セネガルで暮らしながら (original) (raw)
自分が足りていると、他人に何かをしてあげたくなる、してあげられたらいいな、と思うようになる。人はそういう風にできているようだ。
誰かに何かをあげようと思っても、私には差し出せるものがあまりない。ふんだんに分けてあげられるものと言ったら、体温くらいだ。だから、私の存在があたたかな風のように人々の間に吹けばいいと思っている。いつでも両手は広げておいて、もしも必要な人がいれば分けられるように。
私たちは、分かち合うために生きているのだと思う。たぶん。
この世のすべての人から好かれる、反対に嫌われることは不可能だ。願わくば、好かれもせず嫌われもせず、透明なものとして生きたい。いや、それは自分本位すぎる(いや、人間ではないかもしれない)ので、こう言おう。好かれようと嫌われようと私は私を透明にやっていく。
自分の人生は自分で生きるよりほかない。生きることはとても孤独だ。何が正解ということはなくて、”善”も”悪”も”正解”もただの言葉にすぎない。その中身を常に見ていなければと思う。あのブッダが言っていた「何も信じるな」「自己の拠り所は自分だ」。
ソクラテスは、誰かれかまわず議論を吹っ掛けるから、町なかでよく暴行されることがあったそう。でも、蹴られ殴られぼろぼろになっても、決して仕返しをしなかった。なぜですか?と聞かれてこう答えたらしい「ロバに蹴られたからといって、ロバを訴えますか?」
これ、味わうほどにいろいろと感じる言葉なので、私見は書かずただここに置いていく。
読書はすごいよ。“本を読む”という行為ではない。“勉強する”という行為ではない。友人を、家族を、先生を見つけてその人と関係しあうことだ。数千年前の人が、時に教え、時に笑い、叱り、いつもでも横にいてくれる。一人でも一行でもいいから話せたら、たとえ本が燃えなくなってしまおうと、その人はもう私の中にいる。
本の所有は少しも重要ではない。