散州 (original) (raw)
散州(さんしゅう)とは、中国の元・明・清の時代に、省に直属しなかった州のことである。これに対して、清は省に直属した州を直隷州と呼んだ。
元朝には路・府・州・県などの行政区画があった。ある府・州は中書省または行中書省に直属していた。ある府・州は路に属しており、路に直属する府・州は散府・散州と呼ばれた。路の直下の行政区画には、県・散府・散州があった。そして、散府・散州はその下に県を管轄することができ、階級関係はかなり混乱している。
明初には路をすべて府に変え、従来の散府は廃止し、あるいは省直轄にした。散府はなくなったが、散州はそのまま残っていた。府直下の行政区画は県と散州とがあり、散州はその下に県を管轄することができた。そのため、明の地方行政区画については、「三級制」か「四級制」かの議論がある。明の散州には付郭県がなく、元代の散州にあった付郭県は明初に「省入」州(すなわち州と合併)となった。このため散州の州治地域は州に直属していて、いずれの県にも属さなかった。明初には、元代の散州の多くを県に格下げして、一字名の県(州名から取った)が生まれた。たとえば曹州→曹県、嵩州→嵩県、万州→万県(万州区)などである。
清朝の雍正年間に行われた一連の行政区画の改革で、散州は県を管轄できなくなり、一方、省直属の直隷州は県を管轄することで、行政レベルの乱れを避けた。このとき一部の散州は直隷州となり、他の散州の所轄である県は、州の中に入ったり、府の管轄に変わったりした。そのため清代の散州の階級は県に相当するものとなった(ただし、州官の品級は依然として県官の品級よりも高かった)。地方制度は明確な「三級制」となり、これは清において重要な改革だった。清の直隷州にも付郭県はない。
清の「道」は公式の行政区画ではなく、省の派出機関であり、その地位は省と府の間にあった。が、清代の中後期になると、「道」の権力はますます大きくなった。道が、省級と府州庁級の間にあったので、清代中後期では地方行政制度は「準四級制」になっていた。
民国二年、全国で廃府州庁を施行し、すべての散州・散庁をそのまま県とした。
たとえば、明代の広東布政使司恵州府連平州は、河源県と和平県を管轄していたが、雍正年間になると、連平州は新しい規定によって県を管轄することができなくなり、河源県と和平県の両県は恵州府の管轄となり、連平州も県級の行政区画となった。
中華民国時代になると、全国で廃府州庁改県(散州・散庁は一律に県に改め、府・直隷州・直隷庁を廃止し、すべての県を省直轄とした)が実施されたので、連平州は広東省連平県に改められた。これによって直隷省順天府通州→直隷省通県などの単字県名が生まれた。
雍正年間の後の内地政区の階級関係は次のとおりである:
布政使司(省・行省) | |||
---|---|---|---|
道(正式な行政区画ではない) | |||
直隷州 | 府 | 直隷庁 | |
県 | 散州 | 県 | 散庁 |
- 孫文良, 中国官制史, 1993年, 台北, 文津出版社。