フ、 ┣ ぉ ヵゝ 了 (original) (raw)

お題「みんなが経験した怖い話」

(※15年くらい前の話です。)

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『ゆうこ、僕はいま、君のことを考えている。

考えても仕方のないことばかりを、とりとめもなく考えている。

僕にとって、君の存在は一体何なのだろう。

かわいい部下?妹?友人?それともー』

気色の悪いメールが入っていた。

H田からだった。『それともー』じゃねえわ、そのどれでもねえわ、携帯の画面に向かって、声には出さずに心の中だけで突っ込む。

H田なんちゃら(下の名前忘れた)は、以前勤めていた会社のシステム管理部にいた男だ。私が会社を辞めてから4年が過ぎても、彼はいまだに「あけましておめでとう」だの「お誕生日おめでとう」だの「新規システムの立ち上げメンバーリーダーに抜擢されて心身ともにくたくただよ」だの、知ったこっちゃないメールを不定期によこしてくる。(私はそのどれにも、ただの一度も返信したことはない。)

いつだかは、「先日ガソリンスタンドで見かけたよ。綺麗になったね。恋をしているのかな?」なんてのもあった。ぎょへー!過ぎる。

ちょうど実家に帰ってきていた妹に、ねえ見てよこれキモイんですけどーとたったいま確認したばかりのそのメールを見せつけると、彼女はしばらく無言でそれを眺め、やたら深刻な表情を浮かべて言った。

「姉ちゃん、あたし、やばいことになっとるかもしれん」

それが、序章。

妹は、県内の公立高校で教員をしている。

妹の勤務先は同じ県内といえども実家からだいぶ離れていて、現在は3LDK(←!)の部屋を借りて一人暮らしをしている。

彼女は教員メンバーで構成されるテニスサークルに所属しており、そこに最近新しいコーチが指導にくるようになったそうなのだが、そのコーチの男がどうもみょうなのだと言う。

「みょうって、何が?」

「うーん、うまく説明できないんだけど…」

と妹は答えた。

そして自身の携帯をバッグから取り出して操作しながら、あれー、こないだも変なメール来たんやけど、ないわ、消したんかな、と独り言のように言い、

「なんかね、その人に彼氏おるんか?って聞かれたんよ。で、います、ってふつーに答えたんやけど、それから何日かして、おまえ本当は彼氏なんていないんだろう、いないくせにいるって答えるなんてどういうことだ、おまえは俺のことばかにしてるのか、みたいなわけわからんメールがきて…。ね、変じゃない?怖くない?」

と続けた。

変と言われれば確かに変な気がしたが、実際のメールも残っていないし、状況がよくわからなかった。妹も「まあ気にしすぎかもしれんし…」なんて言っていたので、その時はなんとなくうやむやに終わった。

その後、しかし事態は急速に深刻化する。

日に日に回数が増え、やがて鳴り止まなくなった電話とメール。そこで囁かれ続ける歪んだ愛の言葉。

そしてある日、アパートの部屋の玄関先に魚の残骸が撒き散らされるという事件が起きた。

頭、くり抜かれた目玉、骨、鱗、心臓、血、異臭。そして彼からの着信。『プレゼントだよ』

怯えて実家に電話をかけてきた妹は、「気味が悪いんだけどとりあえず掃除はした」と言い、それから「あの人、おうちが魚やさんなんよね。だからなんかな…?」となんだか間の抜けたことを言っていた。

また別の日には、職場からアパートに帰宅すると、彼女の駐車スペースに男の車が止まっていたこともあった。男は車外に出て、車にもたれかかるようにして妹の部屋を眺めていた。その日妹はそっとその場を離れ、友人の家に泊めてもらったそうだ。

父と妹の二人で、警察に相談に行った。

電話の内容はすべて録音するかメモを取るかし、メールも保存しておくようにと言われた。それらは証拠になるからと。

けれど対応してくれた若い警察官は、男を逮捕することは可能だが拘留できるのはせいぜい数日でしかないこと、いまの法律は完璧には妹を守ってはくれないことを丁寧に説明してくれた。

