人生論・状況論への招待 (original) (raw)
1 献身的介護に命を懸ける男
一軒家から出発した車を追跡するデヴィッドは、一人暮らしの暗い部屋で、ナディア・ウィルソンという名の若い女性のSNSの画像を見ている。
看護士のデヴィットは、サラというエイズの末期患者を担当し、自宅を訪問して痩せ細った身体を風呂に入れ、移動や着替えを介助し、食事や薬の管理など、身の回りの一切を丁寧に看護していた。
そのサラが亡くなり、デヴィッドは身体を奇麗に拭いて清め、服を着せていく。
葬儀に出席したデヴィッドに、サラの姪のカレンが断るデヴィッドを車に乗せ、「叔母は気の合うあなたが大好きだった」と、サラについて話を聞きたいと朝食に誘うが、デヴィッドは「行かないと…すまない」と断り、車を降りる。
そして、墓地に停めてあった自分の車に乗って黙考していたデヴィッドは、再び車を降りてサラの墓碑に向かう。
バーで1人で酒を飲むデヴィッドに、隣席するカップルが話しかけてきた。
「結婚してるのか?」
「してたが、最近、妻に先立たれた…重い病気でね。僕が面倒をみてた」
「名前は?」
「サラ」
デヴィッドは、サラと21年連れ添い、彼女がエイズだったとも話す。
サラへの思いが鮮烈に残る男の虚偽の反応だった。
店を出て、車からナディア(冒頭の女性)に無言電話をかけ、家ではまたナディアの画像を見て、医学生であることを知る。
次にデヴィッドが看護を担当することになったのは、5日前に脳卒中で倒れた高齢の建築家のジョン。
家族が見守る中マヒの状態を調べ、「それほど悪くない」と言って、家族を安心させる。
早速、ジョンを入浴させ、リハビリをするデヴィッド。
ジョンは見守る家族を外に出し、デヴィッドと会話で本音を吐露する。
「女って奴らには我慢がならん」
ジョンに結婚しているかを聞かれたデヴィッドはしていないと答え、ジョンも25年前に離婚したままだと話す。
「どんな建築を?」とデヴィッドが訊くと、ジョンはダウンタウンの小さなビルや、サンマリノ区の住宅など、「ただの機能的建築だ」と答える。
デヴィッドは書店でジョンに頼まれた建築の本を探す。
「建築家ですか?」
「ええ」
「息子も建築学科に…どんな建築を?」
「機能的建築だ…」
ジョンはデヴィッドが買ってきた本のページをめくられながら読み、検索のためにタブレットをテーブルに置いてもらうと、自分でやると言ってポルノ動画を観始めた。
「冗談だろ。本気か?」
「アートだ」
デヴィッドは、今度はジョンの弟だと名乗り、ジョンが設計した邸宅を訪ね、見せて欲しいと上がり込み、プールのある庭に出て、住居を見渡す。
ジョンの誕生日プレゼントに送る、写真を撮るための訪問だった。
相変わらずポルノばかり見ているジョンを諫め、夜勤のシルヴィアの交替で訪問した看護師に、今夜は自分が付き添うと伝える。
「彼は繊細だし、夜中に容体が悪化する。事務所には言うな。給料は君が」
看護師は礼を言って帰って行った。
ジョンは帰った男の顔が見たかったと言い、「男と一度も付き合ったことないのか?」と訊くが、デヴィッドは受け流す。
朝から苦しそうにしているジョンをデヴィットが抱き締め、その様子を家族が怪訝な目で見ている。
そんなデヴィッドが、事務所の所長に呼ばれ、ジョンの子供たちがセクハラでデヴィッドを訴えると言っていることを知らされる。
「なぜ勝手にシフトを変えた」
「ジョンが僕を必要としてた」
「“父は操られてる”と息子が」
「何のために?」
「ジョンに近づけないと言えば、訴えの取り下げも」
デヴィッドはそれを受け入れたが、帰りにジョンの家を訪ね、出て来た家族に「事実無根だ」と訴え、この件を知らされていないジョンに会えないかを訊ねたが、あえなく断られた。
デヴィッドは、いつもSNSの画像で見ている医学生のナディアを大学まで追い、構内で歩いているところをつけ、追いついて声をかけた。
「元気か?」
「元気よ。いつ戻ったの?」
「2日前だ」
「しばらくいる?」
「いるよ」
ナディアはデヴィッドの娘だった。
「嬉しい」
「僕もだ」
二人は固く抱擁し合う。
デヴィッドは別れた妻と車の中で話し、彼女が再婚したが4年で別れたと聞く。
「あの話、ナディアは?」
「ダンのこと?…全部知ってる」
ダンとは、ナディアの弟で、ダンが6歳の時、デヴィッドは小児ガンで苦しむ息子を安楽死させ、その後、離婚して家を出たという痛恨の極みと化す経緯がある。
献身的介護に命を懸ける男の背景が暗示されるのである。
人生論的映画評論・続: 或る終焉('15) 常世の闇の世界に掠われて ミシェル・フランコ
1 「雪さん、私、ずるいって思ったんです。ずるいのは私なのに。羨ましくてしょうがないんです。なんで私はこんな人間なんでしょう」
夫の三回忌の法要の帰りに暑さを凌いで立ち寄った本屋で、市野井雪(以下、雪)は、たまたま目に付いたBLものの『君のことだけ見ていたい』という漫画を、「キレイな絵…」と手に取りレジに向かう。
高齢者がBLの漫画を買うことに、アルバイトの佐山うらら(以下、うらら)は怪訝な表情をする。
家に帰った独り暮らしの雪は、仏壇に手を合わせ、夕ご飯を食べ、風呂に入った後、早速買ってきた漫画を読み始める。
BLものとは知らず、男子生徒の佑馬と咲良がラストでキスをする展開に驚き、その続きが気になる雪。
うららも母子家庭で母親が不在の団地の自宅に帰り、お風呂から出た後、押入れにしまってある段ボールの中から、『君のことだけ見ていたい』を引っ張り出し、読み始める。
翌日、雪は第2巻目を買ってカフェに入り、すぐ読み終えてしまい、第3巻を買いに行くが在庫切れで、うららがその注文を受けた。
自宅で書道教室を開く雪の元にうららから電話がかかり、早速、雪は書店へ取りに行く。
「あの、つかぬことをお聞きするけど、こういうのって流行ってるの?その、男の人同士の…私、初めて読んだんだけど、何て言ったらいいの…応援したくなっちゃうのよ。いい年して恥ずかしいけど…」
「いえ、そんな」
うららが内容について説明すると、満面の笑みを浮かべる雪。
「あなたも好きなの?嬉しいわぁ…ずっと誰かと漫画の話がしたかったの」
雪はうららをカフェに誘い、お互いに名前を言い、BLものをうららもよく読むのかと聞くが、うららは「たまに」と答え、BLものが好きだということをオープンにしようとせず、店員が来ると、テーブルの上に置かれた漫画をサッと隠すのだった。
二人は気まずく帰ることになったが、うららは、あまりしゃべれなかったことを謝罪し、本当は漫画の話ができることを嬉しいと本音を言うと、雪は、第三巻を読んだらまた連絡していいかと聞き、二人は連絡先を交換した。
自宅で母親に進路について聞かれたうららは、明確な希望を持っておらず、適当に返事をする。
その時、雪からおすすめの漫画の紹介を依頼するメールが来て、うららは所蔵本を読み返し、あれこれ吟味したものを持って雪の自宅を訪ねると、カレーの匂いがした。
