『シンデレラ』 大切な場所 (original) (raw)

ケネス・ブラナー監督、リリー・ジェームズケイト・ブランシェットリチャード・マッデンソフィー・マクシェラホリデイ・グレインジャーヘレナ・ボナム=カーターノンソー・アノジーステラン・スカルスガルドベン・チャップリンヘイリー・アトウェルデレク・ジャコビ出演の『シンデレラ』。2014年作品。

日本語吹替版で鑑賞。

吹替版の声の出演は、ヒロインのエラを高畑充希、王子を城田優が担当。

1950年のディズニーアニメ『シンデレラ』の実写化作品。

空想することが好きで母から教えられた“フェアリー・ゴッドマザー”の存在を信じる少女エラ(リリー・ジェームズ)は両親に愛されて育つが、その母は病気で還らぬ人に。やがて父親は夫を亡くしたトレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)を新しい妻に迎える。父は仕事で遠方に行かなければならず、エラは継母(ままはは)と2人の義理の姉たちとともに生活するが、彼女たちはエラを召使いのように扱い“シンデレラ(灰だらけのエラ)”と呼んでこき使う。ある日、馬に乗っていたエラは森で大きな鹿と出会い、その鹿を追って“キット”と名乗る若者(リチャード・マッデン)が彼女の前に現われる。

ジョニー・デップの出番はほんとにちょっとだけだったらしい『イントゥ・ザ・ウッズ』に続く、ディズニーのおとぎ話実写化映画。

『イントゥ・ザ・ウッズ』は当初観る気満々でいたのにあまりの評判の悪さに(一部高く評価している人もいますが)恐れをなして観るのをやめてしまったんですが、こちらの『シンデレラ』は好評のようで。

実は、どちらかといえば同時上映の『アナと雪の女王』の短篇が目当てだったんですが。

そんなわけで、まずはその短篇『アナと雪の女王 エルサのサプライズ』から。

アナの誕生日にエルサとクリストフたちはサプライズを用意する。ところが、風邪気味のエルサはくしゃみが止まらなくなって…。

僕は去年公開された長篇の方は通常版と3D版の計2回観たけどどちらも吹き替えだったので、クリステン・ベルイディナ・メンゼルが声や歌を担当した本家のオリジナル言語版は今回も含めて一度も観ていないことになるんですよね。

別に吹替版ばかりを選んだわけではなくて、たまたまなんですが。

でも今ではアナ役の神田沙也加やエルサ役の松たか子の声に馴染みがあるから(オラフ役の“ぶっこんでる人”も)、これは吹替版で正解だったな、と。

ラプンツェル』も『アナ雪』も感想では特にクライマックスの展開についてあれこれと文句書いてしまったのだけれど、でもなんだかんだいって僕はこの2本が好きなので短篇という形でそれらの続篇が公開されることは嬉しかったんですよね(ラプンツェルの短篇の方も楽しかったし)。

今回も圧倒的に女性客が多い会場で観ましたよ。むさ苦しくて加齢臭漂うおっさんですけど(;^_^A 迷惑にならないように香水つけていきましたんで。

なんていうか、開映前から女の子たちや元・女の子たちが嬉しそうにしてるのが伝わってきて、やはり一人寂しく家でDVD観てるんじゃなくてこういうのは劇場でみんなと観なくちゃ、ってつくづく思いましたね。

なんかもう、アナやエルサが一緒になって唄っているのを眺めてるだけで至福の時間というか。

相変わらず眠っている時は髪の毛ボサボサでヨダレとか垂らしてるアナ(寝顔が猫みたいw)と真面目キャラのエルサという性格分けは今回も貫かれていて、そんな仲良し姉妹の仲睦まじい様子は微笑ましいし、オラフもクリストフもいてあれから物語は続いてるんだなぁ、って。

で、風邪引いたエルサが角笛を吹くと大きな雪の塊が隣の国まで飛んでいってハンスに命中する場面では、客席の女の子が「ハンスだー!」って呟いてて和んだ。

きっと、あの子は『アナ雪』を何度も観てるんだろうなぁ(^o^)

でもさぁ、この映画だけ観るとハンスがなんであんなヒドい目に遭うのかわかんないから気の毒で^_^;

