『キャリー』 超少女クロエ (original) (raw)
キンバリー・ピアース監督、クロエ・グレース・モレッツ、ジュリアン・ムーア、ジュディ・グリア、ガブリエラ・ワイルド、アンセル・エルゴート、ポーシャ・ダブルデイ出演の『キャリー』。PG12。
原作はスティーヴン・キング。
裁縫店を営む母親(ジュリアン・ムーア)と二人暮らしのキャリー(クロエ・グレース・モレッツ)は、高校のシャワールームではじめての月経の血に取り乱し、クラスメイトたちにからかわれる。体育教師のデジャルダン(ジュディ・グリア)はキャリーへのいじめに加担した生徒たちを罰するが、主犯格の一人クリス(ポーシャ・ダブルデイ)はキャリーへの憎しみをいっそうつのらせる。一方でスー(ガブリエラ・ワイルド)は、キャリーへのおわびをこめて恋人のトミー(アンセル・エルゴート)に彼女をプロム(高校のダンスパーティ)に誘うように頼むのだった。
1976年のブライアン・デ・パルマ監督、シシー・スペイセク主演による同名作品と、1999年(日本公開2000年)の続篇『キャリー2』につづく3度目の映画化にしてデ・パルマ版のリブート的作品。
公的にはまったく言及されていませんが、この映画はどうやら北米で公開されたものに改変が加えられたヴァージョンらしいです。
なんでもあちらではR-15なのを日本ではPG12にするためなんだとかで。
う~ん、どうして劇場まで行って金払ってカットされた不完全な作品を観なくちゃならないんだろうか。アホらしいなー。
samurai_kung_fuさんのブログでその事実を知ったんですが、カットの理由や該当箇所などについては自分で配給会社に直接質問しないといけなくて(質問すりゃ答えてくれるようだが)、公への発表は許可なしではダメなんだそうです。
…なにホザいてんの?
この作品はアメリカでも評判はあまりよろしくないようなので、カットされてようがされてまいがそれで作品の質がいちじるしく変わるということもなさそうなのだが、だからって勝手なことしないでもらいたいもんだ。しかも観客に内緒で。
ほとんどの観客はこの映画が北米公開版から改変されたものだということを知らない。知らずに見せられている。
僕だってsamurai_kung_fuさんのブログのエントリ読まなきゃずっと知らないままだっただろうし。
なんか卑怯ですね。
こういう洋画の配給会社の観客をナメきった態度は、食品の虚偽表示とおなじぐらい問題にされていいんじゃないかと思います(むりやり時事ネタ)。
くだらないことに字数を割いてしまいましたが。
すでに観た人たちの感想を読むと、アメリカでの低評価を裏付けるようにみなさん口をそろえて「クロエちゃんは頑張っているのだが…」と言葉を濁す。
作品そのものを全面的に高く評価しているものはほとんどない。
「デ・パルマ版の軽薄な焼き直し」「安っぽい」「主演がミスキャスト」などと酷評が並ぶ。
なので、僕はもう最初からクロエちゃんのアイドル映画を観に行くつもりで臨みました。
元・超少女REIKO(現・サザエさん)の観月ありさ先輩のように主題歌は唄っていませんが。
では、これ以降
ネタバレを含みますのでご注意ください。
さて、今回のヴァージョンがどうして評判が悪いのかというと、やはり76年版の上っ面をなぞっただけ、という印象が強いからだろう。
76年のデ・パルマ版を観ていない人たちはどう感じるのかわからないけれど。
今回、そのデ・パルマ版と頻繁に比較するので、まだそちらをごらんになっていないかたはゴメンナサイ。
もしクロエ主演版『キャリー』を観て興味をおぼえたり、逆に不満だったかたはブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』をぜひ観てみてください。
そして以下の文章をデ・パルマ版の感想のあとに読んでいただけると、より両者の違いがハッキリしてわかりやすいのではないかと思います。
