1978年のパリを彩ったカルチャーと、パリが「芸術とモードの都」となるまでの政治と産業の歴史。 (original) (raw)

目次:

70sデサントアディダス広告

今回ご紹介するのは『POPEYE』1978年12月10日号です。

“パリを女のコに占領させておく手はない!”と銘打った、パリ特集です。

ちなみに、この頃の日本は竹の子族が流行っていた時代でした。

今年はオリンピックが開催されるということで注目度が高まっているパリ。

僕的には2003年〜2005年の2年半留学していた、思い出の街でもあります。

内容を見ていきましょう。

右ページはアディダスの広告。デサントがライセンス生産していた、いわゆるデサントアディダスです。

こちらの記事でも詳しくご紹介していますが、1970年代から80年代にかけて日本ではスキーが大ブームになっていたので、アディダスでもスキーウェアに力を入れていたのでしょう。

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ナショナル広告。“カーコンポがルーフについた”そうです。操作がしづらそう笑。

日本の未来の輸出品はアニメ?

“pop eye”というミニニュースのページ。

“pop eye”のパリ版。

一番右のニュースは日本アニメ「グレンダイザー」がフランスで人気という話。

で、このニュースの最後が“ひょっとすると未来の日本の輸出品は、音響機器でもTVでもなく、実はアニメ・キャラクターと、その関連商品てなことになっちまうかもしれない”と、非常に的確に未来を予言してしまっています。

左ページ端の広告のラジカセはなんと79,800円。

クールなパリのスケーター

右ページはフォークシンガー、高石ともやによるボブソンの広告。

そして、左ページからはパリ特集。

現地のスケーターでしょうか。めっちゃクールですね。いかにもフランスなトリコロールカラー、バスクボーダー柄のシャツ。左の青年はアディダスのスニーカーを穿いています。

まずはじめにディスコの紹介。

やはりフランスなのか、意図的にそういう写真をピックアップしたのかはわかりませんが、トリコロールカラーが目立ちます。

シャツ、パンツ、そしてキャンバススニーカーまで全部真っ白の男性。

超音速旅客機、コンコルド。調べてみると、この号が出る2年前の、1976年に運用が開始され、2003年に営業飛行を終了したようです。

パリのオートバイ少年

“モタール”という、パリのオートバイ少年たち。モタールはmotorのフランス語読みでしょうか。

レザージャケットにジーンズという装いが中心のよう。

750cc以上のオートバイを禁止する法案に反対するデモを行っていたようです。

フランスのワークウェアをファッション視点で楽しむ

パリの仕事着はスーパーモードだ”というファッションページ。ワークウェアを中心としたフランスならではの服をファッションの視点で楽しむという企画です。

まずは、“酒場やカフェの男たちの仕事着”

次は“海の男たちの荒くれ仕事に耐えてきたメルトン上着”と、“自転車乗りのマイヨー”と表記されているサイクリングシャツ。マイヨーはmaillotのことで、ランニングウェアなどのタイトフィットの服を表すフランス語です。

“自転車乗りのマイヨーは昔はウールで作られた。最近はもっぱらアクリル糸で作られる”

ちなみにこの企画は全てパリのメトロの名物である巨大広告風になっています。写真が小さくてよく見えませんが、右の彼は“肉屋さんとか食品屋さんの着るうわっぱり”だそうです。

1978年のパリカルチャー

右ページ、ニコンのカメラFE広告。左モノクロページはパリ特集続き。

“パリで一番、粋な男”として紹介されているのは、パリでレビュー(ショー)を手掛けていたジャン・マリー・リヴィエールという人物。

パリの名所、パサージュ。建物の中にある商店街です。

エッフェル塔の歴史。

“モンマルトルからベルヴィルまで”の“アラブ人街”。

僕が留学していた頃は、アラブ人街というより黒人街という印象が強かったです。

ポップなピンクのギンガムチェック柄が目印の量販店、タティ。日本で言うところのドンキみたいな感じのお店です。

僕も日用生活品などを買いによく訪れていました。

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SF的な書籍『HABITER LA MER』。

パリの玄関口、シャルル・ド・ゴール空港。

“フランスでは、1週間に1局以上の新しい海賊放送局が生まれている!”

