My Life between fiction and reality (original) (raw)
前回の続き。
2 『動物園』について
今回は、A-2『動物園』 1966 を見て考えたことをつらつらと書きます。
この作品に関して、まず気付くことは、
動物=人間
であることです。
『動物園』と題されたこの作品には、動物を主体とした写真はなく、多くの写真が1966年当時の人々の様子を捉えた写真となっています。
例えば、一目を憚らず赤ん坊に授乳する母親、学生帽をかぶった少年やワンピースの少女など、です。
それらの写真には、陳腐な解釈など存在せず、ただ動物=人間を見つめるアラーキーのまなざしがありました。
人間を動物として見る
このまなざしを意識すると、いかに世の中が奇妙でおもしろい「動物園」であるかに気付きます。
この「動物園」で、最近写真に収めたいと強く思う「動物」たちの奇妙な動作があります。
それは、携帯電話を取り出して写メを撮る、あの動作です。
大人数で同じものを撮っているあの奇妙な動作です。
皆一様に携帯電話を頭上にかかげる、あれは今の日本で最も儀式的な動作だと思うのです。
ま、そのうち撮ってみようかなーと思います。
短いですが、最後に、僕が『動物園』から連想したことを紹介して終わりにします。
モンティソン伯の撮影した写真『カバ 動物園 リージェント・パーク』(下のカバが写っている写真)と
スーザン・ソンタグの『反解釈』です。
これは、先ほど述べた「陳腐な解釈など存在せず、ただ動物=人間を見つめるアラーキーのまなざし」があったという印象に基づいています。
カバと人間の対比
一体、檻の向こう側とこちら側のどちらが「動物園」なのだろうか
「内容を極度に重くみる結果何が生じるかといえば、それは'解釈’という試み―絶えることのない、そして決して成就することのないあの企図である。」
「これらの作品の美点がその「意味」以外のところに存することは確かである。」
アラーキーなど、その人の人生そのものが写真であるような写真家の写真は、陳腐な解釈に「意味がない」(もちろん解釈という行為は非常に有用であるが)と教えてくれるような気がします。
しかし、現代において、内容は制作するものから鑑賞するものまで多くが求めていること。
解釈から逃れるか、解釈を組み込むか。
はたまた解釈など許さないほど「あからさまなもの」を撮るのか。
色々考えはつきませんね。
アラーキーこと荒木経惟の「人・街」展Ⅱ、行ってきました。
感想を記すという課題があるので、忘れぬうちに書きます。任意課題ですが、展示に行ってしまったので、書きます。
なんという受け身な姿勢。
柔道の授業で受け身だけは頑張っていた成果がここで表れたようです。
参考に出品作品を。
A-1「地下鉄」 1966
A-2「動物園」 1966
A-3「東京物語」1988
A-4「冬へ」 1990
A-5「東京日和」1992
1 作品全般と2 「動物園」に分けて感じたこと考えたことをつらつらと記します。(2「動物園」については次の記事で)
アラーキーの作品、著作、ともにほとんど見たことがないというお恥ずかしい状況なので突拍子もないことを言うかもしれませんが、どうかご容赦を。
以下、感想。
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1 作品全般
アラーキーの作品全般に言えることといえば、どこかなつかしい、いわゆるノスタルジックな写真が多いことだと思います。もちろん、今回の展示も例外ではなく、非常にノスタルジックな作品が展示されていました。そのノスタルジックさは、もちろん撮影された年が要因で生まれたと考えられますが、恐らくその他にも要因があるだろうと。そしてそこに自分が写真をやっていく上で参考になるような要素が隠れているのではないか、という観点から少し考えてみました。
私なりに解釈した結果、その他の要因は「未完成」であるように思えます。
「キマッてる」構図でバシッと撮っている、というよりも、少しずらした「キマッてない」ダサカッコイイ写真が多いと思います。(←失礼ですかねw)この「未完成」さが私たちの想像を促すような作用を持っている、という印象を持ちました。
