大糸・中央西線で活躍した数少ない原形 クハ55049 (蔵出し画像) (original) (raw)

ここのところ関西のオレンジ色の電車の紹介が続いたので、今回はスカイブルーの中央西線大糸線から。

大糸線は17m車を淘汰した際、主として首都圏から捻出された40系が投入されました。その後クモハ41は後により出力の大きいクモハ60か、あるいはセミクロスシート車のクモハ51, 54 に置き換えられましたが、クハ55の多くはそのまま使われました。しかし、原形のクハ55は比較的少数で、多くはサハ57を改造したクハでした。本車はその比較的数少ないクハ55の中の1輌です。

クハ55049 (長キマ) 1977.7 松本運転所

上は、中央西線篠ノ井線区間運転用にクモハ43810の相棒として勤めていた時のクハ55049です。客用扉は、前後が桟つきのプレスドアですが、真ん中のドアだけがプレスのないドアになっています。

クハ55049 (長キマ) 1977.7 松本運転所

こちらのサイドですが、1,2番目の客用扉はプレスなし、3番目の客用扉は桟つきのプレスドアです。

クハ55049 (長キマ) 1975.5 松本

こちらは大糸線の運用に就いていた時の姿です。こちらはしっかり幌が備えられています。幌枠、および幌は大糸線転入後設置されたものと思われます。当時大糸線の編成は、4, 6, 8輌と比較的長かったことと、トイレ設置の関係から編成を貫通させる必要があり幌を設置したものと思われます。なお当時北松本支所の車両は、上り寄り (東京方面) が奇数、下り寄り (南小谷、名古屋方面) が偶数でした。

当時、塩尻駅の駅配線は今日とは異なり、松本から中央西線に入るときは、塩尻で方向転換していました。東京方面から名古屋方面にスルーする配線だったためです。

クハ55049 (長キマ) 1975.5 松本

運転席です。

クハ55049 (長キマ) 1975.5 松本

上の写真、一番上切れていますが、乗務員室扉の上部に、55049 と書かれた後に × マークが書かれています。どこか直すべき故障個所でもあったのでしょうか。

クハ55049 (長キマ) 1975.5 松本

本車の車歴です。

1937.3.31 汽車会社東京支店製造 → 1937.4.23 使用開始 東シナ → 1937.10.23 東モセ → 1941.8.7 東ツヌ → 1950.10.20 東チタ → 1950.12.28 東ヒナ → 1966.4.15 長キマ → 1977.9.9 廃車 (長キマ)

この車輛、関東の車にしては車歴の詳細が分かっていますが、当時北松本運転支所で車歴簿を閲覧させていただけたためです。1937年に汽車会社東京支店で製造されました。登場時は砲弾型ヘッドライトを備えていました。当初山手線で使用されましたが、まもなく、京浜東北線の赤羽ー大宮間の電化に伴い 9.1 に開設されたばかりの下十条電車区に移動します。しかし4年後今度は総武線に移動します。頻繁に移動するのはあまり調子が良くない場合が多いので何か問題があったのかもしれません。1950年には一時的に横須賀線に移動します。1950年は東京、大阪圏で大規模な国電の配置見直しが行われた年ですが、本車がいた総武線は4扉車統一の対象ではありませんので、ちょっと不可解です。体よく他区から移ってきたより状態の良い車両と入れ替えられたのかもしれません。案の定、すぐ横浜線に移動します。ここで最も長い期間を過ごした後、大糸線の17m車置換え用として大糸線に移動します。しかし、1977年、中央西線区間運用の松本本所80系への移管のタイミングで廃車となってしまいました。

トイレもなく、セミクロスシートでもなかったことから廃車候補になってしまったものと思われます。また1975年に身延線から低屋根車等が移ってきたときに、サハ45 の代わりに中央西線区間運転に押し出されたクハ55は、この運用の1日の運用距離が比較的短く、かつトイレなしのクハの使用を前提としていたため、車両の不調等何らかの理由であまり大糸線で使いたくない車輛が充てられていた可能性が高いです。

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なお、以下のページに、1957年、横浜線時代で、ガーランドベンチレータと砲弾型前照灯が残っていた頃の (ただし客用ドアはプレスドアに交換済み) クハ55049 の写真が掲載されています。

旧形国電40系車両写真選集 金子元昭氏 (鉄道友の会東京支部埼玉サークルページ)

http://tetosa1970.g1.xrea.com/kyuugata40gata.pdf