人気ラジオ番組と、レコード。

フランス式ボクシングとウィンドサーフィン。

スポーツセンター。

フランスのウィンドサーファーファッション

カラーページでもウィンドサーフィンについて。

やはりフレンチウィンドサーファーの服装が気になります。カレッジスウェットにコーデュロイ?のパンツ、シューズはレザースニーカーでしょうか。

場所は内陸部にあるパリではなく、パリ市内から車で30分のところにある、サンクァンタンという湖。ここは“パリ近郊のウィンドっサーファーのメッカ”だそうです。

ちょっとスノッブなサンジェルマンでショップ巡り

パリに戻り、サンジェルマン。“ちょっとスノッブで、それでいて若々しいニュアンスを持った、プレタポルテらしいファッションを探すなら、この界隈がモードの標準と言えるだろう”とのこと。

“マルシェ・サンジェルマン界隈は、モード人間を有頂天にさせてくれる”

マーガレット・ハウエル、そしてなんと“日本のメンズブティックとしては、はじめてパリに進出した<メンズ・ビギ>のブティック<タケオ・キクチ>”

以前の“ファッションアーカイブ”でもご紹介しましたが、メンズビギのデザイナーだった菊池武夫がアパレル大手ワールドに移籍してタケオキクチをスタートさせたのが1984年。なので、1978年当時は菊池武夫はメンズビギのデザイナーでした。僕の予想ですが、フランスではメンズビギの屋号が使えかなったので、タケオキクチという店名にしたのではないでしょうか。

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イヴ・サンローラン・リヴゴーシュ・オムのショップ。あまりいい風に書かれていません笑。

エミスフェールは“最も今風な商品を選んで売っている”

グランダルメ大通りのスポーツ&乗り物ショップ。ヤマハやスズキのバイクショップもピックアップされています。

現在も東京青山に店を構えるセレクトショップ、エミスフェールは“最近オープンいたファッションの店”で“最も今風な商品を選んで売っている。ファッション人間が注目している店”とのこと。

パリの名物、カフェ。オムレツやクロック・マダム(オープンサンド)など。

“かつて<中央市場>だった“レアル街”に注目しよう”

僕が留学していた頃はスニーカーショップが立ち並んでいたレアル。この頃は前衛的な若者が集まるクールな街だったようです

タバコ。

閑話休題で、パイオニアのカーステレオの広告。かなりクール。

国立サーカス学校。

セーヌ川に浮かぶプール船。

こちらもかなりクールなヤマハのエレクトーンの広告。

70sパリのスケーターファッション

“パリのスケボー小僧たちは色彩の魔術師だ”。この頃は“フランスのスケボー人気が沸騰寸前”だったそう。

“ウェアの色彩感覚は、サスガにパリっ子だ”とありますが、確かにスケボーの本場、アメリカ西海岸のスケーターとは雰囲気は違いますね。

これは“スケート&ミュージック”というイベントのレポート。ゼッケンにデカデカとトレフォイルロゴが入っているので、アディダスがスポンサードしていたのでしょう。

“POPEYE探検隊が発見した、気になるGOODS”。

“とてもチャーミングなパリの仕事車たち”。

パリのランドマークのひとつ、ポンピドー・センター。

エドウィン広告。“キーリングはシティ感覚そのもの華麗な男の小道具”。当時流行っていたのでしょうか。

右ページはパリのお部屋探訪。

左ページ“HOTEYE”というページはコーヒーのAGFの企画広告。

凝った内容。

百貨店サマリテーヌで70sフレンチワークウェア祭り

左ページ、パリ特集続きは百貨店のサマリテーヌ。僕が留学していた頃は、パリの中心地であるオペラ界隈に店を構えるギャラリー・ラファイエットやプランタンといったモードな雰囲気もする最先端の百貨店に比べ、ちょっと垢抜けないイメージを持っていました。

最近大改装して、かなり雰囲気が変わったようです。

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が、この頃は百貨店というよりもホームセンターという雰囲気。のこぎりやヤスリなど、大工道具のオンパレード。