だってただ普通に働いてただけなのに、いきなり雪の玉ぶつけられてわけもわからず吹っ飛ばされてて。

僕は長篇の『アナ雪』でのハンスの扱いがヒド過ぎると思って感想にも書いたんだけど、やっぱ彼は可哀想だよ。これからもずっと苛められ続けるの?(;^_^A

エルサがくしゃみをするたびに誕生する小さな雪だるまたちが可愛かった。

あれはエルサの鼻水でできてるのかな?w

そんなわけで、まるでアメトーーク!の「女の子芸人」みたいに客席で女性のお客さんたちと一緒に楽しんでたんだけど、唐突にゲスいこと言いますが、しばしばアナやエルサの胸に目が行っちゃって。

単なる記号的な描き方じゃなくて、このアニメのアナとエルサのおっぱいの形はわりとリアルに描かれてるなぁ、なんて感心したりなんかして。

『シンデレラ』の方も、演じているリリー・ジェームズさんは僕は多分初めて見る女優さんでとても初々しかった(顔が平愛梨に見えてものすごく親近感が湧くw)んだけど、あちらのお姫様たちは胸の谷間を強調させたドレスを着てるからやっぱりおっぱいが気になっちゃって。


激似!!w

…ハイ、すいません。

ともかく、僕は普段まったくといっていいほどアニメを観ないんですが、ここ最近のディズニーアニメはなんだか好きで、観るたびに子どもの頃に感じた「アニメーション映画」を観てる時の幸福感に浸っています。

この感覚をまた味わいたくて、新作のたびに映画館に足を運ぶ。

そして、それは実写版の『シンデレラ』の方でも同様でした。何度も涙ぐみそうになる瞬間があった。

ちょっと説明しづらいんだけど、物語に感動したというよりも(だって誰もが知ってる話ですから)その映画を観ているそのひと時に嬉し涙がこみ上げてくるような感覚。

物語はシャルル・ペローの原作にかなり忠実で、たとえば『マレフィセント』の時に「『眠れる森の美女』と全然違う。こんなのマレフィセントじゃない!!」と怒る人が続出したけど、今回そういうことはないと思います。だってほんとにそのまんまだから。

個人的な好みでいうと、王道のプリンセス・ストーリーを思いっきり破壊してしまった(そのためディズニー・クラシックスを愛する一部の人々の怒りを買いもした)『マレフィセント』の方を僕は推しますが、より多くの人々に支持されるのはこの『シンデレラ』だろうなぁ、とは思う。

変にお話をイジってないから安心感があるし、それになんだかんだいってやっぱりヒロインがカッコイイ王子様と結ばれるハッピーエンドを求める人が多いってことでしょう。

「ディズニー保守路線」などと言われたりもする昔ながらのプリンセス・ストーリーをヒネリなく描いてみせたこの映画は、まるで「まんが日本昔ばなし」のような懐かしさと最新のVFXを駆使した映像の美しさが混在していて、だから映画にはそれなりに満足感を得たことを前提に、これからまたいつものように僕が感じたこと、考えたことなどダラダラと書いていきます。

誰でも知ってる話の映画化ですが、一応

ネタバレ注意ということで。

アニメはともかく洋画の実写作品を日本語吹替版で観ることって僕は滅多にないんですが、『エルサのサプライズ』同様に違和感はありませんでした。

高畑充希さんについては僕はNHKの朝ドラ「ごちそうさん」での「焼氷有りマスの唄」が印象に残っているんですが、もともとミュージカルに出たり歌手としても活動している人なので、今回は劇中で歌を披露することはほとんどないけどエンドクレジットでの城田優とのデュエットもなかなか達者な歌声を聴かせてくれています(エラと王子のデュエットは日本語吹替版のみなんだそうで)。

最近、アメリカの映画を日本で公開する際に日本限定でエンドクレジットの曲を差し替えることが横行していてそのたびにイラつくんですが、それでもディズニーの場合は同じ歌を日本語で唄うなどして基本的にはオリジナル版に沿った処理をしているので(『ベイマックス』では思いっきり別の曲使ってたけど)、今回も抵抗はありませんでした。

