『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』 アメリカの夢の死 (original) (raw)
ザック・スナイダー監督、ベン・アフレック、ヘンリー・カヴィル、ジェシー・アイゼンバーグ、エイミー・アダムス、ガル・ガドット、ダイアン・レイン、ローレンス・フィッシュバーン、TAO、ホリー・ハンター、ジェレミー・アイアンズ出演の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』。
音楽はハンス・ジマー。
かつて強盗犯の手で両親の命を奪われやがて黒衣のヒーロー、バットマンとなったブルース・ウェイン(ベン・アフレック)は、クリプトン人同士の壮絶な戦いでメトロポリスの町を破壊したスーパーマン(ヘンリー・カヴィル)を人類の脅威とみなし、彼に戦いを挑む。同じ頃、若き大富豪レックス・ルーサー(ジェシー・アイゼンバーグ)はスーパーマンの弱点である鉱物クリプトナイトを入手し、ヒーローたちを陥れる恐るべき計画を実行する。
2013年公開の『マン・オブ・スティール』の続篇で、今後続くDCコミックスのヒーローたちの活躍を描く「ジャスティス・リーグ」シリーズの序章。
前作『マン・オブ・スティール』についてはかなり酷評しました。
その評価は自分の中で今も変わっていないし、だから続篇である本作品もそんなに期待はしていなかったのだけれど、これまで再三申し上げてきたように僕はクリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」シリーズとティム・バートン監督、マイケル・キートン主演の「バットマン」二部作が好きなので、出演者は違うけどこの2大アメコミヒーローの対決はスクリーンで観ておきたい、と思ったものですから。
ザック・スナイダーの作風とかこのシリーズのトーンはもうわかってるから、過去作品との比較よりもとにかく迫力あるバトルを堪能できるかどうかにかかっていた。
そして、この映画の出来によって今後このシリーズを観続けるかどうかも判断しよう、と。
マーヴェル・コミックス原作のスーパーヒーローたちが集う「アベンジャーズ」シリーズは、大ヒットして評判も良かった第1作目を僕はクソミソに貶したけど、なんだかんだ言いつつその後もあのシリーズを観続けてまして、だから『マン・オブ・スティール』が残念だったとしてもこの続篇で挽回のチャンスは大いにあった。
原作は知らないけど事前に他の人の感想読んだりしてわりと予備知識もあったので、意味不明な箇所に戸惑うこともなくあとはもう意外とイケるのか、そうじゃないのか、ということだけ。
で、結論からいうと、カッコイイ場面(バットモービルやバットウィング)もあったけど作品としては恐れていた通り“がっかりぽん”でしたよ。
シナリオをしっかり推敲も吟味もせず、ただオタク監督が自分の好きなように撮ったらこうなった、みたいな独りよがりな映画だった。
最強の敵と戦う、一番燃えるはずのクライマックスが最悪なまでに退屈だった。ウトウトしちゃったもの。
とにかくストーリーがドイヒーだな、と。なんでこれでオッケーが出たのか謎。誰もストーリーなんか気にしてなかったんだろうか。
いや、原作コミックのファンの人たちには別になんの違和感も抵抗もない内容なのかもしれませんが、こちらは原作のことなど知ったこっちゃないので(原作のことをとやかく言ってるんじゃなくて、原作と映画は別物だと言っているのです)。
どうやら今回は『マン・オブ・スティール』の時を上回る酷評になりそうです。
だから、この映画が「面白かった、大好き!」というかたや、「ザック・スナイダーをディスる奴は許さん」という人は以降は読まない方がいいです。
それでは、以降は
ネタバレを含みますのでご注意を。
ところで、ストーリーがどうこうみたいな批判をするとすぐに「じゃあ、映画観ずにシナリオだけ読んでろ」とか言う人がいるけど、150分ある娯楽映画でストーリーがどうでもいい、という方がおかしいと僕は思う。
それに、たとえばギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』はただひたすら怪獣と巨大ロボが戦うというだけのシンプル極まりない内容でストーリーがどうとかいう代物ではなかったけど、僕は最高に楽しみましたからね。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だって、延々砂漠で追っかけっこしてる映画で別に複雑な話じゃない。でもシナリオ(なのか、現場での膨大な撮影フィルムから生まれた“編集”の賜物なのかは定かではないが)はよくできてましたよ。意味不明だったり独りよがりなところなど一切ないから。
