『ルーム』 アリスの帰還 (original) (raw)
レニー・エイブラハムソン監督、ブリー・ラーソン、ジェイコブ・トレンブレイ、ショーン・ブリジャース、ジョアン・アレン、トム・マッカムス、ウィリアム・H・メイシー出演の『ルーム』。2015年作品。
原作はエマ・ドナヒューの小説「部屋」。
17歳の時に誘拐され、それ以来7年間小さな部屋に監禁されているジョイは、5歳になる息子のジャックとそこからの脱出を試みる。
以下、内容の
ネタバレを含みます。未見のかたはご注意ください。
『FRANK -フランク-』のレニー・エイブラハムソン監督の最新作。
第88回アカデミー賞主演女優賞(ブリー・ラーソン)受賞。
映画評論家の町山智浩さんの解説にあるように、実際にあった事件をヒントにして書かれたフィクションを映画化したもの。
10代の少女が誘拐されて何年間も監禁されていた事件というと、どうしてもついこの前に被害者が保護された女子中学生誘拐監禁事件を思い浮かべてしまうし、映画を観ている間中ずっとそのことが頭を離れなかった。
この映画で描かれているのは、まさしくあの事件の被害者の少女やその家族が被ることになった、──それは犯人からのものであり、またマスコミや一般の人たちからのものでもあったりする理不尽な仕打ちと、そこからの脱出についてである。
予告篇を観れば話の展開については予想できるし、事実その予想から大幅にはみ出て意外な結末に至るというわけではない。
この映画については絶賛がある一方で、一部では非常に冷めた評価や酷評もされていて、どちら側の批評、感想も興味深く読みました。
アカデミー賞を受賞した作品でもあるし、まぁ好意的な感想はわかるけど、ではこの映画のどのあたりが“酷評”されているのだろうか。
いくつか読んだレヴューの中から。
荻野洋一の『ルーム』評:“感動させる”演出に見る、映画としての倫理の緩み
この二つの批判的なレヴューに共通しているのは、倫理的な問題についての指摘。その他の批判的な意見の多くにもこれが含まれる。
このような事件が現実に起これば、すべてがこんなに綺麗には済まないのでは?そして「感動的な物語」でコーティングされたことによって誘拐、監禁、強姦を美化(…とまではいかなくても結果的に容認)するような作りになっているのではないか?と作り手の姿勢に疑問を投げかけてもいる。
どちらも「なるほどなぁ」と納得してしまうし、このあたりはもっといろいろ議論されていいと思う。
ちなみにこの荻野さんが文中で激しく批判されている是枝裕和監督の『そして父になる』の僕の感想はこちら。
同じ作品でも注目したり、評価、批判する部分が人によってこんなにも違うのが面白いですね。
確かに、『ルーム』はエンディングにかかる曲がやたらと感動を煽るような旋律で、あそこはもっと小さく細やかな曲にすればよかったのに、と思いました。ちょっと繊細さに欠けていた。
ただ、実は僕は映画を観ている間、倫理的な部分についてほとんど考えなかったし、高く評価している人たちのように「母と子の愛の物語」というふうにも受け取らなかった。
この映画の大部分はヒロインの息子ジャックの目を通して描かれる。
僕は原作は未読なんですが、原作小説ではほとんどがジャックの視点によって語られているそうですね。
映画ではそのあたりは曖昧というか、完全なるジャックの一人称ではないので映画が母親のジョイ目線なのかそれともジャック目線なのか判然としないところがあるんですが、映画を観ていればこのジャックが子どもらしい愛らしさと無邪気さを持ち、でもまだ五歳児だから大人が言ったりやったりすることを理解できなかったり期待通りに行動できないところもある、というのはわかる。どこにでもいそうな子どもとして描かれている。
だから、この子が実は誘拐犯で強姦魔の血を引いてるんだよな、などということは僕は上映中に思い浮かべもしなかったのです。
劇中でもジャックがレイプの末に生まれた子であることを救出後にマスコミから云々されたり、ジョイが実の父親から愛する息子を忌避するような態度を取られる場面はある。