気持ちのいい縁側で風を受け、漫画の主人公の佑馬と咲良の話で盛り上がる二人。
うららはいつしか、溌溂と日常を送るようになり、カフェで雪と会話をするのが楽しくなっているが、それでもやはり、店員が来ると話をピタッと止め、本を隠すのだった。
団地の幼馴染でうららの良き理解者でもある高校の同級生の紡(つむぐ)が遊びに来て、うららの部屋でBL本を目にして「脇甘ぇんだよな。人一倍気にしぃのくせに」と口にするが、それとは知らず、うららは紡に気づかれないように隠し込む。
その紡が付き合っている、賢く美人の英莉(えり)の存在を意識するうららだったが、その英莉が生徒たちとBLの話で盛り上がる中、「うぁ、エロ!」と言った男子生徒に対し、堂々と反論する。
「それは偏見。純愛だよ、BLって」
それを聞いていたうららは、教室で『君のことだけ見ていたい』を女子生徒と楽しそうに読み合っている英莉を、教室の外から睨み、「ずるい」と一言。
その英莉が海外留学とBL本を持ってレジに来た際、「すごいね、留学とかBLとか、なんか色々あって」と嫌味を言う。
うららが雪の家を訪ねると、ノルウェーに住む娘の花枝が帰って来ていてた。
花枝は一人暮らしの雪を心配して、一緒に住むことを勧めている。
その花枝が酔って寝ている間も、うららと雪の漫画の話を楽しそうにしているが、うららの気持ちは晴れず、心の中で雪に訴えかけている。
「雪さん、私、ずるいって思ったんです。ずるいのは私なのに。羨ましくてしょうがないんです。なんで私はこんな人間なんでしょう。雪さんが私だったら、どうします?」
その時、雪が「あたしが、うららさんだったらね」と語り始めた。
「もう、描いてみちゃうかも知れないわ。自分で…うららさん、こんなに読んでいて、自分でも描いてみたくならないの?」
「いや、私なんか、そんな、才能ないので」
「才能ないと漫画描いちゃダメってことある?」
「でも、私、読むほうが好きなんで」
「そう?でも分かんないわよ。人って、思ってもみないことになるもんだからね」
うららは、雪に背中を押された思いで、ノートに漫画のデッサンを描き始め、漫画の同人誌を売買する冬コミに雪を誘う。
喜ぶ雪だったが、腰を悪くして這うように移動する姿を見て、実際、会場を訪れて見て、年々、来場者数が増え激しい混雑も予想されることから、うららは受験勉強で行けなくなったと雪に電話で伝える。
しかし、うららは勉強に集中できず、漫画をノートに描き続け、雪にいつものカフェから電話を入れ、大喜びの雪の家へ再び行くことになった。
早く着いたうららは、鍵の場所を聞いて家に入ると、片付けの最中で本が散乱する部屋で、古い少女漫画を見つけた。
それは雪が子供の頃に貸本屋さんで見つけて気に入り、どうしても欲しくて母親に失くしたと嘘をついて手に入れた漫画だった。
雪はその作家宛に書いた葉書を見せ、自分の字が嫌いで恥ずかしくて出せなかったことが書道を始めるきっかけとなり、いつのまにか書道を教える人になったというエピソードを話す。
結局、雪はその作家は描くことを辞めてしまい、手紙を出すこともできなかった。
「大事なものは、大事にしなきゃ駄目ね」
その言葉を聞いて、うららは改めて雪の家を訪れ、5月の同人誌の即売会に売る側として一緒に出ないかと誘う。
「漫画、私が描くんで…」
「出る、出るわ!」
うららはコミティア(自主出版した本の販売・展示即売会)に申し込みし、早速、本格的に漫画を描き始め、雪も張り切って、書道教室の生徒の沼田が経営する印刷所へうららを連れて行き、漫画の印刷を依頼する。
恐縮するうららだったが、母親に隠しつつ、期日に向けて漫画を描くことに集中するうららは、「やるべきことをやっている」実感を持っていた。
色を刺し、完成させた作品を印刷所へ届けたうららは、その帰り道にふと立ち止まり、達成感を噛み締めるのだ。
「楽しかった…楽しかった」
内気な高校生の中で、何かが変わっていくようだった。
人生論的映画評論・続: メタモルフォーゼの縁側('22) 「完璧な一日」へのはじめの一歩 狩山俊輔
1 愛を求める彷徨が終焉していく
“オリオン・サーカス”のショー。
赤い照明の明滅の中、カサンドラが息を吹きかけると、横たわっていたロバ・EOが立ち上がり、観客から喝采を浴びる。
カサンドラはEOと舞台を回り、ショーを盛り上げた。
サーカスの仕事が終わっても、カサンドラはEOを撫で、抱き締め、キスをして慈しむ。
普段EOは、産業廃棄物の運搬作業をさせられているが、なかなか動かないEOを、ヴァシルが怒鳴り、鞭を打って脅す。
それを見たカサンドラは、「勝手にEOに触らないで」と抗議する。
産廃の仕事が終わり、ヴァシルがEOと歩いていると、動物愛護団体のデモに遭遇し、シュプレヒコールを浴びてアジテーションに晒される。
「ヴロツワフ市(ポーランドの古都)ではサーカスの動物出演が禁止された!ヴロツワフ万歳!この運動を多くの地域へ広げよう!動物を苦しめるな!」
ヴァシルは、「この子は苦しんでる。解放しなさい!」と活動家の女性らから肩を掴まれ、EOと強制的に引き離されてしまう。
ヴァシルが市の職員に抗議すると、「破産更生法28条4項(動物を解放する法律)に基づき、動物を没収します。以上」と言い渡され、EOだけでなく、他の動物たちも保護され連れて行かれてしまった。
EOを連れ去られ、ショックを受けたカサンドラは、呆然と去って行く車を見つめる。
トラックに載せられたEOは、馬を飼育する厩舎に向かった。
窓から美しい毛並みの馬たちが走る姿を見るEO。
副市長のテープカットで開かれた新しい厩舎で、その一角に住まわされるEOは、隣の芦毛のサラブレッドが体を洗われ、大事に扱われているのを見ている。
興奮した馬同士が暴れるのを見て、EOは荷車を付けたまま、トロフィーの棚を倒し、厩舎から逃げ出した。
次に引き取られたロバ牧場で、EOは、カサンドラに優しく撫でてもらっていた時のことを思い出す。
障害児たちと触れ合うイベントで、多くのロバたちに交じって、EOも子供たちと戯れる。
夜になって、カサンドラが恋人のバイクの後ろに乗って、EOを訪ねて来た。
EOの誕生日祝いに、ニンジンのマフィンを届け、食べさせるカサンドラ。
カサンドラはEOを撫でてキスし、可愛がった後、別れを告げて帰り、待っていたバイクの後ろに乗ると、背後からEOの悲しい啼き声が聞こえてくる。
EOはカサンドラを追い、またも牧場を逃げ出し、暗い夜道を走り、真っ暗な森に迷い込む。
闇の中で生息する小動物たちを見ながら森を彷徨うEOは、突然、緑色の複数の光線が差し込んできて、銃声が鳴り、撃たれ横たわる瀕死のオオカミを目の当たりにする。
EOは逃げるように走り続け、コウモリが舞うトンネルを抜けると、美しい朝焼けが広がる草原に辿り着く。
真っ赤に染まった小川の流れる森を進み、巨大な風力発電の羽が回る所で、バードストライクに遭った鳥が落ちて来た。
