児童書読書日記(仮) (original) (raw)

トモダチブルー (集英社みらい文庫)

中学一年生の真菜は「クラスのヒロイン」と呼ばれるほどの人気者女子で、充実した学校生活を送っていました。しかし、転校生の小鳥ちゃんをなかよしグループに引き入れたことから運命は変わってきます。小鳥ちゃんは真菜に異常な執着を抱いていて、ペンケースやスマホケースをおそろいにし、長いサラサラの髪を惜しげもなく切って髪型までおそろいにしてきます。同時に巧みに真菜の悪評を振りまき、だんだん真菜を孤立させていきます。その魔の手は親友や幼なじみにも忍びより……。

【新刊です】
『トモダチブルー』(集英社みらい文庫)
今の児童文庫の流行の要素(溺愛・逆ハー・地味女子・恋愛)まったく入れずに書いたので数字的にはどうかわかりませんが(笑)そんな作品を出せたことに意味があるかなと思ってます👻けど売れてくれるともっとうれしいです🫶✨(正直者) pic.twitter.com/9XlZTwXOTx

— 宮下恵茉 (@hassaku_m) 2024年9月28日

著者はこのように、現在の流行に逆張りしてこの作品を拵えたと語っています*1。売れ筋とは外れた冒険的な作品もよく出してくれるのがみらい文庫の特色です。今年刊行された天川栄人の2作品もその典型ですが、この路線はぜひ続けてもらいたいです。
小鳥ちゃんは人間関係を操るのが得意で、徐々に奪われていく感覚がたまらなく怖いです。ただし、怖いのは小鳥ちゃんだけではありません。状況に流されて節操なく掌を返す周囲の人々は、こいつら内面とか一貫性とかないのかと思わせる薄さ寒い怖さを持っています。また、小鳥ちゃんが真菜の個人情報をなんでも握っていた理由にも、悪意のない人が誰かを簡単に窮地に陥らせる現代ならではの闇が隠されていました。
百合と胃痛展開に定評のある著者らしい良質のホラーでした。

*1:でも溺愛はあったのでは? ヤンデレは溺愛とは違う?

七月の波をつかまえて (STAMP BOOKS)

夏・海・女子ふたり。これ以上なにも説明はいりませんね。よって、以下は全く読む必要のない文章です。
12歳のジュイエは、七月のあいだ母親と海辺の町・カリフォルニア州サンタモニカのオーシャンパークで過ごすことになります。ジュイエは家族関係でいろいろ鬱屈を抱えていたので、これは人生最悪の監禁生活になるものと思っていました。母親はこの旅がジュイエを変えるきっかけになってほしいと願っていましたが、医師としての仕事が多忙なためあまりかまってやることができません。まったくいい予感のなかった旅の初日に、ジュイエは運命の出会いを果たします。アイスクリーム屋で出会ったウザいくらいにキレイなサーファーガールのサマーは、「"エイリアンの要求をムシ"に十時に集合」という謎のメッセージでジュイエを呼び出し、その後ふたりはいつも"エイリアンの要求をムシ"するようになります。
物語はジュイエ視点で語られるので、一見ジュイエがサマーに救われたようにみえます。しかしサマーのほうも事情を抱えていて、異邦人であるジュイエに悲痛な期待を抱いていました。だからサマーはジュイエの名前を奪い、「ベティ」と呼びます。そして、ホイップクリームのせいで(ホイップクリームのせいではない)大惨事が起こり、サマーは満たされます。
ジュイエ側からすれば、サマーのサーファーの文化が異文化です。クライマックスは異邦の宗教的儀式に立ちあってそれにとけこんだような、危うさをはらんだ荘厳さに圧倒されます。
夏の恋を描いた児童文学のマスターピースとして語り継がれる作品になりそうです。

