【1987年】川久保玲とその右腕、そして山本耀司が語るコムデギャルソンの美学とビジネス。 (original) (raw)

目次:

バブル期の『ハイファッション』

今回ご紹介するのは『ハイファッション』1987年5月号です。

以前“ファッションアーカイブ”でご紹介した『MR(ミスターハイファッション)』はその名の通りハイファッションのメンズ版としてスタートしました。

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その後、『MR』は休刊し、『ハイファッション』にもメンズが掲載されるようになりますが、『ハイファッション』も「コムデギャルソン自由編集」と題した2010年4月号を最期に休刊となりました。

high fashion 2010年 04月号

で、この『ハイファッション』が発売された1987年は、バブル経済真っ只中。ファッションに対する熱量も高かった時代です。

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そういった世相を表すようにクリスチャン・ディオールや日本のアパレル企業イトキンの広告のような、主張が強い色が目立っています。

そしてこれまでの“ファッションアーカイブ”で何度もご紹介してきたように、DCブランドブームの後期でもありました。

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日本人デザイナーにフォーカスが当たっていた時代

僕がリアルタイムで購入し熱心に読んでいた2000年前後もそうでしたが、デザイナーズブランドを中心に扱う『ハイファッション』では、ファッションデザイナーのインタビューがよく掲載されていました。

ですが、この1987年5月号では、DCブランド人気ということもあって、日本人デザイナーにかなりフォーカスが当てられています。

左ページからは、マダムニコルの特集。

そして、ニコルのデザイナー松田光弘の“モロッコ・ロケーション日記”も掲載されています。

“マダム・ニコル’87春夏カタログの撮影場所をモロッコに選んだのは、僕の独断による。理由は、行ってみたかったから、そして服のイメージに合うと思ったから”と、「行ってみたい」先行で海外ロケが決められる、バブル期ならではの豪勢なエピソードが披露されています。

俳優の有島一郎のインタビュー。71歳。着用しているのはDCブランドのトキオ・クマガイですが、クールに着こなしてますね。

こちらもファッションデザイナー企画。“デザイナーと、美しいファン。”という、多分連載のページ。ミッチというブランドのデザイナー、渡辺雪三郎と女優のかたせ梨乃。

連載“MY FAVORITE CAR”。イギリスの自転車メーカー、RALEIGHを紹介しているのはDCブランドのひとつであるメルローズのデザイナーの伊藤浩史

現在はバッグデザイナーとして活動されているようです。

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“三宅一生と、スノードン卿と、ペルマネンテ。”というページ。

スノードン卿という人物について全く知らなかったので調べてみると、イギリスの写真家で、マーガレット王女と結婚して伯爵に叙せられた人物でした。

ja.wikipedia.org

ですが、かなりスキャンダラスな生活を送っていたようで、「世紀の不倫男」というレッテルを貼られていました。

www.elle.com

“スタイリッシュ・スポーツルック”と題されたファッションページ。ここでスタイリングに使われている服も、DCブランドのものがほとんど。

右ページは全身イッセイ・ミヤケ、左ページはジャケットがY's、シャツがコムデギャルソントリコ(後のトリココムデギャルソン)。

このページはヒロミチ・ナカノ、タケオキクチなど。

ニコルクラブフォーメン、トキオクマガイなど。

右ページ、トップスとパンツはコムデギャルソントリコ。左ページは“サイクリスト”と題されたファッションページ。

ガチの自転車用ウェアとDCブランドがミックスされて使われています。

原宿ファッションのパイオニア池田ノブオ

“デザイナートーク”というデザイナーインタビューページ。冒頭を引用します。

池田ノブオがレナウンと契約、新ブランドを発表するというニュースは、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたものだ。「あのK-FACTORYの?」「あのPERSON'Sの?」その前は、MILKBOY原宿ファッションのパイオニアと最大手企業の結びつきは、あまりにも意外だった。

