からだがおもくてうごかない (original) (raw)

この記事には希死念慮自死についてのトピックを含みます。

自己紹介

-斉藤鳩です。

地方に住んでいて、両親は健在です。

友人と言える人もいます。

絵を描くのが趣味です。

文章も読むのは好きですが、あまり書くのが得意という訳ではありません。

AT限定の免許と形ばかりの学芸員資格を持っています。

双極性障害ADHDの診断が降りています。

ぼんやりとクィアです。

鬱病

-自分は双極性感情障害を患っている。と言っても、診断書と手帳に書かれている病名に過ぎなく、薬を処方するためのなんとなくのあたり付けでしかないようにも思う。

困りごとと言ったらもっとこう細分化されていて、カバーされていないようなものだ。疲れやすいだとか、死にたいだとか、抑うつ症状が続くだとか、そういうやつが細々とある。主治医は「いつか薬がいらない日が来ますよ」と明るく言う人だが、正直言ってあまり私の症状を重く見ていないように思う。問題行動を起こしている訳でもなく、車で通院して、困っていることはありますか?と聞いても些細な精神の上下程度。強迫的症状で受付のお姉さんに電話をかけ続けて来ている患者などを見ていれば、私の病気などごくごく軽いものだ。

たとえまともに社会で働くことができないような精神状態だとしても。

2022年の4月ごろに実家に帰ってきて、しばらくは両親の手を握って震えていることしかできない期間が続いていた。

最初の1年は、記憶が曖昧になっている。

朝起こされて、両親と一緒に朝食を食べた。

焦燥がひどくて、毎朝聞かされるadoの曲が耳について辛くて、かなり嫌いになった。(今は嫌いではないが、嫌な気持ちにはなる)

外にも連れ出してもらった。散歩をしたり、何かを食べに行った。食べに行った先でパニックを起こして、怖くて仕方がなくてそのまま帰ったことがある。後から文句を言われたが、精神疾患の人間が怖いから動けないと言ったら本当に動けないのだ。理解してくれないことに苛立ちを感じてしまった。

しばらくは外に出たり寝ていたりを繰り返していた。何か騒ぎがあったとすれば、ODで1回救急車で運ばれたくらいだ。

カウンセリングにも通った。1時間1万円もかかるのに、カウンセラーは5分くらい遅刻してくるし、しかも物分かりのいい話を引き伸ばすタイプの患者でないから、5分くらい早く終わる。

あまり覚えていないが、「結婚とかはどうですか?」「いっそ働かないと言うのはどうでしょう」「あなたの職場の環境は悪過ぎました」みたいな話をしていた。要領を得なさすぎる。

1年は受けていたから、12回は受けているはずだ。結局何がよくなったのだろう。

どこにいても何をしていても焦っていて、ドキドキしている、と言う状態がだいぶ落ち着いてきてから、カウンセリングは話すことがもうないと言うことで終了になった。結局のところ、カウンセリングとは内容の如何が重要なのではなく、本人の抱えている症状がどうにかなるまでの対処療法でしかないのかもしれない。

連続している筈の記憶はぼんやりしているが、そうこうしているうちに帰ってきて2年と半分が経っていた。病状はといえば、浮き沈みと希死念慮抑うつはあるが薬を飲んで一応安定している、と行った感じだ。

免許

-田舎で暮らしていくには免許がないと話にならないのは、田舎に住んでいる人にとっては当たり前の話かもしれない。

私は、就職するとなって必要になったので、大学4回生の終わり頃に教習所に通いながら取った。大学の頃は海辺の街に住んでいて、教習所は街から橋で繋がった島にあった。サーキットみたいなものだ。

送迎のバスに乗って通っていたので、今でもその時聞いていた音楽を思い出すことがある。教習所の小さい勉強室を思い出す。教官がやけに公務員崩れの雰囲気を持ったおじさんで、なんとなく仲が良かった。独法に就職する、という話をすると、あの金食い虫の?印象悪いでしょー、などと言われたのを思い出す。

なんだったんだ、あのおじさん。

免許を取って、就職して、数回運転することがあった。業務の中で郵便局まで郵便を持っていくものと、職員の雇用保険の手続きの関係でハローワークまで行く仕事があったのだ。

