ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing (original) (raw)

1995年の春、金融領域におけるコンシューマーマーケティング*1の先駆け的なプロジェクト(僕のいた会社の慣習で以下「スタディ」と書く)があり*2、初めて大手銀行のお仕事をした。そこまでに、消費財分野において、次々と現れる強烈な競合ブランドの登場で相当厳しい状況にある歴史あるブランドを劇的にテコ入れする、市場のど真ん中を撃ち抜く商品を生み出す*3、などの取り組みを経て、かなりコテコテのマーケティングストラテジストになっていたため、マーケティング研究グループのリーダーのお一人*4と一緒に異種格闘技戦的に投下されたのだった。

そのスタディのワーキングメンバーには僕以外は金融やオペレーションのプロが入っていた。僕は消費財分野はそれなりに経験してきたが、金融についてはほとんど何もわかっていない状況だった。上記のような効果が期待されていたため、過度のガイダンスは僕にはされなかった。その異質間の化学反応が期待されていた。

マーケティング視点を持ったストラテジストワークの核心の一つは、市場の深い構造的な理解に基づき、具体的なアクションそのものというより、それを生み出す中長期的に価値のある本質的な取り組みの方向性を見出すことにある。僕はプロジェクト内でのそんな特殊な立ち位置もあり「銀行は一体何を消費者に売っているのか?」について随分とゼロベースで考えた。飲料で言えば、止渇であり、目覚めであり、仕事におけるリズムのような深い役割、ベネフィット*5に当たるものは何かということだ。

たしか最初の週の週末、朝風呂に入ろうとしていたかしたときに唐突に気付いた。預貯金やローンはお金を売ってるのではなく、「お金の利用権の売買」をしているんだと。お金を預けるときに、利子はだから付くのだ、借りるときに払っている利息はその借りているおカネの利用権なんだと。だから金融と言うんだなと。僕自身はかなり興奮したのだが、これを金融研究グループの人間に話してもふーん、、ごめんそれ何がイシューなの?という感じで全くもって、僕的なsignificanceは殆ど伝わらなかったのではあるが。笑 *6

その視点で考えれば、ローンを組む際に、本当のところお金が欲しい人なんて別にいない。住む家が欲しくてローンを組む、特定のクルマが欲しくてローンを組む、特定の学校での教育を得たくてローンを組む、事業者だって未来に向けて必要な投資(未来への賭け)がしたくてお金を借りる。つまり、本当にやりたいことがあって、そのためにお金がある、お金だけを考えていても何も答えにならないという結論に到達した。その人のやりたいを支援して初めて、そのお仕事の価値があると。

また、上のスタディが終わってからも時折金融系の仕事にも入った。これまでにないハンディなペイメントの仕組みをゼロベースで検討、設計するとか*7、まとまった金融グループの全体戦略を考えるなど、お金の仕事を様々に行うたびにお金について随分と考察した。

それ以外は多様な産業分野でのマーケティング的な視点を持つ綜合的なストラテジスト的なお仕事が主で、なにかやろうとすれば、そのために自由になるお金、つまりおカネの一定の利用権、が前借り的に必要になることを毎度つくづく実感してきた。

これらの検討の中で、ほとんどの銀行や金融機関はやるべきことをまだ到底やれていない。あたかも人や会社をただ査定しているだけの人たちにも見えるとも理解された。伸びしろに満ちていたということだ。今はどうかわからないが、20年以上前にあるところで調べたときには、なんと銀行はその辺の交番に行くよりも行きたくない場所という驚くべきデータが出たこともある。

なにか欲求、解決したい課題があるとき、金さえあればなんとかなる、ということが多いのは事実だが、お金で得るものはお金とは似ても似つかぬものばかりだ。お腹が空いたときは美味しいものが食べられればよいだけで、それはお母さんのおにぎりでもよく、近くの中華やイタリアンでもいい。デートのときだったら、相手も楽しく感じてもらえるそれなりの雰囲気となかなか幸せに感じられるものを一緒に食べられたという充実感、何より楽しく話せたという時間がほしいだけだ。

特定のカメラがほしいときは、それをとにかく保有したい、あるいはそのカメラでしか撮れない写真を撮りたい、ということもあるだろう。僕は30年近く写真を撮るのが趣味になってるが、この20年ほどフィルム時代から五台ほど使い続けているLeica(ライカ)はもうあの形とファインダーが体に馴染んでしまって、あれ以外をもう持てないというのが正直なところだ*8銀塩時代のプロのデファクトだったNikon Fユーザ、フルサイズデジタルの嚆矢であるキャノン5Dユーザも同じだろう。BMWメルセデス、ハーレーの乗り心地、ペダルの踏み心地、サウンド、その他のフィール(感じ方)は独特であり、スタイルも独特だ。単に乗り物としての移動手段を超えて、それらを得たいというのが殆どの購入者の欲求の中心だろう。

売る側もその価値をしっかりと見定めて、それをなんとか買い手ではなく、使い手に届けようと命を削ってそれを生み出している。これがわかっているのが本物の歴史あるブランドと呼ばれるものであり、わかっていないのがただ機能だけをデリバーしている人たちということになる。信用という言葉に秘められた中身は重い。

こういったことを考察するようになって、かれこれ30年ほどだが、今の世の中ではお金に考え方が乗っ取られたような感じになっている部分をよく感じる。お金がないと動かない世界はたくさんあるが、それはなぜか?こういうこともこんがらがっている人がとても多いように思う。

