『アナと雪の女王』 ありのままで (original) (raw)
ディズニーアニメというのは子どもが観るものだから、保守的な親が多いアメリカではヒロインが同性愛者なんてのは言語道断で、だからなんとかそれをわからないように作品の中に潜り込ませた、ということも十分考えられる。
僕はここに新たなディズニーヴィランの誕生を予感したのでした。
人々に害をなす魔物として恐れられ追われる身となったエルサは、ようするに従来のプリンセス・ストーリーでは「悪役」である。
自分一人で自由にやりたいようにやる、というのは、別の見方をすればワガママで自分勝手ということにもなる。
一方で、主人公のアナは王家の姫君とは思えないほど庶民的な娘で、顔や背中にまでソバカスのあるその辺のアメリカ娘、つまり観客の女の子たちが共感したり同化できる存在。
会ったばかりのどこぞのイケメン王子といきなり結婚しようとしたりする。
その浅はかさも含めて「普通の女の子」。
そんなわけで、二人のヒロインはあえて対照的なキャラクターとして描かれることによって、この映画はちょっとした「ヒロイン論」にもなっているのですね。
しかも二人のどちらか一方を肯定してもう片方を否定する、ということではなくて、どちらもそれぞれの生き方としてアリとする、そういう物語。
…とここまで書いてきて、しかし結論からいうと、この映画はそのような「それぞれの生き方」を全面的に肯定するような結末には至らない。
残念ながら、それが僕がこの作品を絶賛することができない理由でもある。
アナは旅の途中に出会った山男のクリストフのソリでエルサの行方を捜す。
さらに幼い頃にエルサの魔法で作られた雪ダルマのオラフもお供について、一行はついにエルサのいる氷の城にたどり着く。
再会を喜び、姉に魔法で王国に夏をもたらしてくれるように頼むアナ。
ところがクリストフやオラフの姿を見たエルサは心を閉ざして、巨大な雪男マシュマロウにアナもろとも一行を追い払わせる。
僕はこの映画、ピクサーが2012年に作った『メリダとおそろしの森』のリヴェンジ的な作品だと思っているんですよ。
いや、ディズニーとピクサーは別会社だし、『アナ』と『メリダ』のスタッフはまったく違う人たちかもしれないけど(どちらも製作総指揮はジョン・ラセターだが)、共同で女性が監督していること、お姫様であるヒロインが「自分らしさ」を求めて葛藤することなど、共通点は多い。
ちなみに『アナ』の監督の一人、ジェニファー・リーはディズニーの前作『シュガー・ラッシュ』の脚本家でもある。
『メリダ』は既存の「女性らしさ」に異議を唱えて新たなヒロイン像を模索する試みがなされていたが、残念ながら失敗に終わった。
女性監督は降板し、主人公の「自分らしさの探求」と「単なるワガママ」の区別がついていないストーリーは腑に落ちない点が多く、映画もヒットしなかった。
一方でその翌年に封切られた『アナ』は、世界49か国でディズニー作品史上最高の成績を記録したんだとか。
その違いは、まずキャラクターデザインと歌だと思います。
『アナ』は『ラプンツェル』と同じく従来の2Dアニメーションの絵柄を踏襲したものだった。
また、随所で登場人物たちが唄って踊るミュージカル調で、ヒロインは恋人と出会う。
ところが『メリダ』には歌も踊りも、そしてイケメンの王子様との恋もない。
それら“女の子アニメ”の「お約束」をすべて排除してヒロインの自立を描こうとして、結果として『メリダ』は観客の支持を得られなかった。
正直『メリダ』は目を奪われるような映像がほとんどなくて、お話自体も面白くなかったんでヒットしなかったのは致し方ないと思うんだけど、試みとしてはなかなか挑戦的だったんですね。
メリダが頭巾を被った姿がナウシカに似ていたのは偶然かな?