それでいて、映画で直接描かれていない細かい設定についてはいちいち説明せずに観客の想像に委ねている部分もある。しっかりと描く部分と省略する部分のバランスが絶妙なのだ。
映像に迫力があって演出が確かなら、それだけで充分ストーリーは成り立つ。
だからこの『バットマン vs スーパーマン』だって小難しいこと言わずにコウモリ男と赤マントの闘いを思いっきりやってくれればそれでよかったのだ。
そうは言っても、アメコミ界を代表するヒーローであるバットマンとスーパーマンがフレディvsジェイソンとかエイリアンvsプレデターみたいにガチで潰しあうわけにいかないんで(勝負は一瞬でついてしまうだろうし)、最終的には協力しあって共通の敵と戦う、という展開になるんだろうと予想していたし、実際そうなる。
が、それがあまりに強引過ぎるのだ。シナリオが巧くない、というのはそういうことで、最初は反目しあったり戦ったりもしていたヒーローたちが真の敵に気づいてともに手をとりあう、その行程が雑過ぎて呆れてしまう。
だって、「おかんの名前が同じだったから一瞬で仲直り」って、こいつらどうかしてるだろ、と。何が「あとは私に任せろ」だ。さっきまで殺す気マンマンだったのに。
人物描写や話の繋がりをおざなりにするとこうなる、という悪い見本。
マーヴェルのヒーロー映画が成功したのは、キャラクター同士の関係をちゃんと描いていたから。
出演俳優たちは別に大根とかそういうことはなくて、ただただシナリオと演出、編集がダメダメなのだ。
スーパーマンの母親役のダイアン・レインにあんな酷い演技をさせたことだけでも、僕はこの監督を許せない。
バットモービルのチェイスシーンも、せっかく迫力あるアクションをやってるのに映像が暗くておまけに粒子が粗いので大変見づらい。
クリストファー・ノーランの『ダークナイト』の同様のシーンと観比べたら違いは一目瞭然。
今回はノーランがあまり深くかかわっていないから傑作、と絶賛してる人がいるけど僕は反対の意見で、ザック・スナイダーの手綱を引く人がいなくなっていよいよ作品としての支離滅裂度が増してきたな、と。
この映画はすべてがバットマンとスーパーマンを仲違いさせることありきで進んでいくんだけど、そもそも二人が憎みあう動機が弱過ぎるんで、むりくり感がハンパないのだ。
「ソーシャル・ネットワーク」っぽい早口のレックス・ルーサーもイマイチ迫力不足
それともう一つは、アベンジャーズには「笑い」の要素(マイティ・ソーとハルクの殴り合いとか)もあったから、それが息抜きになってシリアス一辺倒じゃなくて純粋にプロレス的な面白さを味わえたんですね。
この“ジャスティス”の面子にはそれがない。だからつまらない。
『マン・オブ・スティール』の感想にも書いたけど、ザック・スナイダーにはユーモアのセンスが決定的に欠けている。
『ウォッチメン』にはまだ暗いユーモアみたいなものを感じたけど、『マン・オブ~』にもこの『バットマン vs スーパーマン』にも本来この手のコスプレヒーロー物に必要な笑いの要素が一切ないので、アホみたいな格好してるキャラクター(ワンダーウーマンのあの格好なんて冗談以外の何ものでもないでしょ)が出てくるのにちっとも笑えないという、なんともいえないチグハグな印象ばかりが残る。
ハッキリ言って、ピチピチの全身タイツに赤いマントの男もコウモリの衣装や達磨ストーブみたいなアーマー着こんだ男も、ヴァイキングかアマゾネスみたいな扮装で盾持って戦うお姉さんもバカバカしい存在ですよ。
眼鏡かけただけで新聞記者に変装できるとか、「リアル」もへったくれもない世界なんだから。ワンダーウーマンなんて眼鏡すらしないで素顔晒しまくりだし。
それでも正体がバレないなんていう設定を、世間では「荒唐無稽」というんです。
クリストファー・リーヴのスーパーマンやティム・バートンのバットマンもその否定しようのない「荒唐無稽さ」に劇中でちゃんと言及していた。これらの映画の作り手は、幼稚でバカバカしいのはしっかり自覚しながら、でもそのバカバカしい存在がカッコ良く見える“魔法”を使っていたのだ。