「僕にとっても、数年前には考えられないこ とでした。10年間原宿にいましたが、無名のメーカーで苦労していたころ、明治通りの向うのレナウンは、はるかに仰ぎ見る別世界でしたから」多くのデザイナー がマンションの一室で全国区を夢見ていた時代、その後のシンデレラ物語・・・・・・彼は原宿のすべてを体験し、乗り越えた。”

ということで、インディーズブランドで活動していたデザイナーが、メジャーブランドに起用されたというお話のようです。

池田ノブオは現在、テレビ通販で知られるQVCのデザイナーとして活動している模様。

qvc.jp

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続いての“デザイナーズトーク”は奥田康博

ジュン展開していたDCブランド、HIS MISSのデザイナーとして登場していますが、この後のキャリアについては調べてみても情報が出てきませんでした。

山本耀司が語る“衿”

“山本耀司のファッション進化論”という連載。服作りに関するインタビューで、写真の撮影は山本耀司本人。

第10回目となる今回は“COLLAR 衿”

“男物を真剣にやるようになってから、テーラードカラーが、首を通す穴の始末としては、非常によくできた形だということがわかってきました”

“悔しいけれど、伝統的な美しさに太刀打ちできる技術を持つまでは、うかつに衿にさわるなよ、と。技術には関係なく、モンタナ、ミュグレルは、衿にさわる人。ゴルチエ、コムデギャルソンは、さわらない

そして山本耀司本人は

“テーラードカラーは精神安定剤。新しいシルエット、分量、まとい方の提案をしたとき、衿だけは古くさいのをつけておく。びっくりしないで、普通の服ですよ、という気休めに”

と、語っています。(強調引用者以下同)

ビューティーページ。

モデルは樋口可南子

こちらのページ、右はA.T、左はコムデギャルソンを着用。

続いてのビューティーページのモデルは桐島かれん

20世紀を代表する3人の女性ファッションデザイナー

さて、ここまで触れてきませんでしたが、僕がこの『ハイファッション』1987年5月号を手に入れたのは、表紙に大きく川久保玲の名前があったから。

こちらが川久保玲の特集ページ。ニューヨーク州立ファッション専門単科大学で開催された“THREE WOMAN”展のレポートです。

“THREE WOMAN”、20世紀を代表する3人の女性ファッションデザイナーとして選ばれたのが、マドレーヌ・ヴィオネクレア・マッカーデル、そして川久保玲

展覧会はヴィオネ、マッカーデル、川久保玲の作品がそれぞれの部屋に分かれて展示されています。

「バイアスカットの女王」マドレーヌ・ヴィオネ

誌面で最初に紹介されているのがマドレーヌ・ヴィオネ。1876年生、1975年没のフランス人です。

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ヴィオネは「バイアスカットの女王」と呼ばれています。

袖やディテール部分に使用されることが主だったバイアスカットを服全体に用いた彼女のデザインは、旧態依然としていた1910年代のファッションの世界を根底から塗り替えた。現代の基準ではミニマリストと位置付けられるだろうが、布地を斜めに裁断して仕立てられた彼女のデザインは計算し尽くされた、とても複雑なものである。

www.vogue.co.jp

バイアスカットで生まれるのが、優美なドレープです。

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アメリカン・デザイナーの祖クレア・マッカーデル

続いて、クレア・マッカーデル

1905年生、1958年没のアメリカ人です。

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『ハイファッション』誌面では、デザイナーとしてのマッカーデルはこう評されています。

'40~'50年代といえばアメリカにも相当数の デザイナーが出ていたが、その大多数がパリのトレンドを追うドレスメーカーだった中で、 マッカーデルは敢然と新しい女のイメージを追求するクリエーターだった。彼女の服は凡庸な女たちを喜ばせる単にきれいなお洋服」ではなかった。その代り、服に個性や活動を邪魔されたくはないが、いつでもスタイリッシュで知的に見えたい女たちには好まれた

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また、そのデザインだけでなく、ビジネスも時代を先んじていました。