郵便局まで行くのは簡単だった。簡単じゃないのは車庫入れと、車校を卒業してから運転していなかったのにいきなり公道を運転しなければいけないという心理的ハードルの乗り越えだった。N-BOXのカスタム。勝手にブレーキを踏む機能があると同僚に教えてもらったが、ちっとも分からなかった上になんだか気持ちが悪かった。

プリウスも乗った。職場のほとんど話したことのない、お昼に必ずカップ麺とポテチを食べるひょろりとした眼鏡のお兄さんが監督役として同乗してくれた。口数が少ないながら、彼は地元生まれで、そのままここで働いている、と言う話を30分ほどした。帰りに寄った郵便局の前で事故りかけた。危ないと言っていたが、遅すぎる。遅すぎるくらいで良かったんだろうか。急ぎ過ぎたからこんなことになったのかもしれない。

同僚が運転を教えてくれたが、この同僚はあまりいい人ではなかったので割愛する。

仕事を休んで地元に帰ってきてからは、コンビニも車でないと行けない場所にある故、運転せざるを得なくなった。地元なのに全く道がわからない。

最初は運転するのが怖かったが、2年もしていると慣れてきた。多動の影響で、夜にいきなりドライブに行くコースもできたくらいには運転できるようになった。

地元に帰ってきてできるようになったことと言えば、本当に運転くらいだ。

仕事

-地方のみなし公務員をやっていた。

これがまあもう旧態依然な場所で、細々とした仕事に加えて美術系出身の人間ができるのかよと言う量の仕事を振られていた。上司がマジで何もしない人だったからだ。

案の定夏に躁状態になり、ブロンやエスタロンモカを飲みながら仕事に行くようになった。冬に精神科に行き、休職した。

一度復帰したが、電車の中で発狂するような焦燥感に襲われて「もうだめだ」と思い、家を出る前に泣きながら家族に「仕事に行きたくない」と電話を掛け、もう一度休職。

地元に帰ってきた。

地元に帰る前に自販機で買ったパン。

実家に帰ってきた時に淹れてもらったコーヒーを全部机の上に溢したこと。

コロナ前から帰っていなかった実家は、以前にも増してものが増え雑然とし、混沌としていた。座る場所もろくになかった。父親も老けていた。母親も。それでも帰ってくるしかなかった。それしかなかった。

今でもそういうのばかり覚えている。

ひよこ

-鳩?

どうしてひよこのイメージを使い始めたかあまり定かではない。

インターネットにひよこの絵文字を使う人がいて、それで真似をしていたらチーヨになってしまった。

その後、灰色の方が自分のイメージに近いような気がして、しばらく「うつ病の鳩」を名乗っていた。

しばらくしてから、名前に「うつ病」が入っていると、いつまでもアイデンティティうつ病がくっついたままになるのではないか、という懸念がやってきて、斉藤鳩に改名した。斉藤はカブトムシさいとうから。黒バラでカンニング竹山が使ってたやつなので、最早元ネタから取った物ですらない。

性別

-中学生くらいの頃からデミロマンティック傾向があったように思う。と言っても、異性の友人を作ったことがほとんどなかった。高校も大学も同じように、ぼんやり同性を好きになって過ごした。地元に帰ってきてから、別に誰かに好きと言ってみてもいいんじゃないかと思い、好きと言って付き合うことになった。相手のいることなのであまり深くは書かないが、私は自分の体が女であることに微妙に違和感を抱きつつ、またファッションや柔らかさの面に置いては利用している。認識的には女性であろうが、装いを女性らしくするのはあまり好きではない。

現在は自分のことを、クィアと言うゆるいくくりで認識するに留まっている。特権を手放せない、それが許される環境であるからではあるが、そう言うことになっている。田舎では大っぴらに"そういう話"をすることは推奨されないので。でも坊主にはした。女の人が坊主にしたら彼氏さん怒りませんか?などと言う美容師もいるそうだが、恋人には褒められた。正直この人がどう思うかが一番の懸念点だったのでほっとした。

「別に斉藤のことなんだから斉藤の好きにしたらいいと思うけど」

この人がいるおかげで、光の粒程度に生きていてもいいかなの総量が増えている。

2021-12-1

休職してすぐ、「京都の縁切り神社に行こう」と思い立って、京都に足を伸ばした。

特に宿も何も決めずに出向いたところ、高校生の頃から知り合いだったインターネットの友人のNが「うちに泊まってもいいですよ」とDMをくれた。本名は同人誌のやり取りをした時にぼんやりと知ったのみで、会ったのは高校生の頃にNが広島に遊びに来て以来だ。Nも精神の不安定な部分がある人で、休職以前から私の様子を気にしてくれていた。