全校生徒ラジオ

有沢佳映は、ある閉鎖的グループ内にいる子どものおバカ会話やおバカ行動を写実的なギャグとして描く腕前が異常に冴えている天才作家です。『アナザー修学旅行』(2010)で修学旅行居残り組、『かさねちゃんにきいてみな』(2013)で小学校登校班、『お庭番デイズ』(2020)で中高一貫校の女子寮を取り上げてきましたが、今回も人口の少ない村の全校生徒たった四名の中学校の女子が夏にポッドキャストを始めるという、興味を引かれる設定をこしらえてくれました*1
有沢佳映の会話劇が笑えることはもう自明なので、ここでは多言を弄するのはやめます。他人が聞いてもおもしろいわけがない内輪ネタをおもしろくするのにどういう技術が使われているのか、想像もできません。
しかし、会話劇はこの作品の半分です。もう半分は、ポッドキャストを文字起こししているリスナーの男性の独白で構成されています。男性は一般人の中学生のポッドキャストに文字起こしするくらいこだわる自分を、「キモい」と思っています。
一方、ポッドキャストの世界にあるのはエモです。三年生がもうすぐ卒業してしまうので思い出作りに始めたという動機からしてエモです。しかしそのエモには、作りものの側面もあります*2。映画の予告編にあった(本編にはない)シーンを再現して夕暮れの写真を撮るエピソードが典型です。エモ効果を狙うのと身バレ対策の一石二鳥で逆光で写真を撮っているところなどに、明確な作り手の意図が表れています。もっとも露骨なのは、会話劇のなかで配信の内容は編集されていると告白しているところです。表現の作り手が作意/作為を持っていることをわざと露呈させているところに、この作品の複雑さがあります。
この作品は表現の作り手と受け手の非対称性を意識させるつくりになっています。それは『全校生徒ラジオ』の著者の有沢佳映と読者の関係にも敷衍できるメタ構造も持っています。であるなら、この作品は表現の作り手と受け手の関係のグロテスクさを告発するものだと受けとるべきなのでしょうか。
作中ではポッドキャストの会話はエモ、リスナーの男性はキモの側にいると規定されています。自動的に『全校生徒ラジオ』の読者もキモの側に配置されます。しかし男性は最終的にある決断をし、エモの方へ向かいます。すると、読者だけがキモの側に取り残されてしまいます。ただしこれを前向きに捉えると、読者も行動を起こすことでエモの側に行けるのだと励ましているのだと捉えることもできそうです。そう考えると、表現の作り手と受け手の垣根を破壊し虚構と現実の境界も超えることがこの作品の方向性であると解釈することもできるかもしれません。

12音のブックトーク

押しが強すぎるために友だちから疎まれ小学校の卒業式にひどい仕打ちを受けた初奈は、中学校では猫をかぶっておとなしく過ごしていました。学校でほっと息をつける時間は誰もが黙っている朝読の時間だけでした。ところが、朝読の時間だけ他人と入れ替わって知っている人が誰もいないほかの中学校の朝読の時間に入るという怪奇現象に巻きこまれます。その状況は、12音の言葉をきっかけに入れ替わりが起きてしまう『ことだまメイト』という小説の設定に似ていました。
初奈の12音は「もう猫をかぶりたくない」。課題を抱えた子どもが何らかの文化に触れることでそれを克服していくという、こまつ作品でよく見られる流れに入っていきます。今回の文化はブックトークです。朝読の時間にイケメンの先輩が現れてブックトークを始め、、図書館で開催されていた作家のトークイベントに偶然飛び込み、いい感じのブックカフェに誘われと、とんとん拍子には初奈の世界は広がっていきます。こまつ作品にしては珍しく超常現象の設定のある作品でしたが、すべて運命の導きとしてうまく物語を収束させています。安定と信頼のこまつあやこは印は、揺らぐことがありません。
ただちょっと怖かったのは、冒頭の小学校の卒業式のエピソード。初奈は仲良し5人グループに所属していたと思っていたのに、ほかの4人だけで示しあわせて保護者も交えた式後の食事会を企画していました。小学校の思い出のすべてを台無しにしてしまうこの仕打ちはひどすぎる。さらに、こんな日に自分の娘が友だちを仲間はずれにしようとしていることを知ってしまったほかの4人の保護者の気持ちを考えても、いたたまれなくなります。
また、キャラ配置的にデビュー作から一貫しているこまつあやこの大好きなアレをいつでもお出しできるように準備しているのにもぞっとしてしまいますね。イケメンの先輩が出てくると、身構えてしまいます。

みおちゃんも猫 好きだよね?