さて、“シンデレラ”といえばいつもディズニー映画の冒頭にロゴマークとして映しだされてディズニーランドのシンボルでもあるあのお城に見られるように往年のアニメ版のイメージが強いし、この実写版も一応それに準拠しているけれど、トカゲをお付きの従者にするところはペローの原作から、また物乞いのおばあさんの正体がフェアリー・ゴッドマザーだった、という展開はフレデリック・アシュトンによるバレエからといったように、さまざまなヴァージョンからのパッチワークのような作りになっている。

シンデレラがフランス語に堪能という設定は、もともとこれがフランスの作家ペローの作で、シンデレラとはフランス語の「サンドリヨン(灰かぶり)」からきているからなのかな?

この実写版ではヒロインは「エラ」という名前を与えられて、継母や義理の姉たちに「灰だらけのエラ」(なんかジブリアニメのタイトルみたいですがw)という意味で「シンデレラ」というあだ名で呼ばれることになる。

面白いのが、このようにこれまでは昔話やおとぎ話の「お約束」としてさらっと流されてきたストーリー上のツッコミどころに、ところどころこまごまと理由付けをしているところ。

キットがずっとエラの名前を知らないままだったりエラも彼のことを王子だと思わないこととか、どうして舞踏会で継母たちはシンデレラの正体に気づかないのか、ということにまでいちいち説明が入る。

また、意地悪な継母によるたび重なる理不尽なイジメにエラが思わず発した「どうしてこんなヒドいことを?」という問いに、わざわざ継母自身にその理由を答えさせている。

王や王子に遣える頼もしい大尉を演じているのがアフリカ系の俳優だったり、町の住民たちのエキストラの中にこれ見よがしにアジア系の人が映っていたりするのは、人種的な配慮もバッチリしてますよ、ってことだろうか。

そして、原作やアニメ版ではシンデレラと王子(プリンス・チャーミング)は舞踏会で初めて会っていたのが、今回はそれ以前に森で出会う。

お城で初めて会っていきなり王子がシンデレラを見初める、という性急な展開の前にまず彼らがすでに出会っていてその時に互いに惹かれあっていた、という前置きを作ることで、その後の展開をより自然に感じられるようにしている。

森での出会いの場面もただ出会って一目惚れ、というのではなくて会話の中でエラのつらい境遇を王子(キット)が知り、それでも利発で毅然とした態度の彼女に魅力を感じる様子が描かれることによって、エラがのちに単に美しい見た目やプリンセスという身分によってではなく、一人の女性として選ばれるべくして選ばれたのだという説得力を持たせている。

そのためこの映画ではエラとともに王子の描写にも時間が割かれていて、父王や大公から隣国の姫との政略結婚を迫られている彼が森で出会ったエラに再会するために国中の年頃の未婚女性を舞踏会に招待する、という手順が踏まれる(アニメ版では舞踏会は国王の命令)。

また、王妃の姿が見えないのはどうやら王子がエラと同様に母親と死別しているということのようで、父親である王様も劇中で病気によって亡くなってしまうので、王子はエラと同じ境遇になるわけだ。

これも最後に二人がともに手をとりあって生きていくことを選ぶ理由の一つとして機能している。

このように古典を大きく改変することなく、それでも要所要所でシンデレラと王子のキャラクターに厚みを持たせることで観客が二人のラヴストーリーに入り込みやすくなっている。

ちなみに僕の記憶が正しければ、確かこれまでのディズニーアニメのプリンセス・ストーリーでは王子様はほぼ例外なく“白馬”に乗っていたと思うんだけど(『眠れる森の美女』や『ラプンツェル』(←これは王子様ではないが)『アナ雪』などは確認済み)、この実写版『シンデレラ』では王子は黒い馬に乗っている(アニメ版では劇中で王子は馬に乗らないが、額に飾ってある絵の中で白馬にまたがっている)。

シンデレラが白っぽい馬(これも絵に描いたような真っ白な馬ではない)に乗っているのでそれと絵的に変化を持たせるためかもしれないけど、意図的な変更だとしたら面白いですよね。役割としては紛れもない「白馬の王子」でありながら、白馬には乗っていないわけだから。