おカネはまるで物質の世界、原子と原子、分子と分子、における電磁気力的に異質をつなげることができる。過去と現在も、現在と未来もつなげることができる。いま目の前に必要な支払いを行うこと(消費/consumption)と、未来に対するbet(投資/investment)のバランスを取ることで、現在と未来へのリソースの張り方も変えることができる。

拙著『シン・ニホン』の一大テーマである社会功労者であるシニア層や子育て世代の解き放ちとケア(生活、ヘルスケア)も別におカネが究極的に大切なわけではない。社会での活躍の場があることであり、安心して生活できることが本当のところ解決されなければいけない課題だ。円や原油の値段は表面的な需給ロジックでは説明できなほど下がったり、上がったりもする。これは一体何の欲求を反映しているのか、こういったことを俯瞰的に考察することはとても大切だと思う。

シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成 (NewsPicksパブリッシング)

こちら田内 学さんの『お金の向こうに人がいる』は随分前に書店で手にとってこれはヤバイ本だなとおもってだいぶ前から本棚においてあったのだが、最近、ようやく手に取って、開いたらあっという間に読み終えた。まさに今述べてきたことが更に多面的に考察された素晴らしい一冊だった。若いときに欲しかったとも思った一冊でもあった。ただその時だったら今ほどありがたみを感じられたかわからないが。笑。

読み終えたときのタイトルの味わいが格別。さすが佐渡島庸平さんが関わられただけのことはあると感服。

お金のむこうに人がいる――元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門

また、同じく田内さんの小説風になっている一冊『きみのお金は誰のため: ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」』も最近出ていることを知って、そちらも合わせて読んだ。正直涙ぐんだりもした。とても良い本で、中高生の推薦図書にしたほうがいいかもと思った。【読者が選ぶビジネス書グランプリ2024 総合グランプリ「第1位」受賞作】として耳にされた人もいるかも知れない。コテコテに考えてきていない人はまずはこちらから手にとっても良いかもです。

きみのお金は誰のため: ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」【読者が選ぶビジネス書グランプリ2024 総合グランプリ「第1位」受賞作】

ps. 参考までに目次を貼っておこう。


1:1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW

ちょっと驚くべきことに文庫となる本の解説文と帯を書いてもらえないかというお話があり、以前、新刊として読んでなかなかに感銘を受けたことがあった一冊であり(手元に初版がある)、もし可能であればで何ヶ月か前にお受けした。これまで友人、知人の本ばかりではあるが、帯文はずいぶんと書いてきたが、解説文を書くのは初めてであり、そういえば、若い頃は文庫は後ろの解説文から読んでいたな、、ということを思い出し、なんと荷の重いことと思ったが、条件付きではあるが、ぬるっと引き受けたのだった。

とはいえ、案の定全く書く余力がないまま、締切の12月の半ばを過ぎ、今回は断念させてもらえないかとお伝えしたところ、翻訳者の〇〇さんも大変楽しみにしており、年始明けのギリギリのタイミングまで待つのでなんとかというお話を頂き、年末年始のナケナシの時間(というよりココで遅れた仕事に追いつくはずの休暇、、)を投下して頑張って書き上げた。

このような特別な機会を頂き、励まして付き合っていただいた朝日新聞出版の森鈴香さん、そして翻訳者の大田直子さんに心から感謝したい。

朝日新聞出版の皆様のご理解を経て、その解説文を特別にここにも掲載させていただければとおもう。

世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史

★ ★ ★

解説 安宅和人

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、ルイス・ダートネルの『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』など、様々な分野を横断して、俯瞰しつつ、世界を書き下ろすという日本にはないジャンルの本が欧米には存在するが、この本はその一冊だ。

この本を手に取られた人はすぐに『世界をつくった6つの革命の物語』というからてっきりフランス革命みたいな話が出てくるのかと思ったら、全くそうではないことに気づくだろう。もともとのお題は"How We Got to Now - Six Innovations That Made the Modern World"(我々はいかにして今に至ったか ― 現代の世界をつくり上げた6つのイノベーション)。

かといって単に大きなイノベーションについて書いてある本でもない。この本の6つの章「ガラス」「冷たさ」「音」「清潔」「時間」「光」を見れば分かる通り、一つ一つのお題はイノベーションというよりテーマであり、一連の物語だ。

「ガラス」は人間との出合いと作る技術の創出から始まる。「冷たさ」と「清潔」の章は、これまでとは逆に向いた価値の発見から始まる。「音」、これは誰もが知っているが、その本質を理解するところから始まる。そこから生まれる電話、暗号は現代そのものの始まりの物語と言える。「時間」は時を計る発見から始まる。最後の「光」の章は、光を安定的に得る話から始まる。

聖書の創世記的には、光はこの世界の始まりであるが、最後の章だというのが意味深だ。(ちなみに宇宙論的には「最初に光があった」と言うよりも、「最初に極端なエネルギーと物質の状態があり、その後光が自由に移動できるようになった」と表現する方が正確。)そしてこれは最初の「ガラス」とセットでもあり、輪廻的な構造をとった本だとも言える。

「ガラス」の章は圧巻だ。地球上で最もふんだんにある材料の一つからガラスが生み出されるが、それが自在に使えるようになってからの人間社会の進化はたしかに驚異的であり、これナシには僕らの文明がもはや存在し得ないことがしみじみとわかる。瓶、窓、レンズ、眼鏡、顕微鏡、鏡、遠近法、グラスファイバー、カメラ、真空管、ブラウン管TV、光ファイバー、モニター、スマホ、、これらのすべての背後にガラスがある。