もっとも僕は別にデ・パルマ版に特別思い入れがあるわけでもないので(はじめて観たのはDVDでだし)、リブート版の方が面白ければそれに越したことはなかったんですが…。
主人公キャリーやその母親と同性であるリブート版の監督キンバリー・ピアースがこの題材をどう扱うのか興味があったし、なにより今回主人公を演じるクロエ・グレース・モレッツは実際に16歳のティーンなので(デ・パルマ版のシシー・スペイセクは撮影時27歳だった)、いま『キャリー』を再映画化する意味はそこにこそあると思ったし。
また、もちろんキャリーとはまったく違うけれど、クロエは母親との絆が強くて「子役」というほかとは違う特殊な環境で育ったところは共通しているので、みずからのネガとしてのキャリーにシンクロする部分も多いのではないか、と。
クロエ自身はキャリーと違っていまの自分の生活に満足していて、「普通になりたい」などとは思っていないようだが。
そんなわけで、デ・パルマ版とはまた違った魅力を発揮してくれるのでは?とちょっと期待していたのです。
まず真っ先にツッコむべきところとして、あのクロエ・グレース・モレッツが内気で世間知らずな「いじめられっ子」を演じるという、まったくもって説得力のない設定。
しかも本篇がはじまる前に『キック・アス2』の予告が流れて、そこでヒット・ガール役でおもいっきり暴れてるんだもんなーσ(^_^;)
デ・パルマ版の腺病質的な体躯で顔面力がハンパなかったシシー・スペイセクにくらべると、ガタイのいいクロエはまわりの誰よりも健康体に見えるし、もともとカワイイので彼女がどんなに泣き叫ぼうが血まみれで暴れようがやっぱりカワイイもんはカワイイのだ。
TVドラマ「野ブタ。をプロデュース」で堀北真希がいじめられっ子を演じてた以上に無理がある。
エマ・ストーン主演の『小悪魔はなぜモテる?!』を観たときも、エマ・ストーンがモテなくて学校で仲間はずれにされるなんて「ありえねーだろ」と思ったけど(生徒のなかでも彼女が一番カワイイし)、それと似たようなものを感じる。
かつて『レオン』で美少女子役として大人気になったナタリー・ポートマン(クロエは尊敬する女優として彼女の名前を挙げている)は、当時学校でいじめに遭っていた、とのちに語っているので、かわいい子がぜったいにいじめられないとは言い切れませんが、でも僕は学校で美少女がクラスや部活動などでいじめられてるところを目撃したことは一度もなかったなぁ。
そういう意味でも、デ・パルマ版のシシー・スペイセクは見事なまでのいじめられっ子ぶりだった。
それとシシー・スペイセクのキャリーはつねに不安げで、ほかに頼れる存在がいないために虐待されても基本的には母親に従順なのだが、クロエ演じるキャリーはわりとはっきり自分の意見を言うし、はやばやと母親に反抗的な態度をとる。
「私は普通じゃない」と言ってるけど、最初から「普通の子」じゃん、と。
なんていうか、まぁぶっちゃけ「いじめられっ子」に見えないのだった。
一所懸命上目遣いでオドオドしてそれらしく演じてはいるのだが。
それでも、極端な母子密着からくる世間への恐怖心や幸薄さよりも、もともとクロエが持っている「わが道を行く」タフネスさの方が勝ってしまっている。
そーいえば、クロエは『(500)日のサマー』ではジョセフ・ゴードン=レヴィットに「“生理”がなんなのか知ってるのか!?」と驚かれて「あなたたちよりはね」と答え、『リピート』で初潮をむかえ、『ムービー43』でまたしても初潮をむかえ、そしてこの『キャリー』でも…って、いいかげん本人も内心「生理ネタはもういいよっ」と思っているのではないかσ(^_^;)
なんか男のくせにあまり初潮だの生理だのと連呼してると変質者みたいで我ながら気持ち悪いですが。
クロエ本人は何年も前から自宅学習で学校には通っていないから、「学校でのいじめ」を経験したことも目撃したこともないのかもしれないし、今後高校のプロムに行くこともないだろう。
プライヴェートでは有名人としてつねにパパラッチに追われたり、心無い人間からときにいわれのない中傷を受けたりすることもあって(「私の大切な家族を悪く言う者は許さない」とコメントしている)、キャリーが抱える孤独や怒りをまったく理解できないわけではないのだろうけれど。
