『資本論』とともに歩む (original) (raw)

黒田寛一の哲学をわがものに6ー3

「「対象化=物化」というのが、すでに黒田寛一資本論以後百年』にあった」という文書が北井ブログに6月27日付で載った

どうしてばかげたことを書くのか、と思いつつ、以下にその批判を書く。

まず、全文を紹介する。

【わが仲間が、1968年に出版された、黒田寛一資本論以後百年』に「対象化=物化」というのがある、と教えてくれた。

そうすると、黒田寛一は最初からこういう把握だった、ということになる。私はおどろいた。

そこには、スターリン主義者への批判として、こう書かれてあった。

「……商品に対象化=物化されている労働をば商品を対象化=生産する労働にすりかえて解釈している以上、それは完全に空語でしかないのである。」(黒田寛一資本論以後百年』こぶし書房、1968年刊、70頁)

私は、出版された時点でこの本を読んだときに、この部分に何も感じずに読みすすんだのだ、と思われる。

私は、黒田その人に学んで、資本制的物化にかんしては、人と人との関係が物と物との関係としてあらわれる、人格の物化と物の人格化というように把握していた。「対象化=物化」というように把握したことはなかった。(筆者:当たり前だ!!)

われわれは、「商品に対象化されている労働」「対象化された労働」というようにいうのであるが、「対象化」という概念にかんしては、これを、労働する主体を主語にしていうときには、「労働者はみずからの労働力を対象化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に対象化する」というように表現するわけである。この「対象化」いう語を「物化」という語におきかえて、「労働者はみずからの労働力を物化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に物化する」というようにいうことはできない。そんなふうにいえば、意味不明である。「対象化」と「物化」とは異なる概念なのである。(筆者:これまた当たり前だ!!)

もしも、「物質化」という言語体をつかい、「労働者はみずからの労働力を物質化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に物質化する」というように表現するのであるならば、これはいえる。この「物質化」は「対象化」と同じ意味になる。

労働者がみずからの労働力を木材に対象化して机をつくったからといって、これは、労働が机に物化した、(筆者:当たり前、この労働者は資本の直接的生産過程にいないのか?)ということではない。生産物(筆者:どのような?)が商品(筆者:商品それ自体が生産物の物化されたものではないのか?)として交換されるという諸条件のもとでは、この机が頭で立って踊りだす、という転倒現象が問題なのである。

それにもかかわらず、黒田寛一が最初から「対象化=物化」と把握した、ということは一体どういうことなのであろうか。】

どうしたら、松代=北井のように黒田が「対象化=物化」と書いている、といえるのだろうか?

「労働者はみずからの労働力を対象化する」「労働者はみずからの労働力を自然素材に対象化する」とはであろう。その生産物は「価値、使用価値」という規定はできない。人間労働一般のレベルの話だ。

「商品に対象化されている労働」、(商品に)「対象化された労働」とはであり、黒田は「他人のための使用価値」「同時に価値であるところの他人のための使用価値」など、つまり商品の生産について論じているのだ。この反のレベルの商品の実体の規定に関して論じているのである。

このに対しから解釈し、しかも「対象化=物化されている」という表現を「対象化する」「物化する」と言い換える操作を行い、「対象化」と同義語として「物化」を黒田は把握しているのだという藁人形をでっちあげ批判したつもりになっている。松代=北井は、「疎外論」を論じていた時と同じように、理論のレベル理論の領域を無視し、自分の主張の土俵で批判対象の藁人形をでっちあげる、このようなことを行うことは、この男の専売特許ではある。

についてもう少しかみ砕いてわかりやすく説明してみる。

始元的商品とは、「直接的には労働力商品であり、媒介的には同時に、この労働力商品の担い手である賃労働者=プロレタリアの生産した「資本としての生産物」たる資本制商品である。この意味において商品はすでに物化されたものであるのだ。このように黒田が始元的商品を規定していることを、松代=北井は忘れたのだろうか?

したがって、価値交換関係を論ずる際にも商品それ自体がすでに物化されたプロレタリア=労働力商品である、ということが前提となっている。

このような黒田は、スターリニスト、宇野弘蔵対馬忠行らの批判を通して次のような1、2、3のようなことを述べている。スターリニストはともかく、宇野弘蔵対馬忠行などが、マルクスの論述を、なぜ「生きた労働」であるかのように解釈してしまうのか、という検討を黒田が行っているのである。宇野弘蔵対馬忠行らの固有な限界のみならず、マルクス資本論』において(反⇔正′)の中の正′の区別があいまいな点も黒田は指摘している。

この労働力商品、並びに「資本としての生産物たる」資本制商品の実体は

1(「対象化する労働」ではなく)「対象化された労働」である。

2(「流動状態にある労働」ではなく)「凝固した労働」である。

3(「生きた労働」「生産する労働」ではなく)「資本制的に物化された労働」である。

それぞれ批判対象との関係で、アングルの違いがあるということであろう。これらが、価値=交換関係を媒介として「商品にあらわされる労働の二重性」として、マルクスは「抽象的人間労働」「具体的有用労働」という規定をしていると黒田はとらえている。

つまり、商品の価値の実体に対象化され凝固され物化されているものは、プロレタリア=賃労働者の資本制的に疎外された労働であるのであるが、黒田は「対象化され凝固され物化された労働」と表現し、「物化された労働」をあえて加えて、論じているのである。