特にアニメ版との差異についてはとても興味深い。

アニメ版は継母の飼い猫ルシファーとネズミたちの「トムとジェリー」ばりのドタバタやミュージカル場面もある、僕たちがイメージする典型的な「ディズニーアニメ」。

実写版でも動物たちは出てくるけどアニメ版ほどには極端な擬人化はされていなくて活躍する場面も限られているし、シンデレラもわずかに歌を唄うシーンはあるけどいわゆるミュージカル仕立てではなく、どちらかといえばオーソドックスなコスチュームプレイ(コスプレではなくて本来の意味の歴史物)のように登場人物のドラマの方に重点が置かれている。

VFXが過剰なドギツいファンタジー映画や地味で退屈な歴史劇のどちらにも偏り過ぎない、絶妙なバランスで映画が成り立っている。

だからアニメ版の原理主義者はどう感じるか知らないけど、そんなにアニメの方がお気に入りならアニメだけ観てればいいんだし、むしろアニメとの違いを楽しめばいい作品だと思います。

確かに動物とのふれあいはもうちょっとあってもよかったけど。エラが乗っていた馬とか、あと森で出会った大きな鹿ともそれっきりでストーリーにかかわってこないし。

アニメ版のシンデレラはお姫様になる時には髪がアップになって白いドレスを着ているけど、実写版では髪はおろしているしドレスも青色。

あの青色は劇中でもワンシーンだけ登場する青い鳥と何か関係があるんですかね?

母親の形見のドレスがピンク色なのはアニメ版も実写版も同じだけど(破るのはアニメ版では2人の義理の姉たちで、実写版では継母)、フェアリー・ゴッドマザーの魔法でその形見のドレスの形状がまるっきり変わっちゃうのは(アニメ版もそうですが)「オイオイ^_^;」と思った。

せっかくなら形見のドレスを豪華にしたようなデザインにすればよかったのに。

アニメ版では騒々しくてパワフルなキャラクターだった国王は実写版ではデレク・ジャコビが悲しげな目で格調高く演じ、小国の王として常に近隣諸国との緊張を孕んだ関係に憂慮するより現実的な存在として描かれている。

デレク・ジャコビは僕は『グラディエーター』の元老院議員役で見たのが多分初めてだと思うんだけど、以後さまざまな映画でお顔を拝見して、彼が演じるおじいちゃんを見るたびになんだか涙がこぼれそうになる。

今回も王子との別れのシーンでホロッときました。

さて、実写版とアニメ版の大きな違いとしては、アニメ版では王様と漫才コンビのようなコメディリリーフだった大公が、実写版では完全な悪役になっていること。

実写版の大公(ステラン・スカルスガルド)は隣国との密約によって王子をその国のシェリーナ王女(ジャナ・ペレス)と結婚させようと画策しており、舞踏会でその秘密を盗み聞きしたエラの継母と結託する。

そしてこれについては後述しますが、最大の違いは物語の最後にエラが継母に発する「あなたを許します」という言葉。

アニメ版には、シンデレラが継母と義理の姉たちを許すという描写はない。

ペローの原作ではシンデレラは継母たちを許すので、今回の実写版は原点に回帰したともいえる。

アニメ版の姉たちは“ほうれい線”がすさまじい、ディズニーのプリンセス物の中でもトップクラスのブサイクに描かれていて可笑しさを通り越してちょっと引いてしまうぐらいなんだけど^_^;実写版の二人はがさつでケンカっ早く歌や楽器がヘタ、というのは共通しているものの見た目はどちらもそこそこの容貌だったりする。

この二人の義理の姉たちもそうだけど、僕がこの映画で一番「リアル」に感じたのはケイト・ブランシェットが演じる継母“トレメイン夫人”。

ケイト・ブランシェットはこれまでに暴力に耐える女性の役(『ギフト』)やエルフの女王様の役もやってきた人だから、そんなオールラウンドな女優さんが高らかに笑い声を上げて演じる憎まれ役はもうドハマりで、もっともっと義理の娘に意地悪してくれてもよかったぐらい。

