン中に突如解任通告され「甲子園籠城」
- ^ 本紙直撃で飛び出した 伝説の鬼平「伝書鳩」発言
- ^ 藤田監督が“鬼平”の意地 法廷闘争をにらんでいた!?
- ^ 【緊急事態の虎】前代未聞9時間半! 藤田平監督、甲子園球団事務所“籠城”騒動 (1/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)
- ^ 敗軍の将,兵を語る藤田平氏(阪神タイガース前監督)突然解任,球団は曖昧…納得できない
- ^ 前代未聞9時間半! 藤田平監督、甲子園球団事務所“籠城”騒動
- ^ 【内田雅也の猛虎監督列伝(26)~第26代 藤田平】孤立した「鬼平」の寂しき末路 前代未聞の解任拒否
- ^ 藤田平氏、納得できなかった…まさかの“解任通告” 約9時間半に及んだ“籠城会談”
- ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月、ISBN 9784334783259。
- ^ “元阪神の藤田平氏、BC福井側を提訴「監督報酬支払え」”. 朝日新聞. (2010年8月21日). http://www.asahi.com/kansai/sports/news/OSK201008210059.html 2017年12月24日閲覧。
- ^ 2000安打記念して「鳥谷敬デー」開催 藤田平氏から記念品贈呈
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 藤田平 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
監督歴 |
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表話編歴阪神タイガース監督 1995 - 1996 森茂雄 1936 石本秀一 1936 - 1939 松木謙治郎 1940 - 1941 若林忠志 1942 - 1944 藤村富美男 1946 若林忠志 1947 - 1949 松木謙治郎 1950 - 1954 岸一郎 1955 藤村富美男 1955 - 1957 田中義雄 1958 - 1959 金田正泰 1960 - 1961 藤本定義 1961 - 1965 杉下茂 1966 藤本定義 1966 - 1968 後藤次男 1969 村山実 1970 - 1972 金田正泰 1973 - 1974 吉田義男 1975 - 1977 後藤次男 1978 ドン・ブレイザー 1979 - 1980 中西太 1980 - 1981 安藤統男(統夫) 1982 - 1984 吉田義男 1985 - 1987 村山実 1988 - 1989 中村勝広 1990 - 1995 藤田平 1996 吉田義男 1997 - 1998 野村克也 1999 - 2001 星野仙一 2002 - 2003 岡田彰布 2004 - 2008 真弓明信 2009 - 2011 和田豊 2012 - 2015 金本知憲 2016 - 2018 矢野燿大 2019 - 2022 岡田彰布 2023 - 2024 藤川球児 2025 - 現在 表話編歴福井ミラクルエレファンツ監督 2008 藤田平 2008 天野浩一 2009 野田征稔 2010 - 2011 酒井忠晴 2012 - 2014 吉竹春樹 2015 - 2016 北村照文 2017 田中雅彦 2018 - 2019 福沢卓宏 2020 - 2021 南渕時高 2022 (途中退任) 吉田篤史 2022.4.24 - 6.29(代行) 早坂圭介 2022.6.29 - 終了(代行) 表話編歴紀州レンジャーズ監督 2009 藤田平 2009 石井毅 2010- 2013 |
業績 |
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表話編歴名球会 歴代会員投手 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 打者 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表話編歴セントラル・リーグ首位打者1950年代 1950 藤村富美男 1951 川上哲治 1952 西沢道夫 1953 川上哲治 1954 与那嶺要 1955 川上哲治 1956 与那嶺要 1957 与那嶺要 1958 田宮謙次郎 1959 長嶋茂雄 1960年代 1960 長嶋茂雄 1961 長嶋茂雄 1962 森永勝治 1963 長嶋茂雄 1964 江藤慎一 1965 江藤慎一 1966 長嶋茂雄 1967 中暁生 1968 王貞治 1969 王貞治 1970年代 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 若松勉 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 谷沢健一 1977 若松勉 1978 水谷実雄 1979 F.ミヤーン 1980年代 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1982 長崎啓二 1983 真弓明信 1984 篠塚利夫 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 篠塚利夫, 正田耕三 1988 正田耕三 1989 W.クロマティ 1990年代 1990 J.パチョレック 1991 古田敦也 1992 J.ハウエル 1993 T.オマリー 1994 A.パウエル 1995 A.パウエル 1996 A.パウエル 1997 鈴木尚典 1998 鈴木尚典 1999 R.ローズ 2000年代 2000 金城龍彦 2001 松井秀喜 2002 福留孝介 2003 今岡誠 2004 嶋重宣 2005 青木宣親 2006 福留孝介 2007 青木宣親 2008 内川聖一 2009 A.ラミレス 2010年代 2010 青木宣親 2011 長野久義 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.マートン 2015 川端慎吾 2016 坂本勇人 2017 宮﨑敏郎 2018 D.ビシエド 2019 鈴木誠也 2020年代 2020 佐野恵太 2021 鈴木誠也 2022 村上宗隆 2023 宮﨑敏郎 2024 T.