各章で議論するそれぞれの対象があまりにも僕らの生活に馴染んでおり、僕のようなもともと科学の徒の場合、ある程度以上にそれぞれの話をわかっているはずなのに、その切り口のみごとさと、対比による意味合いの抽出、その前後のあまり知られていないリアルストーリーの折り重ねがまばゆく、楽しみながらあっという間に読み終えた。

訳も見事だ。総じて軽やかだが、疲れない、明瞭な文体だ。しかも詩的でもある。そしてそこいらに心に残る言葉が出てくる。

「ボイルが推測したとおり鳥は死んだが、おかしなことにさらに鳥は凍りついた」
「私たちがいま目にしている人口移動は、おそらく人類史上最大規模であり、初めて家庭電化製品によって引き起こされたものだ」
「放射性崩壊の「等しい時間」は先史時代の時間を歴史に変えたのだ」

などなど。

一部、科学的に見慣れぬ言葉が出てきたり、原文を見たくなる部分もあるが、「創造物」はおそらくcreature(あらゆる生物がこれ)の翻訳なんだろうなと思ったりしてニヤリとする。

もう一つ触れておきたいのが、この本を読んで思う「イノベーション」という言葉の意味だ。シュンペーターの言葉を引いて「新結合」こそがイノベーションの本質だという話が昨今よく出てくるが、本当にそうなのか、それで説明できるのか、と思える事象が実に多い。

まず、最初に起きる発見、技術的なブレイクスルー、たとえばガリレオが吊り下がった祭壇ランプをみて揺れる時間を考えた時など、「新しい財貨(革新的な製品やサービス)の生産」の前段階であり、むしろ深い「気づき」というべきものだ。そこからさまざまな想定もされない用途が生まれていく。蓄音機を発明したエジソンと、電話を発明したベルが相互に真逆の用途を想定していたという今となればほほえましい話も出てくる。

さらに、鏡を見て自意識が育って現代につながる社会が生まれる、音を遠隔地に同時に届けるラジオが生まれてアフリカ系アメリカ人の文化が一気に広まる、という本書でいうところの「ハチドリ効果」の数々はイノベーションという言葉を遥かに超えた話だ。新しい技術がどのような形に育つのか、どのような影響をもたらすのか、世に出した瞬間にわかるわけがないこともよく分かる。バックキャスティングで未来が生み出せるかのような議論が最近多く、少々辟易としていたが、ある種、溜飲が下がった。国のイノベーション議論をしている方々にもきっと参考になるところが多いだろう。

終章では、ロマン派詩人バイロン卿の娘エイダ・ラヴレースと、プログラム可能な計算機の生みの親であるチャールズ・バベッジの意外な関係とそのいきさつが出てくる。といっても色恋沙汰ではない。時代の数十年、百年先を行く考えができる「タイムトラベラー」としてだ。そこに出てくる次の言葉は僕らの社会の人づくりにおいても大切な視点だろう。

「タイムトラベラーに共通する要素があるとしたら、それは、彼らが表向きの専門分野の余白、あるいはまったく異なる領域の交点で、仕事をしていたことである」

世の中には思いもよらぬつながりと広がりがあり、未来は予測はできないが仕掛けることはできる、だからこそ僕らはこの社会で生きている意味がある。この本は、そんなことを教えてくれる一冊だ。科学が好きな人にも、歴史が好きな人にも、そして未来を考えたい人にも、オススメだ。

(あたかかずと/慶應義塾大学教授・LINEヤフー株式会社シニアストラテジスト)

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以上だ。

文庫版の発売は恐らく来週末だが、すでに予約を受け付けられているようだ。以上を読んでもしご興味を持って頂けたのなら、よかったら是非手にとって頂けたらうれしい。ご参考までに目次の写真も貼っておこう。



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(文庫版リンクはこちら)


Parco delle Madonie, Sicily, Italy (September 2023)
1:1.4/35 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW

先日書いたエントリで触れた人類がグローバルに抱える大きな2つの課題のうちの一つ、「人口調整局面のしのぎ方」についてもう少し考察してみよう。まずは先般のエントリ*1から一部抜粋する。

この人口調整局面ではかなりの深刻な問題が大量に噴出する。それは例えば、会社がほしいと思った人の数が取れないということから始まり、僕が「風の谷検討」でよく見ている疎空間であれば、郵便局や役所のような基本機能すら人がいなくて維持できなくなるという問題でもある。もっと深刻には、道や橋梁だとか上下水道、食料供給の要である灌漑網、電力網、ゴミ収集と処理のような社会の基盤をなすインフラがこれまでのようには維持できなくなるということであり、あまりまくる家だとかビルの廃屋の処分すらやる余力がなくなるということでもある。森も荒れ果て、田畑も荒れる。既存の生産年齢人口の生み出す余剰で回すことを前提としているヘルスケアシステムや年金機構も回らなくなる。

これをどのように少しの人口で回せるようにするか、この過剰インフラ問題をどのように解決するかが極めて深刻な課題として全世界的に噴出する。それが先程のべた地球との共存問題が深刻化する中で起きる。これについての答えを誰が出せるかが大きな課題であり、これもまさにレジリエンス問題であると言える。

