『この世界の片隅に』 かなしみのうさぎ (original) (raw)

監督:片渕須直、声の出演:のん(能年玲奈)、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ ほかのアニメーション映画『この世界の片隅に』。

音楽はコトリンゴ。

原作は、こうの史代による同名漫画。

太平洋戦争下の広島。江波(えば)に住む浦野すずは1944(昭和19)年、軍港のある呉市の北條周作のもとへ嫁ぐことになる。おっとりした性格のすずは時々ドジを踏みながらもかいがいしく働き、好きな絵を描き、新しい環境に馴染んでいく。しかし戦況の悪化に伴い物資は乏しくなり、アメリカ軍の攻撃も激しさを増していく。

今年は日本のアニメ映画が何本か大ヒットして話題になりましたが、僕は日頃から日本製のアニメに対して良いイメージを持っていなくて、それらを1本も観ていませんでした。

ただ、ジブリとか、たとえば去年の原恵一監督による『百日紅(さるすべり)』のようにわりと好きな作品もあるし、気になるものがあれば映画館に観にいくこともあります。

片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』は評判がよくて僕も以前DVDで観たんですが、残念ながら結構辛口の感想を書いてしまった。

それでもけっして悪い印象はなくて、TV局や大手の映画会社がバックについてるわけでもなく、流行とは関係のないところで作られて小規模で公開され口コミで人々から高い評価を得たことに好感を持ちました。

あれから数年経ち、その片渕監督の最新作が能年玲奈主演で公開されることを知って、その時点ではまだ原作漫画は読んでいなかったし、僕は別に能年さんや彼女が主演した朝ドラ「あまちゃん」のファンでもないのだけれど、ポスターを見て、どうやら戦時中の広島が舞台の作品だということだけ知って興味を持ちました。

こうの史代さんの「夕凪の街 桜の国」は読んでないけど、いつだったか別の戦争映画を観た時にタイトルを知って、気になっていたんですよね。

『この世界の片隅に』も映画の予告篇すら観なかったんだけど、何か「これはいいんじゃないか」という予感がしたのです。

だから映画を観たあとに読もうと思って、全3巻の原作漫画を買いました。

で、公開されるとやはり多くの人たちが絶賛している。だから観にいく日を心待ちにしていました。

映画を観る前に映画館のむかいにあるパチンコ店の前の自販機で飲み物を買おうとしたら、足許のわずかな溝に小さなネズミがいた。

僕はネズミが苦手なんで一瞬ゲッと思ったんですが、親とはぐれた子ネズミなのかとても小さくて身体を丸めてかすかに震えているその姿はとても無防備で可愛らしくてしばらく眺めていたのだけれど、近寄ってもいっこうに動きだす気配がないので少々心配になって安全なところに逃がしてやりたくてもやっぱり手で触れることはできなくて、「車に轢かれるなよ」と思いながらその場をあとにしました。

