リメイク世代のヤマト日記 (original) (raw)

これまで当ブログでは2199からの変化、波動砲問題、メカデザイン、メカ表現、演出 等について書いてきた。
では2202はどこへ向かっていたのか考えて締めたいと思う。

まず感じたのは監督、副監督、脚本の3名の目指していた**"ヤマト"**がそれぞれ違っていた点。

まず監督 羽原信義

羽原氏はさらばへの想いをインタビューで度々語っており、さらばの良さ、2202がさらばのリメイクである事を強調してきた。
推論だが、羽原氏は2199が旧作よりも設定や映像が理屈っぽいと感じていたのかもしれない。
だから「**ケレン味**」という言葉を使って映像的な嘘を強調していたり、サブタイトルや用語、敬礼などを旧作に沿ったものに戻したのだと思う。

最初の制作発表時の羽原氏のコメント「魂を込める」という表現の通り、2202では理屈よりも感情を優先し、さらばのリメイクをする上で邪魔になる2199のキャラや設定を引き継がずあのような作品に仕上げた訳だ。
説明を加えて設定を変更するならまだしも、無かったことにするのだから端から2199の続編として成立させる気なんてなかったのだろう。

次に副監督 小林誠

この男、羽原氏に「突き放してる風にしておきながら実は本当にヤマトが好き」と言わせるほどのヤマト愛が強い。
ヤマトの制作に関わっていない今現在でも、自身のSNSでヤマトのイラストやプラモの同人作品を上げるほどである。

その作品を見るに独特のセンスでメカニックを仕上げており、その異端さ故か2199時はセットデザインとしてクレジットされメカデザインには一部を除いて加わっていない。
そして出渕氏の居なくなった220では副監督に出世。
足枷が外れ、メカデザインやら演出、絵コンテにまで幅を利かせるようになったようだ。
彼の暴挙は「同人メカニック、副監督の野望」で述べた通りであるが、この歪んだヤマト愛が批判を呼んだのは言うまでもない。

副監督という立場でありながら作品全体を俯瞰して見ることはなく、その立場を利用し2199で出来なかった
自身がデザインしたメカの活躍、復活篇の回顧、復権を企んでいるようであった。

最後は脚本 福井晴敏

福井氏は制作発表時の挨拶で「ガンダムをやってきた自分がヤマトをやるのは節操がないと思われるかもしれない」と語っており、これまでのリメイクヤマトの制作陣とは"ヤマト"という作品との距離感が違う。
実際 雑誌の寄稿文で、さらばより後のヤマトをイベントムービーと語ったり(中身はないという意味)、復活篇をネタ映画と見下していたようだ。

ヤマト=古いという想いがこの人の中にあるのだろうと思う。
そのためか2202のインタビューで、さらばは今ではウケないとか、現代に置き換えて〜というように度々話していた。
が、イマイチ何を描きたいのか分からないし、現代の何になぞらえたいのかも分からない。
どれも長々と台詞で説明する割に分かりづらい。

よく2202は尺が足りなかったと擁護する声があるが、
さらばのリメイクを26話分の尺で足りないなら、脚本がおかしいか、そもそも余計な事のしすぎである。
要素を詰め込みすぎてもはや本筋もよく分からなかった。

福井氏がやりたかった事は本当にさらばのリメイクに必要だったのだろうか?
それすら分からない。
福井氏にとって"さらば"はさほど重要ではなく、自分の書きたい脚本のガワ、要素でしかないのかもしれない。
さらばのリメイクを謳い、後にさらばのリブートと言い、挙げ句の果てにさらばのオマージュと言った人なのであながち間違いではないだろう。

主要スタッフ3名がそれぞれ違う方向を向いていたのが「**宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち**」という作品なのだと思う。
2199は総監督出渕裕氏の作りたい方向性が物語、デザイン等に明確にあり、ヤマト愛溢れるスタッフを見事にまとめ上げた。
2202では全体を俯瞰して作品をまとめられる人が居なかった。
そのため、各々がやりたい事を詰め込み、
伝えたいメッセージがブレ、
ヤマトにしかない魅力が薄まり、
2202という作品がこのような形で出来上がったのだと気づかされた。