朝になり、街を歩き、熱帯魚を見て奇声を上げるEO。
捕獲されたEOだったが、紐を解かれ、その捕獲した男・ゼネクが所属する“ズリヴ”というサッカーチームの試合を見ている。
ゴールキーパーのゼネクが守るペナルティーキックの瞬間、EOは前足を擦り、雄たけびを上げ、相手チームのキッカーのミスを誘う。
「勝利のロバだ」と称えられたEOは、チームの勝利を祝うパーティーの輪の中にいた。
会場の外に出たEOが草を食べていると、負けを認めない相手チームのサポーターが車で駆けつけ、棍棒を持って会場に乱入して暴れ、帰り際に試合の邪魔をしたEOにも激しい暴行を与える。
生死を彷徨うほどの傷を負ったEOは、病院で手当てを受ながら、カサンドラに優しく撫でてもらったことを思い出している。
怪我が癒えたEOは、様々な動物が収容された毛皮工場に連れて行かれ使役させられるが、小動物を手荒に扱う係員を後ろ足で蹴り上げ、昏倒させてしまう。
厄介者のEOは「肉のサラミになる」と言われ、売られていく馬たちと共にトラックに載せられ、車窓の隙間から雪山の美しい風景を眺めている。
途中、運転手が店に寄り、付いてくる難民女性を車に乗せ、食料を与えるが、「セックスもどう?」と言うや、女性は下りて行った。
その直後、運転手は何者かに突然、喉を掻き切られてしまう。
警察が現場検証する中、外に繋がれていたEOは、通りがかりの自動車が動かなくなって歩いてきた男の目に留まり、そのまま自宅へ連れて行かれる。
移送車の中で、男がEOに話しかける。
「今まで大量の肉を食べてきた。何百キロも。サラミも食べたぞ。ロバ肉ってことだ。どんな味が知りたい?…俺のせいで食欲が失せたか」
EOは男が差し出す干し草を食べようとしなかった。
到着した屋敷で、男は義理の母親の前で聖職者として儀式を行うが、義母は途中で問題を起こしてきたことを知り、何をしでかしたのかを問うが、男は答えない。
EOは屋敷の庭で優雅に草を食べていたが、そんな人間たちの諍(いさか)いを見せられ、サーカスのシーンを思い浮かべ、カサンドラの呼ぶ声が聞こえたので外へ出て行ってしまう。
最後にEOが迷い込んだのは、家畜の牛の群れだった。
食肉加工の屠殺場へと誘導されていく大量の牛たちの中に、EOの姿もあった。
暗い工場にEOも入り、真っ暗になったところで、一発の銃声が鳴った。
EOの命が絶えたのである。
EOのカサンドラの愛を求める彷徨が終焉したのだ。
ラストキャプション。
「本作は動物と自然への愛から生まれました。撮影で、いかなる動物も傷つけていません」
人生論的映画評論・続: EO イーオー('22) ヒトと動物の宿命の隔たりの大きさ イエジー・スコリモフスキ
1 「…うち、人、殺してしもた…」
「昨日夕方に東大阪市の生駒山の山中から、性別不詳の白骨遺体が発見されました…司法解剖の結果、死後8年近くが経過していると…」
テレビニュースを聴きながら、バッグに服を詰めていた川辺市子(以下、市子)は、恋人の長谷川義則(以下、長谷川)が仕事から帰宅するバイクの走行音が聞こえ、手を止める。
慌てて荷物をまとめ、市子はベランダから下りようとするが、バッグに手が届かない。
長谷川はバイクを止め、アパートの部屋に入ると市子の姿はなく、ベランダにバッグが残されていた。
その頃、市子は全速力で逃走していた。
2015年8月13日のことである。
その前日の12日、市子はシチューを作り、長谷川と食べながら、「うち、今幸せなんよ」と涙ぐむ。
長谷川は徐(おもむろ)にカバンから結婚届の用紙を出した。
「一緒になろうか…結婚、してください」
頭を下げる長谷川のプロポーズに、涙を流す市子。
「ウソや…うれしい」
長谷川は市子に浴衣をプレゼントし、それを着て花火を見に行く約束をする。
2015年8月21日
捜索願を出した刑事・後藤がやって来て、市子について訊ねられるが、長谷川は彼女の両親や出身地について答えられない。
3年間一緒に暮らして、お互いに自分たちのことを語り合ってこなかったのだ。
「長谷川さん、この女性、誰なんでしょう?」
「え?市子ですよ」
「それが、どうも存在せぇへんのですよ」
1999年7月
山本さつき(以下、さつき)は、市子と同じ団地に住み、市子の母・なつみが勤めるスナックにいる父親の元へ行く。
そこで、幼い頃よく遊んだという市子が、客の小泉雅雄(以下、小泉)の隣で宿題をしているが、なつみが市子を「月子」と呼んでいるのを訝(いぶか)る。
さつきは、なつみから夕食を受け取って帰る月子(市子)を追い、「市子ちゃん?」と声をかけ、自分が好きな男子生徒と話をしていたことを月子に問う。
すると、「あいつ、気持ち悪いし嫌いや」と言われ、腹を立てたさつきは月子と喧嘩になるが、年下のはずの月子の力が強く、押し倒される。
2000年9月
幸田梢(こずえ、以下、梢)は、発育が早く、胸が大きいと男子生徒からからかわれるのを見て、月子が自ら体操着をめくり上げ、「触りたかったら触れ」と、梢の前に出て庇う。
そんな月子に好感を持った梢は、一戸建てのハイソな自宅へ月子を呼んでケーキをご馳走したり、デパートへ買い物に連れて行く。
月子はお礼にたまごっちを梢に渡そうとするが、それがすぐ万引きしたものと分かり、受け取らず去って行く梢だったが、その後、梢は市子の家に遊びに行く。
梢が部屋に入ると、なつみが肌をはだけてベッドに眠っており、介護用のおまるが置いてあるのに気づく。
そこに、先のなつみの店の客で、障害福祉課のソーシャルワーカーの小泉がなつみと懇ろになっていたところを見られ、小泉は月子に千円札を渡し外に追い出すのだ。
月子はドアを開け、「足りへん」と小泉にせがみ、更に千円を受け取り、「行こ」と梢を誘うが、異様な月子の家庭環境を見て、梢は、「帰る」と言うや去って行った。
2008年7月
田中宗介(以下、宗介)は、高校時代の月子の恋人だが、最近月子が冷たいことに焦りを感じており、同じ同級生の北秀和(以下、北)が月子のストーカーをしていたと言いがかりをつけ、月子に土下座して謝罪させる。
それを無視する月子の態度に不安を募らせた宗介は、月子の住む団地で帰りを待ち、家に行こうとする。
そこで缶ビールを飲み、団地の水道水で足を洗っていた小泉が月子に鍵を要求し、家の中に入って行った。
小泉を父親と勘違いした宗介は挨拶したが、様子がおかしいので、「今日、やめとこか?」と言うと、月子は宗介の手を引いて団地の裏に連れて行き、矢庭にキスをする。
宗介が月子を突き放すが、俯(うつむ)く月子を案じる。
「うち、ほんまに宗介のこと、嫌いなんとちゃうんよ」
そう言って、宗介の手を掴んで自分のスカートの中に入れようとするので、宗介は、その手を振り払い、「ごめん、帰るわ」と逃げるように去って行った。
月子の性化行動(年齢不相応な性行動)が露わになるエピソードである。
2015年8月28日