小学六年生の朱梨のクラスに、とってもかわいいみおちゃんが転校してきました。この学校は五,六年でクラス替えがなく人間関係がすでに固まっていたので、朱梨はひそかに大変だなと思っていました。でもそれは杞憂で、みおちゃんはクラスの最大派閥の志倉さんのグループに引き入れられ、スポーツが得意な子が多い二番手グループともなかよくやっていました。朱梨は地味子自認なのでクラスの中心グループとはあまり関わりあいになりたくなかったのですが、みおちゃんと家が近いからという理由でお節介にも志倉さんが猫のいる雑貨店に一緒に遊びに行くよう誘ってきました。そこでみおちゃんの具合が悪くなり送っていったところ、みんなには秘密にしていたみおちゃんの猫アレルギーを知ってしまいます。ここから朱梨の受難が始まります。
朱梨はみおちゃんにショッピングモールのフードコートに呼び出され、口止め料としてEバーガーのポテトを無理矢理食べさせられます。弱みを握っているのは地味子の方なのに威圧されるのかわいそうだし、Eバーガーって脅迫の道具に使っていいの?
外ヅラのいい人気者が自分にだけ素の顔をみせてくれるというのは少女漫画などではおいしい立ち位置にもなりそうですが、朱梨が持つのは恐怖心だけです。胸キュンを研究している『ぼくらの胸キュンの作り方』のコンビであれば、これはリアルでやるとただのモラだからと、こういう設定は却下しそうです。
アレルギーをはじめとしたみえにくい困難とその配慮について、ピクトグラムやヘルプマークなどそれを改善するための工夫について、朱梨はみおちゃんとの衝突をきっかけにいろいろなことを学んでいきます。注入される知識の量が多いので、道徳教材を読まされている感は否めません。しかしそこがうまく学級内の権力闘争につながっていくので、ホラーコメディのように楽しく読み進めていくことができます。
みおちゃんはなにかと威圧してくるし、志倉さんは本人の要望も聞かずみおちゃんの誕生日パーティーを猫のいる雑貨店で開こうとします。「志倉さんは本当にすごい」という決してほめていない「すごい」に朱梨の感情がこめられていて苦労が忍ばれます。みおちゃんと志倉さんに振り回されて、いつの間にかクラスでの朱梨の立ち位置は断崖になってしまいます。
ところで、わたしがこのタイトルを初めてみたときに思い浮かんだストーリーは、愛玩動物としての「好き」と食材としての「好き」を混同して100%善意で「みおちゃんも猫好きだよね?」……というろくでもないものでした。コミュニケーションの齟齬に基づくホラーだと考えると、この予想もあながち間違っていなかったといえるかもしれません。

もしもわたしがあの子なら (ノベルズ・エクスプレス 57)

第12回ポプラズッコケ文学新人賞、ポプラズッコケ文学新人賞最後の大賞受賞作です。凡人自認の中学二年生ひとみが高架下の壁にした落書きを消そうとしていたら、犬の散歩をしていた学校一の美少女のしずかちゃんと遭遇しました。思いがけず憧れの美少女とふたりきりになって挙動不審になっていたところに嫌われ者の女子押川さんも乱入して激突。で、激突したら入れ替わるのがお約束です。
ひとみは「生死のはざま」とやらでうさんくさい天使に会い、入れ替わりについて説明を受けます。天使の介入で他人になるというのは、『カラフル』も想起させます。去年に刊行されたいとうみくの『キオクがない!』もそうでしたが、設定が共有されるくらい『カラフル』が古典化したことに時の流れの早さを感じてしまいます。
天使の説明によると、自分の憧れている人物の体に入るとのことで、ひとみはしずかちゃんになり、しずかちゃんは押川さんになり、押川さんはひとみになりました。美人の人気者になることでひとみは、しずかちゃんのようにたやすく善行ができ他人に影響を及ぼせるようになったことに驚きます。でもそれは、ひとみ自身の人徳によるものであることにも気づいていきます。中盤までに、入れ替わりもの児童文学の基本的な教育要素はクリアしていきます。ただし、しずかちゃんが押川さんになりたかった理由、押川さんが自分になりたかった理由は謎のままです。
この作品の特色は三人入れ替わりなところで、つまり別の組み合わせでも入れ替わりが可能なのです。中盤にひとみが押川さん、しずかちゃんがひとみ、押川さんがしずかちゃんという再度のシャッフルがおこなわれます。すると、凡人自認のひとみも実は物語を持っていたことが明らかになります。結局のところこの作品は、物語と祈りをめぐる冒険であったようです。

まほうのマーマレード (山猫マルシェへようこそ 1)

茂市久美子の新シリーズ。失業中の男性悠一さんは、亡くなった祖母の家でジャム屋を始めようと山に囲まれた天空村に引っ越します。そこで祖母が作っていた「まほうのマーマレード」を再現しようと奮闘します。
舞台となる古い家の雰囲気がよいです。裏庭には大きな夏みかんの木があり、そのさわやかな香りが悠一さんを迎えてくれます。さらに、いつの間にか赤いトラネコが出現するという怪現象も起きます。
その夜はスーパームーンの日で、悠一さんはトラネコが呪文を唱える場面を目撃します。そして、たくさんの光の球体が空を舞う幻想的な光景が展開されます。悠一さんはそれを「お月さまの子どものようだ」と喩えます。このあたりで、悠一さんは異界に足を踏み入れてしまいます。
悠一さんの作ったマーマレードは、人間の店では不評で全く売れませんでした。となると、このマーマレードを売るべき相手は自明です。悠一さんはどんどん人の世界とは異なった領域に行ってしまいます。でも、メルヘンに人間の倫理は関係ありませんから、人の世界の外側に行くことは問題になりません。
第1巻はプロローグ的な内容なのでまだ作品の方向性ははっきりとはわかりませんが、茂市久美子らしい安定したメルヘンになりそうです。