夏川椎菜さん主演 舞台「未婚の女」初日公演を観劇してきました。 (original) (raw)
こんにちは、やはらです。
舞台「未婚の女」を観劇させていただきました。
せっかく初日公演を観劇できましたので、感想を残しておきます。
深作健太監督がつくる舞台は昨年上演された「オルレアンの少女」も観劇させていただきました。前回も思ったのですが監督の舞台を観劇すると「自由」という言葉、意味にとても「責任」が課されているような。私の感覚だと自由って実は全然自由じゃない、代償を考えると手放しに喜べないなと、自由って…と考えさせられます。
ジャンヌが望んでいた未来には遠く及ばない辛い戦争の史実をふまえた舞台とても響きました。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」もそうですが、自由も誰かに影響を与えてしまうという点では同じことなのだろうな。
昨年の観劇感想ブログ↓
戦争を知っている世代のマリア、終戦後に生まれた娘のイングリッド、そして戦争を知らない世代の孫のウルリケ。
この三人の視点から戦争をみると、ナチズム思想の一端は今もまだ根付いているのだと気づかされます。(見ないふりをしていただけかもしれません。)
気づいた上で私にはどうしたらいいかまだわかりません。生まれや育ちを言い訳にしたくないと思いつつも、形成されたパーソナリティはそれらがあったから。せめて考え始めた今日ここから自分が良いと思う方向へ変えていきたいです。
人の数だけある正論や正義、罪と罰、深層的な差別があれば満場一致はできない、今でもそう思いますが、でもそこに向かおうとすることを辞めない、考えるのを辞めない。
再度、考えながら観劇させていただこうと思います。
心に残っていること。気になったことを書き残します。
○始まってすぐに感じた、舞台上にある死相
マリアが自分の首にマフラーをかけるシーン。自殺を示唆するように見えておりました。最後と繋がりました。
男性陣のメイクからも不気味さというか、意味合いを感じました。
ああ、ただ事ではないのだなこの舞台はとすぐに思いました。
○未婚の女とは
上演タイトルでもある「未婚の女」日本では初演、かつ原作もドイツ語ということで完全初見でしたので疑問がたくさん湧いてきました。
誰のことなのか、特定の人物を指した言葉じゃないのかも?
・意思表示?
女性が「結婚」するということは、一般的に「子供を産み育てること、家事をすること」という感覚がまだまだあると思います。(というのも変わっていくと良いなと思ってます。が一旦…)
それに対しての「未婚」であれば、ナチスの女性政策(舞台でもお話がでていた、たくさん子供を産めば~)に賛同しない。のように捉えたりもできる?
しかし結婚し子供を育て、家事をすることが=ナチス信奉としてしまうのは極端ですし、舞台で伝えたいことってここなのか…と考えると自信があまりないです。
未婚の女=なにか別の伝えたいことなのだろうと思うのですが、また観てきて感じたら書きます。
ただ、舞台を見た上で考えた結果、人の数だけこういった思想があって、意思表明としているなんてこともあるのかもと考えられたので少しは持ち帰れたと思っております。
・メイン三人の登場人物の中に、未婚の女性がいる
舞台上では三人とも特定の結婚相手が登場するようなシーンはありませんでした。
ただマリアとイングリッドに関してはそれぞれ子供がいると考えると、相手の男性はいたと考えられます。主演のウルリケは未婚の女ではありそうですね。(あとでパンフレットの年表をみたのですが、マリアは夫がいることは書いてありました。)
祖母マリアと、母イングリッドは不仲。祖母マリアと孫ウルリケの仲は良好。
イングリッドがマリアが不仲である理由。敗戦後に有罪になったマリア、その娘であるイングリッドも周囲からは独裁者信奉の娘として辛い生活を強いられていた、自分ではどうしようもできない恨み。マリアのようにはならないとして、反ナチスの意思表明として結婚はせず未婚の母となり、ウルリケを産み育てていたり?