そして、特に注目したいのがこのページ。“宝石屋、床屋、八百屋、肉屋、バーテン、メカニシャンたちの機能美にあふれた仕事着がゴッチャリ!!”と、当時のフランスのワークウェアがこれでもかというくらい並んでいます。

モノクロページなのが、非常に残念。

あと、それぞれのアイテムのメーカー名もわからないんですよね。“雨合羽”や“お百姓さんの上着”など、用途が記載されているのみ。

とはいえ、“彫刻家用の上着”“炭焼き人の仕事着”など、他ではなかなか見られないレアな服が勢揃い。

当時のサマリテーヌに行ってみたかったですねぇ。

フランスの漫画、バンド・デシネ。

“フランス最高の女流マンガ家クレール・ブルテッシェ”。

ハラキリという前衛的な雑誌の編集長インタビュー。

SFコミック編集部訪問。

これまで登場した街の地図とスナップ。

これも是非カラーで見たかった。

zeroという、日本航空のパリ旅行のツアー広告。

シチズン広告。“日本で始めてデジタルとアナログ(針)をひとつの時計にドッキリしてしまったのだ”ということで、シチズンが日本のデジタル時計の元祖だそうです。“ついに僕らは時計に追いこされてしまった”のキャッチコピーはどういう意味かよくわかりませんが…

1978年のディスコヒットチャート

音楽ページ。

ディスコのヒットチャート。

新宿地区10位にサザン・オールスターズの「勝手にシンドバッド」がランクイン。

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六本木で1位、新宿で2位のダン・ハートマンの「インスタント・リプレイ」。

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新宿1位、六本木7位のドラム「ララバイ」。

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新宿5位、六本木6位のビレッジピープル「YMCA」。

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これぞディスコ!な曲が勢揃いしています。

パリが「芸術とモードの都」になった理由

さて、1978年の『POPEYE』から当時のパリのカルチャーをご紹介しましたが、やはりパリと言えば芸術とモードの都というイメージを持っている人は多いと思います。

ですが、なぜパリは「芸術とモードの都」なのでしょうか?

その理由を書籍「はじめて学ぶフランスの歴史と文化」からピックアップしてご紹介します。(強調引用者以下同)

パリは「芸術とモードの都」以外に「花の都」と呼ばれることもあります。ですが、これには明確な理由はないようです。

「花の都」は、フランスの首都パリを形容する表現である。パリ以外でも、「霧の都ロンドン」「音楽の都ウィーン」「水の都ヴェネツィア」と称されることもあり、それぞれの都市の特徴を表している。だが、「花の都」はパリにつけられる美称であり、何か特定の意味を指し示すわけではなく、パリには物や人が集まり華やかで栄えているという程度の意味である。

さて、パリが「芸術とモードの都」になった話は、ベル・エポックから始まります。ベル・エポックは19世紀末から第一次世界大戦が勃発する1914年まで、パリが繁栄した華やかな時代でした。

「ベル・エポック」とは、人びとが幸せであった良き時代という意味であり、第一次世界大戦の災厄と大戦後 の激変を経験した人びとが、それ以前の19世紀末から大戦までの時期を懐かしがってつけた呼称である。べル・エポックのパリは自由を享受し、芸術の都として確かに燦然と輝いていた

まずは、パリが「芸術の都」になった理由を探ります。

そのキーワードとなったのは「自由」です。

自由化の流れは第二帝政1860年代から始まっていた。帝政末の1868年5月11日の法律によって出版統制が緩和されるが、それに先立って美術の分野で自由が拡大していた。

フランスで共和派が政権に就いたことで、様々な分野での自由が拡大され、さらに今に続く「これぞフランス」な文化が次々と生まれていきました。

1876年、77年の総選挙で共和派が連続して勝利し、79年には上院でも共和派が多数派になるに及んで、マクマオンが大統領を辞職し、後任には共和派の政治家がついた。共和派は名望家と教会の支配を嫌う農民からも支持を取りつけ、農村部にようやく共和主義が根づくことになる。政権についたのは、共和派の穏健派であった。穏健共和派は、1881年に集会と出版の事前許可制を廃止するなど、一連の重要な改革を行っている。 共和派政権の下でフランス革命の顕彰が進められた。「ラ・マルセイエーズ」が国歌となり、7月14日が国民祭の日となり、「マリアンヌ像」が国家の象徴として議場に現れた。