我々において重要なことは、物化された資本制生産関係の普遍的運動法則を解明したのが『資本論』である、ということなのである。同時にその「裏側では労働力商品にまで物化されているプロレタリアの自己内反省としての意義を持つものとして」『資本論』は展開されているととらえた梯明秀から黒田が学び、主体化したからこそ言えることである。さらに、反スターリン的な思想を確立するための基本的なものを提起しているという宇野弘蔵。「商品形態が資本主義社会の基本的な規定をなすということは、労働力が商品化することによって、生産過程自身が商品形態を通して実現されるということにある」という彼の主張の画期的な意義、そして価値法則と経済原則とを峻別した意義を受けとめ、その限界を批判検討してきたのが黒田なのである。(この宇野弘蔵の主張は「人間生活の社会的生産」をとし、資本制的に物化され、疎外された生産過程、商品の生産をとして受け止めることができる。)

この宇野弘蔵の「労働力商品の経済哲学」も、プロレタリア的認識の進化にかかわる円環と学問的体系そのものの円環という梯明秀の「二重の円環構造」も、ともにマルクス資本論』において直接的に論じられてはいないところのものなのであり。梯明秀の「経済哲学」、宇野弘蔵の「労働力商品の経済哲学」において明らかにされたものなのである。それは、『資本論』のたんなる経済学的解釈の地平を大きく超えているものなのである。

我々の認識=思惟活動は常に科学することと同時に哲学することであるということを、を肝に銘じなければならないゆえんである。「始元的商品とその内的矛盾の諸規定から価値形態(商品の内的矛盾の外的対立における運動)へ、さらに商品から分離した貨幣へ、またその資本への転化、生産過程を通じての実体的資本の自己運動、資本の流通過程を媒介とする再生産過程、これらを基礎とした資本制生産の総過程――というように展開されていく商品の自己運動の学問的体系が『資本論』の体系」である、のは言うまでもない。この『資本論』を我々は、経済学=哲学として読み主体化し「労働力商品として物化された自己の現実性と必然性」をつかみとることが何よりも肝要なのである。

追記:「また黒田寛一の経済学に、わけのわからないものを発見した――「労働力商品体」??」という松代=北井の文章を見た。

これまた、彼の批判は支離滅裂を絵に描いた様なものである。資本の直接的生産過程での資本による「労働力商品の使用価値の消費」の問題を黒田は論じているのである。 そこでは直接的生産過程の前提としての労働力市場での「労働力商品の価値」の購買と販売についてはさしあたり捨象している。そして、この「資本の直接的生産過程」での「労働力商品の使用価値」を賃労働者の「労働力としての機能」と黒田はとらえている、ということである。商品の実体を黒田は「商品体(ボディ)」と表現しているだけである。

素直に読めばよい事柄である。

2025.06.28

【66】黒田寛一の哲学をわがものに6-2

―若きマルクスの苦闘をわがものに

1 「資本家を打倒せよ!」と、どうしたら言えるのだろうか?

マルクスは、まさに仲間である労働者の労働がどのようなものであるのかを徹底的にあばきだし、それが、疎外された労働であることを明らかにして、この疎外された労働を廃絶するために、労働者にとっては他の人間をなす資本家を打倒しよう、と熱烈に呼びかけたのだ、と私は感じた」と松代=北井は言っている。

これは独りよがりで即物的な解釈でしかない。マルクスは「疎外された労働」という文章において「資本家を打倒しよう」となどとはひと言も言っていない。そんな無責任なことは書いてはいない。精神的武器となるべき「哲学」のないプロレタリアートが資本家を打倒しようとすることなど無謀極まりないではないか? マルクスプロレタリアートに「資本家を打倒しよう」などと無責任かつ軽薄なことを言うわけがない。マルクスの実践的立場に身を映し入れて読めば直ちにわかることだ。

松代=北井は自分の問題意識に引き寄せて、現実を加工して描き出しているのだ。

このかぎりにおいては、他愛もない松代=北井のたわごととしてすまようなことではある。

しかし、そのでたらめな解釈を絶対化し、黒田を批判するということは許されるものではない。

「彼自身は、20(21)世紀現代の人間の資本制的疎外、なかんずくプロレタリアの物化され、疎外された実存から無縁なところに立っており、「《場の自覚》を出発点」とすることが欠落している、という決定的な問題が露呈している」と私が根底から批判したことに大慌てでマルクスの「疎外された労働」を読み始めたのであろう。(2024.09.21【53】黒田寛一の哲学をわがものに 5の4)

マルクスは、アダム・スミスの『国富論』の批判を通じて市民社会、すなわち私有財産の批判を目指した。彼は、その「**私有財産の関係」が「人間が、たんなる労働人間として、したがって毎日その充実した無から絶対無へ、彼の社会的な、それゆえにその現実的な非現存へと転落するかもしれないものとして抽象的に実存する」というプロレタリアートをつくり出している、**と分析した。このようなプロレタリアートの疎外された実存に怒りを燃やし、このプロレタリアートの労働の場所的な構造の分析を行い、私有財産の本質が「疎外された労働」であるとつかみとったのである。それゆえに、私有財産止揚するということは「社会の解放、労働者の解放が政治的なかたちで表明され」同時に、それだけではなく「一般的人間的開放が含まれる」と結論を導き出している。しかし、「疎外された労働」で述べられている「人間からの人間の疎外」は類的本質からの疎外の枠内であった。『経済学・哲学草稿』の第三草稿において、マルクスは、人間は社会的存在としての共同体的存在であるという自覚に立ち、「完成した人間主義」「完成した自然主義」こそが私有財産を積極的に止揚した共産主義であるとし、このような共産主義こそ、人間と自然との、人間と人間との諸対立を止揚した人間本来の姿(共同体的人間)の社会を実現するものだ、と結論している。