誰が父親なのかわからない状態であったのかもしれない。
物語がマリアの過去を主軸に進行していくことなどから、最初に想像したのは脱走兵とマリアの間にできた娘がイングリッドである。でした。
なのでマリアが未婚の女なのかと思いました。(後にパンフレットに夫の文字をみつけました。)
私、映画ターミネーターが好きなんで、実は恋仲になり一晩で子供できたとか。そっちの宇宙に旅立っていたのですが、後にパンフレットを読んで時系列的に難しいとなりました。ロマンチック展開むずかしそうです。
年表によると、有罪判決を受けるのが1945年、出所するのが1957年。この年に傷痍軍人であるのちの夫と出会い、1960年にイングリッドが生まれます。
どうしてもロマンチックにいきたかったら、この傷痍軍人が実は密告した脱走兵で実は生きていたとかまで飛んでいくと、父親を密告した母親を恨むとかにも繋げれそうですけど、飛躍しすぎですね。そんなSFラブロマンスみたいなのも好きなんですけどね。
一度結婚してから離婚をしても、未婚とはいいません。ただ、当たり前ですが未婚であった時期は当然あるので、その未婚時期の意思であったり、行動、そういったことに目を向けて欲しいというタイトルであればありえるのかも?
残りの観劇で、未婚の女について自分の中でハッキリこれかなーってなれるようにしたいですね。忘れないように可能性をたくさん書き残しておくようにします。
○赤い糸は運命の糸?
運命の糸というと、小指と小指を結ぶ甘いやつを想像しますが、しがらみに近いものなのかなと思いました。
祖母、母、孫と続いていく血筋。時代背景を考えると、戦争の傷跡は孫の代にはほとんど無いように思います。
敗戦後にマリアの娘として生まれたイングリッドは大戦終結後もナチス信奉者の娘というレッテルで辛いことが多かったりしたのだろうか。舞台上で母が赤い糸でがんじがらめにされているシーンがありましたが、因縁、自分ではどうしようもできない生まれからくるネガティブなイメージ。それに囚われてどうしようもできない状態に見えました。
ウルリケは、偶然(そうなる運命だったのかなと思いますが)赤い糸を手にし、その後自分で手繰りよせていきます。マリアの手記をみて、無意識的に抑圧していたものに気づいていき爆発していったのかな。
価値観というか正しいと思っていたことや、当たり前だと思っていたことなどが覆されたのかなと想像。
壇上に居ますが一番我々に近い立ち位置なのかなと。ウルリケもこのお話で考えるということに気がつき、考えて自分の中のものが大改革された人。と思うと、この舞台を見た自分自身ととても重なります。
○罪と罰
誰もが当たり前に(だと思って)抱いてしまっている、根付いてしまっている差別に対するメッセージとして受け取りました。
人の数だけ考えがある、その中であまりにも自然にそうしてしまっている差別、そこに気がつけるキッカケをもらえたと思ってます。
この舞台を見なかったら、そこまで深い深層というか、あまりにも自然なレベルのものには気づかず、ましてや考えることなどしなかったと思います。
今まで当たり前につかっていた、「普通」とか「当然」が重く感じてます。
どうやって人を見ていったらいいのか、接したらいいのか、きっとこれは答えがなくて、ずっと考え続けることが唯一できることなのかな。
○ずいぶん遠くまで来た
このセリフがとても印象に残っていて、どうしてなのかこのあとの観劇で気にしてみます。
最後に、オタクらしく推しの感想も
ナンちゃん!舞台とは直接関係ないのですが、ライブツアー、アルバム制作、その他多忙な中で無事初日を迎えられてまずは一安心でしょうか。本当におめでとうございます!
このハードスケジュールの中で初日から素晴らしいものを観させていただきまして感動しております。
演目としては非常に考える部分が多く、難しい内容。昨年の「オルレアンの少女」から更に高い壁を用意して、夏川さんに任せてくださった深作健太監督にとても感謝しっぱなしです。
前回も戦争とは、と考えさせられましたが、今回はよりその影響を自分の手でどうにもできない人たち、今の自分に近い人達の姿を見ることが出来ました。
だからこそ、自分でも日々できることを見つけることができそうです。
残り四日間、八公演。無事走り抜けられるよう祈っております。私もできるだけたくさんの物を受け取って帰りたいと思います。
一旦、初日の感想というか、メモのようなものを書き起こしておきました。
回数を重ねて観劇していくことで変わっていく自分自身の感覚と、後ほど照らし合わせて楽しみたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。