「ラ・マルセイエーズ」はこんな曲。

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「マリアンヌ像」のベースとなったのは、ドラクロワの有名な絵画、『民衆を導く自由の女神』で描かれている自由の女神です。

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そしてパリの象徴であるエッフェル塔も、この頃建設されました。

さらにフランス革命100周年の1889年に開催されたパリ万国博覧会に合わせて、エッフェル塔が建設されている。

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「自由」を求めてパリに集まった芸術家たち

また、教育改革により識字率が向上すると、出版産業にも活気が生まれます。

この時期の改革でとくに重要なのは初等教育改革であり、その中核は、公教育大臣フェリー が推し進めた義務・無償・世俗(ライシテ)を柱とする二つの法律である。一番の課題は世俗化、すなわち、公立小学校からカトリック教会の影響力を排除することにあった。この改革は、幾分ユートピア的であるが、教育を通じて共和国市民を育てよ うという共和派の強い意志がよく表れていた。初等教育に相当な財源が投じられ、教師養成のために初等師範学校が増設され、教育技術も向上した。全国津々浦々の市町村に役場が建設されたが、同時にその隣に小学校の校舎も建てられた。実際に、19世紀末にはほぼ全ての地域で、人びとはフランス語の読み書きができるようになった

フランスでは出版の自由が1880年代に確立した。ただし、社会問題を取り上げ、偽善的な性道徳や女性の隷属を暴いた自然主義の小説、とくに戯曲への訴追は、風俗壊乱の名のもとに90年頃までまだ続いていた。

出版を皮切りに、フランスでは表現の自由が拡大します。それは当然、芸術の分野でも同様で、その自由を求めてヨーロッパから優秀な芸術家がフランスに集まりました

限界はあったものの、フランスは伝統的な道徳観や宗教的権威などへの風刺や批判に対しても、世界でもっとも寛容な国になった。こうして、まだ芸術表現にはるかに大きな障害が立ちはだかっていた国々から多くの芸術家を引き寄せ、パリは芸術の都となった。たとえばオランダからヴァン・ゴッホが、スペインからピカソが来ている

パリは芸術家養成にとって最適の場であった。多くの美術館と記念物があり、ルーヴル美術館の収蔵品は豊かになり、第二帝政期に装飾美術館、第三共和政期に入ってからギメ美術館が開館した。国立美術学校のほかに、 パリにはロダンやブールデルが教えたグランド・ショミエール芸術学校などの私立の機関があった。

パリで優れたアートが生み出されるようになると、そこにマーケットが生まれます。

パリはヨーロッパの芸術市場の中心となった。市場は大西洋を越えてアメリカにも広がり、バルビゾン派や印象派の絵画に人気が集まった。さらに、パリの芸術市場はアジア進出や日本との交流によって世界的規模になった。都市としてのパリは芸術と芸術作品のショー・ウィンドウとしてだけでなく、詩想をかきたて、ゾラの作品に始まる小説の舞台となり、絵画や図像の題材となった。パリで1855年、67年、78年、89年、1900年と何度も開催される万国博覧会は何百万人もの入場者を引き寄せ、大量のポスター、絵葉書、ガイドブック、アルバムの出版をもたらした。

