「講談(コウダン)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
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講談(こうだん)とは、演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物(軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつ。
歴史
起源は戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または大道講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。
宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。『守貞謾稿』の記述によると、興業は昼席が午の刻半ば~申の刻まで、夜席は六つ半~四つ時までが一般的で、料金は通常48文(未熟な演者は36文、子どもは半額)だったという。講談の享受層は幅広く、江戸時代に広く読まれた実録本との影響関係が見られるほか[1]、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃化されることもあった。
江戸末期から明治時代にかけて、講釈は全盛期を迎え、明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など紙媒体に講談の内容を元とした「書き講談」(講談本)が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブル[注釈 1]に象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によって、講談はますます衰退した。
現代の講談
東京の講談
戦後、東京の講談界にしばしば協会の分裂騒動が発生していることも衰退の背景にあった。
1965年に「講談組合」のうち、五代目宝井馬琴と五代目神田伯山が脱退し「東京講談組合」を設立した(1967年に復帰)。1968年には「講談協会」に改組されているが、2年後の1970年に五代目馬琴は再び協会から離脱した。
1973年、田辺一鶴一門の女流講談師・田辺夕鶴(後に二代目神田山陽門下に移り、天の夕づるに改名)が始めた「ポルノ講談」[2]を巡って協会内で意見が対立し、さらに山陽会長の運営体制に対する不満も重なる形で、講談協会の解散動議に発展。賛成派多数により協会解散が可決され、山陽会長体制に否定的だった二代目神田ろ山・六代目小金井芦州・神田伯治・六代目一龍斎貞水・五代目宝井琴鶴ら合議制による「講談組合」と、神田山陽一門・田辺一鶴一門らの「日本講談協会」に分裂した(「第一次講談協会分裂」)[注釈 2]。さらに翌1974年には「講談組合」から琴鶴・五代目宝井琴梅・二代目宝井琴桜と六代目一龍斎貞丈門下の一龍斎貞正(後の五代目一龍斎貞花)が離脱し、先に「講談協会」を離脱していた琴鶴らの師匠の五代目馬琴と合流し「東京講談会」を結成したため、三団体が分裂する状況となった。その後、芦州が「講談組合」を、馬琴が「東京講談会」をそれぞれ離脱するなど、東京の講談界はますます混迷状態となっていた[3][4][5]。
この状況を憂いた日本演芸家連合理事長の四代目三遊亭金馬(落語協会、後の二代目三遊亭金翁)と副理事長の春風亭柳昇(落語芸術協会)が斡旋し、1980年に東京講談界は再び一本化し「**講談協会**」の発足に至った(ただし、神田伯治・二代目悟道軒圓玉・七代目一龍斎貞山は不参加)。
しかし、1991年に協会の会長選挙の方法について、二代目神田山陽が異議を唱えたことにより、山陽一門は一部を除いて講談協会を離脱し「**日本講談協会**」を設立。山陽は門人の去就を個人の判断に委ねたため、門人の一部は講談協会に残留した(「第二次講談協会分裂」)[5]。これ以降、再び東京講談界は二団体に分立し、現在に至っている。