長谷川は、失踪した市子の手がかりを求め、市子が働いていた新聞配達店を訪ね、3~4年前、同じ寮に住んでいた吉田キキが働くケーキ屋を知らされる。
2009年5月
吉田キキは、自分で作った試作品のケーキを持って、寮で体調を崩して寝ている市子の部屋へ入る。
パティシエになる夢を持つキキは市子に試食してもらい、小学校の頃、裕福な梢の家でケーキを4つも食べたと話す市子に、一緒にケーキ屋をやろうと誘った。
「ありがとう…考えとくな」
「あかんよ!もう決まりや。善は急げって言うし。今日記念日にしよ」
市子は涙を溜めた目を伏せる。
「なんか、あったん?」
「…うち、人、殺してしもた…」
その話を、パティシエになったキキの店で聞かされた長谷川。
「“ウソウソ、なーんもないよ。いっつも優しく話しかけてくれて、ありがとうやで”」
「それ、市子が言ったんですか?」
「びっくりしすぎて、信じてなかったって言うか、市子ちゃん、優しい子ぉやし…」
長谷川がバイクで帰ろうとすると、店からキキが走って出て来た。
キキは市子と出会って新聞配達に誘った時、ホームレスみたいに、夜中に毎日ウロウロして、家に帰りたくない、昔のことも話したくないと言うので、市子のことは何も知らないと話す。
「嬉しかったと思います。市子」
「警察の人が、なんで市子ちゃん、捜してるんですか?」
「僕も分からなくて」
一方、警察は、「生駒山死体遺棄事件」として、川辺なつみの行方を追っており、ホワイトボードには、なつみの婚姻・離婚暦や、長女の月子の出産、その父として横川健二郎、自殺したとされる小泉雅雄との関係が書かれ、川辺月子として市子の写真が貼られていた。
なつみは今も失踪中であるが、警察は2年前に山浦美智子と偽名を使って友人宅に身を寄せていた能登半島の石川県志賀町へ聞き込みに入り、後藤は地元の取材に行くことになった。
その後藤に、長谷川から電話が入り、今、所轄署まで自ら足を運んでいることを知らされ、以降、後藤は情報を有する長谷川と行動を共にすることになる。
後藤は市子が住んでいた団地の幼馴染の山本さつきから、最初は市子と名乗り、同い年だったと思っていたら、小学校に入る頃に姿を見なくなり、小学4年時、月子として新入学して来たので、自分の記憶違いだと考えたが、ある時喧嘩をしたら、ものすごく力が強く、やはり年齢を誤魔化していたと思う、との証言を得た。
先の喧嘩の一件である。
後藤の運転する車の助手席で情報を共有する長谷川は、梢の証言で家に“おまる”があったことを質問すると、逆に、市子が病気になった時に病院へ行ったか、携帯は何を使っていたか、仕事は何をしていたかを訊かれる。
その質問に、病院は嫌いで行かず、携帯はガラケーで、仕事は昨年まで新聞配達をしていたが、販売店の倒産以降は働いていなかったと長谷川は答えた。
後藤はここで、今まで伏せていた生駒山で見つかった白骨遺体の事件と市子失踪との関わりを話し始めた。
その白骨死体は、筋ジストロフィーの患者のものだった事実が判然としたと説明するのだ。
「その遺体が、川辺月子の可能性があると疑われてる」
そう言って、川辺家の戸籍謄本を長谷川に見せた。
「市子の名前がないですけど?」
「幸田梢さんは、介護用の“おまる”があった言うてた。月子の病気は知的障害も伴うし、生涯を通して立つこともできへん難病でな。それが発覚したんは、カルテの記録からは2歳。でありながら、4年後の春から川辺月子は小学校に通い始めてて、以降、高校までの就学履歴がある」
「どういうことですか?」
「健常者の川辺月子と障害者の川辺月子が存在してる。市子の母、川辺なつみには市子が生まれた同年に離婚歴があった。法律による規定で離婚後300日以内に生まれた子供は、遺伝子とは関係なく、前の夫の子と推定される。よく言われんのは、前の夫のDVとかで母親が連絡を取ることを拒み、出生届を出せず、その子供が無戸籍になってしまうケース。おそらく、川辺市子はそうやった…市子が月子になりすましていた…生きてくために取った決断やろうけど…吉田キキさんに出会った頃には市子を名乗ってる…言うまでもなく病院も行かれへんし、携帯も買い換えられへん。まともな仕事に就くことかって…それでも市子を選んだんは、なんか理由があるはずなんや」
次に、二人はNGO・無戸籍支援の会「アカシ」の代表の井出を訪ね、市子が2020年頃来て、就籍(しゅうせき/無籍者が届け出をして戸籍に記載されること)を試みたが脱落したとの話を聞く。
その直後、高校時代の同級生が市子を探しに来たと言い、その人物が北である事実が判明した。
なぜ、月子と名乗っていた高校生の同級生である北が、市子として探していたのかについて疑問視する二人。
2008年9月
北は高校時代、駄菓子屋で同じアイスを買った月子に声を掛けられ、一緒の電車で帰宅し、駅の改札を出て別れたものの、月子に惹かれて、後を付いていく。
そして今、その北のアパートを後藤と長谷川が訪ね、なぜ市子を捜していたのかを問い詰める。
更に、自殺として片付けられた小泉についても川辺家と関わっていないわけがなく、その点についても後藤は北を追及するのだ。
月子を好きだった北は、帰り道に本当の名は市子だと本人から聞き、複雑な家庭環境を心配して、いなくなった市子を捜して支援団体を訪ねたと言い、それ以上の関係を否定する。
アパートの部屋から物音を聞いた長谷川は、北の制止を振り払って部屋に上がり込むと、居間の窓が開いて誰もいないが、市子の座るときの癖である座布団の二つ折りが目に留まった。
長谷川は自宅に戻り、市子が置いていったバックの底から、川辺月子の保険証と封筒に入った小泉となつみ、月子、市子の4人の家族写真を見つけ出した。
北は市子に携帯をかけるが応答はなく、なおもかけ続けようとすると、玄関のチャイムが鳴り、突然、長谷川が単身で訪ねて来た。
長谷川は話を拒む北に対し、自分も市子の味方だと言い、室内に入れてもらうことになる。
高校時代の下校中、雷雨に見舞われた北は木陰で雨宿りするが、市子は強雨に打たれながら、「最高や!全部、流れてしまえ!」と、両手を広げ天を仰ぎ、泣きながら笑うのだった。
その姿に見惚(みと)れる北は、市子を団地まで送るが、帰り際、小泉に手を掴まれて家に戻るのを目撃し、市子の家へ方へ向かう。
北はベランダ側に回り、カーテンの隙間から市子と小泉の様子を伺う。
「お前らのせいで、俺の人生メチャクチャや!なあ!どないしてくれんねん」
「これが目的やろ。ほんで帰って」
市子は制服のスカーフを外して小泉の前に立つ。
市子の性化行動のルーツが、ここで明かされるのである。
「お前ら親子は、ほんま悪魔やな」
市子をベッドに押し倒し、小泉が覆いかかると、市子は泣きながら拒絶する。
「もう、しゃーないんやって!なっ?お前かて、どうにもできへんやろ」
「イヤやぁ!戻りたい!」
ベッドから降り、泣きながら台所へ逃げる市子。