現代社会は、人口増加と経済成長を前提としたシステムのもとで発展してきた。そこでは、ビジネスやさまざまなプロセスが成長や変化に対応して拡大や縮小(ほとんどの場合「拡大」)を効率的に行えることが求められ、その力があることを僕らはスケーラブル(scalable*2)と言ってきた。このスケーラブルな性質や度合いをスケーラビリティ(scalability)という。

これらはビジネスやソフトウェアが新しい要求や増加する利用者数に対応できるかどうかを示す考え方、指標であり「このアプリはスケーラブルで、ユーザ数が10倍、100倍に増えても性能が落ちない」「この物流センターのスケーラビリティは高く、現在の一桁増のスループットまで増設が容易に可能」という風に使われる。

この二つの言葉は技術的、施設的な文脈だけでなく、ビジネスモデルや組織の成長戦略においても使われる。例えば、スタートアップが急激に成長する中、その事業がスケーラブルである、つまり拡大に適しているかどうかを語ったりする。やたらうまいラーメン屋さんがいて、2店舗目、3店舗目まではコアなスタッフを店長として送り込み、なんとか味を保てても、5店舗ぐらいになると味もサービスもガタ落ちしてしまうというようなことがあれば、それはスケーラブルではなかったということになる。

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中国を含む主要国を起点に、インドも含め、全世界的に長期的に進むと見受けられる「人口調整局面」(詳しくは上述のエントリを参照)において起きるのは、真逆の問題だ。もちろんペストが蔓延した14世紀欧州の主要都市のように数年で2/3 ~ 1/2という規模まで落ち込むわけではないが、これまで規模拡大を前提として投資や資金の拠出が行われてきたことを考えると、かなり異質な変化と言える。

職業柄*3、インターネット/メディア分野はもちろん、飲料、食品、半導体、IT、通信、流通、機械、商社、金融、医療、教育、建設など随分と多様な分野の、そして随分と多くの企業のトップマネジメントと接してきたが「成長はすべての痛みを癒す」という言葉を何度となく聞いてきた。実際、成長の過程で理由のわからない問題の多くは消えはしないが、別の新しい成長課題に発展的に置き換わることが多い。

大量に土地を買うわけでもないIT(ハードとソフト)側はそんなに大変じゃないのではと思われるかもだが、金融機関のオンラインシステム更新を見れば分かる通り、レガシー的なシステムの刷新は重い。初めから作り直すほうが遥かに軽いケースが大半だ。*4 これらの投資は規模縮小局面下で行うことは相当に厳しい。

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ではどうしたらいいのか。ここで求められるのが、縮小する環境に適応し、効率的に機能を維持する、いわば「逆のスケーラビリティ」というべき能力だ。これは、単に縮小するだけでなく、質の高いサービスを持続可能な形で提供し続けることを意味する。なお、元ブログの脚注に書いた通り、経済成長が止まると社会の安定的な維持力が失われる。とりわけ日本の場合、財政課題が大きいため、高付加価値化も含め、経済規模は維持できることは持続可能性の必須条件と言える*5

また、企業の場合と社会インフラを担う公共サービスの場合は大きく違う部分もあるが、働く人(employee)も顧客も母数が徐々に長い時間をかけて減るというのは同じであり、しかも維持するべきリソースは意図的に見直さないと削れないのも同じだ。

いずれにせよ、デジタルな力も借りたCPR/BPR *6を通じ、限られたリソースで最大の効果を生み出すため、効率的な運営体制の構築が必要になる。全体の人員を2/3に、現在の業務はいまの半分の人員で回るようにして、余力*7でこのプロセス変革をやり遂げるなどだ。

企業の場合は、大規模な市場への依存はリスクが高まり、リスク分散や利益率の向上のため、製品やサービスの多様化やニッチ市場への適応が必要になる。教育、医療、その他インフラ整備など公共サービスの場合、効率的な資源配分のためのメリハリを決めないといけなくなる。合わせて地域のコミュニティとの共同による新しいサービスモデルの開発が恐らく必須になる。上の引用で触れた「既存の生産年齢人口の生み出す余剰で回すことを前提としているヘルスケアシステムや年金機構」、すなわち社会保障関連費用の場合、全く異なる仕組みが必要になる。

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またこの過程で大きな問題になるのは、これまでのようにはメンテ出来なくなるインフラや施設だ。

もちろん今後の維持は不要であると切り捨てることができる場合には、企業であれ、公共団体であれ、除却し*8、バランスシートから落としてしまうことになる。後ろに引っ張っても良いことがないので、早期に財務諸表をキレイにしておくべきではあるが、除却の体力がない場合には結構な厄介なことになる。

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企業側はいくらでも知恵が湧くと思うので、ここから先、公共サービスに絞って考えてみよう。

公共サービスの場合、長期間にわたって除却していくべきものを明示して、少しずつ落としていくという若干特殊なアプローチが求められる。無い袖は振れないからだ。コンパクトシティ化を図る自治体の場合、コンパクトシティに指定されない空間の投資を最小化する、もしくは取りやめることを意味しているが、これがまさにそれに当たる。一方、非指定空間に住む市民・住民にこの意味合いが必ずしも説明できていないとすれば、それは無責任と言える。