オースティン 表話編歴セントラル・リーグ カムバック賞 1974 石岡康三 1975 安仁屋宗八 1976 船田和英 1977 浅野啓司 1978 野村収 1979 三村敏之 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1984 鈴木孝政 1986 津田恒実 1987 杉浦享, 新浦壽夫 1988 有田修三 1989 西本聖, 中尾孝義 1990 吉村禎章, 遠藤一彦 1992 伊東昭光 1993 川崎憲次郎 1994 彦野利勝 1996 加藤伸一 1997 伊藤智仁 1998 斎藤隆 1999 遠山奬志 2000 種田仁 2001 成本年秀 2002 前田智徳 2003 平井正史, 鈴木健 2004 小久保裕紀 2008 平野恵一 2012 大竹寛 2015 館山昌平 2017 岩瀬仁紀 2018 松坂大輔 1974年制定。上記以外の年は該当者なし。 セントラル・リーグ ベストナイン(7回)表話編歴1967年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 小川健太郎 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 近藤和彦 / 柴田勲 / 中暁生 表話編歴1969年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 高橋一三 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 土井正三 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / D.ロバーツ / 山本一義 表話編歴1970年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 安藤統夫 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / 江尻亮 / 中暁生 表話編歴1971年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 国貞泰汎 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 柴田勲 / 高田繁 / 水谷実雄 表話編歴1973年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 高橋一三 捕 田淵幸一 一 王貞治 二 J.シピン 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 若松勉 / 柴田勲 / 江尻亮 表話編歴1974年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 堀内恒夫 捕 田淵幸一 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 G.マーチン / 末次利光 / 若松勉 表話編歴1981年 セントラル・リーグ ベストナイン 投 江川卓 捕 山倉和博 一 藤田平 二 篠塚利夫 三 掛布雅之 遊 山下大輔 外 山本浩二 / J.ライトル / 田尾安志 表話編歴セントラル・リーグ ダイヤモンドグラブ賞(一塁手)1970年代 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 王貞治 1980年代 1980 王貞治 1981 藤田平 1982 中畑清 1983 中畑清 1984 中畑清 1985 中畑清 1986 中畑清 1987 中畑清 1988 中畑清 1989 駒田徳広 1990年代 1990 駒田徳広 1991 駒田徳広 1992 J.パチョレック 1993 駒田徳広 1994 駒田徳広 1995 駒田徳広 1996 駒田徳広 1997 駒田徳広 1998 駒田徳広 1999 駒田徳広 2000年代 2000 R.ペタジーニ 2001 R.ペタジーニ 2002 R.ペタジーニ 2003 G.アリアス 2004 渡邉博幸 2005 A.シーツ 2006 A.シーツ 2007 A.シーツ 2008 新井貴浩, 栗原健太 2009 栗原健太 2010年代 2010 (該当者なし) 2011 栗原健太 2012 畠山和洋 2013 J.ロペス 2014 森野将彦 2015 畠山和洋 2016 J.ロペス 2017 J.ロペス 2018 J.ロペス 2019 J.ロペス 2020年代 2020 D.ビシエド 2021 D.ビシエド 2022 中田翔 2023 大山悠輔 2024 岡本和真 1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 表話編歴セントラル・リーグ ダイヤモンドグラブ賞(遊撃手)1970年代 1972 バート 1973 藤田平 1974 河埜和正 1975 藤田平 1976 山下大輔 1977 山下大輔 1978 山下大輔 1979 山下大輔 1980年代 1980 山下大輔 1981 山下大輔 1982 山下大輔 1983 山下大輔 1984 平田勝男 1985 平田勝男 1986 平田勝男 1987 平田勝男 1988 立浪和義 1989 川相昌弘 1990年代 1990 川相昌弘 1991 川相昌弘 1992 池山隆寛 1993 川相昌弘 1994 川相昌弘 1995 野村謙二郎 1996 川相昌弘 1997 宮本慎也 1998 石井琢朗 1999 宮本慎也 2000年代 2000 宮本慎也 2001 宮本慎也 2002 宮本慎也 2003 宮本慎也 2004 井端弘和 2005 井端弘和 2006 井端弘和 2007 井端弘和 2008 井端弘和 2009 井端弘和 2010年代 2010 梵英心 2011 鳥谷敬 2012 井端弘和 2013 鳥谷敬 2014 鳥谷敬 2015 鳥谷敬 2016 坂本勇人 2017 坂本勇人 2018 田中広輔 2019 坂本勇人 2020年代 2020 坂本勇人 2021 坂本勇人 2022 長岡秀樹 2023 木浪聖也 2024 矢野雅哉 1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 |
表話編歴阪神タイガース - 1965年ドラフト指名選手 | |
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指名選手 | 1位:石床幹雄 2位:藤田平 3位:北角富士雄(入団拒否) 4位:久野剛司 5位:石井満(入団拒否) 6位:岡村晃(入団拒否) 7位:松原保雄(入団拒否) 8位:下田典隆(入団拒否) 9位:井石裕也(入団拒否) |