Nのアパートの最寄り駅で降りれば、仕事終わりらしいNが待ってくれていた。

そのままバスでアパートまで向かう。バス停に似つかわしくない重苦しい話をしたことを覚えている。

Nのアパートには黒猫が住んでいた。Nは寝床を譲ってくれたり、家族にもらったのだという来客用のレモンティーを出してくれた。お湯の中に浮いている、ドライフルーツのレモンがハート型に整形されていた。

猫は人見知りで私を警戒したが、夜中、私の上を猫の足が行き来した。柔らかくて、何か気持ちの柔らかい部分が多少回復するように思えた。

Nは朝食を食べるか聞いてくれた。Nの家の壁には「食料の無料配布」のチラシが貼られていて、私は朝食を断った。

前日に買ったけれどいまいち食べ損ね、リュックの底でペシャンコになっていたパンを食べてアパートを出る。

縁切り神社では上司と隣の課の上司の名前を書いた。

縁切り神社は縁を切る方法を選ばないから慎重になるべきだ、と言う噂を聞いてはいたが、当時の私はそんなものはどうでもよかった。結果、上司も隣の課の上司も私が休職している間に任期満了で転勤して行き、私も休職満了により退職することになる。

Nとはカフェでお茶をした。結局アパートには2泊した。

日中に疲れたらいつでも帰ってきていいから、と一本しかない鍵を渡されて、危機感がなさすぎるという気持ちと同時に、嬉しい気持ちもあった。

休職の手続きから休職中ずっと、お守りとして二階堂奥歯の「八本脚の蝶」と鶴見済の「完全自殺マニュアル」、宮地尚子の「傷を愛せるか」を持ち歩いていた。

今でも机の上に置いてある。

人は死んでしまえばもう生きなくてもよいのです。

苦役のようなわたしの人生ですから、交替の時が来るのをわたしは待ち望んでいます。

-ヨブ紀14・14

出勤前、職場のトイレでこの言葉を何度も聞き返していた。

聞き返すことに意味があった。耐えられるような気がした。

まあでも結局耐えられなかった。

2021-12-2

休職する前に、鳥羽水族館に行った。

ウミカメが綺麗だったことをよく覚えている。

その直後、堪えきれずに一度目の休職した2021年の年末、タバコとブロン、レッドラベルのウイスキーを瓶半分飲んで嘔吐した。元々嘔吐しやすい体質ではなく、死ぬかもと思い救急相談に電話をした。救急相談はなぜか命の電話とくっついたサービスで、ボランティアの女性が電話に出た。

「私も若い頃は飲み過ぎて失敗したのよ〜」

今はそんな話を聞いている場合ではない。救急車は結局自分で呼ばなければ行けない決まりらしく、結局自分で救急車を呼んだ。吐瀉物を踏んだ靴下のままに、引っかかっていた手提げから薄紫色の財布だけを持って救急車に乗った。

夜に運ばれて、朝方まで点滴を二本しながらゲロ袋を抱えて病院の端っこで呻いていた。冷たい水が飲みたくて、財布を渡して看護師さんに水を買ってきてもらった。

病院の外に出てみれば、すでに朝8時を過ぎていて、誰か(頼れる人間は周りにいなかったが)に迎えに来てもらえる状況でもなく、タクシーで家まで帰った。道がよく分からなくて余分にお金がかかった。

帰宅してから自分の吐瀉物を片付け、充電の切れていた携帯の電源を入れたら友人からの心配とお叱りのメッセージが入っていた。夜勤が手につかなかったと言われた。申し訳なかった。この友人とは今も関係を続けているが、「なぜ死のうとするのか」と怒られてから希死念慮の話は一切していない。なぜ死のうとするのかと言われてもそれは自分が一番知りたいところで、逃れたいし辛いところだから。それを悲しんでしまう人に話すのは不快なだけだから。

