聖書から教わった事メモ📝 (original) (raw)

最終更新日_2024-09-27_

ざっく~(´っ・ω・)っ📚📚📚

🍙頁(ページ)はすべて_新共同訳に対応_。

申命記 31章 6節

記しておきます

「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。

彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、

主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、

見捨てられることもない。」

とても勇気づけられることばですね

マタイ 15章 21-28節

カナンの女の信仰について

当時のカナンは異邦の地

即ち異国でありユダヤ人からは他国

エスは(26節)

他国人=子犬 といっているようである

表現のひとつ

ちなみに犬は当時、豚と同列の不浄な

存在として扱われていた

子犬は家の中で飼われる存在。

その前(26節)の言葉、子供たち は

当然ユダヤの血統の者たち=ユダヤ

ここで注釈;ユダヤ人=イスラエル

イスラエルイスラ エル エルは神

という意味

天使ミカ エル そしてガブリ エル

それぞれに神関連の意味がある

当然の如く都、エル サレムも。

話を戻して、、

ユダヤ人ではなかったため信仰を試され

その思いを強く純粋にされた、

その結果必死の願いが叶ったのであった

今日の関連個所には幾つかあった

列挙しておく

A 創世記18:22-33 (旧)24P

「ソドムのための執り成し」

B ルカ11:5-10 (旧)127P~128P

「~求めなさい」

それにしても弟子たちは

「この女を追い払ってください。叫びながら

ついて来ますので。」と

迷惑そうである。

エスも一見、冷たくあしらっている様にも

見える。でもそうではなかった(前述)。

聖書(に限らずすべての書物)は

気を付けて読まねばならぬ一例かもしれない

眉に唾を付けて、じっくりと

頬をバチンと叩いて気を引き締めて

読みたいところだ(自分の頬にやりましょね)

エレミヤ書 42章 6節

良くも悪くも神の言うことを信じるのだ

神の言うことならなんであれ信じれば良い

と思った

病気の時に読むと良いところ

マタイ 8章 16-17節

患いを代わりに背負ってくださったのか?

病を担うとは?!

きっとなんでも治してくれる、そう

単純に信じられたらいいな

と思った

詩篇 103編 2-5節

鷲のような若さ、が欲しい

病をすべて癒やしてくださるなら

早くオレのも癒やしてくれ

と単純に思った

ヤコブ 5章 16節

罪を告白し合い、互いのために祈る

これが肝腎なんだ

と思った

エレミヤ書全般

兎に角神のなさることは人類にとり苛烈すぎる

と思った

ここまでしなくてもねぇ

創世記のノアの箱舟と洪水もそうだけどさ

犬や猫にも残虐すぎだろ?

聖書全般

なにやら特に

新約のほうに

救い

が書かれているらしい

救い

なんてあるんか?

ホセア書11章1-4節

神から心が遠ざかり

また傷つき痛んでも

それでも神は救ってくれるのか

と思った

箴言16章31節

「白髪は栄えの冠

それは正義の道に見出される」

これはそのまま

歳をとってから人生の夕暮れ時には

いいことがあるよ

恵みがあるよ

ということらしい

今朝のTVライフラインにて

使徒言行録2章14-42節

ペンテコステ(50)礼拝参加

過越しの祭り後に復活し

40日間使徒と共に過ごし

その後でペンテコステがあった

聖霊の降臨である

ペンテコステは50日後であったため

50という意味がある

ペンタゴンが5角形である

どんな困難・艱難もイエスが共に

いて力づけてくださる

学びあう中で、また

一人静かに読み込む

中で学んでいく

神が福音を伝えなさいと

言っているからだ

ムダな時間や愚かな自分も通して

愛や正義の満ちる世界に

今も神はそのようになさっている

ペンテコステは「終わりの日」の始まり

聖霊の時代に今生きている

福音の時代はすでに過ぎた

こんな感じでした

短くまとめたので語弊もあるかと

思われますが

ここで

ごくたまにであっても

礼拝に参加できて本当に

よかったと

思いました

追記;現代には預言者はいません

聖書全体を読めばわかります

現代で「預言者だ」「イエスだ」

と云うものがいれば偽教師です

気を付けましょう

令和6年5月23日の通読箇所

哀歌3章

その名の通り哀しみの歌

-13節 箙(えびら)

というのが

出てきます これは矢を入れて背負う

道具、つまり矢筒ともいいます

‐19節 過去に苦汁を味わった者

味わったからこそそれを忘れず

魂は沈み込んでいても心を励まして

なお主を待ち望む

-22-23節 主の慈しみは決して

絶えないのだな、と

憐れみは尽きないのだな、と

そして、それは

朝毎に新たになる!