「戻りたい?どこにや?お前が市子やった時にか?それとも、月子、埋めた時にか?戻っても、なんも変わらへんねんぞ…お前は嘘ばったしやねん。名前も年齢も嘘、いくら嘘ついてもな、いつかバレんねん。お前は存在せぇへん人間なんや。そうしとけば、よかったんじゃ!」
「イヤやぁ!」
「イヤや言うても、それがお前の現実じゃ!」
ここで市子は、小泉を包丁で刺し殺してしまった。
ベランダに上がって二人の争いを聞き、目撃した北は部屋に入り、座り込んでいる市子に声をかける。
「うちは市子や」
「なに、言うてんねん」
「市子なのに…もう、よう分からんわ」
真っ赤な血に染まった制服を着た市子を小泉から引き離した北は、「川辺は、俺が守ったるから。川辺のヒーローになるん想像してたし…大丈夫やからな」と言って、泣きじゃくる市子の肩を抱く。
その後、二人で小泉を線路に寝かせたが、途中で市子はいなくなり、市子の家で待ったが、戻ってこなかった、と言う。
長谷川は、北の話を聞いてうな垂れている。
「これで全部です。約束通り、警察には黙っといてください」
「信じていいんですよね?…分かりました。約束は守ります」
「ほんまに何も知らんかったんか?よう、そんなんで一緒におれたな。もう終わりにしたってくれ」
「終われませんよ」
「殺人罪に時効はなくなってんぞ。だから川辺は死ぬまでな!…あんたには、もう会いたないと言うてた」
「…それでも、市子に会いたい」
「会(お)うて、どうすんねん」
「分かんないけど、抱きしめたい」
「もう、あんたには受け止められへん。川辺は、俺にしか助けられんから」
市子の失踪の実相と、キキに話した「…うち、人、殺してしもた…」という物騒な言葉の意味が明らかにされたのである。
人生論的映画評論・続: 市子('23) 「手に負えない何者か」と化していく 戸田彬弘
1 「いい?坊やとはこれまでよ。すぐに出てって」
焼け残った居酒屋で、女が独り布団で横になっている。
突然、闇市の男が店に入って来て、箸立てを倒し、荒々しく物色するが女に睨まれ、そのまま出ていく。
誰もいなくなったにも拘らず、カリカリと何か食べる音がするので、女がカウンターの方を見ると、男から逃げて来た戦争孤児の少年が生のカボチャを齧(かじ)り、女の目を気にしながら横切ったと思ったら、スライスしたサツマイモを掴んで走り去った。
続いて、酒を持った中年男が入って来て、空の瓶と交換する。
女から金を受け取ると、男は女の体を貪り、虚ろな目の女も俎上之肉(そじょうのにく/なすがまま)となる。
夜、灯もない店に復員兵が店に来たので、女はコップに酒を注ぐ。
「じゃ、それ飲んだら上がってください」
酒を飲み、リュックを降ろして座敷に上がった復員兵は、先に金を払い、また酒を飲むと、睡魔に襲われ、そのまま朝まで寝てしまった。
「すみません」と起きた復員兵が帰ろうとすると、女は「朝ごはんありますよ」と汁気だらけの雑炊を差し出す。
「今日の夜も、来ていいですか?」
「お金ないんでしょ」
「作ってきます」
「…どうぞ」
雑炊を掻(か)き込んだ復員兵は、「ごちそうさまでした」と頭を下げ、勢いよく店を出て行った。
女が着替えを済ませたところに、また少年が店を覗くので、追い駆けようとすると、少年は冬瓜(とうがん/ウリ)を抱えて入って来て、カウンターに置いた。
「お金より価値あるんだろ?やるよ。そしたら俺も客だろ」
「ここは、あんたの来るところじゃないんだよ。これ持って出て行きな」
しかし、少年が冬瓜を抱えたまま動こうとしない。
すると、先程の復員兵が戻って来て、「来ていいと言われている」と少年に話しかける。
「お金、作れませんでした。明日こそ、今日の分と合わせて作ってきます…僕もいさせてください」
復員兵が冬瓜を調理し、少年と女に振舞う。
元教師だったという復員兵は教科書を取り出し、少年に算数を教える。
その様子を見つめる女の目に涙が滲む。
少年の汚い体を拭いてあげる女と、それを微笑ましく見つめる復員兵。
少年が襖の奥に入ろうとすると、女はダメだと厳しく叱る。
3人は川の字で横になって眠るのである。
朝、復員兵は金を作ってくると言って出て行った。
しかし、その日も金は作れず、復員兵は「明日は絶対」と言って、自分の冬瓜を少年に食べさす。
また3人で川の字で寝ていると、少年がうなされ、唸り声をあげるのを心配して、女と復員兵は懸命に宥(なだ)める。
少年は静かに眠り始め、復員兵は女に話し始めた。
「全部燃えちまってたからな。よく、こいつは生き残ったよ…外地から帰って来たら、俺んちも燃えてました。親父もお袋も、みんないなくなっちゃってた。どっかに逃げたんならいいんだけど…焼野原をふらふらしてたら、優しそうなおっさんが、ここに来れば優しくしてくれる人がいるって。優しいって、どういう優しさかと思ったけど、いや、大体察しはついてたけど…ここで、久しぶりに眠れました。ぐっすり、もう、ほんとぐっすり…ほんとに久しぶりで…」
鼻を啜(すす)りながら語る復員兵。
翌朝、「じゃあ今日こそ、行ってきます」と復員兵がお辞儀をし、「よし!」と少年が元気よく出かけていく。
「私も、ぼちぼち働かないとね。あの子の持って来るものだけじゃあ…」と女が復員兵を見つめる。
夕方、少年が「ただいま!」と卵を2つ持って帰って来た。
「あのおじさん…あの人、仕事探してないよ。出かけたあと、あの人見た。さっき帰りに通ったら、同じところにじっとしてたよ。じっとしていて、全然動いてなかったよ」
暗がりの玄関口で復員兵が、うな垂れて立っている。
復員兵はまた少年と遊び、女も戸惑いながらそこに加わる。
突然、闇市の方から銃声がして、復員兵は慄(おのの)いて耳を塞ぎ、脂汗をかいて目を見開く。
夜中、復員兵は酒を飲み、胡坐(あぐら)をかいてブツブツ呟いているのに気づいた女に向かって、喋り始める。
「僕にここを教えてくれた人は、あれは誰ですか?あんたも外で体売ってたんですか?…あのおっさんともやったんですか?」
「明日、朝起きたら、すぐ出て行け。金は日数分、作って持ってこい。そしたら二度と来るな」
女はそっぽを向き、復員兵はまたブツブツ言っているが、外でまた銃声がすると悲鳴をあげ蹲(うずくま)り、落ち着くと、今度は女に襲いかかり、女が抵抗すると顔を殴るのだ。
鼻から血を出した女の顔を見た復員兵は、「何で、こんなとこにいんだよ」と言いながら後ずさりし、何もない腰から銃剣を出そうとする。
立っている少年に気づいた復員兵が、「何だよ、その目は!うああああ!」と叫んで少年を掴む。
女が「やめて!」と絶叫するが、その瞬間、復員兵は少年を窓から放り投げ、激しいガラスの破砕音が響いた。
復員兵が振り向き、今度は女の首を絞めるが、抵抗され土間に転がり、更に襲い掛かる復員兵の頭に、ガラス瓶が振り下ろされた。
頭を抱える復員兵の後頭部に、少年が隠し持っていた銃を突き付けたまま、復員兵を這わせ、外の瓦礫へと追いやる。
倒れ込んでそのまま眠ってしまった女が朝起きると、ガラスの破片が散らばる床に、傷を負った少年が眠っていた。
