石原八束 (original) (raw)

石原 八束(いしはら やつか、1919年大正8年)11月20日 - 1998年平成10年)7月16日)は、日本の俳人

山梨県錦村二之宮(現・笛吹市御坂町二之宮)に生まれる。父親は俳人の石原舟月(起之郎)。本名は「登」であったが、病弱であったため生後一ヶ月で長命を願い「八束」に改名した。

1937年(昭和12年)、父の師である飯田蛇笏に師事する。飯田蛇笏は現在の笛吹市境川町において俳誌「雲母」を主催していた俳人で、八束も「雲母」に投句を始める。1943年(昭和18年)に中央大学法学部を卒業する。戦後は東京世田谷の石原舟月宅に「雲母」発行所が移転され、八束は1947年(昭和22年)より蛇笏の子息・飯田龍太とともに「雲母」編集に携わる。1949年(昭和24年)より三好達治に師事(第一句集『秋風琴』は三好の命名による)。1956年(昭和31年)、「馬酔木」に「内観造型への試論」を発表。

1960年(昭和35年)より、三好を囲む「一、二句文章会」を自宅にて毎月開く。1961年(昭和36年)、俳誌「秋」を松澤昭と共同で創刊、のち主宰。1976年(昭和51年)、第六句集『黒凍みの道』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1997年現代俳句協会大賞受賞、同年『飯田蛇笏』で俳人協会評論賞受賞。現代俳句協会および俳人協会で顧問も務めた。1998年7月16日、呼吸不全のため死去。

幼時から病弱であり、若い頃には結核で療養を余儀なくされた八束は、蛇笏の主観写生に学びつつ人間の内面を注視する作風を獲得するようになる。その持論である「内観造型」は、外的な自然を諷詠するのではなく、自然の中に身を据えながら人間の内部を見ることを説くもので、「くらがりに歳月を負ふ冬帽子」(『空の渚』所収)はその方法論による代表作である。

その境涯性を持つ句風はのち「黒凍みの道夜に入りて雪嶺顕(た)つ」(『黒凍みの道』所収)などに代表される暗喩的・象徴的な句風に発展。晩年は「宇宙感覚」と自ら呼ぶものを重視し、エジプト中国への旅を重ねて「わが詩(うた)の仮幻に消ゆる胡砂の秋」「ナイル河の金の睡蓮ひらきけり」(ともに『仮幻』)などの句を得ている。