とはいえ、公共サービスの場合、切り捨てることは出来ないが、これまでのようには維持できないインフラが実はかなり多い(場合によっては大半になる)と思われる。

この社会インフラには、道、上下水道、ごみ処理、モビリティ、教育、ヘルスケアなど実に幅広い要素が含まれ、国がメインとなる社会保障関連費用と並ぶ、もう一つの課題解決のヘソとなるだろう。(都市集中型社会に対するオルタナティブをつくることを目指す「風の谷をつくる」運動論の中で、長らく検討してきた。以下は昨年春、環境省で投げ込んだ資料から抜粋。)


安宅和人「“残すに値する未来” を考える」環境省 中央環境審議会 (April 1, 2022)

この項目は都市以外の「疎空間」(人口密度50以下の空間の意味)を例に考えたものだが、疎空間以外でも十分に参考になるだろう。

ちなみに、随分な数の疎空間をこれまで見てきたが、未だにかなりの単価のインフラ投資が、国や県の補助と巨額の借金で行われているケースが多い*9。が、これは相当にリスクの高いアプローチだ。インフラの維持費は、当然のことながらインフラ単価に依存する。しかし、維持費まで国や県が補助するケースはほとんどない*10。借金して作られた場合はもちろん自治体持ちだ。そして、この費用(借金返済とインフラ維持費)を受けるのは、いまよりも生産年齢人口が少ない未来の世代たちだ。

また、国や県からの助成金という名の下に行われる「都市からの輸血」がこれまでのように続くことは想定しづらい。人口調整局面が続く中、社会保障関連費用が急激に増加しており、いつまでもこれまでの額を維持できるわけではないからだ。上の建設・土木補助費などは地元の陳情を受けて、政治家の方々などが汗をかいた結果で、ほとんどが善意で行われているとは思うが、結果的に財政を見れば、相当に課題があるケースは多い*11


財務省「これからの日本のために財政を考える」(令和5年4月版)より抜粋編集
安宅和人 kaz_ataka tweetより(4:05 AM · May 20, 2023)

公共サービスサイドでのこの課題の解決には、かなりゼロベースでの思考が要求される。僕らの見解では、むしろやるべきことはより低廉で身の丈にあったスペックのインフラに作り直すことだ。道や上下水道のような土木インフラの場合、この刷新には最低でも数十年はかかる。ちなみに、この実現に必要な土木を、僕らは「ほぐす土木」あるいは「逆土木」と呼んでいる。なお、ほぐしている間、これまでに近い土木費用がかかり続けると推定されるが、世代が変わる頃には目に見えてメンテ費用が下がるはずだ。(三年前の以下のエントリを参照。9/15/2020付の「日刊建設工業新聞」での特別提言記事より許諾を得て転載)

(参考)
kaz-ataka.hatenablog.com

インフラの中でもサービス系の場合、提供アプローチも全面的に見直す必要がある。ここでデジタル技術やソリューションの出番だと思われるかもしれないし、実際その側面も大きいのだが、ただ単にデジタル技術を入れるアプローチは殆どの場合、答えにならない。

例えば、その地域の足である公共のモビリティについて考えてみよう。かなり意識の高い疎空間の集落で、無人の自動運転バスを実験していたりするが、このバスを動かし続けるだけでガソリンや電気代がかかり、しかもメンテ費用も馬鹿にならない。結果、赤字がただひたすら増える。そもそもバスでは答えにならないのだ。既存のソリューションの場合、現在国で議論になっているオンデマンドのライドシェア型で恐らく初めて採算が合うようになるだろう(ライドシェアモデルの場合、不採算の場合、乗るクルマ自体が現れない)。いずれもデジタル技術を使っているが、使うポイントが全く異なることがわかるだろう。まず大切なのは何でもデジタルを入れることではなく、そろばんを叩くことだ。

ps. 以前、拙著『シン・ニホン』にも書いた通り、教育やヘルスケアとなると更にサービス維持難度は上がる上、様々に大幅なメス入れが必要になる。この辺りは、現在、鋭意執筆している谷本を待って頂けたらと思う*12

(参考)
aworthytomorrow.org


連合艦隊旗艦「三笠」の羅針儀@宗像大社 The compass of the flagship Mikasa of the Allied Fleet @ Munakata Taisha Shrine, Munakata, Japan
1.4/50 Summilux ASPH, Leica M10P, RAW

今月の頭、武蔵野台地の南西*1にある東京学芸大学学芸大)で、『個別最適な学びに関する公開シンポジウム 第二回』に登壇した。学芸大師範学校を4つ束ねて作られたthe教員育成学校であり、東京高等師範を前身とする東京教育大が筑波大学に改組され、総合大学化したこともあり、今の日本の教育研究のセンター的機関の一つと言える。現在も卒業生1000人の半分以上は教員になられるという。学芸大副学長の佐々木幸寿先生、気鋭の大村龍太郎先生に加え、国の教育(人づくり)に関する議論の中核をなす中教審中央教育審議会)の委員を務められる堀田龍也先生(東北大)もご一緒だった。司会とファシリテーターは大谷忠先生、登本洋子先生が務められた。

https://www.u-gakugei.ac.jp/pickup-news/2023/11/1282.html

テーマは「個別最適な学びの時代における教育システムの課題とあり方」というべきもので、僕が3月に文部科学省の教育指導要領議論で投げ込ませていただいた話なども合わせ、自由に僕なりの視点を投げ込んでほしいというのが依頼だった。