庵野氏が中心に立ち新しいヤマトが制作されることが分かった。
そこで庵野氏はどんなヤマトを作るのか少し考えてみたい。

まず分かっているのは、
・劇場作品である。
・リメイクシリーズとは異なる航路を進む。
・新旧織り交ぜた面白い作品群を残りの人生を費やして可能な限り作る。
ということだ。

可能性があるのはこのあたりだろうか…
1、旧作に忠実な第一作のリメイク
2、完全オリジナル、登場人物もオリジナルなヤマト
3、旧作、完結編ないし復活篇の続編
4、2199の続編

1、旧作に忠実な第一作のリメイク

一番可能性が高いのがこれだろう。
2199よりも旧作に忠実に、またキャラクターデザイン等も旧作寄りのもので再度リメイクする。

第一作なので予備知識がなく誰でも見られるという点
古代、沖田艦長、デスラーガミラスイスカンダルといった**"ヤマトといえばこれ"**という分かりやすさ。
興行的な事を考えると一番、妥当であり無難だ。

懸念点があるとすれば、制作に参加する出渕氏が2199を作ったということだ。
庵野氏は出渕氏の2199に協力的で絵コンテや原画で多少なりとも参加していたし、舞台挨拶にも登壇していた。
その出渕氏の仕事に被せる様に(もっと言えば泥を塗るように)第一作をリメイクするだろうか…とも思う。

2、完全オリジナル、登場人物もオリジナルなヤマト

次に思いつくのは完全新作オリジナル庵野ヤマト。
ヤマトという艦は主役艦として登場するが、主人公は古代ではなく新キャラ、ガミラスイスカンダルも出ない。
新しいこれからのヤマト世界を完全に一から構築する。

これまでのヤマトではない形で、成功すればガンダムのように多種多様な展開が可能になるかもしれない。

懸念点は当然、興行的に成功することが難しいということ。
保守的なファンが多いヤマトでここまで変えてしまえば、「なんだよ」「見たかったのと違う」と言われる可能性が極めて高い。
**"新旧織り交ぜた面白い作品群"**の中の一つとしてはあり得るかもしれないが、庵野ヤマト最初の作品でこれは難しいだろう。

3、旧作、完結編ないし復活篇の続編

これも可能性としてはゼロではない。
旧作のヤマトのその後、あるいはif的な作品だ。
古代の物語から始まり、次の世代にバトンタッチする。

書いていて言うのもあれだが可能性はかなり低そう。

そもそも庵野氏は第一作史上主義だ。(語弊があるかもしれないが。)
旧作の更なる続編に興味があるとは思えない。

そして旧作からのファンしか楽しめないという点もマイナスだ。
また復活篇の扱いも難しく、絵やスタッフが大幅に変わり旧作ヤマトの地続きの続編と認めていないファンも少なくないだろう。

興行や話題性に対して難点が多すぎるため実現はしなさそうだ。

4、2199の続編

旧作、第一作の続編としてさらばと2に分岐したように、2199の続編として2202と**庵野ヤマト**に分岐する可能性もあるかもしれない。

これであれば出渕氏の2199での仕事に泥を塗ることはないし、**"リメイクシリーズとは異なる航路を進む"**という文言も曲解すればこう解釈できなくもない…。
まあ無謀なのは理解しているし、そうなったらいいなという私のエゴでしかないが。

懸念点はリメイクシリーズが完結していないということに尽きる。
デザインや声優さんをそっくりそのまま使い、違う物語を描けば混乱を招きかねないし、福井氏に対してあまりにもデリカシーがないと取られるだろう。
それこそ裁判沙汰になった旧作ヤマトと同じ轍を踏むことになりかねないので、「宇宙戦艦ヤマト」という作品にとってもやはり良くないかもしれない。

