安房直子「あるジャム屋の話」 (original) (raw)

安房直子さん愛好サークルの方々に、勉強会があると声をかけていただいた。で、この作品がテーマになっていたんである。

この機会に、また安房直子さんのこと、ゆっくり考えてみたくなった。

私の大切なバイブル。

しばらくテクストには触れていなかった。(本を開かないようにしていた。)

あんまり無駄遣いしないようにしていたのだ。

心が、言葉の中に密やかにこめられた芳醇な繊細さを、その大切なものを貪り蕩尽しつくし、それを愛しむための己の感受性がスレてしまわないように。大切に大切に、その優しさ寂しさこわさうつくしさの繊細な言葉の世界は非常時に心にそっとひとつずつ抱くように。丁寧に滋味を味わうように。まずはそうやって無心に世界に心浸すこと、その言葉の世界を旅すること、味読するものとして、しまい込んでいた。絶対に失いたくない世界だから。

とっときの宝物の禁断に手を触れるような緊張感を持って本を開く。

ああ、途端に変わらぬ新鮮さをもってよみがえる私の(安房直子)世界。

ほう、と、タメイキ。

最初のほんの数行で、すうっと引き込まれる。

やっぱり、疲れた心をそっと包んですべての傷を癒してくれる懐かしい世界へのアクセスなのだ、安房直子さん。私のバイブル、私の魂を支えてくれる心象風景の中の世界。今心がひどく辛い、というとき救いとなってくれる。胸の中の堅く凝った結ぼれが解きほどかれる。

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…さて、ということで「あるジャム屋の話」。

これは安房直子さんに多い鹿と人間との婚姻のお話。
安房直子さんの異類婚姻譚としては珍しく、死や恐怖の要素のほとんどない、ほのぼのと優しいハッピーエンド。

やっぱり何といっても長編「天の鹿」が圧巻だけど、他の短編でも、鹿と人間との異類婚姻譚、多いんだよね。

山だと鹿、海だとウミガメとかシギとかなのかなあ。

もちろん、鹿は山の神という自然の象徴であり、人間社会とかかわるために自然が形象化したもの、使徒、媒体としての存在である。

これを自然界と人間界という二項対立で考える。

自然界の法則、言葉は、人間には通じない、言葉のない別次元。そこには人間の倫理もヒューマニズムもない、恩寵も脅威も等価に共存する世界、ただ畏敬の対象であるべき神。存在の、生命のマトリックス、カオス。

(思うんだけど、キリスト教でいう「父と子と聖霊と」の「父」が自然で「子」のイエスが媒体としての、ここでの鹿やなんかの動物に形象化、象徴化、仮託された神、「聖霊」が魔法空間に満ちる不思議そのものなんだよね、多分。三位一体。)

安房直子作品では、この自然界と人間界との境界領域にいる媒体である動物たちが物語の鍵となっていることが多い。そして、彼らの、両界での存在の在り方の揺らぎが物語を豊かに味わい深く面白いものにしている。(以下、この構造のこの媒体部分を焦点に考えてみる。)

父なる(キリスト教的概念構造で喩えていうなら)自然なる創造主エホバの意志を人間に理解できるものとするための媒体となったイエス・キリストのように、動物たちは人間界と自然界とのインターフェイスなんである、という構図を考えてみよう。

自然界は、すなわち山や海は空そのものは、人間の理解の領域を超えた神の次元。恐ろしさもうつくしさも恩寵も災厄も、人間界を存在させるための力はすべてはそこからやってくる。(「力=聖霊」というかたちで。これらの物語群では「魔法」「不思議」という形で。)

ということで、異類婚姻譚は、ヒューマニズムを持たない神とヒューマニティに生きるヒトとの関係性を保つための厳正な契約を裏切ってしまう行為、人間界の側にあまりにも傾いてしまった境界のモノ「動物たち」の物語、ということができる。だからここでは彼らの、ヒューマニズムと自然界に引き裂かれたバランスのその切なさが浮き彫りになる。それが物語を、自然の側の持つ力、死や畏怖に対して抱く恐怖や愚かしさ、それら人間の小さな罪や、その恐ろしさや哀しみの要素、すなわち切なく優しい愛おしい小さなものとしてのヒューマニズムと、それを越えた自然界の深い優しさをもはらんだ無情さ、無常さの対比をを大きくクローズアップするものにするのだ。

この構造が、なんとも、なんというか、自然の条理の、深淵さ、厳しくも切なく、うつくしくも深い懐の優しさと傷ましさの両義をはらんだ世界を感じさせ、胸が浄化の涙でいっぱいになってしまうような力を持つ。…そして作品群をあまりにも切なく胸を打つラストシーンのものにしてしまう、ということが多いんだけど。

この作品はちと違う。

なんでかな、ってとこ。

で、他の「人間じゃない者との交流」作品と比較して類似点と相違点から位置づけられるんじゃないかと。
(いや考えてみると彼女の作品は全部「人間社会とは別の世界とのかかわり」の物語なんだけど。)

例えば、野ばらの帽子。

これも鹿の娘が人間と恋に落ち、お嫁さんになるストーリーなんだけど、焦点となっているテーマが全然違う。

人間に恋をする異類、っていうテーマは、デビュー作品の「さんしょっ子」からあったんだけど、人間を恋うるようになる(本来自然界に属するべき)モノたちは、人間を死後未生のカオス、自然界のマトリックス、要するに死の側に取り込んでしまう恐ろしい役割を放棄し、人間界のヒューマニズムに則った恩寵と無償の贈与ばかり、ほんの少しの楽しい部分だけの魔法界に触れる、楽しく暖かな日常世界をもたらしてくれる。要するになんだか「人間臭い」のだ。