あまりのキャパ不足で多くの講演や取材依頼をご辞退せざるを得ないような日々を過ごしているが、900人前後の教育関係者(県や基礎自治体の教育長レベルも含む)が日本中からオンラインで参加されるということであり、人づくりということであれば、未来に対する意味合いもそれなりにあるだろうと考えお引き受けをした。国交省のi-Construction議論の直後で、たしか直後も都心で会議というすき間の綱渡り的な登壇だった。

(参考)まだChatGPTの衝撃も冷めやらぬタイミングの今年3/24の文科省での僕の投げ込み資料はこちら
www.mext.go.jp

そこで僕から最初に話したのは、何ヶ月か前、とある北関東の山あいの中学校で、70名あまりの中学1~3年生に向けて質問した内容だった。

中学生の面々に対し、僕が問うたのは、

という二つの問いだ。

簡単に答えられそうな後者について、皆さんもちょっと考えてもらいたい。いつぐらいだと思うだろうか?

その時、中学生たちに聞いて帰ってきた答えは300~400年ぐらい前?という感じの答えだった。別のとある女性のリーダーが集まる会で話して、これを聞いたときは1000年前という声も出た。

僕がざっと調べた範囲だが、答えは、現在のG7での最古の例はおそらくプロイセン王国(現在のドイツの前身)の1717年9月末の一般勅令と思われる*2。フリードリッヒ大王の先代のフリードリッヒ・ヴィルヘルムI世によるものだ。

ただ、これは例外的に早い。ほとんどの主要国では以下のタイミングだ。

と140-170年前に一気に始まったことがわかる。日本は諸主要国と変わらない*3ことにも気づかれるだろう。1000年前という話についてだが、それはあくまで貴族階層に対する教育の話であって、皆教育には全く程遠いものの話だった。人口のほんのごく僅かを占める貴族層についての教育はどこの国でも古い。現在に全く連ならない形としてのギリシアのポリスなど古代ヨーロッパにおける教育というのもあるが、これは自由民と奴隷で分かれているような時代なので、全く今の皆教育とは程遠い。

(また現在「大学」と呼ばれている機関はこのブログでもかつて何度か少し触れた気がするが、少なくとも欧州では相当に古い。イタリアのボローニャ大学、フランスのパリ大学(ソルボンヌ)、英国のOxfordなど本当に800-900年前後の歴史があるが、これは高等教育機関というより学究の徒の集い、ギルド、あるいは世俗から離れた隔離集団というべきものであり(これを理由に納税の義務などを免除してもらっていたと思われる)、初等教育中等教育とは全く独立に生まれたものであり、本来接続すらされていないで存在していたものだ。なので中世などで10歳そこそこで大学に入った人などが出てくる。大学の自治という概念はここから始まっている。)

約200年ぐらい前まで、日本を含む世界の大半には現在における国民国家(nation state)という概念が殆どなかった。あったのは、巨大な領地を持つ領主、領主を生む母体としての貴族層が僅かに、教会や寺社に属する聖職者階層が少し、大多数はそこにいる領民たちという関係性だ。この領主たちの盟主*4が王であった。いわゆる封建制度だ。日本も藩主という領主がいて、そこに大多数の領民たちがいたという図式は同じだ。武家政権が支配していた鎌倉から江戸までは、(秩序が崩れた戦国時代を除き)盟主はミカド(帝/天皇)から権威を授けられた将軍だった。別の藩(国)に行くときは手形が必要だった。

フランスやロシアではこの領民たちの多くは農奴(serf)と呼ばれ、ろくに教育もされなかったことをご存知の人もいるだろう。ロシアではその結果、キリスト教を布教するためにイコン画が発達した。聖職者しか読めない聖書を誰にも解き放つということをやったのが、グーテンベルクの聖書印刷に引き続く、ルター等によるプロテスタント革命と考えられる。

農奴は、精選版 日本国語大辞典 によれば「ヨーロッパ封建社会の隷農。厳密には古典荘園の農民、一般的には封建社会の大部分を占める農民をさす。領主が貸与する保有地を耕し、領主に賦役、現物地代の他に人頭税相続税などを納める。再生産に必要な生産物の取得は認められるが、土地・財産の処分権を持たず、土地にしばりつけられ、領主裁判権に服する」というものだ。

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なぜこのタイミングで学校制度、義務教育制度が一気に始まったのかといえば、これには相当に複数の伏線がある。わかりやすいヒントとしては、プロイセンで皆教育を開始したフリードリッヒ・ヴィルヘルムI世は軍人王、Soldatenkönig、とあだ名された、ということがある。これだけで歴史に詳しい人はなぜこのようなものが生まれたのか察する人もいるだろう。

ja.wikipedia.org

ちなみに学校設立は途方もなくコストと手間、社会負荷がかかる行為だ。しかも一気に立ち上げる場合は教員そのものがいない。ちょっと計算すればわかるが、どのように小規模で小学校を作ろうとしても10人近くの教職員が必要だ。仮に年600万円の給与だとしても、社会保障費やその他諸々で平均一人1000万円前後は見込む必要があるだろう。校舎の設立、維持費も相当の金額であり、一つの学校を維持するだけも年に1億を超える出費が発生する*5

これを一気に例えば明治でやったことは本当に偉業と言える。当時の貧しい国家財政では到底容易にできるような代物ではなく、本当にその頃の苦心は想像に余りある。国や県の補助では足りない中、土地の有力者たちがこぞって賛助して校舎を建て、土地の識者な方々に先生になっていただいた。並行してカリキュラムを用意し、教材を用意した。涙が出そうなほど大変な行為だ。古い小学校を見るたびに、その設立者たちの思いには本当に頭が下がる。