写真は、写真技術を究めれば究めるほどに、実際に感じていた現実の把握から遠ざかっていくように思います。やはり、単純に写真技術を向上するだけでなく、「見る」という行為を突き詰めることが必要であると思うのです。
しかしながら、それらを突き詰めて、「私はこれを見ました」という非常にわかりやすい、かっこいい写真を撮ったところで、まだ写真を究めてなどいないはずです。
写真の良いところは、見た者に解釈の多くが委ねられる点です。そう考えた時に、先に述べた「未完成」は私たちに想像の余地を残してくれる写真における重要な要素ではないでしょうか。だからといって、単純に「キマッてない」写真を撮っても、私たちの想像力を喚起することはないでしょう。
バランスのとれた「未完成」。
これが私のくみ取った要素です。
しかし... 意図的に崩すっていうのは難しいですね。さて、どうしたものか。
結局、今日も普通のことを言ってしまった。
そうそう、あんまり長くなるのが嫌なので、オマケとして。
ノスタルジーを考えるにあたって、
映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」
は、すばらしすぎる作品です。
見てない人は見てね。見たことある人ももう一回見ようね。
(次の記事に続く)
大船渡で取材と言えるのかわからないような取材を行ってからかれこれ1週間以上が経ちました。
ここらで考えたことを整理するのもよいことだと思うので、自分のために更新しようかなーと思います。
何を思ったか、一言で言うと「楽しかった」です。
こんなこというと不謹慎だとか軽いとか言う人もいるけれども、決して軽い気持ちではありません。
現地に行って、真剣に人の話を聞くこと。
これは僕にとって喜ばしいことであるとともに、楽しめる行為であることを確信しました。
そして、これが取材を行う上で一番のモチベーションになっているようです。
しかし、カメラを持っていなかったら、恐らく被災地に限らず様々な現場に足を運ぶことはなかったとも思いました。
カメラを持っているだけで勇気が湧いてくるというか、本来は許可されていないけれども、免罪符的な効力をカメラは発揮しているように感じます。
カメラを持っていればどこにでも入っていける。
そんな気持ちになります。
しかし、こんなに暴力的なことはないですよね。どこの馬の骨かもわからぬやつが大きな写真機をぶらさげて、話を聞かせてください、写真を撮らせてください、とやってくる。非常に一方的です。
けれども、僕には伝えたいストーリーがあるし、単純に入っていくことが楽しいのでやめません。
もはや中毒です。中毒でなかったら休学して写真なんて撮りません。
こんな中毒野郎とお話しをしてくれた大船渡の皆様に感謝します。
おばあちゃん、ありがとう。
こんばんは。現在午前2時半くらいですか。
非常に眠いです。
さらに言うと、ここ最近目を酷使しているので視界がぼやけることがしばしば。
昔受験のときに疲れで右目が見えなくなったことを思い出します。
上の写真は、芸術家デビッド・ホックニーの作品です。
僕が意図したいことと、この手法が非常にマッチしていたので、フォトショでやってみようと思ったのですが、まあよくわからないです。いまいちどんなプロセスでやればいいのかわかりません。
誰か教えてぴょん
そして、平野綾のアイコラ画像(ひろいもの)
複数(2枚以上)の写真を使って作るという点ではおんなじですかね。
かわいいわね。
というわけで、久々にブログ書いたと思ったら恐ろしいほど内容がない。
だって眠すぎて頭が働かないのだもの。
あー、もう疲れた。
寝ます。
心の拠り所が欲しい今日この頃でした。
「『人』という字は、お互いに支え合っているんだ」
と有名な先生はおっしゃっていましたが、
果たしてそれは本当でしょうか?
現実を考えれば、
「『人』という字は、(権力を持った)大きな人が、小さな人を押しつぶしている」
と言ったほうが正しそうです。
そんな世界は嫌だと
ぐちゃぐちゃに
ぼろぼろに
塗りつぶしてみました。
背中で語ってみました。
この写真とこの内容を、学校で出された『自分案内』という課題でプレゼンしたところ、頭のおかしい人だと思われました。
どうせ、僕は頭がおかしいですよ。
だけど、もっとおかしいのは世の中ですよ。
それでも僕は生きてますよ。
村田峰紀の『MY back talk.』のパクリみたいになってるのが気に食わない。
明日もがんばろう。