当時はファッションといえばパリのオートクチュール(高級注文服)が主流で、アメリカはまだ発展途上の周辺国とみなされていた。マッカーデルは最初から量産できる既製服のデザインだけを手がけた。パリでもプレタポルテ(高級既製服)が主流になったのは1960年代末ころからなので、マッカーデルは30年くらい先んじていたことになる。

彼女は、上流の女性を対象としたパリのファッションとは違って、アメリカの普通の働く女性や主婦、学生向けの機械生産を前提とした服をデザインした。そして、使いやすく着心地がよく、しかも美しい服を目指していた。そうした考え方とできた服は、今でも通用するというより、むしろより一般的になっていると言ってよいだろう。

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シンプルで上品で、活動的。そんなマッカーデルのデザインは、後に続くアメリカ人デザイナーに大きな影響を与えています。

クレア・マッカーデルがいなければ、カルバン・クライン、ダナ・キャラン、マーク・ジェイコブスが存在することは想像できません

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こちらは、1990年代のダナ・キャラン

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同年代のカルバン・クライン。どちらも、クレア・マッカーデルの系譜にあるデザインと言えるでしょう。

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「ファッションの国」として今も世界に君臨するヴィオネのフランス

第一次世界大戦以降、一大消費地として存在感を高め、その後ファッションの発信地となったマッカーデルのアメリカ

そして1980年代以降「黒の衝撃」に代表されるデザイナー達の活躍が目覚ましく、1987年当時は「注目度急上昇中の新鋭」的な存在であったであろう日本

そんな日本の代表として選ばれたのが、川久保玲です。

川久保玲の苦悩「いつまでもぼろっぽいものを作っていると思われては困る」

展示に関しては以下のように記されていますが、当時の川久保玲が“「黒の衝撃」の衝撃”に苦悩していたことが伝わってきます。

50点の服はコム・デ・ギャルソンが初めてパリに進出した’81年のコレクション以来の 作品ばかり、それ以前のものは保存していないという。もっとも年の作品は薄手メルト ンの、割合にクラシックなジャケットが一点だけ。穴のあいたセーターで世界を驚嘆させた'82年からも、出品は“レース”と呼ばれる手編みの穴あきセーターと方々引きつれたようなバデッド・コットンジャージーのスカートだけ。この二体だけは群像から離れたところに立っており、展示の主体は86年から昨年までのコレクションから抜粋してある。

川久保玲は「いつまでもぼろっぽいものを 作っていると思われては困る」と言ったこと があったが、'81~'82年のコレクションを抜かしたのはそのためかと思われる。『コム・デ・ ギャルソンは穴のあいたぼろ』という先入観を持つ人がまだいるとしたら、この展示は認識改良のいいチャンス。”

川久保玲は'81年を契機に新しいコンセプトに基づいた美の追求に乗り出したという。既成のコンベンショナル(因襲的)な美のスタンダードを否定して、もっと強い、もっと個性のある何ものかを美と定義づけようとする大仕事だ。展覧会を年代順に見ると彼女が様々の形や手法を使ってその定義づけをあらゆる角度から試みていることがわかる。

僕も最近知ったのですが、「プアルック」は当時のヒット商品番付にもランクインしていたので、一般層まで知れ渡っていたと思われます。そこまでインパクトがある「衝撃」だっただけに、そのイメージ払拭にこの頃の川久保玲は苦慮していたのでしょう。

1983年の「ヒット商品番付」。
横綱は「VTR」と「東京ディズニーランド」。
殊勲賞に「川久保玲、山本耀司の両デザイナーが火付け役」の「プアルック」。
こういうのに挙げられてるってことは、当時はある程度一般的な話題になっていたんでしょうね。結構意外。 pic.twitter.com/noHeF1PkC7