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話を戻そう。

僕の理解では「義務教育的な学校」が生まれたざっくりとした背景は以下のようなものだ。

数世紀前からの大航海時代に始まる「現代的な事業体」の誕生、18世紀後半からの産業革命を受け、各国で中産階級(貴族以外の有産階級)がどんどんと育ち始める。フランスではブルジョアジー、英国ではジェントリーと呼ばれた人たちだ。中産階級は領土を持たないにも関わらず一定以上のお金と力を持つ人達だ。日本での士農工商の「商」に当たる人たちだ。この方々の登場により、これまでの特権階級である王族・貴族階級、聖職者階級にもう一つのクラスが生まれ、それが三部会を生み出し、フランス革命につながる。その意味で、貴族がほとんど見えなくなっている今の社会は、(プチ)ブルジョアジーとそれを目指すブルジョア予備軍を中心とした社会と言える。

また同時期にルソー(1712-1778)のような革命的な思想家が生まれる。それなりレベルの人が集まる場の講演でも「要約とか解説書ではないルソーの『社会契約論』を手に取った人は?」と聞くとほとんど手を挙げる人はいないが、チャンスがあれば一読をおすすめする。衝撃的なほど明晰な一冊であり、焚書処分*6になったことは知る人ぞ知る事実だ。

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

同書は

と述べるが、近代国家という概念、前エントリのコモンズの議論はここから始まると言って良いのではないかと思う。王や貴族の権威を王権神授説や「血の高貴さ」では説明できなくなったルネサンス後の時代において、新たな考え方が求められたという意味でだ。

kaz-ataka.hatenablog.com

これらの流れがフランスで王政を倒し、共和国を生み出し(周りが王国だらけなので、非常に危険国扱いされた)、現在の「国民国家」の原型が生まれる。そこから、傭兵による戦力ではなく、国民意識を持つ人たちによる戦力を持つ国の力がずっと高まり、国民国家化の流れが一気に顕在化する。並行して、帝国主義が一気に進む。その延長に清(China)との貿易の中継基地、そして捕鯨の基地を求める米国*7武装した蒸気船が浦賀の沖合に現れるという「黒船来航」が極東の日本でも起きる。

この流れで

  1. 国民国家的な意識を高める、、国家の理念、〇〇国民という理念
  2. 言葉を統一し、一定の価値観を定め、共有化する
  3. 産業革命後の社会、国民国家における軍隊において有用な読み書き算盤の能力を持つ人を一気に育てる

必要が発生し、重い腰を上げて一気に立ち上がったものが義務初等教育と言える。中等教育(secondary education; 日本における中学及び高校)はかなりの贅沢なものであることもこれからわかる。社会に出る前に更に付加的な教育を行うというものだからだ。欧州における古典時代や中世では、中等教育は教会によって貴族の息子や大学や聖職の準備をしている少年に提供されていただけだった。

大学に行く人は21世紀前半の今でも半分程度しかいない。日本で高校と呼ばれる後期中等教育は必ずしも大学に行くためのステップではない。基本、社会に出る前のreadinessを十分に高めるのが中等教育の役割だ。

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以上の話からわかるのは、初等教育中等教育を行う小中学校(及び高校)は恐ろしく歴史の短い仕組みであり、そこで教える教員というのは恐ろしく歴史の短いすごくモダン、現代的、な仕事だということだ。ホモ・サピエンス史を仮に20万年とすれば*8 そのうちの200年(1/1000)に足りないようなものであり、99.9%はこのようなものはなかったと言える。

氷河期以降の過去1.2万年をベースとして考えたとしても、1/60(1.7%以下)にすぎない。エジプトの農耕には少なくとも1万年の歴史があり、これにまつわる農民はもちろんその頃から、その道具を作る職人たちもその頃からの仕事だ。NYのメトロポリタン美術館に13000年前の布が展示されているところをみると、大量栽培に必須となる灌漑などに関わる農耕エンジニアは10000年は歴史があるだろう。エジプトの都市が生み出したピラミッドは紀元前2630年頃の古王朝時代第3王朝から建造が始まったと推定されることに基づけば、農耕以外の土木に関するエンジニアも5000年レベルの歴史がある仕事と考えられる*9。様々な職人が4000年前にはいたことは、エジプト、ヒッタイト、古代Chinaの遺跡から明らかだ。

つまり義務教育における学校制度や学校の先生は時代の要請によってわずか150年ほど前に唐突に生み出された仕事であり、時代の要請を踏まえて見直すことは当然だということだ。

これを僕はこの学芸大でのシンポジウムの比較的冒頭でお話したのだが、そのあと、堀田先生が率直におっしゃったコメントが実に印象的だった。「我々教育関係者の議論で、時代局面について議論が行われることはまずない。時代がどう変わろうと大切なものがある、という議論がほとんどだ」ということだった。

僕はこの冒頭の話を皮切りに、時代局面についての僕なりのperspectiveをいろいろに述べた。それを踏まえ堀田先生は「学校教育の歴史は高々150年程度に過ぎない。学校というものの再定義が必要ではないか」とおっしゃられたのだがまさに大賛成だ。

