「見立て(みたて)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
★1.目の前にある物を、それと形状の類似した別の物と見なす。
**『仮名手本忠臣蔵』**7段目「一力茶屋」 大星由良之助と斧九太夫の酒宴の場で、何か面白いことをしようというので、仲居が九太夫の頭を箸ではさみ、彼の顔を梅干しに見立てて遊ぶ。
『義経記』巻1「牛若貴船詣での事」 牛若は毎夜貴船明神に参詣し、四方の草木を平家一門に見立て、2本の大木を「清盛」「重盛」と名づけて太刀で斬った。また毬打の玉のようなものを2つ、木の枝にかけ、清盛・重盛の首に見立てて晒した。
『ドン・キホーテ』(セルバンテス) ドン・キホ-テは、近隣の百姓娘アルドンサ・ロレンソを自分の「思い姫」に見立て、勝手にドゥルシネア姫と名づける。
『長屋の花見』(落語) 貧乏長屋の連中が、大根をかまぼこ、たくあんを玉子焼き、番茶を酒に見立てて、花見をする。1人が「大家さん、近々長屋に良いことがありますぜ」と言う。「どうしてだ?」「湯飲みの中に酒柱が立ってます」。
『瘋癲老人日記』(谷崎潤一郎) 77歳の卯木督助は、息子の嫁颯子(さつこ)の足裏の拓本を取り、その形を石に刻もうと計画する。彼はこれを、仏の足跡を刻んだ仏足石に見立て、自分の墓石とし、その下に骨を埋めてもらいたいと願う〔*→〔足〕6aの『富美子(ふみこ)の足』が原型〕。
『紅(べに)皿・欠(かけ)皿』(昔話) 紅皿・欠皿の姉妹がいた。母は継子の紅皿を憎み、実子の欠皿をかわいがって、「欠皿を殿様の嫁にしたい」と願う。盆の上に皿を乗せ、塩を盛って松葉を1本さしたものを見て、欠皿は「盆の上に皿を乗せ、皿の上に塩を乗せ、塩の上に松をさして、おおつっかい棒あぶない」と言う。紅皿は、盛り塩を雪の山に見立て、「盆皿や皿ちゅう山に雪降りて雪を根として育つ松かな」と歌を詠む。殿様は、紅皿を嫁にした(静岡県浜松市)。
『檸檬』(梶井基次郎) 「私」は八百屋で檸檬を1個買い、幸福な気分になったが、丸善へ入るとたちまち憂鬱になった。「私」は美術書の棚から画集を何冊も引き出して積み重ね、上に檸檬を置いた。その檸檬を爆弾に見立て、「10分後にはこれが爆発するのだ」と想像して、「私」は丸善を出た。
*高額紙幣を破るわけにはいかないので、煎餅を紙幣に見立てて破る→〔金〕9bの『百万円煎餅』(三島由紀夫)。
*禿げ頭を、蛍の光に見立てる→〔蛍〕5の『サザエさん』(長谷川町子)。
*睾丸を卵に見立てる→〔卵〕6の『セレンディッポの三人の王子』1章。
★2.育ちが良いために、日用の卑俗な物品を、風雅な飾り物に見立ててしまう。
『雛鍔(ひなつば)』(落語) 大名屋敷の8歳の若様が1文銭を拾って、「雛人形の刀の鍔か?」と家来に問う。植木屋がこれを見て感心し、帰宅して自分の8歳の息子に語り聞かせる。そこへ町内の隠居が訪れたので、息子は往来で拾った1文銭を示し、「お雛様の刀の鍔かなあ?」と若様の真似をする。隠居は「銭を知らぬとは、育ちの良い子だ」とほめる。息子は「これで焼き芋を買う」と言う。
『万の文反故』(井原西鶴)巻2-3「京にも思ふやうなる事なし」 仙台から京に上った九兵次は、公家の屋敷に奉公していた女を妻とした。彼女は世事にうとく、摺鉢のうつぶせにしてあるのを、富士山の姿を写した焼き物かと思って、眺めていた。
★3.無間(むげん)の鐘(*→〔鐘〕5)に見立てた、泥の鐘や石の鉢。
『鏡と鐘』(小泉八雲『怪談』) ある百姓が、庭の泥で無間の鐘を模したものを作り、それを叩き壊して、富を得ることを祈る。すると庭前の土中から白衣の女が現れ、蓋をした甕を与える。百姓は大喜びで、妻とともに甕の蓋をこじ開ける。甕は、ふちまでいっぱいに・・・・いや、いけない。何がいっぱいつまっていたかは、「私(小泉八雲)」も口に出しかねる。
『ひらかな盛衰記』4段目「神崎揚屋」 梶原源太景季の恋人千鳥は、親から勘当された景季に苦労させぬよう、自ら神崎遊郭に身を沈め、「梅ヶ枝」と名乗る。梅ヶ枝は景季のために3百両の金を得ようと、地獄へ落ちる覚悟で、石の手水鉢を無間の鐘(*→〔交換〕2の無間の鐘の伝説)に見立てて、杓で打つ。すると2階から、3百両の小判が降ってくる。それは景季の母延寿が、若い2人を助けるためにしたことだった。
★4a.人間の一生(嬰児期・成年期・老年期)を、一日(朝・昼・晩)に見立てる。
『ギリシア神話』(アポロドロス)第3巻第5章 スフィンクスが、「1つの声を有しながら、朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足になるものは何か?」という謎を出した。オイディプスは「それは人間である」と解いた。人間は、赤ん坊の時は四つん這い、成人して2足歩行、老年になると杖を第3の足として加えるのである。
*「はじめは足がなく、やがて2本足、最後は4本足」という謎もある→〔夫〕1cの『脳味噌ちょっぴり』(イギリスの昔話)。
★4b.仏陀は自分の現世での一生を、月の満ち欠けに見立てた。
『大般涅槃経』(40巻本)「如来性品」 仏陀は言われた。「私の誕生した時は、月の満ち始めに喩えられる。生まれてすぐ7歩あるいたのは二日月。成長して学校へ行ったのは三日月。出家したのは8日目の半月。知恵を得て生類や悪魔を教化したのは15日目の満月。涅槃に入るのは月が欠けていく姿だ。しかし月そのものは満ちも欠けもせず、いつも満月である。私もまた常住不変だ」。
★5.人間の一生を四季に見立てると、小春(=晩秋から初冬)は何歳ぐらいにあたるか?
『小春』(国木田独歩) 11月某日。老熟を自認する「自分」は、画家を目指す小山青年と、林を散歩した。小山青年は、「人の一生を四季にたとえると、春を私のような時として、小春は幾歳ぐらいでしょう」と聞いた。「自分」は「僕のようなのが小春さ。今に冬が来るだろう」と答え、哀情を感じた。小山は「冬が過ぎれば、また春になりますからね」と笑った〔*この時、独歩は29歳。小山のモデル岡落葉は21歳〕。
*逆さまの死体を、人の名前に見立てる→〔逆さまの世界〕4の『犬神家の一族』(横溝正史)。
*西洋女性の肌の白さを、月光を浴びた白狐に見立てた作品→〔温泉〕5の『白狐の湯』(谷崎潤一郎)。
*イザナキ・イザナミが国産みをする時の「天の御柱」は、実際の柱とも、木を柱に見立てたとも、両様に解釈できる→〔周回〕1の『古事記』上巻。