講談の定席は本牧亭と永谷商事の演芸場があったが、本牧亭は閉場(のちに破産)。両団体とも現在は永谷商事が所有するお江戸上野広小路亭とお江戸日本橋亭、新宿永谷ホールを拠点として定席興行を行っている。このうち、日本講談協会は「落語芸術協会」と提携しており、両協会に所属する講談師も多く、この場合は芸協の定席興行にも出演するほか、前座修業も芸協の寄席で行っている[注釈 3](例外あり)。また、講談協会も3人と少数ながら「落語協会」にも所属する講談師がおり、この場合は落語協会の定席興行にも出演するほか、落語協会未所属の協会員であっても稀に落語協会の定席の顔付けに加わる事もある。他には浅草木馬亭で行われる「日本浪曲協会」の定席興行にも、両協会から毎回1名程度が賛助出演している。
女性の進出が目覚ましい分野であり、近年の若手講談師はむしろ女性が中心となっている[6]。特に若手の入門者は女性が圧倒的に多く、講談協会では1988年から2012年まで、男性真打が一人も誕生しなかったほどである[7]。
その後、2002年に六代目一龍斎貞水、2019年に三代目神田松鯉がそれぞれ講談師の重要無形文化財保持者(いわゆる「人間国宝」)となり、さらに三代目松鯉の弟子である六代目神田伯山が台頭し、メディア出演などで知名度を上げたことで、男性の入門希望者も散見されるなど、講談の人気も徐々に取り戻しつつある[8]。
上方の講談
上方(関西)の講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂など上方講談の一門は昭和初期で命脈が尽き、本来の上方講談の系譜はいったん絶えたと言える。こうして、本来は江戸の屋号である旭堂のみが残り、二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている[注釈 4]。
戦後になると、上方落語以上に衰退著しい上方講談は、江戸講談の系譜に連なる二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態となった。1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」「日本一亭南陵会」など定期講談席も続けられている。
その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名:三代目小南陵・元参議院議員)一門は「上方講談協会」を除名され「大阪講談協会」を結成した。
2017年、さらに旭堂南鱗以下の旧三代目南陵一門が離脱し「なみはや講談協会」を設立。「上方講談協会」は旭堂南左衛門一門のみとなり、上方の講談界は少人数ながら三団体となる。
また、なみはや講談協会所属の旭堂左南陵(会友)、旭堂鱗林のように、名古屋を活動拠点とする講談師もいる。
題材
江戸時代以降、講談の主な材料源は実録本だったとされる[10]。演目は、軍談・金襖物(評定物)・捌き物・仇討物・白浪物・三尺物などがある他、明治時代には政治講談・新聞講談・文芸講談などの新演目が起こった[10]。さらに現代では、国際的事件や経営理論、経営者の自伝など、新たな題材を取り上げる試みもなされている。
代表的な演目
上方
- 安倍晴明
- 天野屋利兵衛
- 一休和尚
- 応挙の幽霊
- 木津の勘助
- 木村長門守重成
- 楠の泣男
- 食わんか船の由来
- 西行法師
- 菅原天神記
- 曽呂利新左衛門
- 太閤記
- 壺阪の沢市
- 難波戦記
- 水戸黄門漫遊記
- 奴の小万
- 藪井玄意
- 良弁杉の由来
江戸
- 赤穂義士伝(忠臣蔵)
- 名月赤城山(国定忠治)
- 清水次郎長伝
- 四谷怪談
- 宮本武蔵
- 徳川天一坊
- 真景累ヶ淵
- 佐倉宗五郎(佐倉義民伝)
- 扇の的
- 天保水滸伝
- 慶安太平記
- 畔倉重四郎
- 浪速侠客伝
- 川中島合戦
- 鉢の木
- 笹野名槍伝
- 青龍刀権次
- 大岡政談
- 芝居の喧嘩
- 赤垣源蔵
- 鏡ヶ池操松影
- 梅雨小袖昔八丈
- 左甚五郎
- 牡丹灯篭
- 寛永三馬術
- 天保怪鼠伝
- 天保六花撰
- 日蓮記
- 松山伊予守(無筆の出世、仏の作蔵 命の手習い)
- 柳田格之進
その他、講談の演目と梗概については、吉沢英明編『講談作品辞典』(昭和堂、2008年)が詳しい。
講談師
現在活動している講談師
東京の講談師は基本的に神田派・山陽一門が日本講談協会(後述する通り、一部は講談協会)、それ以外が講談協会に所属するが、次に記述する者のうち、圓玉、昇龍、ひまわりはそのいずれにも所属していない。
一龍斎派
現在、一龍斎を名乗る講談師は、五代目一龍斎貞丈一門にあたる。