また2012年の作品である2199の続編となると新規ファンのハードルを上げてしまうことになるのでやはり難しいか。

とはいえ庵野氏と出渕氏がタッグを組んで2199の続編を作ればとてつもなく面白い作品になるのではないかといちファンとしてどこか期待してしまうのが正直なところ。

いくつか考察してみたが、この中に正解はあるのだろうか。
新作ヤマトの今後の情報に目が離せない。

先日、宇宙戦艦ヤマトの50周年を記念してイベントが新宿ピカデリーにて行われ、庵野秀明氏、出渕裕氏、氷川竜介氏が登壇した。

3名のトークショーもあり、大いに盛り上がったようだ。
そしてなにより注目されたのが、

庵野秀明氏が主導してヤマトの新作が作られる

ということ。

今現在も2199からのリメイクシリーズが続いており、福井晴敏氏が主に指揮を取り「永遠に」のリメイクが作られている。

そういった中で新作発表というのは福井氏にとって穏やかではないだろう。

これを期にヤマトに興味を持った人にとっては"**福井ヤマト""庵野ヤマト"**ではないからだ。
庵野さんのやつじゃないんでしょ?」と言われるのは容易に想像つく。
これから先、庵野ヤマトというものさしで測られることになるのだ。
そして福井ヤマトは前作、前前作と見ることが必須だ。
新作である庵野ヤマトの方がライト層にウケやすい、興味をもってもらいやすいという点でも逆風だろう。

2199から紡がれたリメイクヤマトシリーズが「じゃない方のヤマト」と扱われてしまうかもしれないことに一抹の悲しみを覚える。
出渕氏が構築した新しいヤマト世界が、福井氏(他2202スタッフ等)の手によって破壊されていなければ…と思わざるをえない。

そしてその"庵野ヤマト''には出渕氏が参加する。
これには驚いた。
かねてより、庵野氏と出渕氏は「ヤマトは老後の楽しみに一緒にやりたいね」と話していたので当然の流れではあるのだが、
今なお続くリメイクシリーズの土台を作り上げたのは他ならぬ出渕氏だからだ。
自らの手を離れたリメイクシリーズへ宣戦布告と言ったら大袈裟かもしれないが、そのように思った人は少なくないのではないだろうか。

噂話の域を出ないが、2199の続編を巡って出渕氏は監督を降板させられたという経緯があるだけに、今回の新作ヤマトへの参加はとても興味深い。

出渕氏が見せたかったヤマトの要素が見れるかもしれないし、出渕氏が自らの手で作ったリメイクヤマトに引導を渡すことになるかもしれない。

福井氏の3199と庵野ヤマトの公開が重なるということは恐らくないと思われるが、
3199のその先、完結編復活篇のリメイクには多大な影響を及ぼすだろう。
庵野氏の話題性、影響力を考えれば当然だ。

これからヤマト50周年の企画展やイベント、庵野氏の新作ヤマトの、そして制作中の3199の第二章が公開された際の福井氏の舞台挨拶での言葉などにも注目したい。

演出について引き続き書いていこうと思う。

・AI論と銀河

2202のテーマ、愛のアンチテーゼとしてAIに制御されたヤマトの同型艦銀河が出てくる。
同型とは名ばかりだが。

地球軍が持ちこたえるため艦をAI化し、さらに人間も機械化して強化しつつ、同時にG計画を進め銀河で子孫を残して種を存続しようというようなもの。
このあたりの設定の理解が曖昧で申し訳ない。

子孫を残すための母体として銀河のクルーは女性ばかりだ。
ドン引きである。
銀河は宇宙に浮かぶラブホテルで、あの船体の窓はそういうことか…。
銀河クルーが納得して乗艦しているらしいのがまたドン引きポイントだ。
エロ同人か何かだろうか。

最終的にAIの無慈悲な選択に異を唱えた銀河クルーがAIを破壊し人間性を取り戻す。

2202の人体の機械化やらAIに抗う人間性みたいなくだりはやや古臭く感じる。
人間性こそが正しく機械にはないものであり、人間は機械とは違うという結論ありきの問いに思えた。

一方で2199の第9話「時計仕掛けの虜囚」で描かれた、
オートマタに心があるのか、
またその心は他者から分かるものなのか、
人間の脳は多重処理によるオートマタでないとは言い切れないのではないかと問うこのエピソードの方が深く考えさせるものだったし、
最後の「私の心がこのようにあることは私だけの秘密なのだから。」と締めアナライザーに感情移入してしまうものだった。