「その上でどうしたいか、どうするのが最適かを一緒に考えましょう、だってさ。親切な人だったよ」と彼女は母と私に報告した。

親切な人だったよ、解決はしてくれないけど、と。

妹の彼氏も交えての、緊急家族会議が開かれた。

といっても別にそんな大層な話し合いがなされるわけでもなく(ご飯食べて、ほぼ雑談)、とりあえずしばらくは彼氏が妹の部屋で一緒に暮らすことになった。ちなみに彼の現住所はうちの実家と同じ市内。それまで十数分だった通勤時間は、妹のアパートから通うとなると毎日高速で片道2時間かかることになる。ご面倒おかけします、と両親は恐縮しっぱなしだった。

「ベランダに出て洗濯物とか干してるだけでね、胃がぎゅうってなるんよ。電柱の陰にあいつが見えるん。でも、目を凝らしてよく見たら誰もおらんのんよ。人の心って、こうも容易く壊れるものなんだなって、思い知った。」

休日に実家に泊まった妹が、布団に頭からすっぽりと潜り込んだまま言った。

「ていうか、あんたが彼氏んちに引っ越せば?」

「通勤片道2時間とか無理いいいい」

私は丸まった布団越しに彼女の頭をぽんぽんと叩きながら、またもや受信したH田からのメールを開く。

『ゆうこ。君に冬の海を見せたいな。特に夜がいい。冬の夜の海は暗い。その闇がすべてを塗り潰してくれる。俺はなんてちっぽけなんだろうって思う。そしてそれでいいんだって思える。』

なんのこっちゃ。

携帯を閉じる。そして昔のことを思い出す。

妹は、なんでも器用にこなす子だった。

小学生の頃に習っていたピアノも習字もそろばんも、私は二つ年下の妹に何一つかなわなかった。

ヘ音記号がどうしても読めずにバイエルで挫折した私に対し、妹はテレビで流れる流行歌を耳で聴いただけで我流で演奏した。

毎月どこかに提出していた習字の作品はいつも妹が一位で、審査員の先生から「いつもながらお見事!」と評されていた。

一緒に受けたそろばん検定二級に妹だけが合格してしまった翌日、ご近所同士だったそろばんの先生と習字の先生がそろって我が家にやってきて、母親と何か話をしていたことがあった。

「姉妹に同じことをやらせるのは姉の人格形成上よろしくない、同じものを与えることだけが平等な教育ではない、ゆうこちゃんには何か別のチャンスを与えてやるべきだ」そんなようなことをその日母は言われたのだと、けれど母は「あの子は妹と比較されて傷つくようなタマではない」と一蹴したのだと、ずいぶん後になって笑い話として父親から聞かされた。

母の考えは、ある意味正しかったかもしれない。

能力を妹と比較されて傷つくほどに、私は向上心など持ち合わせてはいなかった。

T崎。

H部。

K西。

N田。

M田。

かつて妹に好意を寄せていた男達の名を、私は名簿に並んだ文字を読み上げるように反芻する。

T崎は中学1年の時に妹と同じクラスにいたヤンキーだ。学校の廊下ですれ違えば私にまで「お姉さあああん!」と無意味にでかい声で叫んできて、睨みつけてやったらみょうに人懐っこい笑顔を返された。H部もやはり中学の同級生で、卒業式間近に妹に告白して振られた。K西は高校の時で、妹の誕生日の日の夜遅くにプレゼントだと言ってオルゴールをうちまで持ってきた。N田は妹が初めてつきあった男だ。彼のことそんなに好きじゃないかもと、当時妹は言っていた。その後のM田とは長く交際していたようだったが、大学卒業後、就職で距離が離れて結局別れることになった。

そのひとつひとつを、私は全部思い出せる。

私には何もなかった。

いつもあの子ばかりだった。

既読のH田からのメールを、また開いて眺める。

H田は50手前のくたびれた男だ。既婚で、たしか中学生くらいの娘さんが二人いるらしい。私とH田の間にはもちろん何もない(し、「ゆうこ」だなんて下の名前で呼ばれたことも一度たりともなかった)