だからこそマルクスマルクスは、プロレタリアの疎外された労働を止揚するためには「私有財産を積極的に止揚しなければならない」、と論じているのである。

松代=北井は、このようなプロレタリアートの人間解放をめざすマルクスの精神的営為と、マルクス共産主義論をしっかりと受け止めることができないのである。

私有財産止揚マルクス)→(抽象的な)資本の止揚→(自己増殖する価値としての)資本の止揚→「資本家を打倒」と頭が回ったのであろう。合理的な思考法による頭の良さをひけらかしている。困ったものだ。

2 「マルクスの現実変革の立場=変革的実践の立場とは」いかなるものであるのか
それを知るには、1844年、マルクスが「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」と連続的に執筆した論文に詳しい。同時に『経済学・哲学草稿』も草稿のままであるが執筆している。

特に「ヘーゲル法哲学批判序論」(1843年末1844年1月執筆「独仏年誌」1844年)と対決してゆかねばならない。

「ドイツの唯一つ実践的に可能な解放は、人間を人間の最高の在り方と言明するところの理論の立場における解放である。・・・ドイツ人の解放は人間の解放である。この解放の頭脳は哲学、心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアート揚棄なしには己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには己を揚棄しえない。」

このあまりにも有名な文章の中にマルクスの実践的立場とともに、プロレタリアートによる人間解放のために今何をなすべきかという彼の問題意識が示されている。

プロレタリアート揚棄なしには己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには己を揚棄しえない、というこの「哲学」を確立することが大切なのである。プロレタリアートの「精神的武器」たる哲学を確立することこそが己を実現するために必要なのである。

このような苦闘を重ねてきたマルクスに身を映し入れ、マルクスとともに考えてゆくことが大切なのだ。

宗教的自己疎外の開放は、「人間の人間的開放」でなければならず、「個人的人間でありながら、……類的存在となったとき」達成される、ということをつかみとったマルクスが、この人間解放の実践的主体であるプロレタリアートを「発見」したのだ。しかし、実存する「共産主義」は私有財産の平等化を唱えるものであった。また、このような共産主義に対立する社会主義では空想的で「哲学」足りえないのである。

「社会そのものが人間を人間として生産するのと同じように社会は人間によって生産されている。……自然の人間的本質は、社会的人間にとって初めて現存する。………ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存するからである。ここにはじめて人間の自然的なあり方が、彼の人間的なあり方となっており、自然が彼にとって人間となっているのである。それゆえ、社会は人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である。」

「完成した人間主義」「完成した自然主義」こそが私有財産を積極的止揚した共産主義であるとし、このような共産主義を明らかにしたのが、ほかならぬマルクスその人である。このようなマルクスの精神的営為を、その画期的な意義とともにわがものとすることが、絶対に必要なのだ。

おのずと、マルクスの『経済学・哲学草稿』における「疎外された労働」の革命的な意義も明らかになる。

3 「この私が、いま現にある・自己の存在そのものを否定する意志をおのれ自身に創造することは」、いかにして可能なのか?

いうまでもないことであるが、それは、マルクスの実存を己のものとする以外にない。黒田がそうしたように、一切の資本主義的疎外の否定的体現者であるプロレタリアートの実存を己のものとしてゆく以外にない。

1844年、マルクスは「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」と連続的に論文を執筆した。同時に『経済学・哲学草稿』も草稿のままであるが執筆しているのであるが、「ヘーゲル法哲学批判序論」(1843年末1844年1月執筆「独仏年誌」1844年)との主体的対決が必要である。

「貧困それ自体は何人をも賤民としない」とし、ブルジョアジーのみが「人間といわれる表象の具体的存在である」、というヘーゲルがとらえた「賤民」としてのプロレタリアート

マルクスは、このヘーゲルが言う「賤民」と規定したプロレタリアートを人間の人間的解放の主体ととらえたのだ。したがって、ただちに「経験的事実としてのプロレタリアートをいみするもの」ではなく、「なお学問的地平での演繹的展開としてつかみとられた」(黒田)概念でしかないとはいえ「マルクスの主体的実存ときりはなしがたくむすびついている」のである。ましてや、このプロレタリアートという概念は、フランス唯物論空想的社会主義ヘーゲル観念論哲学・イギリス古典派経済学などと格闘してつかみとったマルクスの独自の概念である。

とはいえ

「プロレタリアには、革命にて鉄鎖のほかに失うものは何もない。彼らには獲得すべき全世界がある。

全世界のプロレタリア団結せよ!」

という階級としてのプロレタリアートという概念ではない、いうことは、自明の理である。

すなわち、

「この市民社会の一階級は市民社会のいかなる階級でもなく、この市民社会の一身分はあらゆる身分の解消であり、この市民社会の一つの圏はその全般的苦悩のゆえに或る全般的性格を所有していて、いかなる特別な権利をも要求することはない。けだしそれが蒙るのはいかなる特別な不正でもなくて、ずばり不正そのものだからである。それはもはや何か歴史的な権限ではなくて、わずかになお人間的な権限ののみを拠り所にしうるのであり、ドイツ国家制度の諸帰結に一面的に対立しているのではなくて、それの諸前提に全面的に対立しているのであり、とどのつまりそれは己を社会の爾余(じよ)のあらゆる圏を解放することなしには、己を解放できない圏であり、一言にして尽くせば、人間の全き喪失であり、それゆえにただ人間の全き取り戻しによってのみ己れ自身を獲得しうる圏である。社会の解消が一つの特殊な身分として存在するのがプロレタリアートにほかならぬ。」(※黒田も当該箇所を『ヘーゲルマルクス』に引用している)