アメコミヒーロー物のパロディ的な作品『キック・アス』が愉快だったのは、映画の作り手がアメコミヒーローのバカバカしさを茶化したりしながら、登場人物に「それでも好きなんだよね」と言わせたことだ。だからアメコミのことよく知らない僕なんかもクライマックスに泣けたんです。
ヘンなものをヘンだと誰も言わない世界は気持ち悪いし、たとえアメコミヲタクの皆さんが口角泡を飛ばして熱弁を振るおうと、子どもっぽいものを何か高尚なもののように描くのは中学生が中学生の感性のまま大人になって、子ども向けのものから卒業できずにあーだこーだと屁理屈こねて自分の幼稚さを正当化するのと同じだ。
コメディタッチだと子どもっぽくて、シリアスだと大人向け、と考えてる人は何か大きな勘違いをしていると思う。
僕は子どもの頃のヒーローへの憧れを忘れていない「大人」が撮ったヒーロー映画は観たいが、頭の中が完全に中坊のままの人間が撮ったヒーロー映画は観たくない。中坊は独りよがりだから。
せめて映画の作り手には大人であってほしい。
それと、マーヴェルの「アベンジャーズ」シリーズがハルクやアイアンマン、ソーにキャプテン・アメリカと、メンバーたちそれぞれ一人ひとりを主人公にした単体の作品を順々に公開して用意周到に下準備をしたのちに満を持して『アベンジャーズ』を公開したのと違って、この『ジャスティスの誕生』にはこれの前に『マン・オブ・スティール』1本しかないので、バットマンとスーパーマン以外のヒーローについては一般の観客には予備知識がないし、映画の中でのキャラクター紹介がヘタ過ぎるので、誰だかわかんない奴が唐突に出てきてわけわかんないこと言ったりやったりしてるのを延々見せつけられる羽目に。
まるでTV番組で今やってるウルトラマンや仮面ライダーをまったく観てないのに、その劇場版映画をいきなり観たみたいな。
いくらなんでもこれでは不親切過ぎる。
ワンダーウーマンやアクアマンの映画はこれから公開されるようだけど、順序が間違ってるでしょ。
「ワンダーウーマンの活躍シーンがよかった」と言ってる人たちが結構いたので期待していたんだけど、あれは音楽に救われていたんだと思う。映像はたいしたことなかった。
見どころはガル・ガドットの太ももかな。
「ワイルド・スピード」チームから移籍してきたガル・ガドット姐さん
でれれでれでれでれ~♪
だいたいこの映画ではワンダーウーマンとかアクアマン、フラッシュ、サイボーグといったキャラクター名もろくに声に出して呼ばれないので、観ていて彼らが何者なのかがほとんどわかんないのだ。
まるでダイジェスト版を見せられてるような気分。
映画を観終わって、後ろを歩いてたお兄さんたちが「途中で出てきた『僕は早過ぎた!』って言ってた奴がなんなのかわからんかった」と言ってました。
わかんなくて当然だよね。描かれてないんだから。「早過ぎた」ってのはギャグのつもりなんだろうか。
邦題では副題が「ジャスティスの誕生」となってて、まるでヒーローチームがここで結成されるかのような印象を与えるけど、原題は“DAWN OF JUSTICE”で、「正義の夜明け」、あるいはジャスティス・リーグのはじまり、みたいな意味なんでしょう。
本格的にヒーローたちが集まるのは次回作、ということ。
おそらく、まずはスーパーマンとバットマンのように知名度のあるヒーロー2人が対決!ということで注目させといて今後のシリーズへの関心を集めようということでしょうが、ザック・スナイダー本人はアメコミヒーロー物を心底愛してるのかもしれないけど、そうでない人々と作品を共有する気はどうやらないようだ。
「わかる奴だけわかればいい」。わかんない奴はどーでもいい、と。
だったら映画じゃなくてペイTVとかで長篇ドラマとして作ればいいのではないだろうか。
そしたら、そういう作品はほんとに観たい人だけが観るから、僕みたいなよくわかってない奴にあれこれ文句言われたりせずに済むだろうし。
ともかく、映画の作り方として根本的に何か重大な間違いをしていると思う。
さて、ただディスってばかりいてもなんなので、僕なりにこの映画で勝手に解釈したことを書いていきます。
映画の冒頭、『マン・オブ・スティール』のクライマックスで描かれた地球をクリプトン化しようとする敵のゾッド将軍と戦うスーパーマンの様子が再現される。
クリプトンの巨大なマシンと二人のバカヂカラのせいで大都市メトロポリスは破壊され、ブルース・ウェインが経営する会社のビルも倒壊。
多くの社員たちが犠牲となり、ブルース・ウェインa.k.a.バットマンは惨劇の原因であるスーパーマンに憎しみを抱く。
