承久の乱を簡単に解説|戦乱の結果はどうなったのかを押さえよう (original) (raw)

鎌倉時代は武士の勢力が大きくなり、政治面でもトップクラスの権力を握るようになりました。この社会的背景を起因として、勃発した戦乱が承久の乱です。

この記事では、承久の乱について高校生レベルの解説をします。大学受験に日本史を使う人は、記事の内容をしっかりと押さえてください。

鎌倉時代の背景

幕府で有名な鎌倉時代は、武士が権力を握った時代でした。平安時代後期から武士が少しずつ力を付けはじめ、源氏が平氏を滅ぼしたことでその力はより大きくなります。

中でもトップの権力を握っていた源頼朝は、現在の鎌倉市(神奈川県)に拠点を置いて政治を行います。そこから源氏三代と北条氏によって、幕府は約140年くらい続きました。

とはいえ鎌倉時代以前の日本は、朝廷の貴族が主に権力を握っていました。初期の頃は武士と主従関係を結んでいた朝廷でしたが、いずれ完全に立場が逆転するのではと不安を隠せません。

こうした社会的背景を要因として、かの有名な承久の乱に発展します。

承久の乱とは

承久の乱とは、後鳥羽上皇が北条義時を討つために起こした戦乱のことです。鎌倉幕府が成立してから3年後に起こり、北条氏が台頭するきっかけともなります。

また朝廷の仕えていた武士も幕府軍となり、鎌倉幕府は大きな権力を持ちました。これまでの貴族社会から武家社会へと完全に移った、鎌倉時代においても重要な意味を持つ事件です。

承久の乱のきっかけ

1221年に承久の乱が起こったきっかけには、幕府による荘園支配が要因として挙げられます。主にどういった政治により、争いへと発展したのか解説しましょう。

地頭の荘園支配に危機感を抱く

朝廷が危険視した幕府の行為として、地頭による荘園支配が挙げられます。源頼朝時代から地頭の権力は大きくなりはじめ、源実朝時代(三代目)も変わらず荘園支配を進めていました。

領主は地頭があまりにも横暴であると、幕府に対して裁判も起こしていました。裁判自体は極めて公平だったものの、すでに強力な権力を持っていた地頭を止める術もなかったのです。

そこで朝廷には、横暴な幕府を倒さないといけないという風潮が広がりました。

親幕派の九条兼実の失脚

朝廷の幕府批判が形となって現れたのは、親幕派の九条兼実を失脚させたことです。九条兼実は源頼朝と協調関係を結んでおり、幕府と良好な関係を築こうとしました。

しかしアンチ幕府である源通親が、九条兼実に嫌われている家臣も上手く仲間に引き入れながら失脚するよう計らいます。

このようなイザコザの中、成人に達した後鳥羽上皇が強大なリーダーシップを発揮するようになりました。後鳥羽上皇は親族の力も頼りつつ、朝廷では大きな権力を握ります。

源実朝の暗殺

幕府と朝廷の争いにおいて、外せない事件のひとつが源実朝の暗殺です。

鎌倉幕府の三代目将軍にあたりますが、1219年に源頼家(二代目将軍)の子である公暁(くぎょう)に殺害されます。

一説によると後鳥羽上皇は源実朝を手厚くもてなしており、側近の源仲章を鎌倉に赴任させました。しかし公暁が実朝と仲章の2人を殺害したことで、朝廷と良好だった人物がほぼいなくなります。

特に朝廷は幕府で権力をほぼ握っていた北条氏との折り合いが一層悪くなり、北条義時を討とうと承久の乱が開始しました。

承久の乱の結果

朝廷と幕府の二大勢力が争う承久の乱ですが、1カ月もかからずに幕府が圧勝します。

後鳥羽上皇は、以前からいた北面の武士に加えて西面の武士も編成していました。しかし招集しても人が集まらず、むしろ幕府のほうに流れていったのです。

そもそも人数差が歴然としている中では戦いになりません。北条義時が短期決戦を狙っていたのもあり、あっという間に朝廷軍は敗れてしまいました。

承久の乱が終わったあと、政治がどのように変わったのかを解説しましょう。

後鳥羽上皇らは流罪となる

承久の乱を起こした張本人である後鳥羽上皇は、同じ皇族の順徳上皇や土御門上皇とともに流罪となりました。期末試験用に、それぞれどこに流されたかも覚えましょう。

天皇には後鳥羽上皇の血縁を避け、後堀河天皇(後鳥羽上皇の兄の子)を擁立しました。さらに計画の中心人物である貴族も死刑となります。

こうした処罰が大々的に下されたことで、朝廷の権力は著しく衰弱しました。

六波羅探題を置いた

承久の乱が終結したあと、鎌倉幕府は新たな役職として六波羅探題を置きます。六波羅探題の役割は、京の警備と朝廷に不穏な動きがないかを監視することです。幕府は再度同じ反乱が起こらないよう、朝廷の動きを警戒していました。

はじめに六波羅探題の仕事をしていたのは、北条泰時と北条時房です。執権や連署と併せて、鎌倉幕府における重大な役職として機能しました。

土地や武士を没収した

幕府は、朝廷が必要以上の力を持たないように土地や武士を没収します。朝廷には西面の武士が設けられていましたが、彼らは幕府の軍となりました。

また3000カ所にも及ぶ所領を手に入れ、これらを功績の高かった御家人に地頭職として与えます。地頭職とは、土地の管理や徴税の権利のことです。

このように承久の乱後、新たに任命された地頭を新補地頭と呼びます。当初は先例に従う本補地頭と分けられていましたが、いつしか承久の乱後の地頭は新補地頭に統一されました。なお新補地頭は新補率法といって、給与の計算方法も改められます。

さらに北条義時は守護に大田文を作るように命じ、田数を記録して全国の土地の支配に力を入れました。

承久の乱は鎌倉時代の転換期

鎌倉時代は、もとより武士が台頭する社会ではありました。しかし初期の頃は朝廷もそれなりの権力があり、やがて承久の乱として両者は対立します。

この争いが終わったあとは、朝廷の権力が弱くなって武士が世の中を統べるようになります。したがって承久の乱は、鎌倉時代において一つの転換期といえるでしょう。

ここから鎌倉幕府は、源氏ではなく北条氏が中心になって政治を展開します。しかし得宗(北条氏の本家)が権力を握ると、幕府は少しずつ崩壊に向かいます。

このように鎌倉時代は、いくつかの転換期があることをしっかりと覚えてくださいね。