帰宅してから数日は、マットレスに転がってずっと壁を見つめていた。胃酸で喉が焼けて苦しみながら微睡んで過ごしていたように思うが、あまり記憶がない。苦しかった。栄養を摂ろうとして、なぜか生臭い鯖缶の入った(冷蔵庫にそれしかなかった)お粥を作って食べた。食べ切れなかった。

数日後、遊びに来ることになっていた友人のMとの予定をキャンセルしたくなく、体調が悪いと言うことを伝えた上で来てもらった。ケーキとサンドイッチを食べ、一緒に就寝した。

次の日、鳥羽まで行ったが、海を見ただけで帰ることになった。本当は水族館に行きたかっただろうに、悪いことをした。

Mとは2024年になってから地元の水族館に行った。休職前に行った水族館よりなんだか生臭くて、哺乳類の方がかわいいな、と思った。

気分の浮き沈みのこと

-2年半もやることもなくじっとしていれば、いい加減ルーティンもできてくる。

朝起きる。朝食を食べる。少し寝る。絵を描く。散歩をする。外に細々としたものを買いに出る。人と通話をする。動画を見る。タバコを吸う。簡単な家事をする。水を飲む。薬を飲む。ぼんやりする。その繰り返し。

たまにイラストで小銭を貰ったりもした。好きな言葉を書くフォロワーの本の表紙(しかもメンタルヘルスクィアネスに関する本だ)を手伝えたのは僥倖だった。

私は双極性障害で、今はラツーダと言う薬を服用している。抑うつを持ち上げつつ、躁もいい感じに抑える薬だ。オランザピンやレキサルティも試してはみたが、結局ここに落ち着いた。これにベンゾジアゼピン系の頓服と、体力増強のための漢方を足して飲んでいる。ラツーダは新しい薬で、薬価が高い。自立支援医療を利用していなければ、毎月の薬代はとんでもないことになっていると思う。(もっとたくさんの薬を飲んでいる人からすれば些細な金額だろうが)

ADHDの薬は今は服用していない。特に困っていることがないからだ。就労すれば飲む可能性は出てくるのかもしれない。

大学のこと

-大学は、海べりにある山の中にある小さい大学だった。

芸術系の学部で、デザインを専攻していた。

ただ、私はグラフィックを作るのは好きだったが、ロゴマークブランディングといったものが本当に不得意で、卒業制作も結局ポスターの連作を作って誤魔化して卒業した。

大学に通っていた時期は丁度コロナ禍と被っていた。具体的には、3回生の終わり頃にコロナ騒ぎが起こって、4回生の前期は大学に入ることが禁止されていた。

思い返せば、私は就職してから鬱病になったのではなく、この4回生の間に一度鬱病になりかかっていたのだと思う。

家から出ることがやんわりと禁止され、ワンルームの正方形の空間に閉じ込められた。前期はせいぜいポストカードくらいしか作れなかったのに、よく単位が貰えたものだ。

就活のことがずっと気がかりで、ADHDかどうかを知るために、隣町のメンタルクリニックに行ってwais-3を受けた。結果は「グレーゾーン」ですねということだった。思うに、グレーゾーンというのは、本人の能力の凹凸というより、現在のその人の生活の中で障害と言えるレベルに困り事が発生しているかどうかが基準になっているような気がする。結局二次障害で双極性障害になっているのだし、あまり意味がある診断ではなかった。この時メンタルクリニックを受診したことで障害厚生年金の受給に引っかかる(基礎年金しか支払っていない期間に病院を受診した場合、厚生年金と基礎年金のうち基礎年金しか受給できない)こととなってしまったのだが、あまり後悔はしていない。

卒業作品展の準備で、図録を作るチームのリーダーになってしまい、人間関係がめちゃくちゃになって、就活のこともありしばらくカウンセリングルームに通った。ここのカウンセラーさんはとてもいい人で、大学の学費を払っていてよかったと思えた。今でも覚えているのは、「タスクは一度の外出に詰め込んで済ませてしまおう!」というアドバイスだ。就活のためのスーツを隣町まで買いに行って、それを着てそのまま写真館へ行き、証明写真を撮ってもらってから帰ってくる、という計画を立てて実行した。こう書くとなんでもないようなことに思えるかもしれないが、当時の私にとってはかなり重労働だった。