彼がいたシステム管理部と私の部署とはフロアも離れていたし、たまに顔を合わせる程度の関係だった。会えば世間話くらいはすることもあったけれど、それだけだ。なぜ彼が私に執着するのか、まるでわからない。

薄っぺらい男だった。喋る内容もそうだが、顔も体つきも、なんかペラペラしていた。

彼に対する感情は、むしろ嫌悪しかなかった。声も、口をすぼめる癖も、ふひひ、というざらついた笑い方も、すべてが不快だった。

それでも彼からの数々のナルシスティックで一方的なメールを着信拒否しなかったのは、妹のストーキング対策のような記録のためではないし、面倒だからでもない。

大体、冬の海なんて寒いだけでちっとも行きたいとは思わない。

それなのに私は彼の車の助手席にいる自分を夢想した。

求められるということ。望まれるということ。

それは私の拠り所だった。彼からのメールが届くたびに、私の中の何かが華やぎ、そして満ちた。彼の独りよがりな文面のその先に、たとえ生身の私自身の姿なんてこれっぽっちも見当たらなくても。

妹は勤務先の学校に事情を話して、新年度から別の学校に異動させてもらえることになった。4月まではまだ数ヶ月あったけれど、やはりこれ以上あそこに住み続けるのは精神的にキツイということで、引っ越しは先に済ませた。少しでもストーカーの目を逸らせるようにと、念のため車も母親と交換した。

「ああー、広々3LDKともお別れかー。あそこ気に入ってたんだけどな」

アパートを解約する頃に妹が嘆き、もう最後だからと、ちょうど彼氏が出張で帰ってこられなかった金曜日の夜、部屋に泊めてもらうことになった。

妹は上沼恵美子のおしゃべりクッキングでやっていたという唐揚げを梅肉で和えたものと、コンソメスープとサラダをこしらえてくれた。

上沼恵美子のレシピは使えるよー」

とほがらかに彼女は笑う。

テーブルの真ん中には透明のグラスに名前のわからない花が挿してあって、「どっかの道端で摘んだん?」と聞くと、「なんでよ、お金出して買ったんですけど」と言われた。

そういう細やかなことができる妹が羨ましかった。

私は造花かドライフラワーしか飾らない。

私たちはまるで違う。

私が持たないすべてを、私が欲しかったすべてを、彼女が持っている。私が母の胎内に置き去りにしてきてしまったことすべてを、彼女がその手に掴んで生まれてきたのだと思う。

「でも悔しい」と妹がぽつりと言った。

「あたしの人生、いままでけっこう順調だったのに。テニスだってやめないかんなったし。この間の試合だって、もし出てたら多分いいとこまでいけたと思う。あんなわけわからんおっさんに邪魔されるとか、ほんと人生何が起きるかわからんわ。」

少し驚いた。

言われてみれば、確かに彼女の人生はこれまで疑いようもなく順調だった。

そうか。世の中には、自らを「順調」と捉えている人が存在するのか。そんなこと考えもしなかった。

妹の膨らんだ足元に視線を落とす。彼女は5本指の絹の靴下と綿の靴下を交互に重ね履きしている。冷え取りと、あと絹にはデトックス効果があるのだそうだ。

それから、シンク脇に設置されている、突っ張り棒とワイヤーネットを駆使した手作り棚。埃ひとつない階段。無印で統一したファイルボックス。生徒から贈られた寄せ書き。ああこの子はこれまできちんと生きてきたのだろうな、なんて思った瞬間、リビングの固定電話が突如鳴り響き、妹の表情がさっと強張った。やばい、絶対あいつだわ、と唇の端を歪ませて泣きそうな顔で笑う。

「そういや、録音は?」私が聞くと

「やってない(笑)」と妹は答えた。

「ねえ、私、出てみてもいい?」

妹の返事を待たずに立ち上がり、受話器を掴んだ。「…はい。もしもし?」

ばくばくと乱れる心音を抑えながら、受話器の向こう側に耳を澄ます、しばらくの沈黙の後、

『 ……チャン?』

電話の向こうの声が、妹の名を呼んだ。

間違いない。ストーカー男だ。私を妹だと思っているのだろう。私たちは唯一、声だけはそっくりだから。

『 …ブッ… ブッ… 』

「え?なに?なんですか?」

何を言っているのかよく聞き取れない。

『 アンマ レヲ ナメン ヨ… 』

何だろう。…あんまり俺を舐めんなよ?