「**プロレタリアート私有財産の否定を要求する場合、それは社会がそのプロレタリアートの原理に高めてきたもの、プロレタリアートのうちに社会の否定的成果としてのプロレタリアートの手を借りるまでもなく体現されているもの、をただ社会の原理に高め上げるにすぎない。**」

「ドイツの唯一つ実践的に可能な解放は、人間を人間の最高の在り方と言明するところの理論的立場における解放である。・・・ドイツ人の解放は人間の解放である。この解放の頭脳は哲学、心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアート揚棄なしには己を実現しえず、プロレタリアートは哲学の実現なしには己を揚棄しえない。」

これこそ、プロレタリアートの疎外された実存を己のものととした、マルクスの叙述である。

黒田は、このような若きマルクスによって明らかにされた、プロレタリアートの疎外された実存とその自覚を「市民社会の一存在であるにもかかわらず、市民社会の例外的存在であるプロレタリアート、人間の完全な喪失(人間の商品化・物化)であるがゆえに、人間の完全なとりもどしを要求せざるをえない**プロレタリアート存在論的自覚**」として、経済学的(科学的認識)に基礎づけられてはいないが「人間の疎外論から帰結されたイデー」として、とらえ返したのである。

「人間意識におけるイデーの開示」ということが全く理解できない松代=北井の問題はここでは問わない。しかし、あるべき姿から自分はそうなっていない、などという思考法から、マルクスのイデーを理解するということはあまりにも愚かである。

問題は、例えば、「プロレタリアート私有財産の否定を要求する場合、それは社会がそのプロレタリアートの原理に高めてきたもの、プロレタリアートのうちに社会の否定的成果としてのプロレタリアートの手を借りるまでもなく体現されているもの、をただ社会の原理に高め上げるにすぎない」というマルクスのこの一文のプロレタリアート」を私と置き換えて読めるか、あるいはまた「一言にして尽くせば、人間の全き喪失であり、それゆえにただ人間の全き取り戻しによってのみ己れ自身を獲得しうる圏である」と、いえるような私の疎外された実存を自覚できるか、という問題である。

マルクスの、あるいは円熟したマルクスの経済学や種々その他の革命論につらぬかれているマルクスの「疎外された労働論」あるいは「マルクスの人間論」――これは、プロレタリア革命をめざす我々の精神的支柱として己の内に生きているのである。

松井=北井においては、このことはどうであるのか?

2025.05.17 藤川一久

探究派の実践論と疎外論

「この文章は探究派の「実践論」が黒田の実践論と全く別物である、ということを定式化したものとして記念碑的なものである。
私は、このことを明らかにし、彼らの黒田への批判の無意味性を確認して、以後関知しないこととする。
時間の無駄だ!!」
このように書いたのは、2024年9月15日【50】「黒田寛一の哲学をわがものに 5の1」でである。

しかし、現在の探究派の理論があまりにもひどすぎるので、ひとこと言わずにおれなかったので、記す。

「トランプのあがき」と題する『探究派』機関誌の宣伝が北井のブログで紹介されたことを知ったのは、4月25日のことである。私のこのブログの読者からの情報である。
彼から言われるままに、北井ブログにアクセスすると、松代秀樹が筆者の「黒田寛一マルクス主義田辺元の絶対随順の哲学を融合させようとしたことがおかしいのである」というタイトルがある、この機関誌の126頁がアップされている。
私は、松代の論文の127頁以降の展開には差し当たって興味がないし、読んではいない。ついでに、北井がブログに書いている他のことについて、理論・思想の貧困の極みを露呈させているものがあったので、それについて書くことにした。

Ⅰ 「黒田寛一マルクス主義田辺元の絶対随順の哲学を融合させようとした」??

