図画工作・美術教育の大切さを考える(訴える) (original) (raw)

次期指導要領改訂を前に、図画工作・美術教育の存在意義やこれからのあり方を考えていくためのブログです。 by zoukeidaiji 文化を伝える学校の役割はどこにいくのか 学校教育の教科内容の母体は、先人の努力によって築かれてきた文化である。気の遠くなるような長い年月をかけて積み重ねてきた人類の英知こそが、学校教育の資源である。この資源を、子どもの発達に応じて具体化し、提供する社会的な仕組みが学校である。私たちの社会は、互いに共有できる文化を基盤にして成り立っている。子どもたちは、文化の学習を通して社会の構成員たる能力を段階的に獲得していくのである。ところが昨今の風潮をみていると、近視眼的な能力開発や、人材育成という文脈で教育内容が左右されつつある印象を受ける。確かに学校は子どもの力を伸ばすところではあるが、文化という教育内容を媒体にして、力を伸ばすという前提を忘れてはならないだろう。さもなくば、教科学習は本当に受験のためのもの、特定の能力を手っ取り早く身につけさせるためには勉強なんかしてられない、という事態を生む。図画工作や美術の内容的な母体は、美術文化、造形文化である。言い換えるならば、イメージの形象化、色や形や素材を通した表現の文化である。この文化の学習を、子どもの成長にあわせて組織化したものが、小学校から中学校にいたる図工・美術の内容だといえる。万人が美術作家になるわけではないからという拙速な判断によって、もしもこれらの教育が学校教育から削減されたり失われたりするならば、次代の社会の構成員になる子どもたちに、どうやってこの文化を伝承しえようか。ある人は、それならば文化史として他教科で扱えばよかろう、と思うかもしれない。はたしてそうだろうか?美術の学習は、実際に表現を体験することによって理解を可能にする特有の学習方法をもつ。絵の具を溶く、筆を走らせる、粘土をこねて形にする、といった実体験や、それに伴うさまざまな感覚に基づいて理解を促す学習は、図工・美術にしかできないことだ。このとき、子どもたちは美術文化の一端を、表現の追体験を通して学んででいる。それは同時に、子どもたちが未来に向けての文化創造に参画していることでもある。ある人は、それならば総合的な学習の時間で扱えばよかろう、と思うかもしれない。はたしてそうだろうか?前述の通り、実体験は図工・美術の大きな特徴だが、体験することが目的なのではない。目的は体験を通して、美術文化を学習することである。美術文化の学習という文脈から切り離された体験は、図工・美術が提供する学習の代替にはならない。絵を描く子どもたちは、自分の思いを色や形に表す喜びを知るだろう。そして、どうして人間が長い歴史のなかで絵を描くことをやめなかったのかを知るだろう。別の子どもたちは、うまく描けずに苦労することだろう。そして、人間が絵を描くために感じてきた苦悩の一端に触れるだろう。またある子どもたちは、見たこともない新しいものの見え方に驚くだろう。そして、創造に向かって歩む美術の文化が、この先にも続くことを知るだろう。はじめは自分自身の個人的な感覚や思いや楽しさだが、それを支えにして美術という文化理解と文化創造につながっていく学習が図工・美術である。次代の社会の構成員となるすべての子どもたちに、等しくこの美術文化・造形文化の学習の機会を提供できるものは、義務教育をおいて他にない。好きな者がやればよいとか、趣味は家庭でという理由で図工・美術の学習機会を狭めるようなことがあれば、すべての子どもたちに提供できるはずの文化体験や学習の機会を損なうことになる。それは公立学校における義務教育の重要な役割を壊していく最初の一撃になりかねない。 佐々木宰(41歳・男・北海道・北海道教育大学釧路校助教授) by zoukeidaiji | 2005-11-30 20:31 大学
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