彼女が演じるトレメイン夫人のキャラが、借金だらけなのに贅沢がやめられない元・成金の妻という、ほとんど『ブルージャスミン』のヒロインと同じなのが可笑しい。

ところで、トレメイン夫人はいわゆる“ディズニー・ヴィラン”の一人にも数えられるキャラクターだけど、僕は彼女のような女性が現実にいることを知っている。

私事で恐縮ですが、昔勤めていた職場で二人の娘がいる中年の女性と一緒だったんだけど、この人がまぁ、トレメイン夫人みたいな人で(娘さんたちは学校に通いながら母親を支えるために日々アルバイトするいい子たちでしたが)。

もともとはいいとこの奥様だったらしいんだけど、離婚なのか死別なのかは知らないが女手一つで自分と2人の娘さんを養うことになった彼女は新人社員の僕にずいぶんとツラく当たったのだった。

なんでこの人に苛められるのか理解不能だった当時の僕は混乱して「ババア怖い、ババア死ね」と毎日のように心の中で呪いをかけて、挙げ句の果てに毎朝身体が重くてベッドから立ち上がれなくなるほどに。

美しくも働き者でもないけれど、もう気分はシンデレラだったのです(男ですが)。

僕を苛めていた意地悪おばさんが経済的に大変なのはわかったけど、そのわりには服装が派手でいつまでも奥様気質が消えず、また手っ取り早い金儲けの話にはすぐ目の色を変えるところなどもまったく同情できなかった。

だいたい俺はあんたの家庭の事情になんのカンケーもないのに、なんで八つ当たりされなきゃいけないんだ?

ケイト・ブランシェットほど若くもなければ美人でもなかったが、世の中にはこういうマンガの登場人物みたいな嫌な奴がいるんだ、といい勉強になった。

今では彼女の鬱屈と、そんな彼女にとって実家住まいで親の庇護の元ホワ~ンと生きてた(ように見えたのであろう)当時の僕が思いっきり苛めてやりたくなる存在だったというのはなんとなくわかるが。

余裕のない人間は楽して生きてる(ように見える)人を許せないのだ。

この映画の中で、ブランシェット演じる継母はエラに向かって、明るく健気な彼女が妬ましかったというようなことを言う。

前の夫が死んで、再婚した次の夫もまた死んでしまった。自分はなんて不幸なんだろう。

その怒りと将来への不安の捌け口として継子(ままこ)のエラが選ばれてしまったのだ。

だが継母の言い分には一分の理もない。

だってこの女はエラの父親がまだ生きている時から新しい娘につらく当たっていたし、夜には大勢の人を呼んでパーティを催し贅沢に着飾って散財していた。

そんな彼女にエラが蔑まれてこき使われる理由など微塵もないのだ。

エラだって幼くして母親を亡くし今度は父親までも亡くしてしまった天涯孤独の、いってみればトレメイン夫人と同じ境遇の娘なんじゃないか。

だったら血は繋がらないがともに励ましあい愛しあう「家族」の一員として彼女を温かく迎え入れるならともかく、反対に虐待するってどーゆーことよ。

まったく筋が通ってないし、むしろ彼女は被害者であるエラよりも「弱い人間」であることがわかる。

しかし、これまたそういうことって現実にあるんだというのを、僕たちはもう悲しいほど思い知らされてしまっている。

血の繋がった我が子はたとえ出来が悪くてもカワイイが、血の繋がらない赤の他人にはどんな酷い仕打ちをしても平気、という人間はいる。

だからケイト・ブランシェットが憎々しげに演じてみせたあの継母は、とてもリアルな存在だ。

そして彼女は最後まで自分が間違っていたとは認めないし、娘たちのようにエラに謝罪することもない。

険しい表情で家の階段に座り込む姿で、かろうじて彼女の敗北をにおわせている。

そんな彼女をエラは「許す」。

アニメ版でオミットされたこの許しの場面こそが、この映画からの最大のメッセージだろう。

これは今は亡き母から「勇気と優しさ」を忘れずに、と言われたエラがそれを実践するシーンなのだから。

自分をヒドい目に遭わせた相手を「許す」という行為が、いかに勇気を必要とするか。

そして真の「優しさ」とは憎しみに打ち勝つ強さだということ。

多分、この映画はそういうことを訴えかけているんだろうと思います。

僕もそろそろあの意地悪おばさんを許してやらなきゃいけないかな(いや、ずいぶん昔の話だからもうとっくに許してますが。許せない奴は他にもいるので…)。

また、これは『マレフィセント』へのアンサーとも取れる。

復讐に燃え、最終的に自分を傷つけた“敵”を殺すマレフィセントの物語に対して、この『シンデレラ』は許しの大切さを説く。

もちろん、傷つけられても黙って堪えろ、というのではなくて、エラが「あなたを許します」と言う場面では彼女には偽善的な笑みなどなくて、粛然とした面持ちでハッキリと自分の意思を表明している。