— 山田耕史 (@yamada0221) 2024年6月6日

川久保玲が「変わった」理由

次ページはマドレーヌ・ヴィオネ、クレア・マッカーデル、川久保玲の3人の関連性について。

ヴィオネが感覚で物を作るアーティストなら、マッカーデルは頭でデザインする思考家だった

既成の美の標準を拒絶し、新しい女のイメージをつくろうとする点で川久保玲はクレア・マッカーデルと同じ使命を持っている

挑発的な服を作るために川久保玲はコンベンショナルなルールを無視したコンストラクション法を使うが、その点ではヴィオネと一脈通ずる

右ページはこの展覧会のオープニングパーティーの様子。左ページからは展示会のキュレーターによる対談。

この展覧会を企画することになったきっかけ。

リチャードとハロルドと私がある日、一緒にお昼ご飯を食べていた時のことでした。川久保玲の服は、 非常にオリジナルで、変わっていて、 ちょうどヴィオネみたいだ、と誰かが言ったのね。ヴィオネみたい?マッカーデルもあの時代のヴィオネといえる!二人には共通の考え方があります。川久保展をしたいと思っていたやさきでしたから、この三人の女性を一つの展覧会で発表できたら、とても意味があると思い立ったのです。

1980年代に入ってから、川久保玲が「変わった」理由。

コダ:一つ質問があります。**川久保に'80年代 に入ってから決定的な変り目があった と思いますか? '**70年代の彼女の作品 はどれも美しいけれど、今のアイデンティティは見られない。私たち三人が関心を持ったのは'80年代の川久保です。 '80年代には、それが何かはわからないけれど、決定的な飛躍、変化があった。伝統的なものに興味を失って、他のものを追究するような

小池:川久保は早くからコンセプトをデザインに持ち込んだ人だと見ています。山本耀司の話を読んだ記憶ですが、彼らがパリでショーをやると決めた時に彼らのアイデンティティを打ち出そうと決めたんだと思うんです。

コダ:たしか'81年ですね、川久保がテクスタイルの質についてのセンスを示したの は。アシメトリーで少しコミカルで、 気まぐれでウィットがあって、さり気なくひねってある。今でも忘れられないスモックドレスがあった。

小池:その、パリで打ち出すアイデンティティは、色で強い印象を与えようと決めたのでしょう。つまり黒をつかうことに。その結果、服の構築が非常に大切になってきたと思うのです。あの時、 彼女は変わったのだと思います。

川久保玲が語る服作りの方法

そして、次のページには“川久保玲からの、発信”として、川久保玲本人と、その周辺にいる人物についてのインタビューが掲載されています。

川久保玲のインタビュー。

今回の"Three Women”展、昨年ポンピドゥー・センターで行なわれた「コム・デ・ギャルソン写真展」は、ニューヨーク が、パリが、キャッチした波紋をさらに増幅させたものだ。発信源は、東洋の、日本の、東京の、川久保玲。彼女のメッセージは、どん なふうにスタッフに伝えられ、服の形になり、外部への衝撃となるのだろうか。

青山のオフィス。窓が一つもないモノトーンの部屋。家具類は極力、情緒性を拒否した

明確な形。ひとりで考えることが多いという彼女の思考の邪魔をすることはなさそうだ。

「意識して他のものからイメージを受けたことはありません。自分の中で思っているだけ。 目の前の仕事をこなしながら、いつも服のことを考えて・・・・・・。レーヨンが多かったからアセテートにしようか、とか、化学繊維よりナチュラルにいきたい気分、とか、その程度の感じで進みます」彼女が考えるというのは、直感を理論化し、イメージを具体化する、深く、複雑な作業のようだ。「同じことはしたくない、違う攻め方をしたいというのが大前提。ただしアーティスティックな方向、アバンギャルドの分野に興味はありません。見せかけのアートっぽさに入り込まないで、なおかつ見る人、着る人に驚きを与えられたら・・・・・・。基本的なことを見直して、自然にあたりまえの方法でどうやったらできるのか・・・・・・」「思っている過程は自分の中のことだから、しゃべりたくない」

