八要(『形意武術教科書』より) (original) (raw)

学者は、その大をなさなければ、たとえ多くの事をしても何になるのだろう。蘇子も言っているように、文を為すことがこのようであるならば、武を習うのもまた同じである。前篇の五行で言う劈崩炮鑽横は、武術の大綱に過ぎず、その極めて重要な部分を摘んだに過ぎない。もし細かい条目を言わなければ、学ぶ者が入手する方法がなく、広大な大海で、ただ洋を望んで嘆くのみで、岸を得ることは難しい。ただ要領を明確に挙げ、学ぶ者に指針を得させ、簡潔に磨き上げ、岐路に迷い込ませず、以て後に入室昇堂し、おそらくは中の真の趣を得て、岳武穆の功は朽ちることがないだろう。これによって観れば、まず八要を講じなければ功を為すことはできない。八要とは何か。学ぶ者のために詳しく解説を試みる。

第一に、三星とは何かを明らかにすべきである。三星とは両眼と心である。人の一身において、心は元帥、眼は先鋒、心は一身の主であるため、それを三軍の司令に比する。衆の死生、国の存亡がかかっている。必ず万里を明察し、過ちなく計算し、いわゆる帷幄の中で計画し、千里の外で勝利を決する、それでこそ主帥の責任に値する。眼には鑑察の能力があり、突撃して陣を踏み入る首領に比すべきである。また単に血気の勇に頼るべきではなく、必ず先ず対陣の虚実を窺い、敵の短所長所を察し、それで初めて功があるだろう。術譜の言う三星を明らかにすれば一力を得る。つまり、眼が明らかでなければ、手足の置き所がなく、心が明らかでなければ一身の依るところがないのである。

第二に、三尖要対である。三尖とは何か。鼻尖、手尖、脚尖がこれである。三尖は三峰のように、対峙して偏りがない。その間において、鼻が手に対していなければ、これは上節が明らかでなく、手が脚に対していなければ、これは中節が明らかでなく、脚が手鼻に対していなければ、これは下節が明らかでない。上節が明らかでなければ、これは気が頂に貫かず、中節が明らかでなければ、これは腹腰が均しく慵く、下節が明らかでなければ、両脚が斜めに傾く。例えば鼎に三足があり、一つを欠けば不可である。術譜中の身法論に言う。前に俯さず、後に仰がず、左に斜めにならず、右に傾いてはならない、前に一直線に出で、後ろに一直線に退く、これはまさに三尖必対の法を言うのである。学ぶ者がこれを解せば、自ずと身体不正の患いはない。

第三に、三意要連である。三意とは何か。進意、顧意、晒意これである。進があって顧がなければ、進もまた漠然としている。顧があって晒がなければ、顧も堅固ではない。晒があって進がなければ、顧晒も功がない。いわゆる手が動いて脚が動かなければ漠然とし、脚が動いて手が動かないのも漠然としている。術譜に言う、三意が相連でなければ、必ず浅い芸である。また脚が中門を踏んで地位を奪う、これは神手も防ぎ難い。これによって観れば、三意が相連であれば三人が心を同じくすれば力は金を断つことができるようである。これは必然の勢である。学ぶ者は知らなければならない。

第四に、三前である。三前とは何かを知るべきである。眼前、手前、脚前これである。眼前が明らかでなければ法を行うのが難しく、手前が明らかでなければ拳を出しても功がなく、脚前が明らかでなければ踏む所が全て空である。これは武術家の大きな害である。術譜に言う、眼は毒、手は奸であるべきで、脚は中門を踏みて内に鑽る。また、眼には鑑察の精があり、手には撥転の能があり、脚には行逞の功がある。これを推せば、三前が明らかでなければ、諸法を行うのが難しく、三前がもし明らかであれば、武術は均しく通じる。学ぶ者が形意武術を講じようとするなら、三前を離れて何をするのか。