「モード」の起点ヴェルサイユ宮殿

お次は「モードの都」パリについて。

「モード」の起源は、「太陽王」と呼ばれ、ヴェルサイユ宮殿を造営するなどフランスの絶対王政の象徴と言えるルイ14世まで遡ります。

そして、パリが「モードの都」となった理由には、政治と経済が大きく関わっていました。

「モード」の国フランス、「モード」都市パリといったイメージは、フランスのアパレル輸出高が中国やバングラデ シュやベトナムなどのアジア新興国を遙かに下回るように なった現在でも根強いだろう。しかし、そもそも、「モード」とは何なのだろうか。 「方法、様式」を意味するラテン語モドゥスを語源とするフランス語「モード」は、17世紀に「宮廷で受け入れられる慣例に従った装い方」を表す語になった。すなわちドレス・コードだが、この語義が掲載されたフュルチエール編纂の辞書の出版は1690年、ルイ14世の治世下である。この「モード」が守られるべき宮廷をヴェルサイユに築いたルイ14世の絶対王政は、財務総監コルベールによる重商主義に支えられた。輸出増・輸入減による富の蓄積が目指され、他国からの需要がある商品の生産が求められる。工業化前のこの時代、増産には限度があるから、単価の高い商品でないと大きな利益は出ない。そこでコルベールは奢侈品産業育成を企てる。当時 需要が増していた絹 とレースもそれに含まれた。絹織物は16世紀からリヨンで生産が始まっており、国内で先んじていたトゥール没落後はフランス絹織物業の中心地となっていた。コルベール の介入もあり、リヨンは質量共に独走していたフィレンツエなど北イタリア諸都市に追いつく。一方、レースは16世紀にレヴァント貿易で栄えたヴェネツィアで発明された。 17世紀にもレース輸入超過は続いていたため、コルベールは1665年に北フランス諸都市に王立マニュファクチュアを設立して製造独占権を与え、秘密裏にヴェネツィア の製造工に技術指導を依頼し、そこで作られたレースを 「ポワン・ドゥ・フランス」、フランス・ニードル・レースと呼ぶと布告した。製造本格化前からフランス産品としてのブランド化を図ったのである。1675年に独占権は解除され、養成されたレース工らは王国内に技術を広める。

こうした国家保護下での産業育成を背景に成立したヴェルサイユの「モード」は、絶対王政と重商主義を標榜する王国の新しい基幹製造業から生まれる絹とレースを素材とするものと定められた。それは宮廷外エリート層や各国の宮廷にも広まり、イタリア製の重厚で豪奢な絹ヴェルヴェットと紋様が浮き彫りにされたレースに代わり、フランス製の軽やかに艶めく絹サテンと繊細で透明感あるレースが成功を収める。

女性の社会進出で変わる「モード」の意味

ですが、時代の変化と共に「モード」の意味合いも変わっていきます。

18世紀に入ると、「モード」という語には新しい意味が生じた。アカデミー・フランセーズの辞書第五版(1798年)には「嗜好や恣意の移ろい」という語義が掲載さ れている。18世紀中に、「モード」はドレス・コードから流行に転じたのである。では、この流行としての「モード」はどこからどのように起こったのだろうか。

香辛料を求めて始められたアジア貿易は、17世紀に各国東インド会社設立で本格化した。香辛料の対価は、インド洋世界では通貨に近い価値を持っていたインド産色柄染 め綿織物、インド更紗である。

インド更紗についてはこちらの記事で詳しく解説されています。

kajiantiques.com

ヨーロッパ人にとっての更紗の最大の長所は、色柄地としては安価かつ洗濯可能な点である。従来、ヨーロッパでの布地に色柄を付す主な方法は地紋か刺繍で、 色柄入り布地は高価だったし、染色堅牢度が低いため洗濯できなかったが、インドでは手描き染めに加えて木版捺染も行われており、しかも堅牢染色だった。このインドの染色技術が移転される。更紗批判には、身分や富のある人びとにしか許されなかった色柄を捺染で安価に模倣でき、階級を混乱させるという理由もあった。つまり更紗は、インド産にしてもヨーロッパ産にしても、基本的には、地紋や刺繍入りの高価な絹織物を着られる層を主な市場とする商品ではなかった。

時代が進むにつれ、社会は変容していきます。女性の社会進出が「モード」を大きく変えました。

18世紀ヨーロッパ諸都市への人口流入は大きかったが、地方から上京した女性たちはしばしば、事実婚状態でも制度的には未婚にとどまることで、結婚すれば夫に委ねねばならない契約などの権利を保持した。都市に暮らす女性たちが、雇用契約などを結んで自活するようになったのであ る。女性の定番の職業はお針子や料理女で高給とはいい難いが、自らの稼ぎがあるなら、少々生活を切り詰めてでも色柄入り布地で装いたくもなるだろう。しかも更紗なら洗えるから日頃から身に着けても安心である。当時、更紗以外にも、茶、砂糖、コーヒーなどのアジアや新大陸から輸入された新奇な商品が人気を博したが、「産業革命」と呼ばれる工業化より早い段階での生活雑貨・嗜好品消費増大に着目し、生産に先んじた消費の変化を「消費革命」と呼ぶ議論がある。この時期に消費が拡大した商品は、非生活必需品という意味では贅沢だが、きわめて高価というわけでもない半奢侈品だった。こうして都市で働く女性の増加によりマス化が進む半奢侈消費が、「モード」=流行となる。 こうした都市での消費習慣の変化に、パリを服飾品供給元としていたヴェルサイユも影響を受けないはずがない。