・ゼムリア人の解説

ゼムリア人やらズォーダー、サーベラーの設定は複雑怪奇で説明してもなお分からないので省く。

問題はそれの説明の仕方で、アナライザーに憑依させて長々と解説させたり、長々とズォーダーに過去を語らせたり、
映像や演出で表現する技量がないためか全て台詞で説明するのだ。
これがまあ長い演説なので見ていてしんどい。
その上、一度で理解するのは極めて難しい。

私はここらへんで理解するのを諦めた。

・森雪を連れていく古代

さらば宇宙戦艦ヤマトで古代はクルーを退艦させ、森雪の亡骸を抱え、共に最後の攻撃を行う。

2202はどうだろう。
クルーを退艦させ古代は残る。
違うのは生きている森雪が一緒だということ。
あろうことか古代は最愛の婚約者を連れて死にに行こうとしているのだ。

古代よ、男としてそれはないだろう…。
愛しているなら、たとえ自分がいなくても生きていてほしいと思うものではないだろうか。
キムタクだって雪を麻酔銃かスタンガンか何かで気絶させ、退艦させてから一人で向かったというのに。

同じなのは、形ばかりで中身はまるで違う。
さらばファンを公言する羽原監督は何も思わなかったのだろうか?
このシーンには心底驚いた。
スタッフには命や死についてどう考えているのか問いたい。

・死の選別

古代が森雪を簡単に連れた行くのには理由がある。
なぜなら二人は生き返るからだ。

さらばで古代は島たちに
死にに行くのではない、生きるために行くのだと。
命は宇宙に広がって永遠に続くのだと説いた。

要するに比喩なわけだが、
2202ではそれを文字通り映像にしたのだろう。
2202で体当たりの後、二人は死んではおらず、高次元宇宙という生と死の間にいたらしい。

そして二人を生き返らせる方法を伝えるメッセンジャーとしてまず山本が生き返る。
アンダーアーマーがスポンサーにいるから生き返ったのかと思った。
その後、地球全体で時間断層を取るか、古代&雪を生き返らせるかを選挙で選び、結果二人はこの世に帰ってきた。

死の選別が起こなわれた。

戦争を扱う作品としてそれでいいのだろうか?
生き返る者とそうでない者の違いはなんだろうか?
日頃の行いだろうか?
命や死はそんな軽いものではない筈だ。
繰り返すが、今一度命や死をどう考えているのかスタッフに問いたい。

2202では生き返ることが最初から決まっていたからこのような結末になったのだろう。

こうして2202はさらばと同じ展開で古代が死なずに続編を作れる形で終わりを迎え、
さらばのリメイクとも、ヤマト2のリメイクとも、ひいてはヤマト2199の続編とも言えない作品に仕上がったのだった。

次はツッコミどころの多い2202の演出について書いていこうと思う。

・トロッコ問題

2202第三章では変身していたズォーダー(レドラウズ教授)が古代に愛について長々と語る。
大帝ともあろう男が地球の一士官に喋る喋る、止まらん。
内容よりもよく喋るなぁという印象しかない。

愛を示せと、
森雪を乗せたガミラス艦か、その他のガミラス艦のどれか一隻を選べと。
少し前にSNSで流行ったトロッコ問題を出してきた。
コスモトロッコ問題とでも言おうか。

ロッコ問題はトロッコをそのまま操作せず多数の人を見捨てるか、操作して一人を殺めるのか…。
そういう問題なのに、
このコスモトロッコ問題は複数のガミラス艦から一隻しか選べない。
条件を揃えるなら森雪の乗ったガミラス艦かその他のガミラス艦全てでなければならない。
一隻しか選べないのなら森雪一択じゃねと思った人も少なくないのではなかろうか。

…いや木を見て森を見ずだ。
そもそも、宇宙を滅ぼすために動く大帝がわざわざバラエティ番組のようにトロッコ問題を出してくるのが面白い。
ここで言う面白いはもちろん良い意味ではない。
乾いた笑いも出る。
宇宙規模の話とは思えない問題の小ささと大帝の小物っぷりを感じざるをえない。

テレサ

2202でテレザート人の精神集合体となったテレサ
高次元の存在で過去や未来を見通せる。
ヤマトクルーはテレサの精神感応でテレザートに来るよう伝えられヤマトは旅立つ。