それに…やっぱりクロエちゃんは体格が良すぎるんだよ。
冒頭の水中バレーのシーンでは、クロエの肩幅の広さに「運動神経が鈍い」という設定がはやくも崩れていたし。
いつ、いじめっ子たちに「おまた蹴り上げるよ!」と怒鳴るかヒヤヒヤしたほど。
…なんかさっきから好きなのか嫌いなのかわからなくなるほどディスってますが、いや、だから適材適所だと思うのだ。
「その子」に合った役とそうでない役、どんな女優にだってそれはあるでしょう。
以前もちょっと書いたけど、キャリーをいま演じるのなら、たとえばミア・ワシコウスカやシアーシャ・ローナンのような肌の色素が薄くて華奢な体型の、つまりどこかはかなげな雰囲気の女優が適任だったのではないか。
デ・パルマ版のシャワーシーンでは、キャリーをはじめ少女たちの裸体(演じているのはすべて20代の女優)が映しだされて、経血を強調することさら生理的嫌悪感を煽るような描写だったけれど、今回の作品は演じるクロエが未成年だしターゲットとなる客層も低く設定してあるためヌードはなく(しかも床に転んだときにバスタオルのなかの下着が見えてしまっている)、いじめのシーンもデ・パルマ版に準拠しているが、あっさりめに切り上げている。
「いじめ」ってのは「執拗」なのが特徴なのだが。
そりゃ、クロエちゃんのスク水姿が一瞬だけ見られるしピンクのドレス姿も可愛らしいけれど(しかしウエストのくびれが見当たらなかったのだが…)、映画的な生々しさという点でいえば、70年代に作られたデ・パルマ版よりもあきらかに後退している。
いろいろ気を遣ったのかもしれないけど、キスシーンすらないし。
これではあまりにカマトトぶりすぎてないだろうか。
「安っぽいTVドラマみたいだった」という感想があるのもうなずけてしまう。
高校生役の俳優たちは、おそらくキャリー役のクロエが最年少で、あとは10代後半から20代半ばまで。
スー役のガブリエラ・ワイルドは24歳。
彼女がクロエと同い年というのは、いくらなんでも無理ありすぎでしょう。
キャリーの「成長が遅い」ことを表現したかったのかもしれないけど、単にお姉さんたちのなかに紛れ込んだ妹みたいに見えてしまっている。
それに、そもそも『キャリー』は小さな街が舞台でけっして壮大な物語ではないのだが、今回はホラー描写がより即物的なのだ。
本やベッドや車が宙に浮いたり、プロム会場の破壊はより派手になり、スーの目の前でキャリーの家が空から降ってきた大量の石で倒壊したりする(※キャリーの家が石の雨で壊れるのはデ・パルマ版でも撮影準備までされていたが、機材の故障で実現しなかった)。
76年当時には予算的、技術的に不可能だったことが実現しているわけだけど、そのようなVFXによる超常現象の描写はX-MENやハリポタなんかで観客はもうさんざん見慣れているので、たとえばジョシュ・トランク監督の『クロニクル』がPOVの手法に青春物のテイストを盛り込んでいたように、いままでにない新鮮な表現をいかに生みだすかが勝負どころだろう。
この『キャリー』にはヴィジュアル面で目を見張るような驚きはなかった。
ならばそれこそ登場人物たちへの演出で恐怖や青春の痛みを表現するしかないのだが、それが達成されていたとは言いがたい。
もしいま『キャリー』を再映画化するなら、あえてデ・パルマ版とおなじ70年代を舞台にするか、それとも現代的に大幅なアレンジを加えるか、いっそのこと主人公が「いじめられっ子」という設定そのものを変える必要があったのではないだろうか。
いじめられっ子じゃなくて、はじめは普通だったか、あるいはイケてる組だったのがなにかがきっかけで周囲から反発を食らったり孤立する、というのならまだわかるんだけど。
いまならむしろ「普通になりたい異端者の恐怖」ではなく、普通の人々がじょじょに、またはある日突然「普通でいられなくなってしまう恐怖」の方がリアルなのではないか?