ヒーローと恋もしなければヒーローに救出されるのでもない、ほぼ一人きりで戦い続けたナウシカにインスパイアされて『メリダ』が作られたと考えるのは、ちょっと思い込みが激しすぎるだろうか。
でも結局、観客の女の子たちはヒロインが唄って踊って恋をする物語が観たいのだ、ということが証明されたってことですね。
『アナ』や『ラプンツェル』が世界的にヒットしたのは、さすがに僕みたいなおっさんのファンたちのおかげ、ということは考えられないので(だいぶ貢献した人もいるかもしれないが)。
で、話は戻りますが、今回のヒロインの一人エルサは、唄って踊りはするけれど恋はしないという、ディズニーアニメでは比較的珍しいお姫様なんですね。
だって、素敵な殿方と恋をして最後にはめでたく結ばれるのがプリンセスにとっての「最高の幸せ」なんですもの(♡ >ω< ♡)
それをみずからの意思で拒絶した、というだけでも画期的なことなのかもしれない。
かつては「悪役」として描かれていたようなキャラクターが、その枠組みを越えて共感できる人物として描かれる。
従来の価値観の転倒。
「プリンセス・ストーリー」の中で、それ自体を否定する生き方を描くという実験的な試み。
これまでディズニーアニメに存在しなかったヒロインと悪役の登場。
そんな感じで、僕はこの映画を途中まではかなり期待して観ていたんです。
でも、そんな期待は残念ながら裏切られてしまったのでした。
後半、ストーリーはちょっとありえない方向へ向かう。
アナと結婚の約束をして王国を守っていたハンス王子は、実は王国を乗っ取ろうと企んでいた。
結婚に興味のないエルサは無理なので、まず妹のアナに取り入って彼女の気持ちを掴んだハンスは、氷の城でエルサを捕らえて連れ帰り、牢に閉じ込める。
エルサの魔法が心に突き刺さって凍えて死にそうになっているアナを見たハンスは、牢を破って逃げだしたエルサに妹の死を知らせる。
絶望に打ちひしがれるエルサに剣を振り上げるハンス。
…う~ん、なんだこりゃ。
物凄くガッカリ。
この作品は、当初はエルサは悪役として脚本が進められていたが、彼女が唄う「Let It Go」のメロディや歌詞に合わせてキャラクターが変更されたんだそうな。
いや、エルサがホンマもんの悪者にならなくたっていいんですよ。
彼女はちょうどティム・バートンの『シザーハンズ』みたいに、触れると相手を傷つけてしまう、よーするにコミュ障のヒロインなわけでしょ。
エルサというのは心に哀しみを負ったキャラクターなんですよね。
彼女は意図せずに人々を苦しめてしまうことになる。だから憎まれて追われる。
でも人々を苦しめたり迷惑をかけることは彼女の望んでいることではない。
そんな姉を救えるのは、かつての姉の優しさを知る妹だけ。
そういうお話でしょう。
でももう一度最初に戻ってみると、エルサが生まれつき(?)持っていたあの魔法の力というのは一体なんだったのだろう。
それはただただ人々に災いをもたらすだけの呪いなのだろうか。
すべてを氷で覆い、孤独を愛すること。
それは「悪」なのだろうか。
優しい雪ダルマのオラフは、エルサの力で生まれたのではなかったのか。
オラフは他者への愛をアナに教えて、彼女とクリストフとの橋渡しをしてくれたではないか。
エルサがいなければ、この二人は巡り逢うことはなかった。
そしてアナの自己犠牲によってエルサは救われる。
誰もが必要な存在で、どこかで影響しあって生きている。
そういうことを語っている映画なんじゃないだろうか。
だから、この映画には「悪役」は必要ないんですよ。
たしかにやろうとしたことはサイテーではあるが、12人の兄がいてこのままでは国を治めることは一生かなわないために計略を巡らしたハンスが一人だけ悪者に仕立て上げられてしまって、アナにぶっ飛ばされて水に落ちて一件落着、というのは僕は納得がいかんのです。彼にも彼の事情があるわけで。
一目惚れしていきなり結婚、という人生だって、別にいいじゃないですか。
そして、エルサが求めたように「ありのままに自分らしく」一人で生きていく、そういう人生だってあるでしょう。
すべての登場人物の生き方が肯定される、そんなラストだったらよかったのになぁ。
エルサを殺そうとしたハンスの前にアナが身を躍らせて姉を守る。しかしアナは氷の像になってしまう。そこで「奇跡」が起きて妹が蘇る、って…それ『ラプンツェル』と同じですよ。
「愛」の力で死にそうな人や死んじゃった人が助かる、っていう。
宮崎駿監督も『ナウシカ』で一度それやってるけど、何度もやったらそれはただの「お約束」、ワンパターンのルーティンワークになってしまう。
繰り返しますけど、このクライマックスにはガッカリしました!