女が起こし、「あいつは…」と訊ねると、少年は「ずっとあっちで、座り込んで動かなくなった」と答える。
女は少年の銃を無理やりと取り上げ、棚の空き缶の中に入れた。
夜、うなされて、唸り声をあげる少年に、「大丈夫よ、大丈夫よ」と声をかけながら胸をさする。
朝、酒瓶を持って来た中年男に、「少しの間、休ませてください」とお願いし、散らかったガラスを片付け、怪我をした少年の手当てをする。
回復した少年が、座り込んだ女に水を汲んで差し出す。
「坊や、少しの間、ここにいる?用心棒になってくれる?」
笑顔で頷く少年は、女が取り上げて缶の中に入れた銃を取り出し、銃を持って女にすり寄る。
「一緒にいてくれるだけで、いいんだよ…稼ぐのは、それぞれでやろう。でも、盗みはダメだよ。いい?店を手伝うんだよ。手が足りてないんだから」
女は再び銃を取り上げ、「簡単に触るな」と缶に入れる。
「今日から私は、昼働く。夜は、私と坊やの時間だよ」
きゅうりとトマトを持ってきた少年に、何度も盗んだものではなく、働いて得たものかを問うが、その度に少年は首を縦に振る。
夜、女は少年に算数を教え、取れそうなボタンを付けるために奥の部屋に呼ぶ。
部屋の中を見回す少年は、机の上に兵隊の写真と、白米が盛られた大小2つの茶碗が備えられているのを発見する。
女は大きなシャツを少年のために仕立て直し、出来上がったシャツを着せ、少年を笑顔で見送る。
うっすらと涙を浮かべた女が、いっとき手に入れた幸福感を噛み締め、至福の表情を浮かべる。
帰りが遅いのを心配して待っていた女が、少年が帰って来るや、怒りながら近づくと頭から血を流しているのを見て、まだ盗みをしてるのかと問い詰めるが、少年は「ちゃんと働いた」と否定する。
列車で検査を逃れるために放り出された荷物を拾って店に運ぶ際に、「おっかないお兄さんに横取りされ、ぶたれた」と弁明するのだ。
「そんな危ないことを…お店じゃ盗んでばっかりだったから、どこでも働かせてくれないんでしょう?」
女は離れたところで靴磨きでもするかと聞くと、少年はおっかないお兄さんを追い払ってくれたおじさんがいい仕事があると、拳銃を持って来なと言われ、行くことにしたと話す。
「そんなの、いい仕事のわけないでしょう!…拳銃取られて、撃たれて、はい、それでお終いかも知れないじゃないの!」
「違うよ。そんな人じゃないよ」
「なんで分かるのよ…なんでそんなことが言えるのよ」
女は激昂したあと、泣きながら少年を引き止める。
「…危ないことはやめて欲しい。ずっと一緒にいてくれるって言ったよね?」
「1週間くらい行くだけだよ。帰って来るよ」
「1週間…そんなに…イヤだよ!ばかばかばか!」
女は少年を抱き締める。
「約束したから行かないと、その人、困るよ」
「じゃ、今すぐ断って来て。すぐに断って安心させて!」
目を見開き、激しい調子で少年を促すと、すごすごと少年は出て行った。
その時、女は口に手を当て、唇の爛(ただ)れに気づき、奥の部屋の化粧鏡で自分の顔を確認する。
玄関から酒瓶を持った中年男が入って来て、反応がないので上がり込み、鏡の前に座る女を発見し、キスしようと顔を近づけ、異変に気付く。
「え?あんた、まさか…」
焼け焦げ、爛れた壁、畳、町の退色した風景が冷然と広がる。
帰って来た少年に、襖(ふすま)の奥から女が声をかける。
「断ってきた?断ったの?」
「うん」
「そう、それならよかった…来ないで!」
畳みに上がって来た少年を強く拒絶し、少し襖を開けた隙間から話しかける。
「いい?坊やとはこれまでよ。すぐに出てって…嫌いになったの!坊やのこと、もう好きじゃないのよ。私の本当の子共は、いい子だったのよ。その子のお父さんも外国の戦争から帰って来なかった。みんな、とっても優しくて、頭が良くて落ち着いてて…あんたみたいじゃなかったのよ!」
そこまで言って。襖をぴしゃりと閉める女。
目に涙を潤(うる)ませ襖を見つめていた少年は踵(きびす)を返し、カウンターの缶から銃を取り出してカバンに入れ、外界に出て行くのだ。
人生論的映画評論・続: ほかげ('23) 戦争後遺症という疲労破壊が押し寄せてくる 塚本晋也
本作はアイルランド製作の映画の中で、私が大好きなアラン・パーカー監督の「ザ・コミットメンツ」と並ぶ秀作である。
1 「秘密があるのは恥ずかしいことよ。この家に恥ずべきことはない」「分かった」
「コット、どこにるの?ママが呼んでるよ」
遠くの家の方から姉の呼ぶ声が聞こえ、草むらに潜っていた9歳のコットが、徐(おもむろ)に立ち上がる。
「コット、早く出てきなさい」
家に戻ったコットは、母・メアリーが部屋に入って来ると、急いでベッドの下に隠れる。
コットがそこにいると分かっているメアリーは、ベッドの前に立ち、「足に泥がついてる」と言って去る。
隠れた理由は夜尿症(おねしょ)である。
朝、洗濯物を干している6人目の子を身籠っているメアリーを目で追うコットは、姉3人の会話に加わることはない。
父・ダンが起きて来ると、姉3人は口をつむぐ。
「お弁当がない」
「パパ、ママが昼食を作ってない」
「適当にパンでも持っていけ」とダン。
「全部、パパのせいよ」
コットは姉たちの会話を黙って聞いている。
学校で教科書の音読みをするコットは、上手く字を読み上げれないコット。
教室で隣席のミルクを勝手にカップに入れるが、男の子たちが机にぶつかってミルクを撒き散らしてしまう。
濡れた服を掴んで廊下を歩いているコットに気づいた姉の友達から、「この子の妹、変よね」と言われ、走り去るコット。
コットは、そのまま休憩時間終了のチャイムが鳴る校庭を走り抜け、塀を越えて行く。
迎えに行ったダンがコットを車に乗せ、途中酒を飲み、車道を歩いている顔見知りの女を助手席に乗せた。
「どの娘?」と女。
「はぐれ者だ」とダン。
コットは車の後部座席で、ダンと女の言い争い、ラジオから流れるホテルの宣伝、車窓の流れる風景の断片を体感している。
夜、トイレに起きたコットは、メアリーとダンの会話を耳にする。
「ダン、聞いてる?少し競馬のことは忘れて」
「なんだよ」
「いつまで預ける?出産するまで?」
「向こうの好きにさせろ」
「私が言うの?」
「お前の親戚だろ」
「あんたって本当に役立たずね」
「言いたいことを言って、気が済んだか」
コットはメアリーの出産までの間、メアリーの従姉妹であるアイリンの家に預けられることになり、ダンの運転でアイリンの家へ向かう。
車中、「今日こそは勝つ」とラジオで賭けの結果を聞くが、負けを知り、「チクショウ!」と叫ぶダン。
途中寝てしまったコットは目を覚まし、3時間ほどで到着したアイリンの家を目にする。
ダンが車から降り、農場を経営するアイリンの夫・ショーンに挨拶をした。
そして、「ようこそ、いらっしゃい」と車のドアを開け、優しい面持ちのアイリンがコットを迎える。