しかしテレザートでテレサからもたらされた情報は「ヤマト(大和)、大いなる和、縁の力に従って動け」
という和→輪→円→縁を掛けたオヤジギャグだった。
はるばるヤマトを呼び寄せて披露したコスモオヤジギャグには笑ってしまった。
テレサも渾身のギャグを披露出来てさぞ気持ちよかったことだろう。

しかも肝心なことは未来に干渉しすぎると教えてくれない。
思うように動けと。
つまり古代たちの行動には必ず結果が付いてくると言っているようなものだ。

2202ではイマイチテレサの重要性が分からないままだった。

・加藤の裏切り

2202への不満でよく目にする加藤の裏切り。
病弱の息子がいる加藤に桂木が息子を助けられる薬の情報を教え、加藤に反波動格子を起動させ波動エンジンを止める。
というようなものだが疑問点があまりにも多い。

なぜ加藤の息子のことを知っているのか。
なぜ地球も開発出来ない薬を知っているのか。
なぜ加藤はそれを信じたのか。

桂木の誘惑に勝ち、私情を持ち込まず航空隊長として任務を遂行するが息子を想ってただ一人苦悩する…という全く逆の展開の方が視聴者は共感できたのではないだろうか。

2202の展開は悪質詐欺に引っかかった加藤が暴走したように見えて仕方がない。
挙げ句、責任を取るために死にに行った。
あまりに雑に殺された加藤に、真琴や息子の翼を想うと不憫でならない。
そして不幸な子どもが2202には他にも出てくる。

・不幸な子ども

まず上記の加藤の息子 翼。
そしてガミラスの少女イリィ、第十一番惑星でガトランティスによって家族を奪われる。

2202は不幸な子どもを使って安易に感動を誘っているようでモヤモヤする。
方舟でガミラスの少年兵ミルトが出てくるが、不幸な目に合い感動を誘うようなことはしなかった。
そういう点に不満が募る。

まだまだ演出について物申したいことがあるが次回にしたいと思う。

2202羽原監督はケレン味を重視した絵を意識しているらしいということについて前の記事で述べた。

では2199はそういったケレン味がないのだろうか。
全くそんなことはない。
第20話「七色の陽のもとに」で見てみる。

2199の七色星団は7つの恒星からなる星団で宙域は明るく有視界の戦闘となる。
これも見映えをとったハッタリだ。

また七色星団では海戦をかなり意識しており、海に見えるような雲海が広がっていたり、乱流の影響でまるで重力があるかのように艦載機が落ちていったりする。
他にもヤマトが魚雷を受ければ水柱が立ったりと
まさにケレン味たっぷりの"宇宙戦艦ヤマト"ならではの戦闘を見せてくれた。

そしてそこには、ついた嘘を納得させるだけのよく練られた骨太な設定があった。
ケレン味とはこういうものだろう。

首の折れたコスモタイガーに「永遠に」であった手描きならでは嘘を表現し、視聴者を納得させる魅力があっただろうか。
それともなにか、バージョンKのKは小林のKだろうか?
金田伊功氏に失礼である。

他にもまだある。

2202では艦が合体する。
信じられないが。

まず最初に合体技を披露したのはカラクルム級。
250万隻という途方もない数が整列して地球を攻撃するための大砲になる。
その名もレギオネルカノーネ。

もはや**イワシの群れにしか見えない。
そしてその合体技は小学校の国語の教科書に載っていた「
スイミー**」を思い出させる。

第1話のカラクルム級1隻に驚嘆していたのはなんだったのだろうか。
この途方もない数をどう製造し、運用しているのか、補給や乗組員、一切の説明がない。
後にカラクルム級が植物の如く生えてくると明かされる訳だが…あまりにも馬鹿げている。

ガトランティス社会の構造が何一つ分からないし、感情移入なんて出来る筈もなく魅力がない。

地球軍の艦艇も合体する。
なんとアンドロメダの左右にドレッドノート級がくっつきブーストになるのだ。

あまり視聴者を馬鹿にしないでほしい。
戦艦の格好良さなんて見る影もない。
そのアンドロメダは敵艦隊へ突っ込んで縦横無尽に戦う。
格好良いのか…?
私にはその良さは分からなかった。