男はなおも続ける。

『ヤメロヨ ソンナイイカタシタラ …チャンガ オビエルジャナイカ ニバンワアヤマレnky…』

「はい…?」

『オレジャナイ ハチバンガカッテニシャベッテry ソウジャナイ… ソウジャナクテ、ダtレ 』

『ハチバンワ ランボウダカラ ‥チャンオビエルンダ チガウノニ チガウノニ タダ …ダケナノニ 』

にばん?

はちばん?

この男は何を言っている?一体誰と喋っている?

『ハチバンノセイダ』

『ハチバンワイツモ』

『ハチバンgt…』

え、やばい、え、なにこれ?思ってたんと違うんですけど?想像のナナメ上っていうか、なにこれこわいこわいこわい

『 ﺢﺱﺱﺲﻂﺓ〄ﻁﺰﺱﺡﻒﻓﻐ 』

『 ﺰﺑﺲﺲﺴﺤﺴﺴﻒﻂﻂﺒﺓﺴ 』

『 ﻑﺣﺣﺱﺱﺒﺐﺡﺰﺡﺐﺁﺤﺲﺲﺰ 』

『 ףּﺵﻂﻃﺳﻵ〠£%ﺃﺄﺡﺱﻂﺳ 』

『 ﺤﺴﺴﻒﻂﻂﺒﺓ…… 』

『 』

『 』

『 』

『 』

男の言葉がまるで理解できず、次第に思考能力が停止してくる。

さっきから繰り返している「にばん」とか「はちばん」は、2番、8番、の意味だろうか。番号?男につけられたロット№みたいなもんなのかな…

ぼんやりとした頭で、数える。ええと、LOT№1は、T崎… LOT№2、H部…LOT№3、…K西。それからあと、誰だっけ、N田と、………そうだ、M田だ。何言ってんの私、なんだこいつ、狂ってる。狂ってる?誰が?私が?

狂ってる、無意識に声に出すと、クルッテ?と男が繰り返した。

『クル?ヤッパリキテホシカッタンダネ?ボクヲアイシテイルンダヨネ? …ブツ… …ブツ… ウレシ イ…』

『…ブツ… ウレシイヨ… …ブツ… ウレシ… …ブツ… …ブツ…』

妹の方に視線を遣ると、静止したまま不安そうにこちらをじっと見ている。

――ああ。

受話器から伸びるコードを指で弄りながら、私はゆっくりと、声には出さず、唇の形だけ変えてその名を呼んだ。―H田。

H田はどうしてここまでしてくれないんだろう。

どうして中途半端に気色の悪いメールを気まぐれに送ってくるだけで、それ以上踏み込んでこようとはしないのだろう。あいつは私なんかいなくても、不便なく生きてゆける。まっとうな大人面して、社会的存在として、ちゃんと世間に溶け込んでいる。

どうして私には誰もいないのだろう。

どうして、いつも、あの子ばかり。

『… ウレシイヨ… ホラネ、ダカライッタジャナイカ サンバンワ…キカナイ r… 』

相変わらず男は何かわけのわからない言葉をつぶやいている。うるさい。黙れ。なんですか、用事がないならもう切りますね、そう言って受話器を置こうとしたら、ヨウガアルンダ、と男が答えた。

『…ワスレモノ…』

『…ワスレモノ …ナクチャ…トテモタイセツナ …』

「はぁ…?」

『ワスレモノヲ …クチャ』

忘れ物…?

『ワスレモノヲトリニキマシタ』

『ワスレモノワ』

ピンポンピンポーン、と、インターホンが鳴る。

『アナタデス』

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

途切れることなく部屋中に流れるその音と受話器越しにも聞こえているその音が不協和音となって脳内に大音量で鳴り響き、男がいま狂おしいほど欲している人がしかし私ではないという現実に、私は心底絶望する。

ただの、雑談です。