「前に会った時は、まだ乳母車に乗ってたのに」
「乳母車は壊れた…お姉ちゃんが荷物を積んだら、車輪が外れたの」
アイリンは車から降りたコットの泥だらけの足が目に留まるが、笑顔で「家に入りましょう」と言って手を差し出す。
「お母さんは忙しいんでしょ?」
「草刈りの人が来るのを待ってる」
「まだ牧草を刈ってないの?遅れ気味ね」
「この家に子供は?」
「いないわ。私とショーンだけよ」
ダンが食堂に来て、アイリンに挨拶をし、「今年は干し草の当たり年だ。すでに納屋はいっぱい」と嘯(うそぶ)く。
「メアリーの様子は?」
「出産が近い」
「下の子も大きくなった?」
「ああ、養うのは大変だ。子供の食欲はすごい。こいつもよく食う」
「成長するには栄養が必要よ」
「食べた分は働かせていい」
「その必要はない」とショーン。
「喜んで預かるわ。大歓迎よ」
鼻で笑うダン。
「家計を食いつぶすぞ。そうなっても、文句は聞きたくない」
会話が途切れ、食事にも手を付けず、吸っていたタバコを押し付け、そそくさと帰ると言い出すダン。
自家と異なり健勝な酪農家の日常を見せつけられ、居づらさを感じているのだ。
アイリンから「メアリーに」と差し出され、受け取ったルバーブを無造作に後部座席に投げ入れ、ダンは運転席からコットに向かって、「頑張れよ。火の中に落ちるな」と言い残し、忙しなく去って行った。
コットは困ったような顔で車を見送り、下を向く。
「大丈夫?コット…あら、荷物を載せたまま帰っちゃったわ」とアイリン。
そのアイリンは熱いお湯を張ったバスタブにコットを入れ、手から足の爪先まで丁寧に洗ってあげる。
コットは着替えがないので、子供部屋にあったお下がりを着せてもらった。
「ママが下着は毎日替えなさいって」
「お母さんは他に何て?」
「私を好きなだけ預かっていいって」
「それじゃ、井戸まで一緒に行ってくれる?」
「今から?…これは秘密の話?」
「この家には秘密はないわ…家に秘密があるのは恥ずかしいことよ。この家に恥ずべきことはない」
「分かった」
森の奥の井戸に連れて行かれたコットは、アイリンに促され、柄杓(ひしゃく)で掬(すく)った水を飲む。
コットを寝かしつけるアイリンは、ショーンに声をかけるが、コットを振り向きもせず「おやすみ」と言うのみ。
メアリーを心配するアイリンが、「どうして牧草を刈らないの?」と聞くと、コットは「人を雇うお金がないから」と答える。
「何てこと…お金を送ったら気を悪くするかしら?…お母さんは怒ると思う?」
「ママよりパパが怒るかも」
「お父さんね…おやすみ」
寝付けないコットのベッドにアイリンが様子を見に来て、コットは寝ているふりをした。
「かわいそうに。あなたがうちの子なら、よそに預けたりしないのに」
翌朝、アイリンがコットのおねしょを見つけ、「あらまあ、大変だわ」と口にすると、コットは窓の方を向きながら顔を下に向ける。
「この古いマットレス、いつも濡れてるの。私ったら、うっかりしてたわ。パジャマを脱いで」
コットは振り向き、アイリンの方を見る。
朝食でアイリンはショーンに、コットを連れ農場を案内したらと促すが、「また今度な」と出て行った。
ショーンの寡黙さが際立っている。
「じゃあ手伝って」とアイリンは食事の支度や掃除の手伝いをさせ、コットの髪を梳(す)き、二人で井戸に水を汲みに行く。
洗濯物を干し、アイロンをかけ、またコットの髪を梳き、手を繋いで井戸の水を汲みに行き、一人で掃除機をかけるようになったコット。
「コツを覚えたわね」と褒めるアイリンとジャガイモの皮を剥(む)くコットは、少しずつ叔母の家の暮らしに慣れていき、夜尿症もなくなった。
「もう井戸水の効果が出てる。大事なのは肌をいたわることよ」
ショーンの友人たちが集まり、カード遊びをしているのを見ながら、一緒に笑顔になるコット。
食事中、アイリンの友人のシンニードから電話が入り、父親が倒れたと知らされ、アイリンは車でシンニード宅へ向かった。
残されたコットは、ショーンについて農場へ行く。
「どうして看病に行く必要が?」
「娘さんが大変だから、手伝いに行ったんだ。近所は助け合うものだろ」
「そうなの?」
牛舎を掃除していたショーンは、コットがいなくなっているのに気づいた。
コットの名を呼び、農場を捜し回ると、コットがモップを手にして立っていた。
「二度と勝手にいなくなるんじゃない。分かったか?」
強い口調で叱られたコットは、走り去って行った。
翌日もアイリンは出かけ、ショーンと二人きりだが、コットは水を汲んだバケツをキッチンに運び、ショーンが立っていても言葉を交わさず、黙々とジャガイモの皮剥きを始めた。
そんなコットに対し、ショーンはテーブルの上にビスケットを置いて出て行った。
コットはそのビスケットをポケットに入れ、ショーンが掃除をする牛舎にモップを持って入って手伝うのだ。
子牛にミルクをあげるショーンは、コットにもやらせてみる。
「脚が長いから速いだろ」と、郵便受けまで走って戻って来るように言い、ショーンはタイムを計ると言い添えた。
コットは長靴で躍動感溢れる走りを見せ、素早く郵便受けから郵便物を取り出し、また走って帰って来た。
これをリピートしていくのである。
「走ること」の意義を実感する行為を介して、コットとショーンとの関係が濃密になっていく初発点になっていく。
人生論的映画評論・続: コット、はじまりの夏('22) 勇を鼓して駆け走る少女 コルム・パレード
隠れた名画と言っていいのか、この映画の存在を知らなかった。
正直、忸怩(じくじ)たる思いを隠せない。
21世紀の「ネオレアリズモ」と称される「ナポリの隣人」に先行する「家の鍵」。
観る者に深い感銘を与え、心の底から障害児の問題を考えさせ、かけがえのない逸品として映画史に残るだろう。
説明セリフ・BGM・綺麗ごと・ドイツ語字幕なしで、最後まで抑制的な演出が効いていて、「ナポリの隣人」と共に私にとって宝物のような作品となった。
1 「家に帰りたい。パパが一人なんだ…あの子も一人だし」「部屋に戻ろう」
ジャンニが15年前に付き合っていたジュリアとの間にできた息子・パオロを引き取って欲しいと、ジュリアの兄・アルベルトが訪ねて来た。
ジュリアは事故で亡くなり、パオロはその時に取り上げられた子で、ジャンニはジュリアの死のショックのあまり、現実から逃避してパオロを顧みることはなかった。
そのパオロは左手が麻痺し、杖なしには歩くことができない障害児だった。
「何歳の時の?」
「6歳。歩けなくてね。妻が家の中をボールだらけにしたら、彼は這って追いかけまわしてた」
「今は僕に似てる?」
「いや、母親似だと妻も言ってる」
「奥さんは僕を?」
「恨んでない。妹と一緒に君も死んだものと」
「今になって、なぜ僕に?」
「医者に言われてね。父親に会えば、奇跡が起こるかもと。よくあるそうだ」
「遠くまですまない。仕事が忙しくて」
「たまには旅行もいいものさ。この街には友達もいるしな」