この場面は明らかにニューヨークの9.11同時多発テロの映像を基にしている。
僕はアメリカンコミックには疎いですが、でも2001年のあのテロのあと、アメコミではスーパーヒーローたちが倒壊した貿易センタービルの前でなすすべもなく立ち尽くす様が描かれたから、映画のこの場面もそこから取られていることはわかった(2006年公開の『スーパーマン リターンズ』にもスーパーマンが空から地上に墜ちていく、9.11を思わせる描写があった)。
現実のテロや大災害の前で、架空のヒーローたちはいかに無力なのか。つまり、現実には私たちを危機から救ってくれるスーパーヒーローなどいないのだ、ということを人々が痛感した瞬間でもあった。
そしてスーパーマンというのが「アメリカ」を象徴する存在だということを踏まえると、外敵であるゾッドとの戦いで多くの人々を巻き込み、その強大過ぎる力が人々から非難の的になるというのもわかり易い喩えだ。
しかもスーパーマンことカル=エルはゾッドと同じクリプトン人。彼が地球に来たからこそゾッドもまたそこを狙ったわけで、『マン・オブ・スティール』での破壊のすべての元凶は文字通りスーパーマンだった。そこからして僕はあの映画にノれなかったんですが。
破壊を呼んだのはスーパーマンじゃないか、と(最近のアベンジャーズもこういう話になってきているが)。
平成ガメラ三部作の3作目『ガメラ3 邪神覚醒』を例に挙げている人もいるけど、確かに描かれていることはあの映画に近い。平成ガメラシリーズではガメラという存在が「地球の守護神」のように描かれていたけど、スーパーマンはより限定的で、つまり彼はアメリカそのものだ。
スーパーマンは「アメリカの法」、バットマンは「法の外の正義」と考えると両者の違いは明確なようだし、劇中でもレックス・ルーサーがスーパーマンとバットマンを「光と闇」と表現していたから、一見対照的な立場のキャラクターたちが対立する、というのはそのまま現実の世界を反映しているようにも思えるのだが、だけどこのシリーズでスーパーマンのことを「光」に例えることには疑問を感じざるを得ない。
あんな自分だけに都合のいい奴を「光」などと呼んでいいのだろうか?
この映画の中にはスーパーマンが災害や大事故から世界中の人々を救う場面がごく短く描かれている。
洪水で家が水に浸かってしまった人たちを助けたり、メキシコの祭り「死者の日」で起きた火災(007がやったのか?w)から大勢を救って感謝されるスーパーマンの姿は、まさに「神」のように描かれている。
メキシコの人たちは怒っていいと思う
スーパーヒーローなんだから人助けして感謝されるのは別に普通だろうけど、でもなんだろう、この嫌悪感。
彼の前では人間は無力で、彼にすがる人々は哀れというか、幾分愚かそうにすら見える。
『マン・オブ・スティール』でもそうだったけど、ザック・スナイダーが描く民衆はまったく賢そうに見えない。
多分、ザック・スナイダーは助けられる人間ではなく彼らを助けるヒーロー側の目線でこの映画を撮っている。だから人間はヒーローたちに救いを求めるだけのほとんど雑魚扱い、もしくはろくに描写すらされない。
メトロポリスの崩壊でブルース・ウェインが電話で許可するまで会社で逃げずに立ち往生している人々とか、「え、すぐ目の前で大変なことが起こってるのになんで逃げないの?」と早速スゲェ違和感が湧いてくる。
地上でも人々が逃げずにゾッドとスーパーマンの戦いを見物していて、結果的に遭わずに済んだはずの被害に遭う。実際にはそういう二次災害みたいなのもあるだろうけど、あまりにも愚かだ。
とにかくこの映画では、登場人物が「なぜこんな行動をする?」という疑問だらけなのだ。
特にスーパーマンに関しては、徹頭徹尾イケ好かないキャラになっている。
砂漠で大勢死んだあとにバスタブで恋人のロイス・レインとイチャついてたり、裁判所が爆弾で破壊されて周囲が炎に包まれても火を消そうとも人々を助けようともせずに苦虫を噛んだような表情でたたずんでいるだけだったり。その直後にも自分には関係ないような顔をして家でロイスと一緒にニュースを見てたりする。
自分の母親をレックス・ルーサーによって誘拐されて、助けたければバットマンの首を持ってこい、と言われてそのまんまアホみたいに言われた通りにしようとする。
このスーパーマンは本当に頭が悪過ぎる。
バットマンからクリプトナイトのガスを2回も食らってるし。学習しろよ^_^;
これは「アメリカの正義」というものが地に堕ちたことを描いているんだろうか。