イ)マルクス主義田辺元の絶対随順の哲学を融合
ロ)マルクス主義西田幾多郎田辺元の哲学とを合体させ融合
ハ)マルクスの実践的唯物論田辺元の哲学・・・との融合
二)マルクスの・実践的唯物論と全自然史の哲学、この全自然史の哲学のほうを田辺元の「死に於いて生きる」の哲学を唯物論化したものでもっておきかえようとした
このイ)、ロ)、ハ)は、松代=北井お得意の政治的レッテル張りである。
言いたいことは、「融合」ではなく、二)全自然史の哲学のほうを田辺元の「死に於いて生きる」の哲学を唯物論化したものでもっておきかえようとした、ということに嚙みついた、ということである。
しかし、黒田が、マルクスの実践的唯物論西田幾多郎の「死んで生きる」の哲学を唯物論化して置き替えたのだ、と考えられないところに相変わらず北井の理解力の一面性、一知半解が見て取れる。かの梯明秀も論理的解明ができなかったマルクスの実践的唯物論を、「場所的=過程的弁証法、過程的=場所的弁証法」として明らかにしたのは、実に黒田寛一なのだから。
いずれにせよ、松代=北井は、黒田が「田辺元の哲学を唯物論化したもの」をマルクス主義に置き替えたという藁人形をつくり上げ、これに難癖を浴びせかけている、ということなのである。
人間はそもそも「出発点において能限定の・すなわち変革的実践の・パトスと意欲にもえている」のであり、それは「場所的現在の資本制社会に実存するプロレタリアの本性」である、などという松代=北井の哲からして、黒田の主体性論を切って捨てている、ということの証左なのである。呆れかえらんばかりのその所業は、己の内にあった「黒田」の清算でしかない。自分の理解力を越えた「黒田の追求」と「その成果」をただただ盲目的に拝跪していただけのことであるのだが、その様は、哀れというしかない。黒田の明らかにした「実践論」、「一般的には人間実践をその背後からつき動かし実践的決意を確固たらしめるもの――これは、有限な生命個体としての人間存在の内にひらかれ・おくられる無限なものなのである。自己疎外と物化についての実践的直観をばねにして、自然史的過程の無限な発展を自己の底に観じ、この無限なものに接する刹那に、賃労働者は真に変革主体となるのである」 (『実践と場所』第二巻)ということはわからない、理解できないと素直に言えばよいだけのことであるのに、それができないのである。
対象を変革するために認識する、人間はそういう「物質的=精神的能力」が備わっているのであり、この「精神的=物質的能力」を高める、という松代=北井の哲学。彼においての精神活動は、このことに限定してしか行われないのだ。いわんや、「何のために生きるか——それをとらえようとすれば、存在は虚無のなかにすべり去ってゆく」(「過渡期の意識」)「個人の意識とそれを越えるものとの関係乃至は、この超えてあることの意味を問うこと」(「唯物論と自覚の問題」)という梅本の「精神活動」など絶対に理解不能であり、西田・田辺のような精神活動などなおさらである。
自分の理解力をはるかに超えた、常に自己存在を問い続けてきた黒田の「実践論」———この黒田の「問題意識と目的意識がおかしい」「出発点がくるっている」とは!!
松井=北井は、みじめな己をこそ見つめた方がよい(このような精神的能力のない人間には無理だろうが……)。

Ⅱ 松代=北井の「疎外された労働」論に関する黒田への悪態

私は先の読者からわれわれの「疎外(革命)論」にかかわることについても北井がブログに書いてる、と教えられたので読んでみた。なるほど、あまりにも醜悪なので、ひとこと述べることにした。《 》内は北井ブログそのもののコピペである。

読者の皆さんも考えてほしい。

《昨日このブログに掲載したマルクスの「疎外された労働」を読んだでしょうか。この「疎外された労働」を読んでどう感じ・どう考えたでしょうか。
マルクスは、まさに仲間である労働者の労働がどのようなものであるのかを徹底的にあばきだし、それが、疎外された労働であることを明らかにして、この疎外された労働を廃絶するために、労働者にとっては他の人間をなす資本家を打倒しよう、と熱烈に呼びかけたのだ、と私は感じたのだが、どうだろうか》

【私の感想】
このような松代=北井に対して私は、以下のような疑問が直ちに沸いてきた。なにゆえにプロレタリアの労働が疎外されるのか? 誰が何のためにプロレタリアに疎外された労働を強いるのか? プロレタリア及びプロレタリアの(疎外された)労働と非労働者との関係についての松代=北井の分析・認識=自覚もない。この段階のマルクスは「私有財産」=資本というとらえ方は画期的であるとはいえ、まだ抽象的であり、私有財産の積極的止揚を行う「完全な共産主義」を目指していた、といえる。
しかも、資本の直接的生産過程の結果において「平等な商品所有者の関係という外観」が消滅する「労働市場」での無一物の労働者=商品人間と貨幣所有者=資本家が相まみえる、この「労働市場」での反省関係に於いて自覚するプロレタリアを何ら考慮しないまま、「資本家を打倒しよう」とは、まるで「ラダイト」そのものではないか?

マルクスの「疎外された労働」論は、存在論の砂漠のなかになげこまれてしまったのではないか
黒田寛一は『社会の弁証法』において、マルクスの論述にのっとり、これを存在論として意識的に整序して、「疎外された労働」にかんする諸規定を展開している。
だが、こうすることによって、黒田は、マルクスが、現存在する労働者の労働を否定した・彼の実践的立場と内面的営為を消失させ、その精神活動の産物としての「疎外された労働」論を、自己の・社会の存在論のなかに存在論的展開として吸収してしまったのではないだろうか。このようにして、マルクスの「疎外された労働」論は、存在論の砂漠になげこまれ、味もそっけもないものとなったのではないだろうか》

【私の感想】
松代=北井が存在論を展開していることの中身の理解そのものがおかしいだけである。さらに、黒田は、「疎外された労働」論を社会存在論に封じ込めてはいない。プロレタリアの自覚を論じている『プロレタリア的人間の論理』をじっくりと読んでみることだ。つまみ食いはやめよ!!
黒田は、マルクスの人間疎外論を、プロレタリアートの自己解放をめざす、「われわれの精神的支柱」としているのである。

マルクスが、労働のあるべき姿・共産主義的人間像を明らかにしたことに、「疎外された労働」論の意義があるのだろうか
黒田寛一は言った。
マルクスの「疎外された労働」論の意義は、「人間の自己疎外の止揚によって実現されるべき疎外されない人間、つまり種属存在としての人間による生産的労働にかんする本質論、あるいは共産主義的人間論」(『マルクス主義形成の論理』53頁)を確立したことにある、と。
だが、マルクスが、実現されるべき疎外されない人間=共産主義的人間論を明らかにしたことに、彼が「疎外された労働」論を書いた意義があるのであろうか。
このように理解するのは、マルクスの現実変革の立場=変革的実践の立場をわがものとしていないものではないだろうか。
労働者や学生、とりわけ学生は、現状をひっくりかえして創造されるべき社会あるいは人間の像が明らかにされるならば、これにひかれるものである。だが、これは、自己存在の否定にはならないのではないだろうか。これは、この私が、いま現にある・自己の存在そのものを否定する意志をおのれ自身に創造することにはならないのではないだろうか。》