第五に、内要提である。内とは、五内である。諺に言う、腹内が精でなければ、手脚は均しく慵い。腹内が一度精になれば四肢はみな平である。これは内提を最も重要とするのである。それをどうするか。学ぶ者は必ず肩を垂らして肘を落とし、気を吸って胸を開き、中腕を催すべきである。丹田に気が満ちて上は頂に貫き、肛門が自ら提起し、全身の血脈が霊通し、些かも滞りがない。いわゆる心が一度静かになれば腹内は皆静かになる。『大学』の誠意正心の功も、またこの外にない。これは慎独の功で、見ることも顕わすこともできない。学ぶ者はその隠微なるを因りてこれを疎かにすべきではない。

第六に、外要随である。外とは、四肢である。要随とは内と隔たりがあってはならないということである。心は元帥、四肢は将官である。心が動いて身が動かなければ、いわゆる将帥が合わず、行っても必ず功がなく、敗を取る道である。つまり心が一度動けば、全身が共に動く。心が動いて身が動かなければ則ち漠然とし、身が動いて心が動かないのも漠然としている。術譜に言う、五行合一の処、胆を放てば即ち功を成す。いわゆる五行とは、内外の五行を言うのである。もし相合すれば、内外は一のようである。何を動かさなければ即ち勝つことを憂えるのか。ただ学ぶ者の誠中形外、勤めて訓練を加え、このくどくどしい告誡の苦心に負わないことを望むのみである。

第七に、歯要叩である。達摩の『易筋経』に言う。学ぶ者がこの術を練習しようと欲するなら、必ず先ず歯を叩いて三回し、そのあとに法に従って演習する。歯は骨の先端であるため、歯が一度動けば、全身が共に動く。人が睡眠中に声を聞いて目覚めるようなものである。武術で歯を叩くというのは、これは口を閉じしめ、気を口から出ないようにすることである。これは丹田を養う第一の重要な着眼点である。人が力を動かそうとすれば、何事を問わず、総じて歯を合わせて気を吸い、力が方に伸びる。即ち人が走り出す時、もしその口を開けば、数歩の間に、人は必ず上気する。これは一つの明証である。諸公が信じないなら、これを試してみてほしい。そうすればこの誣りではないことを知るだろう。学ぶ者がこれを解せば、既に武術中の捷径を得たのである。

第八に、舌要頂である。これは舌先を上顎に付けることである。舌は肉の先端であり、これは全身の血脈が関わる所である。舌が一度上顎に付けば、全身の血脈が均しく活発になる。また心の先端である。譜に言う、舌と心を合わせて多く一精がある。ここに見るべきである。これは上篇の歯を叩くことと共に暗功に関わる。俗に言う、明力は練り易く、暗功は学び難い。これを明らかにしなければ、朝に乾き夕に惕えて、四肢を練習するといっても、進み難く退き易く、どうして久しくして変わらないことがあろうか。これを戦陣に譬えれば、軍将の功は、旗鼓の力に関係しないとはいえ、しかし旗が倒れ鼓が止んで、軍将の勇力は因りて振るわない。これは必ず敗れる道である。学ぶ者がこれを解せば、自ら歯と舌の要処を明らかにし、少しもその一つを欠くべきではない。

以上四篇を初級とし、学ぶ者の入門の基礎とする。故に修身を主脳とし、武術がこれに次ぎ、五行八要がまたこれに次ぐ。学ぶ者がこれより入手すれば、既に形意武術の大略を得たのである。また行くのは遠きより、登るのは高きより、卑きより自ずからなるの意である。最も必ず勤めて訓練を加え、日々月々、熟して巧みになるべきである。孟子が言う、梓匠輪輿は、人と規矩するも、人をして巧みならしめることはできない。つまり自ら規矩の中に身を置くのである。形意武術を学ぶ諸公は、勉めなければならない。

張占魁『形意武術教科書』逸文武術文化有限公司より