1284-1286年の連続攻撃とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
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「モンゴルの樺太侵攻」の記事における「1284-1286年の連続攻撃」の解説
この後、元によるアイヌ攻撃は20年ほどのあいだ、見られなくなる。ただし1273年には塔匣剌(タカラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが、賽哥小海(間宮海峡)の結氷を待つとの理由で、結局実行には移されなかった。 しかし北九州への2度目の侵攻(弘安の役、1281年)の失敗後、1284年に聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、アイヌ攻撃が命令された。この計画はいったん見合わせとなったが、同年の冬に征東招討司による骨嵬征伐が20年ぶりに実行に移されている。 その翌年(1285年)にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・兀魯帯(ウロタイ)に命じて兵力1万人で骨嵬(アイヌ)を攻撃させた。 さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ、前年もほぼ同様の規模であったという。この遠征には兵站確保のため、屯田も設置されたが、翌1287年のナヤンの乱などの動揺もあり、長くは続かなかった。
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