【私の感想】
松代=北井がその結果解釈的思考法の故に、《共産主義的人間論》という表現に目がくぎ付けとなり、忌まわしい己(松代=北井)自身の過去を思い出し、思考停止となっているだけであろう。人間の自己疎外の止揚によって実現されるべき疎外されない人間、つまり種属存在としての人間による生産的労働にかんする本質、あるいは**共産主義的人間たちが生活するまさに創造されるべき将来社会として思い描くことができない**だけだ。

「私的所有の実践的止揚によって実現されるべき共産主義社会における労働の本質形態」、いまだなお資本関係に規定されていない、疎外の一般的・哲学的な分析ーこのマルクスによる「疎外された労働」の分析こそ、「マルクス哲学の主体的性格を集中的に示している」のである。われわれは、プロレタリア的実存を明らかにしたものととらえ返しわがものにすべきであるし、しているのである。
そして、松代=北井は、マルクスが著した「疎外された労働」を人間労働の本質論と資本制現実論として黒田がとらえ返した、その画期的意義について何も分かっていないということでもある。そのようにとらえられないのは、松代=北井自身が、この現代資本制社会において疎外され、疎外のどん底にいるのだ、という自覚がないからだ。
マルクスのあったままの「疎外された労働」論は、ヘーゲル左派の枠内にありながら、それを超えでんとしているマルクスの苦闘として受けとめ、わがものとしなければならない。『経済学=哲学草稿』の第一、第二、第三、第四草稿を、マルクスの思想的営為、理論的発展にある過程として我々は「行為的現在において、主体的に追体験的再構成してゆく」ことが肝要なのである。松代=北井の言いは、初めから、私はマルクス主義者であり、そんなこととは無縁だ、という輩のたわごとでしかない。
くりかえすが松代=北井は、マルクスの「疎外された労働」論を己のプロレタリア革命への精神的支柱をつくりだすための・内的作業として、苦闘したことがない輩だということである。

黒田の「疎外された労働」に関する、松代=北井の独りよがりな文章全部を引用した。黒田の論文の論述の形式、領域などすべて無視し、とにかく黒田に悪態をついている。

黒田は次のようなことを言っている。

「われわれは、プロレタリアは疎外されている、だからその自己解放のためにたたかわなければならないというかたちで、(筆者注「疎外革命論」という批判に対して)単純に革命論を展開しているわけではない、あくまでもわれわれは、**マルクスの人間疎外論をプロレタリア革命の精神的支柱として位置づけてている」**
「1843年から44年にかけて若きマルクスが獲得したイデー、それを帰結する基礎、前提をなしたプロレタリアの自己疎外論あるいは「疎外された労動」論は、終始一貫マルクスの理論と実践につらぬかれていた」。
だからこそ、マルクスは、「人間労働が疎外され、『商品人間』というかたちに人間が疎外されなければならないかの社会的根拠」「物質的根拠の分析にたちむかった」(1945,1946年『ドイツ・イデオロギー』)のである。

しかもである。「人間の自己疎外の止揚によって実現されるべき疎外されない人間、つまり種属存在としての人間による生産的労働にかんする本質論、あるいは共産主義的人間論」こそは、マルクス「感性的労働の論理」として鍛えた武器として、「ヘーゲル弁証法を精神的労働の論理」としてあばきだし、その「唯物論的改作を可能にした」理論的基礎をなすのである。

疎外された労働に関しては、さらに黒田は、『資本論』第一巻の「マニュファクチュア」「大工業」をも併せて読み、マルクスが明らかにしたプロレタリアの疎外された労働の現実を感性的にも実感し、わがものとすることの大切さを述べている。

最後に私は、畏敬の念を持って引用する———マルクスの人間疎外論をプロレタリア革命の精神的支柱として生きてきた黒田の言葉を。

「自己存在への問いを私がつづけるかぎり、そしてまた疎外された私のこの実存の証しを革命として実現しようと決意してきた以上、「疎外」は私の外にある単なる概念であることはできない。「疎外」とは私であり、私とは「疎外」なのである。あるいは「疎外」はこの私のどん底なのだ。このどん底からはいあがることを決断せしめたところのもの、それが若きマルクスであった。疎外態としての私のこの自覚は、同時に、私のどん底をつきぬけてプロレタリアの疎外された実存につきあたり、まじりあい、合一化された。これが私の出発点であった。それだけでなく、つねに私のあらゆる思索と実践がそこから生まれ、かつそこへ回帰してゆく原点でもあるのだ。」