産業の発達も、「モード」に大きな影響を与えました。

リヨンは19世紀末までヨーロッパ最大の絹織物生産地の地位を保つものの、18世紀後半にイギリス綿織物業の工業化により細く強い綿糸が製造可能になり、透けるほど薄 い綿モスリンが作られるようになると、ルイ16世妃マリー=アントワネットまでモスリンのドレスをまとって物議を醸した。ポワン・ドゥ・フランスの栄華も続かない。て のひら大で数百~数千時間を要するニードル・レースに対 し、ボビン・レースならより速く、安く作れる。フランス でも18世紀に入るとボビンで作るブロンド・レースが台頭し、ニードル・レースの需要は激減する。さらに革命期に入ると綿モスリン製の簡素な型のドレスがパリで爆発的「モード」となって絹織物需要は衰え、レース装飾も見捨てられた。

また、交通や商業の変化も、「モード」を変えてきます。18世紀には、新たに「モード商」という職業が生まれました。

数学者ブレーズ・パスカル考案の乗合馬車が17世紀後半に廃止されてから公共交通不在が続いていた当時のパリでは、裕福なら自家用馬車を使ったり御用聞きを呼んだりできるが、 貧しければ買い物は徒歩圏でするしかない。売り手からすると御用聞きだけなら店舗は不要だし、商品を見せて比較 などさせないほうが値を釣り上げやすいから、あっても倉庫同然である。徒歩圏以上に顧客拡大が望めないなら客単価を上げねばならないので、掛売で高利息をせしめる。買い物が苦行に等しいようなこの状況を変えたのが、18世紀半ばから台頭した流行品を作り売る職業、モード商だった。彼らは店頭にマネキン人形を置いたりお針子に窓辺で 作業させたりして商品を示し、店内を美しく設え、肖像画 を飾って顧客をアピールし、店舗に赴く楽しみを喚起する。 彼らのなかからはマリー=アントワネット御用達商まで現れた。マリー=ジャンヌ・ベルタン、後世ローズ・ベルタ ンと呼ばれるこの女性こそ、地方出身のお針子から昇り詰め、衣服製造業者として初めて歴史に名を残した「都市で働く女性」の大出世株である。ナポレオン期には、レース 襟飾り付き戴冠式衣装を製作した男性モード商ルイ=イポ リット・ルロワがヨーロッパ中に顧客を広げた。

また、アンシャン・レジーム期パリでは、手工業/小売業はギルド制度によって王権に統制され、生地商は布地の 加工を、仕立工は布地の在庫保有を禁じられていた。よって、パリで新品の衣服を入手するには、布を生地商から、 諸材料を専門小売商から買い集めて仕立工に委ねるという面倒を免れられない。ところがモード商は、ベルタンと王妃とのコネクションが利いたのか、生地小売商と服飾品製造工を兼ねる形でギルド認可された。こうしてモード商は 衣服デザインを生地選びから総合的に提案できるようになり、作り手/売り手主導の「モード」が誕生する。彼らの扱う商品、複数形「モード」こそ「モード」=流行の具現 である。彼らが繰り出すデザインが、「モード」という付加価値となる。 革命期にギルド制度が廃止され、19世紀に入ると、モ ード商の一部は「新物店」へ看板を掛け替えた。交通が発展し顧客拡大が見込めるようになったため、定価、商品陳列、現金即日払いなど買い手の便宜を図る販売方法 が導入され、広告も始まる。薄利多売という新発想に基づき、直接買い付けによるコスト削減で商品価格が下げられ、 経営者と製造者が分離して店舗規模は大きくなる。1824年にはフランス初の既製服店がパリに開店した。初期の既製服は主に男性用作業着だったが、1840年代に入ると、普段は注文服に携わっている女性服仕立工が新物店の依頼で既製ドレスを製造するようになる。新物店による材料一括仕入で値を抑え、技術やセンスの確かな熟練仕立工 が製造することで、「モード」要素を伴う、半奢侈たりうる既製服が作り出されたのである。