そこには怒りに任せて相手を罵ったりぶちのめす以上の「強さ」を感じた。

多くの女性の観客がエラに共感するのは、彼女がただ不幸に打ちひしがれて可哀想な女の子のままでいるのではなくて、常に人としてのプライドを失わなかったからだろう。

もっとも、疑問を感じなくもないところもある。

たとえば、意地悪な2人の姉に対してエラは「心が醜い」という表現を使う(これはエラ本人が言ったのではなくてナレーションを務めるフェアリー・ゴッドマザーの言葉だが)。

ここに僕はちょっと引っかかったのでした。

エラの行ないは常に正しいし彼女が言ってることも正論だが、しかし意地悪な義理の姉たちを「心が醜い」と決めつけることで彼女は自分が正義の側にいることを自明のものとして、また相手は悪なのだと信じて疑っていないことになる。

また、隠しておいたガラスの靴を見つけて問い詰める継母の前でエラはもう自分は王子と結婚する気になっていて、王国を治めるつもりでいるような発言もする。

ちょっと鼻持ちならなくないだろうか。

僕はてっきりこれはあとでエラが自分の中にある独善性、「思い上がり」に気づかされて反省を促される伏線だと思ったんですよね。

でもそうではなかった。

エラは最初から最後まで「正しい女性」として描かれて、迷ったり怒りに我を忘れそうになることはない。彼女が劇中で自分の過ちに気づいて成長することはない。

そういう意味で、彼女は究極の「理想のヒロイン」なのだ。

僕はそこにちょっと物足りなさを感じたんですよね。

たびたび例に出しますが(これからも出すつもりです)、ジブリアニメ『かぐや姫の物語』でヒロインのかぐや姫は葛藤し、時に取り乱して「生」の中を七転八倒する。

その姿が「身勝手」「可愛くない」と批判されもするのだけれど、生身の女性はそうやって「正しい」とか「間違っている」とか「善」とか「悪」とか関係なく、もがきながら必死に生きていくものでしょう。

ほとんどの人はエラのように強くは生きられない。

だから僕はもっと怒り、継母や義理の姉たちを呪って逆襲することすら考える弱くて愚かで、でもリアルなエラを見たかった気もする。

そんな彼女が最後の最後に憎むべき継母を許すからこそ、「弱い人間」である僕はそこに真の勇気と優しさを見たんじゃないだろうか。

まぁ、そんな辛気臭い話はリアル女子の皆さんは見たくないかもしれませんが。

あるいは、継母はエラの分身、憎しみに囚われたエラの「もしかしたらこうなったかもしれない姿」なのかもしれませんね。

もしも我が身の“不幸”に酔って自堕落で他者を傷つけて憂さを晴らす人生に甘んじると継母のようになる。

だからエラはそういう自分自身の弱さに打ち勝って幸福を自らの手でつかんだのだ、というふうに受けとれなくはない。

王子がお城の「大切な場所」である庭園にエラを連れていってブランコに乗せる場面で、僕はてっきり王子がそこは自分にとって亡き母との想い出の場所であることを告げて、彼とエラは同じような境遇にあるのだ、ということを示すのかと思っていたんだけど、なぜかそういう説明はなかった。

いちいち説明しなくてもわかれよ、ってことだろうか。

でも、エラは両親から受け継いだあの家と土地を「大切な場所」と言っていて、そこが継母たちによって奪われてしまったことは彼女にとっての危機なのだから、最後はそこを取り戻すことで一件落着になるんだと思うんだけど、でもエラはそのままお城に嫁いじゃうんだよね。

