古代の日本は? (original) (raw)

はじめに

歴史を理解するためには、その時代の気候、地形、そして人々の考え方を考慮する必要があります。しかし、時代劇やドラマでは、現代の視点から描かれた物語が多く見られます。これらは、あくまで「現代劇を昔のことに題材を置き換えた」ものであり、多くの人が古代を歪んだイメージで理解してしまう原因となっています。さらに、ネット上の時代小説やYouTubeなどでは、大げさな表現や再生回数を伸ばすための演出がよく使われています。私たちは、そうしたことを認識し、信頼性の高い情報や学術研究に基づいて、正確な歴史を知る努力をすることが重要です。

気候の変化

地球温暖化や気候変動の影響で、最近では持続可能な開発目標(SDGs)が注目されています。気候変動は、陸地の形状や氷河の範囲、そして人々の移動や生活に大きな影響を与えました。例えば、気温の変化は人々の衣服や体毛の発達に影響を及ぼし、これらも歴史を理解するうえで無視できない要素です。

また、気候の変動は古代の人々の生活や文化・移動にも大きく関わっています。これを理解することで、私たちはその時代の人々がどのように適応し、変化し、移動していったのかを知ることができるのです。

紀元後2千年の気温のグラフです。20世紀までは推定値です。

船と交易

古代の交通手段として、船は極めて重要な役割を果たしていました。船がなければ、重い荷物を遠くに運ぶことは困難でした。例えば、出土した遺物が遠くの地域で発見され、その物が重いものであれば、船で運ばれた可能性が高いです。当時は川にも堰がほとんどなく、川を利用した輸送も非常に便利でした。

大津という地名は「大きな港」を意味しており、琵琶湖と京都を結ぶ重要な交易ルートであったことを示しています。また、諏訪湖天竜川を通じて海とつながり、古来から諏訪と他地域との交易が盛んだったため、大社が建立されたと考えられています。川は文化の交流や物資の運搬において、重要な役割を果たしていたのです。

縄文時代と交易

縄文時代は、現代日本での時代区分ですが、この時代にも日本列島全域で多様な文化が栄えていました。彼らを「縄文人」と一括りにすることがありますが、実際には地域によって異なる文化や生活様式が存在していました。ホモ・サピエンスはアフリカを起源とし、約6万年前にアフリカを出発して他の種族と交わりながら広がっていきました。その過程で日本列島にも何度も人々が渡ってきたと考えられます。

航海技術が発達していない時代には、氷床を歩いて渡ったり、丸木舟などを使用して交易や交流が行われていました。これらの交易は、単に物々交換だけでなく、文化や技術の伝播も含まれています。人の最小維持集団サイズ (MVP: Minimum Viable Population)は50~500個体程度です。50人以下ではが、子孫が続いていきません。したがって、混血はひんぱんにおこなわれていたはずです。

縄文人弥生人の錯誤

縄文人弥生人という分類はよく使われますが、実際には日本列島に渡ってきた人々が突然入れ替わったわけではありません。樺太カムチャッカから北海道、対馬を経由して本州、沖縄、九州へと、多様な文化を持つ人々が何度も渡ってきたと考えられています。そして、他の文化と混血せずに存続することは難しく、縄文人弥生人という区分は実際にはシームレスなものでした。つまり、一つの文化ではなく、連続した変化と融合がありました。このため、現代的な分類に惑わされるべきではありません。

弥生人とは、紀元前10世紀から紀元後3世紀にかけて日本列島に渡来した人々を指し、それ以前に渡ってきた人々が縄文人とされていますが、この定義も便宜的なものです。

さいごに

ネットでは、再生数を上げるために様々な手法が取られています。例えば、不安を煽るようなタイトルを使ったり、「今すぐ見るべき」と視聴者を誘導したりするものがあります。中には、脳内で報酬物質を分泌させるようなコンテンツも存在します。

一方で、私たちが古代を理解する際には、現代の価値観に左右されず、慎重に時代背景や気候、地理的要因を考慮することが重要です。特に、現代のドラマやフィクションに惑わされず、信頼できる情報に基づいて歴史を読み解く姿勢が求められます。他人の意見や情報に流されることなく、冷静かつ客観的に歴史を見つめる目を養いましょう。

脳の報酬系物質についてのまとめ | 心理学用語の壁 (hosomegane.com)

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