百貨店とオートクチュールの誕生

そして、19世紀後半になると、今もファッションの象徴として存在し続けている百貨店とオートクチュールが生まれます。

1850年代に入ると大規模化した新物店が「大きい(グラン)」という語を冠するようになり、やがて後半が省略されて「グラン・マガザン」、すなわち百貨店となった。 百貨店は、値札表示、華麗な店舗建築と商品陳列、生産地 との直接提携などの経営方法、バーゲン・セール、返品制度、カタログ通信販売といった販売システムや、カフェ、 読書室ほかの店舗サーヴィスも導入し、買い物を娯楽化し、 大衆消費の中心となる。さらにマス化する「モード」拡散の場として百貨店という大規模小売業態は世界中に広まっ た。一方、世界初の百貨店「ボン・マルシェ」創業の数年後、チャールズ・フレデリック・ワース、フランス語読み でシャルル=フレデリック・ヴォルトというイギリス人が パリに服飾店を開く。ヴォルトは皇妃ユジェニをはじめ各 国宮廷に顧客を持ったが、彼の最大の画期性は現物の存在 という既製服の利点を採り入れた女性用高級注文服製造合 理化にある。前もって作ったデザイン見本をトルソや店員に纏わせて顧客に選ばせるようにしたのである。さらに現在のパリ・オート・クチュールの統括組合、通称サンディカの原型となる組合を結成し、制度面でも「オート・クチ ユールの父」となった。こうして19世紀半ば過ぎ、百貨店とオート・クチュールという近代的ファッション産業がパリに成立する。そこでは既製服は無論、注文服でも衣服 デザインに消費者が介入する余地は失われた。製造者はデザイナーとなり、その独創性が生み出す「モード」が、最大の付加価値として衣服を奢侈品に盛り立てる。

20世紀に入ると、「モード」はヨーロッパ内だけのものではなくなります。第一次世界大戦で国力を付けたアメリカが、巨大なマーケットとして存在感を増していました。

パリ・オート・クチュールは1920年代、ガブリエル(ココ)・シャネルら優れたデザイナーを多数輩出するが、その最大市場は第一次世界大戦中の戦時輸出で経済発展を 遂げたアメリカだった。この時期に制度化された各季受注会、すなわちコレクションのために、アメリカの大企業経営者の妻たちはパリに詣でる。新中間層の女性たちは、 『ヴォーグ』誌(1892年創刊)などのファッション雑誌を参考に、パリの「モード」を模倣した衣服を百貨店で入手する。パリから百貨店が取り寄せた型紙を元にニュー ヨークで既製服が製造・販売されることもあった。アメリカがパリの「モード」を商品として、また情報として消費する構造は第二次世界大戦中まで続くが、ナチスによる占領でパリからの商品とデザインの輸入が途絶えると、クレア・マッカーデルなど、新中間層向けのシンプルなデザインを作るアメリカ人デザイナーが出現する。戦後、パリ・ オート・クチュールはクリスチャン・ディオール登場とともに復活するが、アメリカ既製服産業は1960年代に飛躍し、カルヴァン・クライン、ラルフ・ローレンなどが続々と参入し、適度な価格で豪華すぎないがみすぼらしくもない、半奢侈としての既製服をマスに向けて提供する。この流れをパリも無視できず、イヴ・サン=ローランなどのメゾンはプレタポルテ(既製服)部門を置いた。

21世紀に入った今は、オートクチュールはもとより、プレタポルテの影響力も低下していますが、パリは「モードの都」としての存在感を失っていません。

インターネット、SNSが発達し、世界のどこからでも自由に発信できるようになりましたが、パリコレクションは今もファッションの頂点として君臨し続けているのは、今回ご紹介した歴史があるからこそなのでしょう。