あの子ネズミの姿は、ほんのちょっとしたことで摘み取られてしまうかもしれない“か弱い命”そのものだった。

あとになって考えてみると、それはまるで示し合わせたようにこれから観る映画の内容と重なっていました。

結論からいうと、期待した以上に素晴らしい作品でした。何度か思わず泣きそうになったシーンも。

主人公の“すず”と声を演じる“のん”こと能年玲奈が完全に一体となっていて、まるで役柄が能年さんのために作られて彼女に合わせて台詞が書かれたように思えてならない。

原作は2007~09年に描かれたものだし、劇中の台詞もその多くは原作通りなんですけどね。

だけど観終わったらとてもそうは思えない。

ハッキリ言えるのは、能年さんは「あまちゃん」に続く代表作を手にした、ということです。

もし、観にいこうかどうしようか迷っているかたは、お薦めですからぜひ劇場へどうぞ。

今、この映画が作られたことにも、今、映画館でそれを観ることにも大きな意味があるから。

では、これ以降はストーリーや結末について書いていきますので、まだご覧になっていないかたは劇場で映画を観たあとにお読みください。

冒頭からしばらくは、少女時代のすずとその家族の日常が描かれる。

ここでさりげなく、すずが生きている戦前の日本の時代背景が“描写”によって説明される。

映画の冒頭では海苔の養殖をしていた父親は、その後、海が埋め立てられたために廃業を余儀なくされて工場で勤務している。

幼いすずがお使いで出かける中島本町はクリスマスで賑わっていて、洋服に身を包んだ人々の姿もあり、まるで現代の街なかのようにも見える。

原爆によって中島本町は消滅、現在は平和記念公園となっている

そこですずは、毛むくじゃらのバケモンに出会う。バケモンは背負った籠にすずを乗せて歩きだす。

その籠の中に同じように入れられていた少年に、すずは将来再会することになる。

すずがバケモンの持っていた望遠鏡で覗き見た、そして呉に嫁入りした彼女が里帰りした時にスケッチしていた広島県産業奨励館は、その翌年には原爆ドームと化す。

江波山で、すずは幼馴染の水原哲の代わりに海の波をウサギに見立ててスケッチを描く。水原の兄は海軍兵学校に帰る途中で船が転覆して亡くなっていた。

呉ですずが周作とともに見た戦艦大和は、その後沖縄に向かう途中にアメリカ軍の猛攻撃によって沈没、2700名以上の死者を出している。

文献資料や監督自ら現地に足を運んでの綿密な調査によって劇中で再現された街や兵器類等の考証の正確さが話題になっているが、なぜそれほどまでに詳しく描く必要があったのかといえば、ここで登場する街やそこに住む人々がどこかの架空の街や作られたキャラクターではなく、名前を持って現実に存在したということを観る者に強く意識させるためだ。

作品はフィクションだが、実際にあった店、住んでいた人々、空襲があった日時や場所、天気など史実を交えて物語が作られている。

僕は広島にも呉にも地縁はないですが、幼い頃から中沢啓治さんの原爆漫画「はだしのゲン」を読んでいて勝手に馴染んだ気になっていたのと(『仁義なき戦い』の印象で怖そうなイメージもあったけど)、20年ぐらい前に広島に住む友人のお宅にお邪魔したことがあって、その時に案内してもらって厳島神社、そして広島平和記念資料館(原爆資料館)などを見て回った思い出もあるので、なんとなく知らない街という気がしないんですよね。

広島弁の「ありがとう」という特徴的な発音にも親近感が湧く。

この「ありがとう」という挨拶は小津安二郎監督の『東京物語』で尾道の老夫妻が使ってましたが、笠智衆と東山千栄子演じるあの老夫妻ののんびりした口調のように、『この世界の片隅に』ではすずが喋るほわぁ~んとした調子の広島弁が耳に心地よい。「お国言葉」を聴くと、よりいっそうその地に生きている血の通った人間という感じが強まる。

とはいえ、この映画は全篇広島弁で台詞でのやりとりも結構あるので、文字で読むのと違ってちょっと気を抜くと大切な台詞を聴き逃してしまうんですよね。

言葉以外でも、一回観ただけでは「?」というところもある。

これは原作そのままなんですが、周作は自分の方からすずを見初めておいて(それも子どもの頃に一度会ったきりで)、帰り道に彼女と気づかずに道を尋ねて挙げ句に「珍奇な女」呼ばわりするとことか、すずの方も周作のことを憶えておらず苗字すらろくに知らないまま結婚するという、あまりに「結婚」というものの概念が現代のそれと違いすぎるので、正直なところすずの嫁入りのくだりはなかなかお話に入り込めず、まったく違う世界の物語のように感じていた。

自分の祖父母の若い頃はこうだったのかなぁ、などと考えながら観ていましたが。

それと、遊郭ですずが出会うリンのエピソードが映画ではだいぶカットされていて、そのためにリンと周作の関係も曖昧になっている(でも周作のノートの裏表紙は原作同様に一部が破られている)。

すずが自分はリンの「代用品」だったのではないか、と落ち込むシーンも映画にはない。

二時間の映画に収めるためにはしょうがないかな、とは思うんですが、水兵になった水原が呉のすずを訪ねてきて周作の“計らい”で二人が同じ部屋で一夜を共にする場面はあるので、本来は周作とリンの一件がそれと対になっていて、それで夫婦の間のバランスが取れていると思うんですよね。

だから周作にもいろいろあった、という部分をカットしてしまうと(エンドクレジットのあとのスケッチでわかる人にはわかるようにはなっているが)、なんとなくすずだけが男二人にモテモテでいい気なもんだな、みたいな感じになってしまって、ちょっと不公平だなぁ、と。原作を読んでいなければ気にならないかもしれませんが。

ところで、僕はこの“リン”という名前に、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で主人公の千尋にいろいろと教えてくれる湯女(ゆな)のリンを思い浮かべたんですよね。

