創作物とかいろいろ (original) (raw)
※本記事は「レニ&リオ」のネタバレを含む自分の感想と解釈があります
イリアスはこの物語では味方だけど敵みたいな属性だからこそ面白いキャラだと思う
物語のテーマと相反するものになりそうだったから今までイリアスについて他のキャラと比べて自分はあまり感想を書いてなかったから今回書くと、イリアスがリオを「寵姫」としてでしか認識できなかったのはイリアス自身も「王という概念だけでしか自分を認識してない」からなのかと特に根拠もないけど私は思ってて、イリアスがレニと同じような発想を持つ人間だったら本来は学者タイプの人と恋愛では相性がいいのかと私は思ってる(レニとは恋愛で好みのタイプが被ってるのだと思う)
自分の妄想も入った解釈になるけどイリアスはレニほどはリオに惹かれてなくて、王という身分抜きで恋愛について考えたらイリアスはレニより寵姫という属性にこだわってないのではないかと私は勝手に思ってる(あくまで自分が王だから寵姫を求めてるだけみたいな)
※本記事は「推しの子」「ジョジョ4部」について独自の解釈と感想があります
物語と作者の思想は別物で、物語は作り手から独立して機能するものだと思う
物語の内容と作者の思想は別物だと思うし(基本的には作品と作者はイコールではないと思う)、推しの子でアクアがカミキと相討ちになってルビーを置いて行ったことはジョジョ4部で例えると16年前に鈴美が吉良吉影から露伴を逃がしたことと同じで「敵がそれだけ強かった」のだと私は思ってる。
推しの子は前にツッコまれたからどこまで読んだかちゃんと書くと、序盤の双子に生まれ変わったところまでのストーリーと終盤のカミキヒカルとアクアの対決から165話までで、ジョジョ4部については原作ほぼ全てと最近感想を書いた5部はアニメと原作を部分的に読んだ記憶がある(5部は中途半端な読み方になってると思う)
推しの子の感想
物語終盤の感想になるけど、アクアの人生についてはそうなったこと自体が作り手による思想の押し付けとは自分は思わなくて「アクアならそうするだろう」ということが「現実の倫理とは別物」として納得できるものだったと私は思ってる。
※本記事は「ブルーアーカイブ」のネタバレを含む独自の解釈があります
ホシノがユメ先輩に甘えてたからその後も引きずってるのだと思う
ホシノとユメの過去は表面的にはしっかりしてるホシノの方がユメ先輩に甘えてるという構図のように自分は感じて、表面上の態度とは逆にホシノの方がユメに甘えてる関係だからユメが砂漠で犠牲になったときのことをホシノはその後も引きずってるのではないかと私は勝手に思ってる(逆に言うと甘え・依存ではない関係だったらホシノはそこまで引きずらなかったのではないかと思う)
※本記事はジョジョ5部のネタバレを含む独自の解釈と感想があります
ディアボロの敗因は「視点が一つしかない」ことだと思う
ディアボロがジョルノ達に敗北する結末はドッピオが消えた時点で決まってたように自分は感じて、客観的に強力な能力を持つキングクリムゾンが自我を持たないスタンドであることもディアボロの敗北の一因になってるのではないかと私は思ってる。
レクイエムでミスタとトリッシュの身体が入れ替わった理由はトリッシュの人生のディアボロと親子ではない別の可能性がミスタで、ミスタの人生のディアボロと親子である別の可能性がトリッシュだからではないかと私は勝手に思ってる(2人のスタンドは自我を持ってて特にピストルズの方は視点が複数ある)
追記 感想について
解釈を書いたのに感想を書き忘れた後に自分が思ったことについて、創作物の感想は好き・嫌いのどちらにしても「読み手と合わなければ不快な情報になる」と無意識に思ってて特に好き・嫌いについて言及しないように最近はしてたけど、他人と趣味が合わなかったとしても特に年齢制限あったり過激な内容でなければキャラや人間関係の好き・嫌いはたまに書こうかと思う。
5部だと自分はミスタが好きで、トリッシュと入れ替わった後に言われたことを元に戻った後の会話を見ても悪い方に受け取らない明るさがあるからミスタは本質的には臆病なディアボロのような人生にならなかったのかと私は思ってる。
※本記事は自分が思ったことをあまり根拠なく書いてるので読む方は注意してください
女性の社会規範が女性に愛想の良さを求める割に後先考えない失敗しないことを意識させないのは「女性が主体的に考える権利」を奪ってると思う
愛想の良さ・愛嬌だけはうるさく注意する割に「どんな行動をしたら失敗するか」を女性本人に想定させたがらないのは女性が自他の区別を付けて自分の行動がどんな結果になるか考える機会を奪ってると私は思ってる。
自他の境界は「他者から一方的に要求されること」で簡単に崩壊するのだと思う
自他の境界がはっきりしてる人は「中学受験した人の方が東大に受かりやすい環境がある」ことと同じで「自他の区別が身に付きやすい環境があった」からで、ある意味では中学受験と同じくらい「自他の区別を付ける英才教育を受けた経験がある」のではないかと私は勝手に思ってる(自他の境界がぐちゃぐちゃになってる人は逆説的に「何も要求されずに存在を許される経験がない」のではないかと思う)
これはあまり根拠がない自分の考えだけど、いわゆるリベラル(知識人のエリート的な意味で)の方が自他の境界がなくて「概念を通して他人に侵犯しやすい」と私は思ってる。
※本記事はジョジョ5部のネタバレを含む独自の解釈があります
ストーリー全体ではなくあくまでラスボスを倒す能力が「公正世界仮説」であることに意味があると思う
5部のストーリーはジョルノの生い立ちからして不条理な世界でおじさんに親切にしたら恩返しがあって初めて立ち直れたから公正世界仮説を信じるようになったのかもしれないけど、5部のラスボスのディアボロを倒す方法が「公正世界仮説で意思や動作による結果に到達させない」なのは「人間の意思と行動はそれだけ他者にとって脅威となる」ことを示してて面白いと私は思ってる。
ジョジョについて自分は頻繁に読み返してるわけではないのに突然5部の内容を思い出した理由は5部が最初から公平な世界だから善人は報われ悪党は裁かれるとは限らないことが前提となった世界観のように見えるのに、ジョルノの場合はディアボロのような邪悪な意思に打ち勝つための手段として公正世界仮説を信じると逆転してそうなところに自分が興味を持ったからだと思う(GERの結果に到達させない能力は公正世界仮説の世界の結果が何度も起こることで無限ループの方がメインに見えるだけだと思ってる)
※本記事はFF5・FF7・あやかしトライアングルのネタバレを含む独自の解釈があります
クラウドの女装はティファの欲・祭里の女性化はすずの欲が具現化したものだと思う
FF7でクラウドが女装しなければならなくなった理由はコルネオの館に潜入したティファに会って「本音(目的)」を聞くためで、あやかしトライアングルで祭里が女性化した原因はシロガネの術だけど物語の深層では「すずに欲があるから」で、主人公が男性→女性(女装)になるのは女性の本音や欲求をわかりやすくするためではないかと私は勝手に思ってる。
FF5のファリスや他の創作も含めて男装する女性キャラがいる理由は女性→男性になって男社会で男性と渡り合える「力」があることを示すためだと私は思ってる(全ての創作に当てはまる法則かどうかはわからないけど)