イケてるグループだったクリスが、キャリーへのいじめをきっかけに仲間たちから距離を置かれる場面の方がよっぽどそれらしかったぐらいで。
狂信的なキリスト教徒の母親に虐待されて育った娘というのも、そういう人は世のなかにいるのかもしれないけど、いまいち現実味がない。
76年のデ・パルマ版にはシンプルな物語のなかにさまざまなメタファーを読み込む余地があったが、そのストーリーをただ現代に持ってきてトレースしただけでは、“神”に逃避して男やセックスを憎み娘に自己を投影する母親の狂気にも、「普通になりたい」と願うその娘にも感情移入することは難しい。
ジュリアン・ムーアがスッピンで熱演する母親は、デ・パルマ版では特に描かれていなかった彼女の自傷行為の場面が何度か挟まれることで、じつはこれが娘のキャリーではなく母親の問題であることが強調されている。
それは一見するとこの『キャリー』という物語の本質を突いているようにもおもえるのだが、しかしあの母親がどうしてこれほどまでに精神的な危機に陥ったのか最後までよくわからないために(男に犯された、という彼女の告白は額面通りに受け取っていいのだろうか?)、結局は頭のおかしいオバサンが不必要なまでに娘を抑圧したために最後はその命を絶たれるという、一般の観客にはいまいちリアリティを感じづらい、それゆえ恐怖も伝わらない話に終わってしまっている。
キリスト教には性欲や性行為に対する多くの禁忌があって、『キャリー』という作品には原作者スティーヴン・キングとおなじアメリカ人の宗教観が全篇に渡って反映されているので、特にクリスチャンではなくキリスト教の知識もない多くの日本人にはピンとこないのも無理はない。
キャリーの母親が娘の「父親」を憎み、彼の血を受け継いでいるキャリーを「血が穢れている」「魔女」と呼ぶのはデ・パルマ版もおなじではあるが、僕は英語のヒヤリングができないのでキャリーの母親が実際にレイプに遭ったのか、それとも合意のもとによる性行為ののちに男に捨てられたのかはよくわからなかった(デ・パルマ版は後者のような気がするのだが)。
この狂った母親は「女はアダムの肋骨から創られた」という聖書の記述に基づく歴史的、生物学的にはなんの根拠もない迷信(むしろ自然界では普通生まれたときはメスで、その後成長に従ってオスに変化する)をキャリーに暗唱させるが、この現代社会にはそれを文字通り本気で信じている人々がいて、そういう人間たちがアメリカという国では大多数を占めていたりするのだから怖ろしい。
僕たち日本人にとってはそんな馬鹿で白痴なアメリカ人のことなど知ったこっちゃないのだが、ここんとこ持て囃されてる園子温監督の『恋の罪』でも、娘を「血が穢れている」と罵る老いた母親が登場していた。
そこではやはり彼女の娘が妻を裏切った憎むべき夫の血を受け継いでいる事実に(親子なんだから当たり前なのだが)母親は怒り狂うのだ。
園子温もなにやらキリスト教に対するオブセッションがあるらしく、しばしば自作のモチーフに取り入れている。
ブライアン・デ・パルマが『キャリー』を撮った1970年代は、アメリカで従来の絶対的なキリスト教的価値観が揺らいで、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』などに見られるように反キリスト教的なオカルト趣味が流行した。
それは「秩序」への不信や懐疑に根ざしたものだった。
そういう文脈を踏まえていないと、『キャリー』が描いているものがなんなのか理解するのは難しい。
しかし、今回の新生『キャリー』には、そういう時代的な切実さは感じられない。
そして、この映画でヒロインであるキャリーに対して観客が共感しづらいのは、彼女が最初から周囲に対して憎しみをいだいているらしいことだ。
デ・パルマ版のキャリーはイノセントな存在として描かれていた。
だからこそ、彼女が自前のドレスでおそるおそるプロムに出かけていき、そこでプロム・クイーンに選ばれるというまさしく夢のような栄冠を手にした直後の惨劇に観客はショックを受けたのだ。
そこではキャリーが持つ超能力は、あくまでも制御不能なものだった。
しかしクロエ演じるキャリーは、自分に超能力があることを自覚すると、さっそくそれを使ってさまざまな超常現象を起こしてみせる。
まるで自分をいじめる者たちに復讐するためにトレーニングしているかのように。
そんなキャリーがスーの差し金で自分をプロムに誘ったトミーに無防備なままホイホイついていくのも解せない。
デジャルダン先生の前で「きっとワナだわ」と言って疑っていたのに。
もしもキャリーをいじめっ子への復讐の機会を虎視眈々と狙っているようなダークなキャラクターに改変したのならば、彼女がむざむざとクリスのワナにハマるのはおかしいではないか。
あの「豚の血ぶっかけシーン」を入れなきゃ『キャリー』じゃないもんね、ということか。
僕は、これは完全なる脚色の失敗だと思う。
なまじデ・パルマ版のシナリオに沿って描いたために、キャリーの性格もクリスやスーたちもなんとも説得力のないキャラになってしまっている。
おそらく多くの人たちが疑問に感じるのは、最初はクリスといっしょにキャリーをからかっていたスーが、デジャルダン先生に叱られて唐突に改心して過剰に反省しはじめるところだろう。
スーは「いじめた埋め合わせがしたい」とか言って、自分のカレシのトミーにキャリーをプロムに誘わせるのだが、これはデ・パルマ版でもけっこう微妙、というか「?」な展開だったのに、リブート版ではスーをさらに鼻持ちならないキャラに変えている。
この映画でのスーはキャリーとおなじ高校生にもかかわらずトミーと学校のプールでイチャついたり車のなかでオトナの営みをガンガンにキメてるような娘なのだが、彼女が特に親しくもないキャリーに同情する理由がまったくわからない。
演じるガブリエラ・ワイルドはこの映画のなかでは一番美人の女優さんなので、なおさら偽善臭が充満している。
普通のホラーだったら、この娘が真っ先にぶっ殺されるはずじゃないの?
