渋谷の羊。 (original) (raw)

おっとろしいほど冷え込んだ渋谷夜勤。
風はもはや痛いくらいだ。
実際には風と云えるほどでもない大気の緩慢な蠕動で。
透明な巨大蚯蚓の寝返りで。
けれど、もうやめてくださいと懇願したいくらいにほっぺたを刺してくる。
手袋のなかの指を噛んでくる。
先方にちょっとしたアクシデントがおきて、しばらくハチ公近くで待機とあいなった。
急遽必要となった道具をとりに元請が会社へと去って行ったのである。
現場はいわゆるお店をひろげたまんまの状態。
雑踏のなか、じっと番をし続けるはめに。

ナンパに励む青年が右往左往している。
誰からもリアクションを得られず、ひとり苦笑している。
自撮りでなにかの実況をしているおっさんが通り過ぎた。
ハチ公の銅像には外国人観光客たちが群れている。
入れ代わり立ち代わりにハチと写真を撮っていく。
リチャード・ギア主演でリメイクされた映画*1の影響だろうか。
しかしもっとも目立ったのが道を訊く外国人たちだ。

地下からハチ公口前へと出てきた外国人の多くが銀座線への乗り換えに迷っていた。
案内板に従って地上に出てきたのであろう。
階段をのぼり切ったその正面には工事の仮囲いが立ちふさがり。
そこに案内ポップが一枚掲示されてある。

どうやらこの矢印の意味が理解されていないようで。
ピカチョッキにヘルメット姿のあたしを見つけるや彼らは一様にこのポップを指さしてこう訊いてきた。

ギンザライン?

さすがにこの矢印は「引き返せ」と云う意味ではないことは伝わっているらしい。
正解は、通ってきた地下へとUターンではなく、左側の『地上へとターン』である。

よりわかりやすくするにはどう表記すればよいのだろう。

表記の工夫で人の流れは激変する。
説明の仕方や誘導の合図、道路の構造物でもおなじ。
日夜それらはあたまのいい人たちによって試行錯誤され、改良をつづけているのだろう。
われわれ迷える子羊たちのために。
そして大概の迷わぬ派はそれら迷える派を馬鹿にしておしまいにする。
けれどそれでは何の解決にもならない。
むろん己の状況判断能力、読解力のつたなさを棚にあげる子羊も一定数いる。「我こそはお客様であーる」「サービスがなっとらん」と社会に対してふんぞり返る連中。
それはそれで不憫なので置くとして。
置きっぱなしにするとして。
ともかく、彼ら迷える子羊たちを態よくあやつる側の仕事が必要になるのだな。社会には。
多くの子羊が迷っていることは事実なのだから。

子羊を迷わせたのは誰だ?

牧羊犬がけたたましく鳴き騒がなくとも子羊たちが滞りなく移動できる環境をつくる仕事がある。
標識や路面標示や店内の客の動線を考えたり設計をするひとたち。
己の工夫が目に見えて効果となってあらわれるのだからさぞかし楽しいことだろう。
いや、
それらは別に特別なことではない。
一般人のありふれた日常のなかにもある。
誰もが羊飼い的視点に立つ機会を、現場を、持っている。
その現場は、
どう注意しても、
諭しても、
意見しても、
叱っても、
怒っても、
教えても、
罰しても、思い通りに動いてくれない、もしくは是正してくれない他者に対するそのときに発生する。

「何度云ったらわかるのっ」

ふと、それは伝え方を誤りつづけているわたしの側の問題なのでは?
ならばと北風から太陽へと出力の質を変化させようと気づいたそのときに発生する。
誰に向けて?
旦那に、妻に、子どもに、御近所さんに。
職場の同僚に、部下に、後輩に、それぞれの仕事のお客さんに。

理屈も道義も通用しない。そう簡単には意志通りに動いてくれない。そんなやっかいな存在として「お客様は神」と云われ続けるのではないのか。
疫病神、貧乏神、死神…そして福の神、と神にもいろいろあるのが日本だ。
これらの神々は個人の願いを叶えたり、罰したりするためにあるのではない。
現世利益も因果応報も、正義も理屈もへったくれもない。
地震津波といった天災や病気のようなもので、それぞれ自然物のように勝手に存在している。
んで勝手にやってくる。
それらのっぴきならない神々をどう態よく味方につけるか。
いやちがう。最低でも敵にしないようにできるかだろう。
そのやりくりで日々の仕事は、日常は、ひいては人生は変わってくるのだから。

ときとして神々の方がお迷いになられるのよね。

人生は個人経営。
客商売。
かかわる人はみなお客だ。
直接・間接どちらにしても人とかかわらずに生きることはできない。
客には出禁も、業者には取引停止もできるが、そればかりしていたらいずれ行き詰る。

しかし、それにしてもだ、

元請はまだ戻らない。
ハチは偉いな。
このおっさん羊はいまにも凍えそうです。

☾☀闇生☆☽

追記。
男子トイレの小便器。
あれもこぼされないようにとこれまでにいろいろ改良されてきたけれど、決め手はなさそうですな。
便器の中に的(まと)を描いたり。
股の下まで便器が入り込むように細長くしたり。
『一歩前へ』の注意書きが流行ったこともあった。
結局、それでもこぼされ続けるので座りションキャンペーンが繰り広げられたなあ。

*1:『HACHI 約束の犬』