追記:マルクス疎外論を歪めた斎藤幸平への私の批判「斎藤のいわゆる『疎外』論【6】【7】【8】【9】」もぜひ参照してください。

2025.04.29 藤川一久

白人至上主義に彩られた「アメリカ第一主義

トランプ政権は、3月21日に50万人を超える移民の在留資格を取り消し、アメリカ国外に追放する、と発表した。
彼らは、キューバ人やハイチ人、ニカラグア人、ベネゼエラ人であり、バイデン前大統領の政策によりアメリカに入国した人々である。
それに先立ち、17日トランプ政権は南アフリカ大使エブラヒム・ラスールを国外追放した。
その理由がまた、ひどい!
エブラヒム・ラスール大使は「トランプ氏が白人至上主義の動きを指揮している」、と発言したからである。
日頃からトランプ政権は「南アフリカは白人に対し差別的な政策をとっている」、と南アフリカの「土地収用法」(1994年のアパルトヘイト撤廃から30年経った現在も続く、土地所有における人種間格差に対処することを目的としている法案を指している)に対して、根も葉もない非難を行っている。
南アフリカは、いまだに「人種主義」が経済・社会・生活空間のいたるところに深く根差している。「人種主義」が国民の意識に深くしみ込んでいる、という。「反人種差別政策」を導入することが極めて大変で、慎重に一つひとつ吟味しながら、「人種主義」をなくそうとしているのである。
しかし、白人至上主義で凝り固まっている意識の人間から見ると、それを否定し、人種差別を撤廃すること自体が「逆の人種差別」だと見えてしまっている、ということである。

いずれにせよ、トランプ政権の「アメリカ第一主義」とは、「白人至上主義」の別名である、ということだ。

アメリカ第一主義」を掲げ、関税によるアメリカ経済の再興を目指すトランプ

「関税でアメリカを再び豊かにする」と称してトランプは、1月20日のアメリカ大統領就任以来、相次いで関税攻勢をしかけている。
いわく、「麻薬と不法移民の流入を阻止する」「不当な通商慣行をただす」「国内製造業の復活」などと言いつつ、カナダ、メキシコ、中国、EUなどに20%~25%もの高い関税を課した。しかし、いずれの国々もアメリカに対抗してアメリカからの輸入品に「報復」関税をかけている。
さらに、トランプは鉄鋼とアルミは、国を問わず25%の関税を3月12日に発動し、4月2日からは世界各国を対象に10%の関税をかける予定だ。このため帝国主義各国による関税競争は、新たな対立と戦争の危機を醸成しつつある。
このようなトランプによる関税の大幅アップは、同時に、アメリカの「貿易赤字」を解消するどころか「関税インフレ」を引き起こしつつある。インフレ率は、4.9%という報告も一部においてなされている。
確かに関税率が上がることによって、輸入品の価格が上がり、その商品は、アメリカ国内での競争力が下がる。同時に、そのことによって安い商品が市場から消え、おのずと「消費者物価」も上昇する。
飲食業界は「悲鳴を上げている」という。実に「1兆8000億円の被害が出る」と飲食業界は試算している。
また、高所得者層においても高級品の買い控え、旅行を控えるなど2月の支出は前年同月比9.3%減少している。さらに、アメリカの「消費者」の2割の人々はすでに買いだめしている。加えて、低所得者層は、節約せざるをえず需要が低迷する。バイデン政権下での低所得者層むけ食糧費補助「フードスタンプ」がトランプ政権による「歳出抑制」で削減されれば、生活必需品の買い控えがすすみ、それが「ファストフードチェーン」「ディスカウント小売店」などが打撃をこうむる。いやいや、重要なことは、貧困層」がさらなる生活苦に追い込まれてゆく、ということである!!
他方、トランプによる関税率の大幅な引き上げにより、国内の製造業が復活することは不可能である。現在、アメリカのすべての製造工場は、安い労働力を求め、アジア諸国での「受託会社」で行っているのである。自動車ですら「最終組み立て工程」をアメリカ本国で行い各部品は国外からの輸入で行っているのである。いわゆる「ファブレス製造」方式を採用し、1980年代のアメリカ経済の停滞期を脱却し、アメリカ経済の生産性を高めてきたのである。以降20年以上かけて、「設計、技術開発」をアメリカ本国でおこない、各部品や完成品の製造はアジア諸国の新しい「生産システム」と生産性が高く、安い労働力で生産することで、アメリカの製造業は生き残り、「発展」してきたのである。
そもそもにおいて、アメリカ製造業における「資本の老朽化」という根本問題が横たわっているからである。
「工場の国内回帰」というが、単に海外の製造工場で生産した諸商品が、高い関税のため、国内での競争力がなくなるので、やむを得ずアメリカ国内にもどってくる、というわけにはいかないのである。
独占資本家がアメリカ国内で工場をつくるためには、同時にアメリカ国内に「生産システム」を再構築し、それに見合った技術性の高いエンジニアや質が高く賃金の安いラインの労働者(移民ではない)を、新たに創り出す必要があるのだ。

そのようなことは不可能である。
トランプによる関税引き上げはインフレへと、緊縮財政(政府支出大幅削減)は失業率の大幅上昇へと進み、景気の後退が危惧されている。さらには、アメリカ発の世界的な金融危機へと発展しかねないのだ。

2025.03.21

ゼレンスキーとトランプ劇場

2月28日、米国・トランプとウクライナ・ゼレンスキーの会談がホワイトハウスでおこなわれた。この会談は、鉱物資源に関する合意文書のために設定されたものであるのだが、非和解的な帝国主義諸国の利害を浮き彫りにする最悪、且つ悲劇的な一幕として、マスコミによって全世界に発信された。

彼ら、二人の主張点を以下のように私は捉えた。

●トランプ:「このままだとウクライナは消滅する」「(米欧とロシアの)第三次世界大戦になる」「ロシアゲート」をでっち上げロシア・プーチンを「侵略者」に仕上げたのは、アメリカ(民主党)だ。