それとも最初からアメリカに「正義」なんかないんだ、ってこと?ずいぶんとペシミスティックなスーパーマンだな。
『ウォッチメン』のオジマンディアスそのままだ。
クラークはロイスに「“スーパーマン”はカンザスの農夫が見た夢だ」と言う。
クラークの地球での亡き父親ジョナサン・ケント(ケヴィン・コスナー)が代表する素朴なアメリカの農民が「こうあってほしい」と願ったアメリカの姿。
善良で人々のために努力を惜しまず、驕らず妬まず憎まない、「正義」の人。
しかしのその実態は、大切なのはカノジョと母親だけで、暴れだすとしばしば制御が利かなくなり、世界のために戦うことにどこかウンザリもしている身勝手な男に過ぎない。
この映画を観たことで僕は、監督のザック・スナイダーが、かつてクリストファー・リーヴが演じた明るく自信に満ちてけっして揺るがなかったスーパーマンではなく、『マン・オブ・スティール』に続いてなぜ彼を暗く嫌な男に描いたのかようやくわかった気がした。
もう完全無欠の「正義の男」なんていないことがわかってしまった。アメリカのイノセンスは死んだ。
レックス・ルーサーはクリプトナイトの緑色の光を「オズの魔法使い」のエメラルド・シティに例える。
映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが演じる主人公ドロシーはカンザス出身。
今や『オズの魔法使』はアメリカ人のノスタルジーの源となっている。
しかし、あの映画の中のカンザスがすべてスタジオのセットだったように、エメラルド・シティに棲むオズ大魔王の正体は機械仕掛けの偽物だった。
『ジャスティスの誕生』で「偽りの神」と落書きされるスーパーマンは、あのオズと同様に偽物なのだろうか?という問い。
ローレンス・フィッシュバーン演じるペリー・ホワイト編集長は「かかとを3回鳴らして故郷に帰れ」と言うが、クラークにはアメリカの原風景、その良心のような麦畑に囲まれたカンザスの「おうち」はもうない。
クリプトン人カル=エルとしても、地球人クラーク・ケントとしても、もはや彼には帰るべき場所がないのだ。
自らのアイデンティティを失い、巨大な力を持っているが“心”はそれに追いつかない男が、多くの犠牲を出してギリギリなんとか敵を撃退する。しかし感謝する者もいれば、一方ではその戦いによって大切な存在を奪われた人々からは憎まれる。
そして彼の敵は生まれ続ける。戦いには永遠に終わりはない。
プロレスのように敵味方に分かれて“ショー”としての戦いを描くよりも、ザック・スナイダーはもっと現実の混沌とした戦いを描こうとしたのかもしれない。
やりたいこと、語りたいことはなんとなくわからなくもないのだが、お話の組み立て方がヘタクソ過ぎて伝わらないのだ。だから感動もない。
この映画は「アメリカの夢の死」で幕を閉じ、そして次回作ではその復活が描かれるんでしょう。
しかしこの映画、観ているうちに一体こいつらはなんのために戦ってるのかわかんなくなってくるのだ。
最後にバットマンがワンダーウーマンに、世界中のヒーローに呼びかけて集めよう、みたいなことを言うけど、集まって何と戦うのかよくわからない。
これから敵がやってくるから団結しよう、みたいななんともボンヤリとしたヒーローチーム結成の動機である。
いやまぁ、マーヴェルのアベンジャーズがウケてるからうちらもいっちょ噛みしますか、ってことだろうけど。
だけどザック・スナイダーは真剣に面白い“プロレス”を描く気なんかないのがよくわかったし、さっき述べたようにこの映画のクライマックスを観て肝腎の強敵に魅力が皆無だったから、今後繰り広げられる戦いというのにも期待はできないな、と思った次第。
ドゥームズデイ。もうこの手の工夫の足りない造形のモンスター、見飽きたんですけど
映画の好みは人それぞれなのでこの映画を絶賛している人たちに難癖つける資格など僕にはないですが、ヒーロー映画は「アベンジャーズ」シリーズで充分だし他に観たい映画はいくらでもあるから、今後僕が映画館で観る作品の選択肢としてこのシリーズの順序は限りなく下の方になるだろうと思います。
ちなみに今日は4月1日ですが、以上の感想はエイプリルフールのネタではありません。
第37回ラジー(ゴールデンラズベリー)賞の最低リメイク、パクリ、続編映画賞、最低スクリーンコンボ賞(ベン・アフレックとその永遠に最悪な敵ヘンリー・カヴィル)、最低脚本賞、最低助演男優賞(ジェシー・アイゼンバーグ)の4部門を受賞。
おめでとう!w