せめてラストかエンドクレジットで両親から受け継いだあの家でエラと王子が過ごしているショットを入れてほしかったなぁ。

馬に乗ってあの森を駆け巡っていてもよかったし。

そしたら、あぁ、彼女はお姫様になってもあの「大切な場所」を何よりも大事にしていたんだ、ってわかるじゃないですか。

そこはほんとに惜しい。

結局のところエラは王子(父親が死んだからもう王だけど)という最高権力者によって守られるお姫様になることを選んだわけで、それはかぐや姫が御門の求愛も蹴って月に帰っていったり、アナやエルサが王子との結婚とは別の道を選んだのと比べるとやっぱり時代に逆行してると思うんですよね。

金持ちとか権力者と結婚することでめでたしめでたし、というのは釈然としない。

両親が生きていた頃のエラの家には使用人もいてそれなりに恵まれた家庭として描かれているけれど、けっして貴族とか大金持ちではないし、でもそんな生活こそが彼女にとっては「大切な場所」だったわけでしょ?

それを簡単に捨ててしまえるのはおかしくないですかね。

女の子の「お姫様願望」からさらに一歩進んだ物語を見たかったな。

あと、これは余計なツッコミだろうけど、どんなにこじつけても一番悪いのはエラの父親なんじゃないだろうか、と(;^_^A

まず、彼がなぜトレメイン夫人と再婚したのかまったくわからないんだよね。

再婚したばかりなのにエラの父親は新しい妻とほとんど言葉も交わさないし、派手なパーティ好きのトレメイン夫人と部屋に閉じこもって仕事してるエラの父親からは共通点を見出せない。

なんか弱みでも握られてムリヤリ結婚させられたとしか思えない。

トレメイン夫人はのちに大公の秘密を握って彼と取り引きする場面があることからも、その可能性は高いんじゃないかと。

ちゃんと説明がないからモヤモヤしますが。

ヘレナ・ボナム=カーターが演じるフェアリー・ゴッドマザーはアニメ版のふくよかで優しそうなおばあちゃんとは似ても似つかなくて、外見はまるで『オズの魔法使』の北の良い魔女みたい。やけに騒々しくてエキセントリックなおばちゃんで、ちょっと『アリス・イン・ワンダーランド』の赤の女王っぽかった。

そういえば、ヘレナ・ボナム=カーターって同じケネス・ブラナーが監督・主演を務めた『フランケンシュタイン』で“怪物の花嫁”を演じていたっけ。

ケネス・ブラナーの監督作に出るのは20年ぶりぐらいなのかな?

メイクのせいなのかよくわからないけど、彼女の顔つきが以前と違って見えたんだけど。

“ゴッドマザー”というのは名づけ親のことだから、フェアリー・ゴッドマザーはエラの名づけ親ということですよね?

エラの母親もきっと彼女から名前をもらったんだろう。

このフェアリー・ゴッドマザー、今回もアニメ版でも出番はエラに魔法をかけるワンシーンだけなんだけど、せっかくなら終盤にも出てくればよかったのにな。

そんでケイト・ブランシェットと美魔女同士のバトルを繰り広げれば面白かったのに。ベラトリックス・レストレンジとガラドリエルのボコりあいw

それは冗談だけど、エラが「シンデレラ(灰だらけのエラ)」からまた本当の名前を取り戻すというのは重要なことなのだから、フェアリー・ゴッドマザーにはやはり最後にどこかで顔を見せてほしかった。

エンドクレジットでは彼女があの有名な「ビビディ・バビディ・ブー」を唄っているけどね。

ダラダラと書いてきましたが、以上は作品に対する文句じゃなくて、こういうふうにする手もあったかも、という意見です。

このブログはあれこれ屁理屈こねるために書いてますので。

リリー・ジェームズが演じる凛としたヒロインは本当に素敵で、観終わったあと横にいた若い女性2人組が「エラ、可愛かった~」と呟いてたのも頷ける。

女性に憧れられるヒロインとして、確かにこの映画のシンデレラは素晴らしかった。

僕が思わず涙ぐみそうになったのも、そこに憧れのヒロインがいたから。

最初に書いた通り、僕はこの映画を観ている間、まるで魔法をかけられたようにとても心地よかったのです。

僕にとってもそこは「大切な場所」なのでした(うまいことまとめたつもり)。