●ゼレンスキー:「この戦争は、プーチンウクライナ侵略だ」、プーチンは「民主主義・基本的人権・法の支配」の破壊者だ。「ウクライナの安全は、NATO加盟」によってのみ果たされる。

このように、今労働者・人民を苦しめている「ウクライナ戦争」に対する埋められない対立があることをはっきりと全世界に知らしめたのである。

思い返せば、クリントン大統領以来、歴代の民主党政権は「NATOの東方拡大」を行ってきた。それは、NATO加盟を目指していたプーチンに対する裏切りであり、公然とした反撃である。特にオバマは、ネオコン・ヌーランド(ウクライナ大使)を使ってウクライナ民主化運動を扇動して、親ロ派ウクライナ大統領を追放した。

そのことのロシアの反撃がクリミア併合だったのである。

このことでわかるように、米国・民主党政権下での「NATOの東方拡大」、ウクライナ内政への介入とロシアの軍事的「侵略」という問題が歴史的に存在することを忘れてはならない。

特にジョージアウクライナは、ロシア国家の安全保障にとって極めて重要な譲れない問題なのである。

だからこそ、アメリカ第一主義を掲げるトランプは、「ウクライナNATO加盟」こそが核戦争への危機である。アメリカの国益ウクライナの安全保障とは、無関係である。この核戦争への危機を回避しなければならい。

他方において、クリントンオバマ、ヒラリーらそしてバイデンらによる「NATOの東方拡大」がこの戦争の根本問題である、という考えなのである。

トランプは、「自由と民主主義」「基本的人権」「法の支配」などという大義名分に取りつかれ、あたかもそれが普遍的価値であるかのように思い込んでいるゼレンスキーとはおよそ相容れないのである。交わることは無い。

私たちは、言うまでもないことではあるが、トランプとは違い「自由と民主主義」「基本的人権」「法の支配」なるものの階級性を自覚しなければならない。

問題は、ロシアの労働者人民とウクライナ労働者人民が、プーチン、ゼレンスキーら権力者によって戦争に駆りだたされ、殺しあっているということである。

NATOの東方拡大という親ロシア国家の「民主化」も、それへの自国の安全保障のための「暴力的・軍事的」反撃も、等しく双方の支配階級の利害に基づいたものなのである。

政治的にどちらの側になっても被支配階級である労働者・人民は搾取され、収奪されるという事実は変わらない。

この「ウクライナ戦争」を解決する道は、全世界の労働者・人民の力でロシア・プーチン政権、ウクライナ・ゼレンスキー政権を打倒する以外にない。

2025.03.09

東海第二原発の中央制御室で火災!!

2月4日、東海第二原発の中央制御室で、火災が発生した。しかも原子炉内の中性子の測定するための装置(部品)の作動試験を行っていたのだが、その装置の制御盤から火が出たのだそうである。

信じられない、出火である!

もし原子炉が稼働中であったら、突然原子炉内の中性子の量がどのような状況にあるのか、わからなくなったであろう。火災の消火のみならず、スクラム停止せざるを得ない重大な事故になっていたであろう。
なんということか、東海第二原発の火災は、2024年度に3件も起こしており、今回で4度目である。、さかのぼれば2020年度にも起こし、2023年度には2度も火災を起こしている。
東海第二原発はすべての装置・機器が老朽化している、ということであろう。それらの装置・機器が同時的に故障したらどのような事態になるのか?
全長1400kmの可燃性の古いケーブルを使用しており、「基準規則」、「火災防護審査基準」において、「難燃性ケーブル」を使用することが、すでに決められている。原電は「工事が難しく、難燃性ケーブルへの取り換えが困難」と泣き言を言って「ケーブルトレーとして難燃性」を図る、と切り抜けようとしているのである。

一事が万事、とはこのことだ!

今回の中央制御室の配電盤の火災は、東海第二原発は、何時どこから火災が発生するかわからない、ということを私たちに示したのである。その火災と同時に様々な制御装置・機器が誤作動し過酷事故を起こしかねないのである。

原子炉内の中性子束検出=制御は、原子力発電の生命線である。

ウラン235プルトニウム239のような核分裂性物質に中性子をぶつけると、核分裂連鎖反応が起きる。この核分裂連鎖反応を一挙に爆発的に起こさせ、膨大なエネルギーを解放してありとあらゆるものを破壊するものを「原爆」というのに対し、この核分裂連鎖反応を一定の割合で持続する状態を、「臨界」というのである。
この「臨界状態」を維持するために核分裂で発生する2~3個の中性子の内1個だけを確実にウランなどの核分裂性物質に使われるようにコントロールしなければ、核暴走になるか、核分裂反応が止まってしまう。
核分裂で発生する、「原子炉内の中性子の測定ための装置(部品)」の作動が制御盤の火災で止まってしまう事態となる重大な事故なのである。
核分裂エネルギーを利用した発電のための、原子炉内での核分裂反応が、「臨界」が、正常に行われているかどうか分からないまま核分裂が進行する状況になってしまうのである。
核暴走を引きおこさず、核分裂反応が「臨界」状態を維持させる、そのための中央制御室である。にもかかわらず、「制御」できない状態になった。

末恐ろしいとはこのことである。

防潮堤の欠陥工事の解決策も見いだせない。そればかりか、原発そのものの老朽化がとめどもなく進んでいる東海第二原発は即刻廃炉すべきだ。

2025.02.26