考え抜いて結論が出たら、あとは迷わない。 素材の指示を出し、布地の方向が決まった時点で簡単な絵型をパターンナーに渡す。すごく細くいきたい、あるいは抽象的にいきたい といった簡単な説明をつけて。「絵型や言葉で表現できるのは、作りたい服のごく一部。視覚、皮膚感覚、触感のすべてが必要なのです。 偶然できた、もやもやしたおもしろい形とか服をどんなふうにまといたいかの、ちょっとした感じが、パターンナーがいじっていく途中で形になっていきます。テクニックを見つけるまで待って・・・・・・。そのシーズンにこれと思うパターンは四つ五つ。それができるまでが苦しいけれど・・・・・・。できることだけやって、それ以上のことはしませんから」フィナーレのときステージに出られない。「よくできたと思えるときはないですね。それなのにやりましたというのは恥ずかしい。自信があれば出ていけるかなと思う」

経営者としての川久保さんは、かなり冷静だ。「一拍早くても、遅くても営業的には困るのね。衝動買いさせる何かがなければ・・・・・・」

「いい服作れば売上げもいいし、社員も元気に働ける。すべて解決する。先のことより、 今、いい服を作ること。それを繰り返しきちっとやること」

趣味といえるほどのものもなく、寝るとき以外はほとんど仕事。「すごくシンプル。ス トレスなんか全然ない」やりたくないことを削って、好きなことだけに絞ったら、すべて 仕事になったのだから。生きていくリズムが仕事のリズムだという。そして彼女の生きていくリズムが、コム・デ・ギャルソンの服に刻み込まれている。心臓のビートのように、 静かに、力強く。

待望の’87~88秋冬コレクションのテーマは "A TOUCH OF MASCULIN”。内面的には独 立した強さを持ちながら、表面的には女らしい女性。その女性がちょっとマニッシュな服 を着たら・・・・・・“ギャルソンのように”なるのだろうか。微妙な雰囲気を表現したいという 川久保さんの最新メッセージが楽しみだ。

先日“ファッションアーカイブ”でご紹介した2002年放送のNHKスペシャルでも服作りの方法が本人の口から語られていましたが、1987年の頃とほとんど変わっていないようです。

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右腕が語る川久保玲の働き方

川久保玲に続き、NHKスペシャルにも登場していた田中蕾のインタビュー。

コム・デ・ギャルソン企画生産部門の総責任者。「川久保の手足です」と田中さんは言 う。川久保さんの指示は、パターン以外すべて田中さんを通して他のスタッフに伝わり、 スタッフからの相談も彼女が受ける。橋渡し役だ。12年くらい前、川久保さんの服が好きで、共通の友人に紹介してもらい、本人に会ったらますます好きになって、入社した。 「当時、営業も生産もひっくるめて社員は7、8名。川久保が生地の注文書を切るほど忙しかったので、ものを作るほうに時間をさいてほしいから、徐々に仕事を肩代りしていきました」そして今は、コレクションの作品から展示会のサンプルまで一手に生産管理を引き受けている。そんな田中さんでも、コレクションが近づき、ひとり考え、悩んでいる川久保さんに立ち入ることはできない。「悶々としているときは、雑音を入れないようにするだけ。先に延ばせるものは延ばし、こちらで 処理できるものは処理して。で、決まったら、 まず、こんなものを使いたいという生地の一覧表が来ます。名称が入った、かなり具体的なもの。それが素材作りの基になりますが、抽象的にも具体的にも迷いがないから、生地もサンプルもボツ分はほとんどありません」

ニットも小物も、すべて川久保さんから発信される。常に窓口は一つ。スタッフが仕事をしやすいだけでなく、デザイナーのポリシーが末端まで行き届くシステムだ。営業との対立もない。「川久保がいいと思う服がいい服。何を売ってほしいという介入はありませんが、 今回のテーマは何か、全員がコレクションにかかわってわかっています。展示会であまり注文がつかなくても、多めに作ったり」

十数年の間で、田中さんが今を予感したのは6年ほど前、外国のバイヤーが何人か来た 時だ。熱心な見方や質問のしかたに、日本だけではおさまらないかもしれないと思った。 そしてパリ・コレクションの成功。けれど「ショーが終わったとたん、川久保は次のことを考えます。これでまた彼女の負担が増えると思うと、手放しでは喜べませんでした」仕事に対していちばん厳しく、まじめで、真剣な川久保さんにこたえたいという田中さんの気持ちは、そのままスタッフの気持ちでもあるようだ。