もちろん『千と千尋』のリンと『この世界の~』のリンさんは見た目も性格もまったく異なるキャラクターだけど、原作者のこうのさんはちょっと意識したところはなかったのかなぁ、なんて。

ただまぁ、『この世界の片隅に』の登場人物たちの名前は“元素名”から取られている、というようなことを書かれているかたもいてなかなか面白いし、もしその通りならリンさんの件はほんとにただの偶然に過ぎないわけですが。

「この世界の片隅に」の化学 ZoaZoa日記

それと、原作では周作と水原はハッキリ髪の色を変えて描き分けられているんだけど、映画ではどちらも薄いグレーのような色で、場面によって一瞬どっちがどっちかわからない時があって(ちゃんと見ていれば肌の色や服装の違いなどでわかりますが)、もともと原作自体登場キャラクターの顔が互いにわりと似ていることもあって(特に親や従妹の少女など)、普段アニメを観慣れていない者としては大勢出てくると誰が誰だか区別がつかなくなることも。

あと、すずが妊娠したようなエピソードがあって、原作ではそれは妊娠ではなく「戦時下無月経症」だったことが解説されるんだけど、映画では病院から出てくるわずかなショットがあるだけなので、映画だけ観た人の中には疑問を持たれたかたもいらっしゃるようです。

まぁ、このあたりは些細なツッコミかもしれませんが。

でも逆にあの原作をよくこんな1本の映画にまとめたなぁ、と感心もする。

原作漫画と映画はそれぞれ独立した作品だけど、同時に相互を補完しあっているところも確かにあって、だからもし映画を観て感動されたかたは原作も読まれるといいと思います。

日常を淡々と描いていたように見えたこの映画は、後半になって(表現に語弊はあるが)ドラマティックになっていく。

兄の戦死もどこか遠い戦場での出来事で、これまで愚痴も泣き言も言わずに時々「ありゃ~」と呟きながら戦争の時代を生きてきたすずは、しかし義姉の幼い娘、晴美の死によって変わっていく。

手を繋いでいた晴美を時限爆弾で殺され、自らの右手首も失ったすずが、空襲で家に落とされた焼夷弾をじっと見つめる場面。

そして服に火がつきながらも身体ごと炎に身を躍らせるその姿に、それまでなんの疑問も抱かず抵抗もしなかったすずの戦争への怒りを感じた。

それはこれまで以上に戦争に協力的になろう、という振る舞いから逆説的にうかがえる。彼女はアメリカ軍にだけでなく、「戦争」にキレていた。

あの当時を俯瞰した視点から眺められる現在の感覚からすれば彼女の変化は遅すぎる気もするが、実際に目の前で身内を殺されて初めてわかることもあるんだろう。

すずの戦争に対する決定的な「鈍さ」は、いざという時に危機感をなかなか持てない僕たちに重なる。

これまで戦争を描いた映画に感情移入できなかった人々がこの映画のすずに心を動かされるというのは、それが目の前のことしか見えていない、日々の生活のことしか考えていない、すなわち現実の僕たちの姿だからだ。

しかし、そんないつもほんわかして時にまわりから呆れられてもいたような「すずさん」すらも、戦争は変えてしまった。

変わらざるをえなかったのだ。

何も知らず疑いもせずに、ニコニコ笑って時々ぼぉ~っと空想に耽ったりして生きていくことを「戦争」は許してくれない。

晴美の劇的な死(直接的な描写は避けられているが)とは対照的に、映画の終盤で妹のすみからすずの実家の両親の死(母親は行方不明)がそっと伝えられ、仲のよかったその妹にも原爆症の兆候が見られる。

このあまりにもあっさりした家族の「死」。

映画の終わりに、母親を原爆でなくした少女が、母と同じように右手のないすずを慕ってついてくる、というくだりがあって、その後、少女はすずたちに家族として迎えられたような終わり方をする。

焼け野原になった広島を歩くと、そこかしこで肉親を捜す人々の姿があり、すずもまた何度も他人と間違えられる。「この街は、みんなが誰かを捜している」というすずの呟き。

「はだしのゲン」でも、元(ゲン)と母親が原爆の火災で亡くなった四男とそっくりな戦争孤児に出会い、肉親のような絆を結ぶ。

そういうことは実際にあったのかもしれない。

死んだ「あの子」の生まれ変わりだと思って、ともに手をとりあって生きていこう、と。

この場面も、少女の登場が唐突であるために若干混乱するところはあるし、やはりキャラクターの絵柄が似ているために少女の死んだ母親とすずを同一人物だと勘違いした人もいるようですが、これは意図的なものかもしれないとも思いました。