-27節 若い時軛を負った人は

幸いを得る

幸いとは幸福とも書かれる

幸福と書いてさいわい

今この時にする苦労は決して

無駄ではないのだな、と

-31節 主は決していつまでも

捨て置かれはしない

あなたも私も、かな

-55-57節 祈る時使える

~~主よ、私は御名を呼びます。

耳を閉ざさず、この声を聞き、

私を助け、救い出して下さい。

呼び求める私に近づき、

恐れるな、と言って下さい。

令和6年5月25日の通読箇所

哀歌5章

‐11節 で強姦の場面がありますが

これは強姦(レイプ)の肯定ではないね

寧ろ聖書はレイプを否定しているね

レイプそのものというより

「罪」そのものを激しく指弾し

それならば右手を切り取れ、とか

それならば右目を抉り出せ

何故なら体全体が罪に問われるより

ましだから、などとあります

それに新約にハッキリ書かれている

とりあえず只今見つけた箇所で!

(聖書が強姦を肯定しているとの見解を

ネットで目にしたため書いています。

常識を働かせればわかりそうなものですが

そんなわけはないのです)

テモテへの手紙 一 1:9~

(第一テモテ1章9節と呼ばれます)

ここで挙げられている罪に

みだらな行いがありますが

これは特にレイプなども指すと

思われます

現代でも犯罪の中に

「みだらな行為に及び逮捕され~」

などと報道されますが

それとそんなに変わらないのではないか

と思いました

読んで頂ければ分かりますが

こういう一覧を作っているのは

これらを戒めるために他ならないと

考えます

非常に俗悪・且つ残忍な行為も書かれています

殺人もそれに並んで書かれています

それだけ罪が重い

ということでしょう

されるほうの身になれば解ることですね

どんなに惨いか

そしてどんな犯罪にも

「偽りを言う(者)」が含まれることに

なるはずですから尚のこと

罪は罪ですねぇ

良心の呵責を味わって悔い改めましょう

2024-06-29 ピンチ!

霊的窮乏・貧困・ピンチ!

そんな時は『詩篇』の出番だ!

だが!いくら読んでも読んでも

霊的渇きが治まらない!なぜ!!

詩篇13編も14編も10編も読んだ!

こうなったら23編だ!あれだ!

?????

身体的窮乏?なのか?

なぜ…

16時00分に成りました

伝道師の言葉通り「詩編の55編以降」

を熟読しました

その後これも指示通り、

ありのままに訴えました、切実に

ほぼ全ての問題を必死で!

必死の形相だったと思います

祈りは聞かれピタリと苦痛や不快感が

止まりました(と言っても暫くは

微小な不快感が残存していましたが)

最近神様の力を実感することが

増えました

有り難いことです

信仰告白と救い(信仰義認)

どうしたら救われるのか❓

それを伝えたい

まず「自分で自分を救うことはできない」

と自覚することからスタートします

キリスト教は他力救済の宗教なのです

そして「救いは神からのプレゼント

(ギフト)」であると理解すること

最後に「福音(フクイン)とはなんぞや❓」

ということを理解すること

この福音という、日本で暮らしていると

普通には理解できない言葉を知ることです

救いはこの中にある3つの要素に同意することによって、与えられます(🍙重要!)

  1. イエス・キリストは私達の罪のために十字架にかかって死んでくださった」これは贖罪(しょくざい)の死と呼ばれます。
  2. 「死んで墓に葬られた」肉体的な死を経験したこと。
  3. 「三日目に死者の中から復活なさった」死に勝利し甦った!イエスは今も生きています。

この3要素を理解してイエス・キリストを受け入れるなら、その人は救われます

決心できた方は次のように

祈ってください

「天の父なる神様、私は罪人(つみびと)でした。私の罪は、あなたの恵みによってしか解決されません。私は、イエス・キリストが『私の罪のために死なれたこと』『墓に葬られたこと』『三日目に復活されたこと』を信じます。主(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、祈ります。アーメン」

救いは信仰と恵みによって与えられます。

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カンタンなデボーション方法

聴く聖書アプリがあります

スマホで手軽に聴けます

歩きながら、寝転びながら聞くと良いでしょう

そんな風にデボーションするのも良いですね

とりまここまで

ありがとうございます😊

随時通読に従い付け足していきます📕

👇だけでもお願いしますm(_ _)m