ふざけた合体技は日曜朝の戦隊ヒーローもののようだ。
スイミーに戦隊ヒーローに小学生向けに作ったのだろうか?
羽原氏は視聴者に、さらばではなく小学生だったあの頃を思い出させたいのかもしれない。
だとすればこれまでの戦術のない撃ち合うだけの戦闘も説明がつく。
そんな皮肉ばかり言いたくなるのであった。

2202へ申したい点はメカデザインだけではない。
羽原信義監督はインタビューでこう語っていた。
https://gigazine.net/news/20170621-yamato2202-nobuyoshi-habara-interview/

羽原:
やっぱり物量を見せてあげるのがいいのかなと考えました。「2199」の時は、わりと艦隊の並び方とかきちんとやっていて、今回どうしようかなと思ったんですけど、そこはなるべくケレン味と迫力が出るようにしました。

2202ではインタビューで語っていた通り物量戦が多い。
というより、物量 物量&物量。
整列した艦隊同士で正面からの撃ち合いか、艦隊の中に単艦で突っ込んで四方八方撃ちまくる。
このどちらかしかない。
ヤマトメカの魅力、艦隊戦の魅力なんてあったものではないし、戦闘に戦術もない。

地球艦隊の波動砲を撃つ陣形が描かれるが、これではマルチ隊形ではなくコピペ隊形だ。

2199の第3話「木星圏脱出」のガミラス艦4隻を相手にした戦闘の方が遥かに迫力があるし格好良い。
また第13話「異次元の狼」で見せた両軍の戦術の読み合いは単艦同士の戦闘でありながら、手に汗握るものでヤマトの危機を描けていたと思う。

そういった点で2202はかなり後退してしまった。

同インタビューでは他にもある。

G:(インタビュアー)
バージョンKは金田伊功さんの描いたようなコスモタイガーにすべく、翼端を下げているというモデルですよね。

羽原:
そうです。「ヤマト」で見られるケレン味の部分は、どうしても作画の良さゆえというところがあります。しかし、今回はCGだからといって逃げるのではなく、CGでも出せるケレン味があるということを証明したくて、CGの人といろいろ相談しながら作りました。まだまだ、いろいろ企んでおります。

G:
ケレン味という点でいうと、戦艦も実はサイズ違いで作られてると聞きました。

羽原:
そうです。カットによってサイズが全然違うんです。むしろ、サイズどころか、縦横比すらも違っています。「ゆうなぎ」と大戦艦がすれ違うシーンなんかだと、長さを倍以上伸ばしてるんです。

羽原:
たとえばガミラスのゼルグート級ってプラモで見ると結構デカいんですけれど、「2199」を作っていたとき「リアルサイズでやったら、画面になったときにそれほどでもなく見えるな」という悩みがあったんです。出渕さんも「あれ?もうちょっと長く見えるはずなんだけれどな?」とちらっと言われていました。それで、今回「2202」でも同じ悩みにぶつかってどうしようかと考えたとき、「よし、倍に伸ばしてしまおう」と。

羽原:
倍以上のカットもあったりしますよ。アンドロメダが「ゆうなぎ」の横を通過するシーンでもちょっと伸ばしていますし。でも、見ていて気付かないものでしょう?

申し訳ないが、これが結構気になる。
バカでかいメダルーサ級にカラクルム級。
首の折れた戦闘機、突然歪むヤマト。
正確なCGを用いた映像で迫力がないのは単なる技量不足イデア不足だ。
これを見映えがすると思っているのが驚きである。

大体、真横からのパースのかからない構図で首折れをやっているのだから本質をまるで理解していないと思われる。

戦闘シーンは引きの絵か、やたらと広角レンズで撮ったどアップのものばかりで、そのどアップになったメカも2199では丁寧にディテールアップされていたがそれもない。

羽原氏はケレン味を重視していると強調しているが、果たしてそうだろうか?

羽原氏の考えるケレン味は、
小さく見えるから艦そのものをでかくする。
絵的に寂しいから艦を多く配置する。
永遠にのようなコスモタイガーが描けないから、CGそのものを歪ませる。
など戦術や構図、設定を凝らずに工夫することを諦めた言い訳のように感じてならない。

期待も虚しく仕上げられた2202の戦闘描写はこれだけではないが長くなるので次回にする。