**一龍斎貞丈(5)**† | **一龍斎貞丈(6)**† | 一龍斎貞花(5) | 一龍斎貞弥 |
---|---|---|---|
一龍斎貞心 | 一龍斎貞寿 | ||
一龍斎貞奈 | |||
一龍斎貞司 | |||
一龍斎貞介 | |||
一龍斎貞昌 | |||
**一龍斎貞水(6)**† | 一龍斎春水 | ||
一龍斎貞友 | |||
一龍斎貞橘 |
田辺派
田辺一鶴門下にあたる。鶴女は桃川を名乗るが、本来の桃川派ではなく、一鶴門下から襲名している。また門下の鶴丸も桃川を名乗っていたが、2018年に「田ノ中星之助」に改名している。2018年刊行の東都寄席演芸家名鑑の系図では一鶴門下として列せられている。田辺鶴遊は一鶴死後に宝井琴梅門下に移籍したのち、真打昇進を機に再び田辺を名乗っている。
**田辺一鶴**† | **田辺鶴生**† | |
---|---|---|
桃川鶴女[注釈 5] | ||
田辺南北 | ||
田辺鶴英 | 田辺銀冶 | |
田辺一邑 | 田辺凌鶴 | 田辺凌天 |
田辺凌々 | ||
田辺一乃 | ||
田辺いちか | ||
田辺一記 | ||
田ノ中星之助[注釈 6] |
圓玉は元は十二代目田辺南鶴門下であったが、南鶴死後に南洲の名のまま服部伸預かりとなり、その後圓玉を襲名している。1980年の講談協会再統一の時点で協会に不参加[5]で、以降現在までフリーである。
**服部伸**† | 悟道軒圓玉(2) |
---|
宝井派
五代目宝井馬琴門下にあたる。このうち、四代目琴調と四代目琴柳は落語協会にも重複所属となっている。
**宝井馬琴(5)**† | **宝井馬琴(6)**† | 宝井琴柳(4) |
---|---|---|
宝井琴星 | 宝井琴鶴(5) | 宝井琴人 |
宝井小琴 | ||
宝井優星 | ||
宝井魁星 | ||
宝井琴嶺 | ||
宝井琴梅(5) | 宝井梅福 | |
宝井一凜 | ||
田辺鶴遊(2) | ||
宝井琴凌(4) | ||
宝井琴桜(2) | ||
宝井琴調(4) |
神田派伯龍一門
六代目神田伯龍門下。伯龍は神田派の留め名で、六代目も代々の神田派の系譜にあるが、その弟子かつ養子である八代目貞山が実父(「オバケの貞山」で有名な七代目貞山)の名跡を継いだため、神田派の本流にありながら一龍斎を名乗るという状態になっていた。伯龍門下で神田を名乗る者として神田昇龍が存在する。
**神田伯龍(6)**† | **一龍斎貞山(8)**† | 一龍斎貞鏡(7) |
---|---|---|
神田昇龍 |
神田派山陽一門
二代目神田山陽門下。二代目山陽は元々師匠を持たず独立して活動していたのちに神田派に迎え入れられ、山陽を襲名した経緯がある。現在、神田を名乗る講談師は前述の昇龍を除き、全員がこちらの一門である。なお、紅門下の真紅が2024年3月より松林伯知の名跡を三代目として襲名している。1991年の第二次講談協会分裂により講談協会を退会し、日本講談協会を旗揚げした一門。ただし、二代目山陽は分裂時に「残留者は止めない」と言及し、数名が講談協会に留まった[11]。その後も2名の講談協会への移籍者がいるが、そのうち、二代目山陽の生前に移籍した香織は六代目小金井芦州の預かりになっている[12]。日本講談協会は落語芸術協会と提携しており[注釈 7]、一部は両協会の重複所属となっている(茜のみ落語協会との重複所属)。また、ひまわりは二代目山陽死後、落語家の五代目柳亭痴楽門下に移籍しており、この時に日本講談協会を退会したため、落語芸術協会のみの会員となっている(その後、真打昇進時に亭号も「神田」から現亭号に改めている)。名前の後の記号は以下の通り。○:落語芸術協会と日本講談協会の重複所属、◎:落語芸術協会のみ所属、※:落語協会と日本講談協会の重複所属、☆:講談協会のみ所属、無印:日本講談協会のみ所属。
**神田山陽(2)**† | 神田松鯉(3)○ | **神田山陽(3)**○ |
---|---|---|
神田鯉風 | ||
神田山吹 | ||
**神田阿久鯉**○ | ||
**神田鯉栄**○ | ||
**神田伯山(6)**○ | 神田梅之丞○ | |
神田青之丞○ | ||
神田若之丞◯ | ||
神田松麻呂◯ | ||
神田鯉花○ | ||
神田松樹○ | ||
神田愛山(2) | ||