もしもどうしても「悪役」を出す必要があるんだったら、それはハンスじゃなくて、プリンセスたちに「幸せの形」を強制する世の中の制度そのものだと思う。
女の子(男の子も)はこうあるべき、と決めつけてくる世の中のルールを「悪役」として象徴的に描くことだってできたでしょう。
惜しいなぁ。
個人的には、もっと悲劇的な物語でもよかったんですけどね。
だって「悪役」は最後には退治される存在なんだから。
夏に憧れる雪ダルマのオラフとか、もう「なんのフラグだよ!」って感じでその時点で涙出そうになったんだけど、ディズニーアニメで悲劇的な結末というのはご法度なんで、最後にオラフが「じゃあねぇ~(^_^)/~」って言いながら溶けて消えていくとか、エルサが妹の腕の中で死んでいくとか、そういう終わり方は絶対にない。
それはもう、そう決まってるんだから仕方ないんだけど、だったら悪者もいらんでしょ。
2008年公開のディズニーの実写映画『魔法にかけられて』では、婚約者の王女を追って「おとぎの国」の王子が現代のニューヨークにやってくるんだけど、あの映画ではスーザン・サランドン演じる魔女以外はみんなめでたしめでたし、のハッピーエンドでした(ちなみに、『アナと雪の女王』の原語版でエルサの声と歌を担当しているイディナ・メンゼルは、『魔法にかけられて』でエイミー・アダムス演じるヒロインに恋人を奪われてしまう女性を演じている)。
ハンスだって別にむりやり悪者にしなくたって、アナともエルサとも違う、彼なりの別の人生を送ることだってできるんだし。
イケメンなんだから、すぐに他の国の王女様でもみつけられるでしょ。
アナをクリストフとハンスが奪い合うような展開にしたくなかったのかもしれないし、あるいはハンスを悪者にすることで彼とアナが別れる口実を作ったのかもしれないですが。
でも、なんでそこまでしてプリンセスを男とくっつけようとすんの?
互いの違いを認めあって、ヒロインとその恋人が別れる、っていう展開だっていいじゃん。
客席のちっちゃな女の子たちには少々ビターかもしれないけど。
ラストでエルサの「一人で生きていく」云々がうやむやになっちゃってたのもなぁ。
アナの愛によってエルサは他者と生きる喜びを取り戻した、ってことなんですかね。
でもそれは、この映画が提示しかけたテーマを裏切ってることになりませんか?