料理、技術、芸術行為。それらは、人間による自然への畏敬と愛の形のひとつ。…それが、逆輸入のようにして、境界にある使徒の側をひきつけ、彼らをヒューマニズムの側に洗脳してゆく。彼らは人間界、ヒューマニティによりそってゆく、恋する、ある種の人間臭さ、親しみやすさをもつようになる。

森野さんのジャム。

心を込め、時間をかけてコトコト煮込むその過程。それは人間の暖かな手をかけた料理、加工品。自然のままの恵みの果物たちが、人間の手をかけられ、文化となったかたち。よりおいしく、よりオリジナルに、より楽しく、より便利に自然の恵みをいっぱいに味わうために活用して、人々にその喜びを広めるものとなる…というヒトの世の夢と祈り。文化とは、就中料理とは、あからさまに自然と人間の合作物なのだ。

鹿が人間のスタイルに寄り添い、あこがれてゆく、人間に恋をすることと、牝鹿がまるで人間のお嬢さんのように椅子に座り、ティータイムを過ごしていること。素敵なテーブルを用意して、丁寧に淹れたロシア紅茶やトーストにジャム、なんて洒落こんで馥郁としたお茶にジャムの香りと作法の雰囲気を楽しんでるその風景のヒューモアは連動しているのだ。(安房直子さんの扱う優しい動物たちはみんなこんな風に人間風と自然風の狭間の理想のところにある暖かな暮らしぶりを見せてくれている。)

さてここで、少しひやりとした自然本来の性格の怖さをひやりと感じさせるのが山にいた牡鹿、彼女の父親。彼は特に威嚇するわけではないが、決してヒューマニティの側にほだされることのないプレッシャーをかける威厳と自然への畏怖を感じさせる存在である。

「小鳥とばら」で、魔女の魔法で薔薇の花に変えられそうになっていた少女を人間界に逃がし、しかも弱気だった少女がこの先美しく幸せに生きてゆくための魔法の力を授けたままにしてくれたのは、魔女の息子だった。

「野ばらの帽子」で、人間に狩られ滅ぼされてゆく恐怖と恨みを持った鹿の母娘なのに、その記憶の薄い娘が、母の思いとは裏腹に猟師の息子と恋に落ち、人間になってお嫁に行く、という想定のなか、娘可愛さに人間を利用し犠牲にして送り出す、母鹿の非情な恐ろしさは、その魔女の非情さと同じだ。非情でありながら残酷であるという自覚はない。ヒューマニズムとは別の論理で生きているからだ。

彼女は、人間をただ「あちら側」に取り込んでしまう。鹿を守るための薔薇の木に変えてしまう、穏やかに、冷たい瞳をして、個人の罪の有無を問わず、嘗て罪を犯した人間の仲間であるというそれだけで、その類の魔法を使う。

…だがそしてここでも、救いとなるのは人間に恋した娘鹿の存在だ。(ここでは積極的に犠牲となる主人公を救ってくれる行為にまでは至らないが、助かってほしい、という好意は伝えられている。)

この関係性が、「牝鹿、父親、森野さん」の三者の関係性と構造的には同じなんである。

「ジャム屋」の話では、無事に鹿の娘が人間の娘になって、森野さんのお嫁さんになる。二人でたくさんの山の恵みをジャムに煮て、人々にその素晴らしい甘い芳香を配る楽しい仕事に充実した日々を過ごす。実に心がほっとするハッピーエンドになっている。

このハッピーエンド、「それから幸せな日常を過ごしました」、というような物語の定型。

その日常の四季を、日々の自然の恵みのすばらしさ不思議さとを幸福に味わう人間との暖かい関係性や交流、その楽しい物語がずうっと続編として短編集としてできていってもいいような終わり方。

…大好きである。

この類の作品群では、「おしゃべりなカーテン」「ゆめみるトランク」「グラタンおばあさんとまほうのアヒル」「ひぐれのお客」「ゆきひらの話」など、ほんの少しの魔法が、日常現実のあじきなさを新しい輝きで満たしてくれる、そんなかたちでの自然界(魔法)との関わりの日々が楽しく語られるものが挙げられる。(個人的には「ひぐれのお客」がとっても好きなのだ。生意気な猫とあたたかい炎の色の美しさへの感受性を繊細に描き出す、世界の美を豊かに日常に取り戻してゆく物語の力。やたらと「人間臭い」(ここがキイポイント)ナマイキな猫のキャラクター。)

あとね、カーテンもトランクも、おさらのアヒルもゆきひらも、人が大切に使っていったモノたちがその思いに答えて魂を得た「付喪神」的な性格をもっているのも注目に値するんではないかと。人が愛し、モノがそれに答える、その関係性の中でうまれる「生命」「魂」としての媒体。相思相愛、っていってもいいところに恋しあう人間と動物、婚姻、暮らし、家族、の姿の理想の発想は根っこをもっているのかもしれない、と。

取り急ぎ、思いついたこと。勉強会ぎりぎりですが。

世の中ハロウィン。なんでも楽しいお祭りにしてしまうこの国の節操のなさ、結構好きである。私の編み人形も月光の光の中で魔女さんに。