**神田翠月**☆† | ||
**神田山裕**† | ||
**神田陽子**○ | **神田京子**○ | |
神田桜子○ | ||
神田陽乃丸 | ||
**神田紫**○ | ||
**神田紅**○ | **神田陽司**† | |
**神田紅葉**† | ||
**神田蘭**○ | ||
**松林伯知(3)**○ | ||
神田紅佳○ | ||
神田紅純○ | ||
神田紅希○ | ||
**神田すみれ**☆ | **神田春陽**☆ | 神田ようかん☆ |
**神田あおい**☆ | ||
**神田山緑**☆ | 神田山兎☆ | |
神田董花☆ | ||
神田こなぎ☆ | ||
神田蓮陽☆ | ||
(**神田香織**☆)[注釈 8] | ||
**神田茜**※ | ||
神田昌味 | ||
(**日向ひまわり**◎)[注釈 9] |
小金井派
講談協会会長を務めた六代目芦州は弟子を取ることを好まず、あまり弟子を取らなかった。過去には清州、桜州が弟子として在籍していたが、清州は高峰東天として漫才に転向し、桜州は四代目宝井琴柳として四代目宝井琴鶴(のちの六代目宝井馬琴)門下へ移籍した。琴柳の移籍は芦州が当時の講談組合を退会したことによる都合であり、その後も芦州との関係は良好であった。二代目山陽の門下であった神田香織が日本講談協会より講談協会に移籍した際に、香織を預かり弟子とした。
名跡については、香織には小金井の亭号は名乗らせないとしており、琴柳を七代目芦州に指名していた(その際、六代目は二代目北梅を襲名するつもりだったという)。琴柳は2022年現在、芦州の名跡を襲名しておらず、小金井の亭号を名乗る講談師は2003年の芦州の死を最後に消滅している[12]。
**小金井芦州(6)**† | 神田香織 | 神田織音 |
---|---|---|
神田伊織 | ||
神田おりびあ |
上方・旭堂派
旭堂は元は江戸の系譜にあたるが、現在は上方講談唯一の一門となっている。ただし、前述の通り3協会に分かれている。上方講談協会が南左衛門一門、大阪講談協会が四代目南陵一門となっており、それ以外がなみはや講談協会となっており、全員が三代目旭堂南陵の系譜にあたる。3団体に分かれている上に、何名かがこれらから独立しフリーランスで活動している。また、四代目南陵門下で入門から間もなく師匠が没した南也(四代目の実子)と南喜は、没後に南鷹の門下に直り、上方講談協会に属さず「チーム南鷹」として活動している。 以下、所属団体を考慮せず系図を示す。名前の後の記号は以下の通り。K:上方講談協会所属、O:大阪講談協会所属、N:なみはや講談協会所属、無印:フリーランス。
旭堂南陵(3)K† | 旭堂南陵(4)O† | 旭堂小南陵(5) |
---|---|---|
玉田玉秀斎(4) | 玉田玉山 | |
旭堂南慶O | ||
旭堂みなみO | ||
旭堂南照O | ||
旭堂南春 | ||
旭堂南桜O | ||
旭堂南鈴O | ||
旭堂南遊O | ||
旭堂南明O | ||
旭堂南風O | ||
旭堂南璃O | ||
旭堂左南陵N[注釈 10] | 旭堂左燕 | |
旭堂南左衛門K | 旭堂南龍 | |
旭堂南舟K | ||
旭堂南斗K | ||
旭堂南鷹K | 旭堂南也[注釈 11] | |
旭堂南喜[注釈 11] | ||
旭堂南歌K | ||
旭堂南亰K | ||
旭堂南文字K | ||
旭堂南扇K | ||
旭堂南門K | ||
旭堂南山K | ||
旭堂南之助K | ||
旭堂南生K | ||
旭堂南月K | ||
旭堂南楽K | ||
旭堂南雲K | ||
旭堂南歩K | ||
旭堂南丸K | ||
旭堂南鱗N | 旭堂鱗林N | |
旭堂南北N | ||
旭堂南華N | ||
旭堂南海N | 旭堂一海N | |
旭堂南湖N |
師匠から独立しフリーとなった七井コム斎(元は四代目南陵門下)は系図からは割愛している。
過去に活動した著名な講談師
- 一龍斎貞丈
五代目一龍斎貞丈(1955年) - 一龍斎貞心
- 一龍斎貞水
- 一龍斎貞山
七代目一龍斎貞山(1955年) - 一龍斎貞花
- 一龍斎貞鏡
- 一龍斎文車
- 一立斎文車
- 錦城斎一山
- 錦城斎典山
- 錦城斎貞玉
- 早川貞水
- 山野一郎
- 国井紫香
- 神田伯山
五代目伯山(三代目桃川如燕であった1955年) - 神田伯龍
- 神田伯治
- 神田松鯉
- 神田愛山
- 神田昌味
- 神田山陽