結局は夫婦や恋人同士、姉妹でともに生きていく方がいいんだよ、って結論になってますが、僕はまったく説得力を感じなかったんですよね。
だってそのきっかけが「奇跡」ですから。
そうじゃなくて、エルサはやっぱり一人で生きていくんだけど、年に何度かは妹と会うとか、エルサの魔法の力が王国にとって意味のあるものであることがわかるとか、なんかそういう結末であってほしかった。
歌の力で誤魔化されてるけど、これではエルサはただのワガママな引きこもりだった、ってことでしかないもの。
それではエルサが唄った「ありのままの自分を肯定する」歌詞に反してるじゃないですか。
氷の城を作りながら自信に満ちた顔で唄うエルサはとても魅力的だったから、その行為自体は何一つ責められるべきことではない。
一人で生きていくのも、それはそれでその人の人生として尊重されるべきもの。
ほんとはそういうことが言いたかったんじゃないの?この映画は。
…とまぁ、そんなわけで、『ラプンツェル』同様、映画自体は好きなんだけど、物語の締め方に僕は不満でした。
80年代ぐらいまでならご都合主義的なハッピーエンドも笑って観ていられたけど、同じことを21世紀の今やられても小バカにされてるような気になってくる。
相手が子どもたちだからって、なんでもかんでも「奇跡」で済ませていいわけではない。
ディズニーは今後、安易な「奇跡」は禁止!
「魔法」というのは、映画の作り手の都合に合わせて使われるものではないのです。
ぶつくさ文句を言ってきましたが、でも映画館でこの作品を観られてよかったです。
『ラプンツェル』もそうだったけど、劇場で楽しいひとときを過ごす喜びをあらためて教えてくれたから。
登場人物がいきなり唄いだす、ということに抵抗感を覚える人はいまだにいるけれど、『レ・ミゼラブル』の大ヒットにみられるように、そういうスタイルの作品もずいぶん浸透してきました。
僕は普段アニメを観ないんですが、『ラプンツェル』で唄い踊り恋をするヒロインを見て、何か非常に胸を打たれたんですね。それは理屈を越えた感情でした。
2D吹替版と3D字幕版の両方を観ちゃったぐらいに。
だからその姉妹篇のような『アナと雪の女王』にも、今後さらに愛着を深めていきそうな気配を感じています♪
さて、この夏スタジオジブリの最新作『思い出のマーニー』が公開されます。
僕はジブリのアニメ映画はずっと劇場で観ているのでこれも観に行くつもりですが、そこに『ラプンツェル』や『アナ』にあった楽しさが果たしてあるのだろうか、とちょっと不安を感じています。
というのも、同じ監督さんが作った『借りぐらしのアリエッティ』に僕はあまり面白さを感じなかったので。
せっかく活躍しそうなキャラクターたちが、特に「笑い」の要素が一切ない物語の中でうまく動いてくれていなかった気がしました。
何やら深刻に悩むような物語は、別にジブリアニメでやらなくていいんじゃないかな。
もっとかつてのジブリアニメのように、ヒロインはスクリーンの中で飛んだり走ったり、躍動してみせてほしい。
『ラプンツェル』や『アナ』にはそれがあった。
ジブリには宮崎監督の『魔女の宅急便』や近藤喜文監督の『耳をすませば』のように今なお愛され続けるヒロインアニメがあるし、そこではディズニーやピクサーとはまた違ったヒロイン像が描かれています。
『マーニー』でもぜひ、僕が心を動かされた『ラプンツェル』、あるいは高畑勲監督の『かぐや姫の物語』のような素敵なヒロインを描きだしていただきたいのです。
映画の中で「ありのままの自分」について少女や若い女性が考え、自己主張する。
それはつまり、現実では「ありのまま」でいることがなかなか困難だからでしょう。
だからこそそういう題材を扱った作品に、女の子たちだけでなく僕みたいなムサいオヤジも関心を寄せたりするわけで。
元気な女の子が冒険や恋をする物語は、性差別や年齢差別など女性(に限らないが)を取り巻くさまざまな問題についての格好のテキストでもある。
この『アナと雪の女王』も、そういう観点から興味深かった。
“女性”を描くことは、もう一方の性である“男性”をみつめることにも繋がる。
さまざまな生き方や愛の形について考える機会でもある。
世界中の女の子たち、そして男の子たちに愛されるディズニーアニメの夢と魔法の世界は、まるで氷に映った僕たちが生きるこの現実の写し絵のようだ。
これからもどんなヒロインたちが登場するのか、楽しみにしています。