いじめた女の子に自分のカレシをあてがうことが、どうしてその「埋め合わせ」になるのか僕には理解できないんですが。
一方、ポーシャ・ダブルデイ演じるクリスはほとんどムリヤリ憎まれ役を担わされているが、キャリーの動画をネットに投稿した件も父親との件もすべてが中途半端にしか描かれておらず、観客が「こんなヒドい奴、殺っちまえ!」とおもわずにはいられないほどの悪役たりえていない。
せっかくスマホを出したんならそれを介した人々の悪意の伝播を描くことだってできただろうし、だから先ほど言ったように特殊な立場ではなく普通に生活していた母娘が追いつめられていくような話にだってできたはずで。
たとえばアメリカで現在問題になってる(日本でもある)「リヴェンジ・ポルノ」ではないが、現実の世界ではネットに個人情報を垂れ流されて自殺者まで出てるんだし、そういう「リアル」に対してこの映画はあまりにも当たり障りのない旧態然とした「いじめっ子といじめられっ子」の描写しかしていないので、そりゃ観客はシラケるだろう。
現実の「いじめ」はこんなもんじゃないことぐらい、誰にだってわかる。
リブート版の作り手は、このあたりの「いじめっ子」や「イケてる軍団」の生態と「いじめられっ子」の心情がまるでわかっていない。
単純に「復讐物」としても失敗しているのではないだろうか。
あと、今回のトミー役のアンセル・エルゴートはデ・パルマ版のウィリアム・カットのようにイケメンじゃなくてそのへんのもっさい兄ぃちゃんなので、クロエと並んでても「普通のカップル」にしか見えないのだ。
なんでカレシ役にコイツを選んだ?
このふたりがプロムの“キング&クイーン”に選ばれる場面の、気の抜けまくった演出はあまりにヒドすぎる。
デ・パルマ版のスー(エイミー・アーヴィング)もおなじようにいきなりキャリーに同情しだすんだけど、その報いなのか彼女は最終的に悪夢にうなされて母親の腕のなかで泣き叫ぶことになる。
リブート版にはそういう結末はない。
先生も死なないし。
作り手がこの作品のキモがわかってない証拠だ(原作でどのような処理になってるのかは知りませんが)。
最後に、キャリーによって(なんで?)スーのおなかには死んだトミーの赤ちゃんがいることがわかるんだけど、意味不明。
なんですか?生まれてくるその子がキャリーになんか関係でもあるの?
続篇を匂わせるこのあざとい終幕。
ちょっと擁護しがたい代物だ。
76年の『キャリー』が名作になったのは、あの作品を当時は「モテね男」だったブライアン・デ・パルマとほぼ無名だったシシー・スペイセクが怨念にも似た思いで作り上げたからだ(シシー・スペイセクはキャリー役を勝ち取るために、彼女の起用に乗り気ではなかったデ・パルマに積極的にその存在感と演技力をアピールした)。
デ・パルマ版のキャリーもプロムの惨劇で無関係な人々を犠牲にするのだが、それは「信じかけた人々に裏切られた」という誤解から、劣等感の塊だったキャリーの怒りが爆発して起こる「悲劇」だった。
デ・パルマ版『キャリー』のクライマックスについてしばしば「いじめられっ子の復讐」といった表現がされていて、殺される人々に対して「ざまぁみろ!」と感想を述べている人もいるけど、デ・パルマの『キャリー』ってそういう映画じゃないと思うんだよね。
あの作品でキャリーは復讐しているというよりも、我を忘れて暴走してしまっている。
彼女を心配していた先生たちや無関係な生徒たちまでも巻き添えにしてしまうし。
豚の血を浴びせられたとき、逆上した彼女にはこの世のすべてが自分をあざ笑っている敵に見えたのだ。
それは「大暴れしてスッキリする」などというようなものではなくて(映像的にカタルシスがあるのはたしかだが)、すべてが終わったあとにはやりきれない気持ちになる。
『キャリー』の男の子版ともいえる『クロニクル』がそうだったように。
他者とのコミュニケーションが不得手だったり、日々の生活のなかで鬱屈を抱えている者にはじつに共感できる話だろう。
