黎明の啓示録:生まれて死ぬということ④死後へ繋げるメカニズム2 (original) (raw)
今回は、前回の記事の続きとなる。前回の記事はこちら↓。
前回は、どのように『主観』が推移していくかというお話をした。
このようにして、『私』の言動・思考・情報によって潜在意識に蓄えられた因子が、『私』が次に認知する『主観』を、連続性を伴いながら生み出す。
私は前回の記事で、死後の『主観』の方向性を定める有効な方法として、以下のふたつを挙げた。
1.善と定義した言動の推奨と、悪と定義した言動の回避を薦める教義がある
2.死後どうなるか?について具体的に教育を受ける環境がある
つまり、1の要素のように、善と定義した言動を『私』が行なったり、悪と定義した言動を『私』が避けるように努めることは、善に近しく悪に縁遠い『主観』を形作る因子を作るために必要な条件のひとつということだ。
ただ、あくまでも1の要素だけだと、人間とか生死がある存在という前提は、そのままになる。だから、人並みの範囲の善に近しい主観世界に留まることになる。
主観世界が、このような『現実』を超えるために必要になってくるのが、2の要素。
2.死後どうなるか?について具体的に教育を受ける環境がある
これが重要になってくる。
これは、『私』が主観世界を形作る因子の元になる、自身の言動・思考・情報のうち、『情報』ということになる。
伝統的な宗教では、その宗教が持つ世界観を、繰り返し繰り返し、刷り込まれるシステムが存在する。情報というのは、何度も聞き続けることで、『主観』にとって、だんだんと真実味を帯びるようになる性質を持つ。
つまり『現実』だと理解して、受け入れていくことで、『私』はそれを、次の主観世界の因子にすることができるというわけだ。
最初は半信半疑でも、徐々に真実味を帯びていく。その真実はやがて主観世界に食い込んで影響を及ぼしてしまう。情報には、そういう力がある。
だから、これを悪用する人もいるため、『情報』というのは、気を付けなければならないもののひとつだ。
さらに、伝統的な宗教における死生観というのは、ひとつの特徴があるかと思う。
それは『一度は死ぬことを受け入れる』ことだ。
主観世界の推移には、つねに連続性が伴う。だから、これは、主観世界が、その宗教観に則った死後へと連続性を伴いながら、スムーズに移行するために、とても有効な因子となるというわけだ。
このように、伝統的な宗教における死生観というのは、その宗教世界にとって、もっとも幸福になれると考えられる死後の主観世界へと推移するためのテクニックが詰まっているようなものだ。だから、「上手に構成されているんだなあ」と感心したわけだ。
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もうひとつ、個人的に思う『上手に構成されている』特徴に、『文化的な背景』というものも存在する。各々の伝統的宗教は、その土地や文化や気候などに合わせた、最も違和感が無い世界観を持っているはずだ。
それは、主観世界が『現実』としてスムーズに受け入れやすく推移しやすい架け橋となる。違和感を覚えにくいからだ。
当然のことだが、『私』の主観世界が『現実』と認識するのは、元々ある現実と言う名の主観世界と近ければ近いほど、重なる部分が多ければ多いほど、簡単になる。
1000メートル先の的に矢を当てるよりも、1メートル先の的に矢を当てる方がずっと簡単なことと似ている。
逆に、自分自身の元からある文化や価値観に遠ければ遠いほど、その主観を新たに『現実』とする難度は上がる。その場合は、いつまでも違和感がある非現実にしか感じられないということになる。
だから、異なる文化であればあるほど、主観世界が離れれば離れているほどに、相手にとっての『現実』が、なぜ現実として受け入れられているのか、まったく理解ができないという事態が起きる。
それは、自己にとっては理解が及ばないレベルの嘘っぱちにしか見えない。それなのに、他者にとっては揺るぎない現実という状況が起きたりする。
とは言え、多くは、そこまで主観世界が離れた者同士が出会うことは、まずありえないが。なぜなら、互いの認識に入り合うということは、その時点で主観世界に重なる部分があるということでもある。
私たちが『人間』として生まれているという時点で、私たちは、多くの主観世界が重なり合っている。
さらに細かく言うと、この主観の重なり合うところは、より体験を共有する機会が多い相手、同じ体験や似た体験をする機会が多い相手であるほど、多い傾向がある。