コムデギャルソンプレスの武田千賀子インタビュー。

プレス担当。設立の時から、川久保さんを支えてコム・デ・ギャルソンを築いてきた人 だ。武田さんが長年一緒に仕事をして感じるのは「勇気があるんだなあ」ということ。「小さい時に読んだ正義の物語を、そのまま大事にしているみたい。仕事を続けるため、自分が自由であるために、こうしなければいけないと思うことを押し通す勇気。自分の気持ちをごまかさない勇気、精神力がすごい」悪気がなくて見落としたこと、ごく些細なことでも、筋が通らなければ、すぐ川久保さんのアンテナにひっかかる。「ほんとうに不思議。でも川久保の考え方が好きな人間には、とても気持ちがいい。はっきりしているから気を回す必要がなくて、居心地がいいんです」

"Three Women"展には、ディスプレーからオープニングレセプションまで立ち合った。大デザイナーをさしおいて注目を浴びたくないと欠席した川久保さんの代りに。 「見劣りするんじゃないかと心配していたのですが、並べてみたら迫力があった。自由な気持ちで着たいと訴える力の強さ、底力を感じました。50体まとめて見ると、その年ごとに表現は変わっても、常にスタイルは一貫していることがわかります。そして5年前の服が少しも古さを感じさせないことも。この 企画を聞いたときは、川久保も恥ずかしいというし、私も、彼女はこれからの人なのにイメージが固定されそうで気が進まなかったのですが、今は参加してよかったと思っています」残念だったのは、服がマネキンに似合わなかったこと。「プロポーションはどうでも、 川久保の服は生きている人が着たとき、いちばん美しいんですね」

「 川久保の服は生きている人が着たとき、いちばん美しい」という言葉は、なんだかとっても素敵ですね。

「川久保玲は神様です」(山本耀司)

そして最後はなんと、山本耀司による川久保玲評。

川久保玲と時代を二分するデザイナー。同じ分野を切り開いた同志でもあり、ライバル でもある。二人の違いを彼は、ウィットたっぷりにこう指摘する。「川久保玲は神様です。 僕はピエロです」なぜ神様なのか。「自分の視点、好き嫌いが、すごくしっかりあるみたい。一瞬一瞬それしかない。今日はこれ、明日はこれ、思い入れのストレートさが、にくたらしいほど単純明快。人はそれについていかざるをえない。そういう意味で、神様。悪くいえばわがまま、よくいえばイノセント。でも偉いといわれる人は、みんな唯我独尊です」 なぜ彼はピエロなのか。「相手になるのがばかばかしい場面でも、スポークスマンみたい に、なぜこうなのか、を説明してる。どんな場面でもむきになってしまうところは、ピエ口にそっくり」

女性が自分の存在をすべての出発点にして 新しさを考えるのに対して、男性は理想像を 探す。その差、半日分、川久保さんが早いという。そして「デザイナーとしていちばん大事なポイント。人が60ワットの電球の明るさで見ているのに、レーザー光線くらいの光を出す。刺すようにものを見る。彼女の直感力は持って生まれたものでも、ものを見る鋭さ、早さは、デザイナーという創造行為と経営者というビジネス行為の両方で研ぎ澄まされてきたものだと思う」

インタビューに続き、“原由美子によるコム・デ・ギャルソンの。夏の日の服”。

“スタイリストの原由美子さんは、コムデギャルソンのカタログを長い年月作ってきた。川久保玲の作品を最も近い場所から見続けてきた人の一人といえる”とのこと。

調べてみると、祖父は平民から初めて総理大臣になった、「平民宰相」原敬。

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当然、全てコムデギャルソンのアイテム。男性モデルが着用しているのは、コムデギャルソンオムプリュス。

シンプルで格好良い。80年代のコムデギャルソン、惹かれます。