就活は2社しか受けなかった。全てに対して余裕とやる気がなかった。書類の添削もキャリアサポートセンターが怖くて行けなかったのでそのまま出した。そうしたら書類が通ってしまって、面接に進んだ。今思えばマイナビであんな企業を見つけてうっかり入社してしまったからこんなことになってしまったのかもしれないが、一年だけでも社会経験が積めたし、痛い目を見て勉強になったし、そう悪いことばかりでもなかったと思っている。

千葉にある本社まで面接に行った。全国転勤がある企業で、「どこに配属されても大丈夫か」と聞かれたので「大丈夫です!」と答えた。ちなみに大丈夫ではなかった。

帰りに当時東京グランスタにまだ鎮座していた「ふくらむちゃん」の写真を取った。ふくらむちゃんは片岡メリヤスさんというぬいぐるみ作家のデザインした……なんと言えばいいのかわからない、肩幅の大きいぬいぐるみだ。今でもパンの缶詰の空をペン立てとして使っている。

あれ以降東京には行っておらず、東京グランスタの経営が変わったことでふくらむちゃんも転職して行ってしまった。健常な知人友人はたくさん東京で働いているが、東京は今どんな街なのだろう。行っても耐えられる自信がないというのだけは確かだ。

希死念慮

-経験していない人からすれば、全くよくわからない感覚なのだろうと思う。

どこかへ出かけていても、楽しいと思われるようなことをしていても、関係なく「死にたい」という言葉が頭や身体に刷り込まれている。こまかくひび割れた湯呑みに染み込んだ茶渋みたいなものだ。

寒気や焦燥感が伴う。薬を飲んでも効かないばかりで、副作用としての眠気はいわゆる「寝逃げ」を推奨するためのものなのではないかとすら思う。

怖い。苦しい。いなくなりたいとはちょっと違う。解放されたいというのが一番近い。

人間は恐怖で死ぬようにはできていない。パニック発作(私はさほど出るタイプではない)だって「死ぬかもしれないという恐怖」から来るものだが、やっぱり人は恐怖で心臓が破れたりはしない。

「八本脚の蝶」に出てくる、二階堂奥歯の友人?先輩的存在である雪雪さんの書いたフレーズをよく思い返す。

「苦しいだろうなあ。その苦しみは当然ではない。」

「神様の仕事は雑だ。」

これからのこと

-今は失業保険を受給しながら仕事を探している。

仕事と言っても、今の私の体力と精神の具合で出来るのはせいぜいアルバイトくらいのものだろう。

現在の困りごとを書き出してはみたが、市役所の障害支援課に相談しに行くのに腰が重く、なかなか動き出せていない。HPを眺めていると、そもそも就労出来るかどうかギリギリラインの気力のない人間が探し出せるような情報の見やすさではないな……と思う。

手帳を取得しているので、就労移行・支援の利用も考えたが、家族は「普通にアルバイトを探せばいいんじゃないの」と言う。

普通とはなんなんだろう。

ADHDのグレーゾーンで、双極性障害で、同性のパートナーがいて、クィアの自認があって、2年と半分社会から離れたところでだらりと暮らしている。髪型も「女性」としては奇抜に見られる(時には病気ではないかと聞かれることもある)丸刈りだ。

別にこの状態が社会と繋がっていないとは思わない。何らかの消費行動を取って、誰かと連絡を取り合っている。税金も支払っている。引きこもりというわけではない。

26歳といえば、まだまだ若い方だろう。

家族も「この先のことは焦らずゆっくり考えればいい」と言う。

私は恵まれている。運が悪かっただけだ。

それに、過ぎ去って見れば別に悪かったところばかりでもなかった。

死にたいと思っても死ぬのは難しいし、死にたいと思い続けていても死にたいと思わない瞬間もある。

私のXのIDは@hellosurvival。

そのままの意味だと「こんにちは生存」ということになる。

患っている全ての人に生きていてほしいとまで思うほどの博愛主義者ではないし、何かの属性を積極的にエンパワメントしていく程の気力や気骨を持って生存しているわけではない。

生存は抵抗なのか。声を上げなければ意味がないのか。

あいにく私には拳を持ち上げる力はない。身体が重くて重くて、自分の生存をやっていくのでいっぱいいっぱいだ。

すれ違った人に挨拶する。すれ違った人の生存をほんの少し祈る。

そのくらいの気持ちで生存をやっていく。