- 神田山裕
- 神田陽司
- 神田翠月
- 神田白龍子
- 神田ろ山
- 神田寿山
- 馬場光陽
- 宝井馬琴
五代目宝井馬琴(1955年) - 東流斎馬琴
- 宝井琴星
- 宝井琴調
- 宝井琴柳
- 宝井琴凌
- 宝井琴窓
- 小金井芦州
- 小金井桜州
- 蓁々斎桃葉
- 松林伯圓
- 松林伯知
- 猫遊軒若圓
- 松林若圓
- 松林伯海
- 松林東慶
- 松林知山
- 松林圓玉
- 松林圓盛
- 悟道軒圓玉
- 森林黒猿
- 田辺一鶴
田辺一鶴 - 柴田南窓
- 柴田旭窓
- 柴田南玉
- 柴田馨
- 正流斎南窓
- 田辺南鶴
十二代目田辺南鶴(1955年) - 田辺南龍
- 田辺大龍
- 田辺南麟
- 田辺南麟
- 服部伸
服部伸(1955年) - 大島伯鶴
- 桃川燕雄
- 桃川若燕
- 桃川實
- 桃川如燕
- 桃川燕国
- 桃川桂玉
- 桃川三燕
- 桃川三玉
- 桃川一山
- 桃川燕林
- 坂本富岳
- 桃川燕竜
- 邑井貞吉
- 邑井一
- 邑井操
- 邑井吉瓶
- 馬場文耕
- 深井志道軒
- 森川馬谷
- 桃林亭東玉
- 石川一夢
- 豊島寿鶴斎
- 両面舎扇玉
- 伊東潮花
- 伊藤痴遊
初代伊藤痴遊 - 伊東凌潮
- 伊東燕凌
- 伊東燕尾
- 伊東燕晋
- 伊東燕國
- 放牛舎桃林
- 揚名舎桃李
- 揚名舎伯林
- 清草舎英昌
- 揚名舎桃玉
- 木偶坊伯鱗
- 菅良助
- 乾坤坊良斎
- 涛声舎千山
- 細川風谷
- 玉龍亭一山
- 水雲斎龍玉
- 松月堂魯山
- 松月堂呑玉
- 松月堂楳林
- 玉田玉芳斎
- 玉田玉麟
- 玉田永教
- 玉田玉枝斎
- 玉田玉照
- 玉田玉知
- 増保残口
脚注
[脚注の使い方]
注釈
- ^ 1913年6月下旬、東京の講談師が『講談倶楽部』の浪花節掲載に反対し、講談の寄稿を拒否、同誌9月号より文士による「新講談」を掲載した。『講談社の歩んだ五十年』
- ^ 各一門でも支持が分かれたケースもあり、二代目山陽一門の中では達山が解散賛成派に回ったため、山陽から破門されている。また、五代目一龍斎貞丈門下でも、六代目一龍斎貞丈は解散反対派(ただし立場は中立に近く、分裂後はどちらも属さずフリーとなった)、弟弟子の貞水と六代目貞丈の直弟子である貞正が解散賛成派に回るなど、一門内での分裂もみられた。
- ^ 落語芸術協会でも前座として修業し真打昇進披露を行っているのは、三代目山陽、京子、鯉栄、蘭、六代目伯山、三代目松林伯知の6名。2024年9月現在では松鯉門下の松樹、紅門下の紅佳、六代目伯山門下の梅之丞、青之丞、若之丞が芸協で前座修業を行っている。
- ^ なお「玉田玉秀斎」の名跡は2016年に旭堂南陽(大阪講談協会、後にフリーランス)が四代目として襲名し、約100年ぶりの名跡復活となった[9]。
- ^ 現在は一鶴一門を離れている。講談師としての活動は継続しており、講談協会にも所属している。
- ^ 現在は鶴女一門を離れている。講談師としての活動は継続しており、講談協会にも所属している。寄席演芸家名鑑に倣い、この位置に表記する。
- ^ 二代目山陽が落語芸術協会にも籍を置いていたことも提携の背景にあった。
- ^ 講談協会移籍時に六代目小金井芦州門下へ。
- ^ 山陽の死後、落語家の五代目柳亭痴楽門下に移籍。
- ^ なみはや講談協会会友。名古屋を活動拠点としている。
- ^ a b 大阪講談協会退会後に旭堂南鷹の預かりとなり「チーム南鷹」として活動。
出典
- ^ 岡本勝・雲英末雄『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、129頁。
- ^ “140.ポルノ講談とは何か”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年3月1日). 2023年9月2日閲覧。
- ^ “139.講談協会分裂と統一の真相”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年2月25日). 2023年9月2日閲覧。
- ^ “142.協会分裂新聞記事 :”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年3月5日). 2023年9月2日閲覧。