右手がちぎれ身体に無数のガラス片が刺さって、それでも娘の手を引いて逃げていたが力尽きて我が子を残して亡くなり、蛆が湧いて朽ちていく母親の姿は、もしかしたら妹に勧められて呉から戻って広島で女子挺身隊として勤労奉仕していたすずのたどった姿かもしれないし、この映画を観ている多くの母親たち、女性たちにも重ねられているのだろうから。

広島で被爆してボロボロになって実家のある呉までたどり着いたが、あまりに変わり果てた姿だったために母親(すずの家の隣組の刈谷さん)にも気づかれずに隣保館の壁にもたれかかったまま亡くなった17歳の少年兵とともに、この映画を観る者の脳裏から離れないあの広島の母親の姿はすべての原爆の犠牲者たちを象徴している。

すずの実家のある江波は爆心地からは距離があったので市街地ほどの直接的な被害は受けなかったが(それでも死者は出ている)、広島から避難してくる多くの人々がいた。

「はだしのゲン」では、ゲンたちが母親の友人を頼って江波に住む一家に身を寄せるが、その家族から酷い仕打ちを受けたり、そこで出会った被爆者の青年がやはり自分の家族から疎まれて苦しみながら亡くなる。

すずの家族たちはみな善良な人々として描かれているが、「はだしのゲン」ではわざわざ具体的な地名を出していることからも原作者の中沢さんの実体験を基にしているのか、そこで描かれる江波の人々は被爆者に対して冷たく差別的だった。

「はだしのゲン」では人間の卑劣さや残酷さが容赦なく描かれていて、閉塞的な戦時中の生活で余裕のない者たちの自覚のない同調圧力には恐怖を感じる。

「ド、ド、ドリフの大爆笑~♪」でお馴染みの隣組の歌も、『この世界の片隅に』ではコトリンゴの軽やかな歌声とともにすずたちが毎日をなんとかやりくりしている様子が明るく描かれるが、「はだしのゲン」の隣組や町内会は陰湿な集団で相互監視と密告や嫌がらせの温床である。

戦争が終わってからも、人々の苦しみは続く。自分や自分の家族のために他の人の苦しみから目を背けざるをえないこともある。

おそらく人間には、『この世界の片隅に』に登場する人々のようなユーモラスで思いやりのある温かい心と、「はだしのゲン」で描かれたような醜く愚かな部分の両方がある。

「この世界の片隅に」と「はだしのゲン」の両方に触れると、切なくて堪らなくなる。

どちらに描かれているのも人間の姿だから。

エンドクレジットのあとにクラウドファンディング(この映画は3000人以上の人々の出資によってパイロットフィルムが作られている)に参加した人たちや企業の名前が流れるが、そこでかつて少女の時に草津の家ですずが見たスイカを食べる“座敷童子”が、実は貧しい生まれで奉公に出されてやがて遊女になったリンの幼い頃だったことがわかる。

もしかしたらあの絵は、すずがリンの過去を想像して描いたものかもしれない(すずの右手はすでに無いので、あの絵自体がすずの心の中で“想像したもの”ともいえる)。

リンが住んでいた遊郭は空襲で焼けた。8月6日に広島の市街にいたすずの母親と同様に、リンの消息もわからないままだ。

リンは「誰でもこの世界で居場所はそうそう無うなりゃせんよ」と言っていた。

僕は、人は人に忘れられた時、本当にこの世から消えていなくなるんだと思います。

だからこそ、すずは死んだ晴美のことをいつも笑って思い浮かべるのでしょう。

そして両親や「鬼いちゃん」やリンさんのことも。

海を見つめていた「水原さん」のことも。

もう会うことはできなくても、わたしがあなたを憶えている間は、あなたはわたしの心の中できっと生きているから。

ほらご覧 いま其れも 貴方の 一部になる

映画を観終わって先ほどの自販機の前に行くと、子ネズミの姿はもうなかった。無事親のもとに帰ったのかな。そうであってほしい、と思いました。

『この世界の片隅に』を観終わった僕は、子どもたちが親のもとへ、人々が大切な人のところへ無事に帰っていける、これからずっとそういう世の中であってほしい、と心から念じずにはいられませんでした。

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