7年ぶりにようやく助け出されてまだ間もないのに、インタヴュアーがあんな心無い質問を母親にするのは、ちょうどこの前の誘拐監禁事件の被害者の少女に対して「これまでにも逃げ出せるチャンスはあったはずなのに、どうして逃げなかったのか」という無神経極まりない疑問をぶつけていたマスコミや一般の人々を思い起こさせもする。
ジョイを演じるブリー・ラーソン、そしてジャック役の子役ジェイコブ・トレンブレイ、家族役の俳優たちの好演によって、これは母と子、家族の絆を描いた感動物語のように映るしそのように宣伝もされているが、僕はちょっと違う視点からこの映画を観ていた。
多くの指摘通り、7年間監禁されていたわりにはジョイ、そしてジャックは結構あっさりとそこから逃げ果せる。ここまでで映画の半分ぐらい。
危機からの脱出としてはあっけなさすぎて物足りなさも感じるし、そういう娯楽的興味を満足させるための映画ではないことはわかってはいるけれど、ではリアリティの面ではどうかというと、やはり批判されているように、おそらく現実にあのような状況下にあればもっと凄惨な現場ではないかと思う。
衛生的にも相当劣悪だっただろうし。
この言葉をバカの一つ覚えのように使いすぎるのも問題あるんだけど、でも僕はこれは一つの「寓話」ではないかと思ったんです。
題材として極限的な状況が用いられてはいるけれど、そもそもこれは凶悪犯罪の被害者についての映画ではないのではないか。
そういうテーマをつきつめて描こうとしているようには思えなかった。
先ほど述べたように現実の事件を基にしているところもあるし、観ていて現実に起こった事件を連想もしたし、当然、映画は具体的な映像としてこの母子の脱出行と再生の物語を描いているのだけれど、僕はこの「誘拐・監禁・強姦」を経験した女性とその幼い息子の話をもっと抽象化、普遍化して見ていたんです。
これは、忌まわしい記憶に苛まれて先の人生を踏みだせなくなった者が、もう一度その辛い記憶と向き合い、消せない過去から心が解放されることを望み、一歩踏みだしていく過程を描いたものなのでは。
つまり、「誘拐・監禁・強姦」は物語の背景・題材ではあるが、現実にそのような経験をしていない者にも自分の人生の中の経験に照らし合わせて見られるように作られているのではないか、ということ。
誰にでも思いだしたくない記憶の一つや二つはあると思うし、時には
PTSDのようにそれらがフラッシュバックしてきて苦しい思いをすることもあるだろう。
この映画の「部屋」とはそういう場所なのではないか。
もし、いたいけな少女が被った悲惨な経験を、この映画の批判者たちが主張するように覚悟を持って描くつもりなら、まず誘拐犯、通称“オールド・ニック”(ショーン・ブリジャース)によって17歳のジョイが誘拐される場面から映画を始めるだろう。
彼女が経験した恐怖を観客にも疑似体験させることで、この映画が描かんとするものはハッキリするはず。
でもこの映画はそれは描かない。
ジョイの言葉から観客は想像するだけだ。
また、オールド・ニックの逮捕もニュースで簡単に報道されるだけでその後は言及されることもない。
誘拐・監禁・強姦犯を糾弾し世の中の人たちを啓蒙することが目的ならば、映画はもっとニックに食らいつくはずだ。
あの男がどのような刑を受けることになったのか。その責任を問い、たとえどれほど重い罰が課されてもけっして被害者の傷が癒えるわけではないことを強調するだろう。
でもこの映画はそうしない。
オールド・ニックはまるでその実体をくらましたかのように映画から姿を消す。
僕は、このオールド・ニックという存在は、自分が人生の中で経験したどんなに悔しくても憎くても自力ではどうにもならない“苦痛”の象徴のように思えたのです。
彼はまるで「災い」そのもののようだ。
ジョイは「部屋」の中で、そして救出されたあともしばしば“ぬけがら”の状態になる。
絶望的な思いに苛まれ、前向きな思考ができなくなるそんな状態を僕たちはこれまでに経験したことがないだろうか。
彼女は実家で息子とともに安全に暮らせるようになっても、なぜ自分はあの時、助けを求めてきた犯罪者の言葉を信じてしまったのか、という思いが頭を離れなくなる。
自分の7年間を奪った者への怒り、それを招いたのは自分の迂闊さだったのではないか、という答えのない問いに囚われてしまう。