自分に自信が持てなかったり過度に自己を嫌悪する心理は、現実をはるかに超えた理想や自己愛の反転である場合が多い。
映画評論家の清水節さんが、「デ・パルマ版の真の後継者は『クロニクル』」と書いていたけど、僕もおなじようなことを考えていたのでわが意を得たりといった感じだった。
この新生『キャリー』はVFXを駆使して“いじめられっ子が仕返ししてスッキリ”という、わりと浅いホラーになっている。
別にそういう映画があったっていいと思うけど、もともとのデ・パルマ版はそうじゃなかったんだからリブート版が「劣化コピー」というそしりを受けるのは残念ながらやむをえないのではないかと。
今回のリブート版でクロエが健闘しているのはもちろんよくわかるし、リアル16歳でキャリーというキャラクターを演じられたのはそのキャリアのなかできっと意義深いことだと思う。
それでも「いまをときめく若手スターが“ホラー映画のあの人気キャラ”を演じましたよ」というエクスキューズでのみ記憶されるような、残念な出来だったことは否定できない。
クロエ・グレース・モレッツは『悪魔の棲む家』『モールス』、そしてこの『キャリー』と、リメイク、もしくはリブート作品への出演がけっこうあって、『モールス』のような秀作もあるしそれぞれファンもいるのだろうけれど、ちょっともったいないなぁ、とは思う。
『モールス』の少女役はまだぎり成立したけど、さすがにキャリーを演じるにはクロエは健康的で骨太すぎたのだ。
やはり彼女はいじめに怯える少女よりも、「いくわよ、おしゃぶり野郎!」と啖呵を切って拳銃ぶっ放したりナギナタ振り回してる方が似合っている。
『キック・アス』で世界的に有名になった彼女が、すでに高く評価されている映画の二番煎じ的作品に出演しつづけることがはたしていいことなのかどうか、僕は少々疑問なんですよね。
たしかにどーでもいい(俺的には)ラヴコメなんかよりも、あえて非日常的なホラー映画に積極的に出ていることはおおいに信頼できますが。
でも、せっかくならやっぱりオリジナル作品で勝負してほしいんだよなぁ。
それと、ファンの一人としては非常に心苦しいことなんだけど、しばしば彼女の演技力については疑問符が投げかけられてもいる。
ヒット・ガール的なこまっしゃくれたキャラクター以外でこれまで説得力のある演技を彼女は提示できているだろうか?と。
つまり、どんな役を演じてもどこか似通ったものになってしまうという指摘。
小さかった頃はそれだけでじゅうぶん魅力的だったのが、成長すると普通になってしまうということはよくある。
一時期、天才子役としてもてはやされたダコタ・ファニングが、ティーンエイジャーになるとわりと「普通」になってしまった(美人に成長して現在も活躍中ですが)のをおもわせる。
正直、僕は『キリング・フィールズ』と『HICK』を観たときにそれを感じてしまったのだった。
とある元アイドルグループの顔面センターの人が頑張ってNHKのドラマに出てるような涙ぐましさというか。
女優クロエ・グレース・モレッツの「いじめられっ子」演技が、およそ「いじめられっ子」とは程遠い存在におもえる土屋アンナ姐さんが17歳のときに『下妻物語』で見せていた、元いじめられっ子役の怯えた泣き顔に完全に負けていたのは、とても哀しい。
まぁ、それは彼女の才能の問題だけでなく、演出する側にだって責任があると思いますが。
クロエが14歳のときに出演したドリュー・バリモア演出のPVのヤンキーねぇちゃん役はハマってたんだから、彼女にはか弱い女の子の役は合ってなかった、ということだ。
ハッキリ言わせてもらうが、クロエは『キック・アス』以来、ここ1~2年のあいだ出演作に恵まれていない。
わずかにマット・リーヴス監督の『モールス』がよかったぐらいで、いまや巨匠と呼ばれるマーティン・スコセッシやティム・バートンの映画すらスカだったし。
むろん、それは彼女のせいじゃない。
クロエ・グレース・モレッツが魅力的な若手スターであることは疑う余地はないので、今後彼女がどんな作品にかかわりさらなる躍進を見せてくれるか、なおも見守りつづけていく所存です。