- ^ a b c “145.(余滴)講談協会分裂小史”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年3月16日). 2020年10月6日閲覧。
- ^ “講談師、女流が「主流」 全体の過半数に”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年5月22日). http://www.asahi.com/showbiz/stage/engei/TKY200805220130.html 2020年10月6日閲覧。
- ^ “講談界に24年ぶり男真打ち誕生”. 東スポWeb (2012年10月17日). 2017年1月31日閲覧。
- ^ 神田伯山 講談の人気を復活させたYouTubeとラジオ活用 - 日経クロストレンド 2020年9月11日
- ^ 「とにかく頑張りたい」上方講談、旭堂小南陵と玉田玉秀斎ダブル襲名 - 産経ニュース 2016年11月25日
- ^ a b 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典』 2巻、岩波書店、1984年1月、512-513頁。
- ^ “143.第二次講談協会分裂の真相”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年3月8日). 2020年10月6日閲覧。
- ^ a b “138. 弟子のはなし”. 小金井芦州啖呵を切る (2008年2月24日). 2023年9月2日閲覧。
参考文献
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年12月) |
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- 有竹修二『講談・伝統の話芸』
- 校注者:延広真治『講談人情咄集 新日本古典文学大系 明治編 7』岩波書店、2008年。ISBN 9784002402079
関連項目
外部リンク
- 講談協会
- 日本講談協会
- 上方講談協会
- なみはや講談協会
- 大阪講談協会 official site
- 神田陽子の楽屋 日本講談協会会長の公式サイト
- 上方講談協会:小南陵対弟弟子の民事訴訟 一審判決文
- 映画 講談・難波戦記 -真田幸村 紅蓮の猛将-
- 講談本の研究について : 付 講談登場人物索引,講談小題・異名索引 中込重明 (国立国会図書館, 2000-10-02) 参考書誌研究. (53)
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舞踊 | 日本舞踊(舞 踊り) 神楽 雅楽 仕舞 舞楽 白拍子 延年 曲舞 上方舞 大黒舞 / 恵比寿舞 纏舞 筑紫舞 翁舞 歌舞伎舞踊 剣舞 鹿踊 剣扇舞 剣詩舞 演武 幸若舞 風流踊 |
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語りもの | 唱導 平曲 盲僧琵琶 薩摩琵琶 筑前琵琶 早歌 太平記読み 説経節 祭文 節談説教 |
唄 | 雅楽 地歌 長唄 荻江節 うた沢 端唄 小唄 都々逸 詩吟 民謡 アイヌ音楽 琉球民謡 |
音曲 | 雅楽 能楽囃子 邦楽 浄瑠璃節 御座楽 祭囃子 寄席囃子 |
演劇 | 雅楽 猿楽 能楽 能 狂言 式三番 薪能 歌舞伎 浄瑠璃 人形浄瑠璃 組踊・端踊 伎楽 からくり人形 |
演芸 | 落語 萬歳 講談(講釈) 浪花節(浪曲) 俄 女道楽 放下 太神楽 影絵 かっぽれ 皿回し チンドン屋 紙芝居 |
座敷 | 芸妓 芸者 舞妓 幇間 |
工芸 | 彫金 漆器 / 螺鈿 / 象嵌 陶芸 織物 / 染織 / 組紐 曲げ物 / 指物 / 寄木細工 / 竹細工 和紙 / 墨 / 硯 / 筆 櫛 / 簪 / 根付 / 扇子 / うちわ 草履 / 雪駄 / 草鞋 / 下駄 籠 / 張り子 / 提灯 / 行灯 / 和蝋燭 / 灯籠 茶釜 / 火鉢 / 七輪 / 和包丁 / 仏具 風鈴 / ししおどし 日本人形 / 郷土玩具 和楽器 木版印刷 / 和装本 鎧 / 兜 / 日本刀 / 和弓 / 槍 / 十手 / 手裏剣 畳 / 襖 / 障子 / 欄間 駕籠 / 人力車 / 神輿 / 山車 |
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