その怒りはまったく罪のない、自分に「人への親切」を教えた実の母親や自分のことを心配してくれている心優しい息子への八つ当たりという形となって現われる。そのあとの自己嫌悪のスパイラル。
そしてせっかく生き延びたのに、自らの命を絶とうとすらしてしまう。
これらはおそらく実際に事件に遭った被害者の経験を基にしてもいるのでしょうが、それはたとえ誘拐や監禁、強姦という凶悪犯罪に遭わなくても、時に人が持ち得る感情や行動だ。
僕には一生のうちで二度と足を運びたくない場所がいくつかありますが、この映画ではそういう場所を主人公が再び訪ねて、朽ち果てた「部屋」を見て、もう一度生き直そうとして物語が終わる。
ジョイはこれからも悪夢を見たり、堪え難い憎しみに襲われることがあるかもしれない。
そしておそらく、その苦しみが完全に消えることはない。
憎んでも相手をどうすることもできない。時間は巻き戻せない。奪われた7年間は返ってはこない。
その絶望からなんとか立ち直ること。
息子のジャックというのは、だからこれもまた一つの喩えなのだろう。僕はそう思う。
とはいえ、もちろん親子関係というものについても触れられてはいる。
ジョイが監禁されていた7年間に両親は離婚して、母親(ジョアン・アレン)は新しいパートナーと暮らしている。
そのパートナー、レオ(トム・マッカムス)はジョイともジャックとも血の繋がりはないが、実の母親と同じように父親や祖父の役割を果たしてくれる。
一方で、ウィリアム・H・メイシーが演じる血の繋がった父親はジョイと距離をとり、ジャックとのふれあいも拒否する。
ジョイにとってジャックは自らが産んだ我が子であり、だからこそ彼女はインタヴュアーの前で「何があっても息子を守り抜こうと思った」と語るのだが、最終的に重要なことは血が繋がっているかどうかではなく、その関係だ。
だからジャックの父親が誰だろうと、それでジョイのジャックに対する愛情が揺れることはない。
少なくとも彼女自身はそれを固く信じている。
これは一見すると新たな世界に踏みだしていく少年ジャックの物語のようだが、紛れもなく母ジョイの物語だ。
ジャックにはまたこれから先、別の物語が待っているのだろう。
自分自身が何者なのか、深く考える時期が来れば、また彼の中にも葛藤が生まれるかもしれない。
あまりに辛い経験、理不尽で、到底納得などいかないことが人生にはいくつもあるけれど、そしてそんな経験などせずに済めばそれに越したことはないのだが、でも多かれ少なかれ僕たちは痛みを伴う人生を歩まざるを得ない。
ジャックはそんな時に、僕たちの憎しみと絶望をほんのちょっと、時に決定的に和らげてくれる存在なのだ。
ジャックは“痛み”から生まれた存在であり、また多くの犠牲を払ったその経験によって得た生きていくためのかけがえのない“知恵”でもある。
彼が「もう一度あの部屋に行こう」と言うのは、だからジョイの心の囁きでもあるのだと思う。
二度と見たくなどない場所、でもそこをもう一度冷静に見つめて、そうしてまた歩みだしていく。歩むしかないのだから。
あの部屋からジャックを死体に偽装して脱出させる時、それをジョイは「モンテ・クリスト伯」に喩える。
また、「部屋」から出ることを拒むジャックにジョイは「不思議の国のアリス」を例に挙げて、「アリスは最初から不思議の国にはいなかったでしょ?」と話す。
「例え話」が人生を、新たな世界を切り開くこともある。
卵の殻は、ハンプティ・ダンプティからだろうか
“岩窟王”モンテ・クリストのように、そしてアリスのように閉じ込められていたジョイとジャックは、生還する。
映画の後半は、そこからの再出発の困難さについて描かれている。
傷は一生癒えることはないかもしれない。傷とともに生きていくしかないのだ。
天窓を仰ぎながら、
なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか、というけっして答えの得られない自問を何度も繰り返しながら、それでも私にできるのは安らかに庭のハンモックで眠れる日を夢見て「生きること」なのだ。
この映画は、生きることの辛さについての物語だったのだと僕は思います。
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