「パオロは僕を?」
「知ってるさ」
「どう思ってる?」
「どう思えと?彼がどんな子か、君には…家では俺をアルベルトと呼ぶが、外や他人の前では、“伯父さん”と呼んだりな。たいした奴なんだ。君は失格だ…奥さんや子供との暮らしは順調か?」
小さく肯くジャンニ。
「行かないと」
「大丈夫。コーヒーを」
アルベルトと別れ、ベルリンのリハビリ施設に向かう列車に乗り込んだジャンニは、渡された座席番号を探し、パオロが寝台で眠っているので、向かいの座席で眠りに就いた。
朝起きると、寝台にパウロの姿はなく、ジャンニは食堂車でゲームをしているパウロを見つけた。
斜め前の席に座ったジャンニが声をかけた。
「パオロ?」
「ほらきた。なんだい?何か用?」
ゲームと音楽を楽しみながら、パオロはジャンニの質問に答え、パオロは自分の家の電話番号をメモするように言い、ジャンニもミラノの家の電話番号を教えるが、初めて接するパオロにジャンニは戸惑う。
トイレでパオロを支えようとすると、「気が散るから、あっちへ」と言われ、後ろを向くジャンニ。
「電車から荷物を下ろした?」
「そうだな。荷物を下ろそう。手伝うよ」
「黙れ。偉そうに言うな…見るなよ」
「心配するな。見たりしないから」
駅を降りてホテルに向かう車で、運転手に盛んに話しかけるパウロだが、イタリア語は通じず、ジャンニもドイツ語で話されても理解できない。
ホテルから病院に向かい、リハビリ施設の受付で、父親であるのに苗字が違うと指摘され、ジャンニは結婚していなかったからと答える。
ジャンニが受付している間、パオロは廊下を歩き、入院している患者の部屋へ入って話しかけていく。
重度の言語障害の娘・ナディンとその母・ニコールが付き添う部屋に入って、ナディンが言葉のレッスンをしているのを見つめ、ニコールの顔も凝視し、黙って出ていった。
パオロの血液検査で気分が悪くなって廊下に出たジャンニが、窓を開けられないでいるのを見て、ニコールはドイツ語が通じないと分かるとイタリア語で声を掛けてきた。
「この病院は初めて?最初はショックよね…男の人なんて珍しい。母親にあてがわれた汚れ仕事だもの。父親にはできない。何かと口実をつけては、逃げてしまう…夫は怖がって娘に近づかなかったし、触れなかった。傷つけるのが怖いと」
そこにパオロが検査室から出てきたので、「失礼」とジャンニがその場を離れた。
「あの子のお父さんね?」と聞かれ、振り返って、「違います」と答えるジャンニ。
外で食事をしながら、パオロは、「想像もできないほど、いろんなことを言われた」と話す。
「ジャンニは僕のお父さんだとか…きっと僕はからかわれたんだ」
「そうじゃないよ」
「なら、いいけど」
「食べ終わったら、ホテルに戻って休もう」
アイスクリームを食べ終わり、ジャンニにもたれかかるパオロ。
眠ってしまったパオロを抱え、ホテルに戻ったジャンニは妻にパオロが直ぐに懐いたと電話で報告する。
翌朝、先に目を覚ましたパオロは、下着姿のままホテルの部屋から出て廊下に歩き出し、それに気づいたジャンニが制止した。
「家に帰りたい。パパが一人なんだ…あの子も一人だし」
「部屋に戻ろう」
抵抗してジャンニを叩くパオロを抱いて、無理やり部屋に戻した。
「昨日の夜、薬を飲ませてくれなかった。忘れただろ。アルベルトは忘れない」
テレビを大音量にして聴いているパオロに、「音を小さくしてくれ」」と言っても聞かないので、ジャンニはテレビのスイッチを切ってしまう。
服を着せてあげると、「こっちの腕からだと痛いんだ」と障害のある左腕から通すようにパオロが指示する。
「家まで送ってくれる?たくさん用事がある」
「どんなこと?」
「お皿を洗って、買い物をして、床を拭いて、家の片づけをしないと追い出されるんだ」
「大丈夫。追い出されない」
「これ見てよ。家の鍵だ。門の鍵に、玄関に、車庫の鍵。警報装置のもある」
「しまわないと」
机の上のパオロのノートに貼られた写真の女の子を、パオロは「僕の彼女」だと言う。
「美人だな」
「すごい美人だ」
「何て名前?」
「クリスティン」
実際に会ったことも話したこともなく、ノルウェーの学校から送られ、写真を交換したと言うが、年を聞かれると4歳半と答えるなど、パオロの話は取り留めがない。
検査をする技師に人懐っこく話しかけるパオロは、傍にいたいと言うジャンニには、「ダメだよ。外へ」と出て行くよう強く促す。
ジャンニは言われるがまま病室を出て、病院の外を歩いていると、ベンチで読書しているニコールが座っていた。
ニコールは、イタリア人が書いた『明日、生まれ変わる』という本をジャンニに勧める。
「これは読むべきよ。私たちに直接かかわる話だわ」
ジャンニは検査室からパオロに「追い出された」と言うと、ニコールも「私も娘に」と返す。
二人はレストランで食事をし、お互いのことを話し合う
イタリアに留学したことがあるというニコールはリヨンに家があり、半年ごとにナディンの治療のためにベルリンへ来ていると言う。
「今は何の仕事を?」
「その質問には、“何も”と答えることに…娘が生まれた日から」
「娘さんを愛おしいと?…僕もパオロがとても愛おしい」
「お子さんは?」
「8カ月の息子で、名前はフランチェスコ」
「パオロの面倒まで見るなんて、心が広いのね。何か償うべきことでも?」
「たぶん」
「冗談ですよ。さぞ大変だろうと思って。ご親戚のお子さん?」
「友人です。家族同然の」
病棟に戻るとニコールの足元がふらつく。
「家族同然というより、本物の父親にように見えたわ。娘と出掛ける時の夫と、まったく同じ目だった。不安げで、おどおどした目つき。まるで、他人への迷惑を詫びるかのように」
「不慣れだから、失敗するのが怖くて」
「伝わってくる」
「どこから?」
「分からないけど、昨日見ていて思った。“彼は恥じている”と」
リハビリ室での歩行訓練を真剣に見守るジャンニ。
センサーを付けた独り歩行の激しい訓練に、パオロは「息をつかせて」と訴えるが、イタリア語が通じず、訓練士のドイツ語の拍子取りが続く。
耐え切れなくなったジャンニが、思わずパオロを抱き締める。
テラスで飲み物を買いに行ったジャンニを待つパオロは、通りがかったニコールに声をかけ、「チーズサンドを買ってきてとジャンニに伝えて」と頼んだ。
ニコールは順番待ちをしているジャンニに話しかける。
「先生がひどく怒ってた。子供たちにとって問題なのは、病気じゃなくて親だと。息子さんなのでしょ?」
「ええ。彼に必要なのは歩行ではないと、先生に伝えてください…パオロの年を?15だ。時に動物のように考えもなく、誰でも好きになる」
「きっと生まれた時に独りぼっちで、そばに誰もいなかったのね。何があったの?」
「これ以上嘘はつきたくない」
電車でホテルに帰った二人は、はしゃぎながら風呂に入り、食事ではパオロがジャンニにスプーンで食べさせたり、学校での話をするなどして、距離を縮めていくのである。