時代局面として述べたのは、AI×データが突きつけている話だけでなく、最近本ブログでも書いた人類の二つの大きなチャレンジ、すなわち、地球との共存と、人口調整局面のしのぎ方とそれらの意味合いだった。

kaz-ataka.hatenablog.com

みなさんはどう考えられるだろうか?

ps. 参考までに、3月の文科省での投げ込みから一枚共有しておければと思う。


Munakata Taisha Shrine, Munakata, Japan
1.4/40 Summilux ASPH, LEICA M10-P

この間、web3の世界的なメディアであるCoinDeskの日本版を運営するb.tokyo (N.Avenue) のYear End eventがあり、成田修造さん、川崎ひでとさんと登壇した*1

「Year End Party / CoinDesk JAPAN・btokyo」開催しました!
Special Sessionでは、貴重なご登壇者の皆様のお話を聞きながら、時には笑いもあふれ、2023年の最後を飾る素晴らしい時間となりました。
セッション後のパーティーでは、btokyo… pic.twitter.com/pEIZbV5Vo7

— CoinDesk JAPAN (@CoinDeskjapan) 2023年12月21日

「生成AIとweb3が引き起こす日本のビッグシフト」という少々スパイシーかつ「生成AI」と「web3」ってそもそも関係あるのか?ぐらいのお題だったのだが、実に楽しく一時間あまり議論をした。

最初に衆院議員かつ自民党web3 PTメンバーの川崎さんから昨今のweb PT界隈のお話があり、そこから修造さんのキレキレの差し込みと問いかけを軸に一気に盛り上がったのだが、b.tokyoの集まりだけにweb3をどのように見て、どのように展望するかというのがひとしきり議論になった。(あと一つまとまって話をしたのはAI/LLMのプラットフォームゲームの考え方の話だったが、それについては昨日まで、何本かまとめたのでそちらをご覧いただければと思う。)

kaz-ataka.hatenablog.com

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僕からまず話をしたのは、crypto(web3的な暗号資産)はまるでゴキブリのように決して死なないというThe Economistによる"暗号資産ゴキブリ理論"(the cockroach theory of crypto)。同誌によれば、いくつかのcrypto tokenは少なくとも2つの理由で存在意義がある。第一にcryptoを持つということは「この技術が広く使われる未来」に対する賭けである。第二に繰り返しの波の中でcryptoは1630年代のチューリップのようなバブルではないことが明らかになってきた。ビットコインを見ると確かに浮き沈みは大きいが全体としては山脈のように見えると。

www.economist.com

その上で、web3の議論には、3つの大きなvalue proposition(価値提供)、期待されている役割の塊があり、それぞれは多少連関し合うが、別々に考えたほうがいいのではないかという話をした。3つというのは

  1. アセット保持
  2. DAO&トークン(いわゆるトークンエコノミー)
  3. ログイン・認証の仕組み

だ。ビットコイン(BTC)/イーサリアム(ETH)に代表されるいわゆるcrypto-currency(暗号通貨)は1にあたる。資産目的でアートなどに紐づくNFT*2を持っている場合もこれに当たるだろう。既存の通貨変動にさらされることがなく、既存の金融システムに依存しておらず、国を超えることが容易という強みがある。とはいえ、利用する場合には実際のcurrencyに落とし込む(換金する)必要がある場合がほとんどであり、その価値についてもリアルの通貨や金などと連動させて(ペグして)stable coinで保有していればよいが、そうでない価値創造もアルゴリズムに依存したBTCなどのcryptoで保有している場合、相場性がかなり高いためにvolatile(揮発性が高い:価値が安定しづらいの意味)という課題がある。

2は馴染みのない概念の人も多いと思うが、これこそがweb3の一つの本質というべきもので、実はcryptoすら立ち上げ段階ではある種のこれと言える。DAO(Decentralized Autonomous Organization 分散型自律組織)はなんらかの志を持つ人が集まり、そこに何らかの寄与をすると貢献に応じてトークンをもらう。その活動が十分に価値がある状態になると、その一部が市場で売買されるようになる。するとこれまでの貢献の証として幾ばくかのトークンを持っている人がトーク保有を通じ経済的な価値を得るようになる。これまで人類が共同して何かをやろうとしたときのシステムの進化を考えれば、志から始まり、お金以外の貢献もきっちりと扱うことができるという点で実に画期的なものであり、お金をとりあえず集めて始めるこれまでのアプローチ(図を参照)とはかなり異質といえる。



安宅和人「“残すに値する未来” を考える」環境省 中央環境審議会 (April 1, 2022)

しかも、共通の目的のためにお金を集める必要がある場合、脅威のスピードで多額の資金を収集することが可能だ。2年前、米国の合衆国憲法の原本を守る(競り落とす)ためのConsititution DAOの場合、わずか一週間で50億円以上のお金を集めた。これはスタートアップの場合、シリーズCぐらいまでいってもようやく集まるかどうかという規模のお金であり、これほどのスピードでお金を集められる仕組みはこれまで存在しなかった。

www.coindeskjapan.com

DAOが発行するトークンのうち、DAOの意思決定に参与できるものをガバナンストークンというが、12/23/2023現在、すでに価値が発生しているトップ100を集めた総額は777億ドル(約11兆円)とそれなりの規模だ。

www.coingecko.com

3もピンとこない人が多いかと思うが、結構クリティカルな用途(use case)だ。いまのインターネットワールドはweb1(例:ポータル、ニュース、検索、EC)とweb2(例:ソーシャルとCGM)が混在しているが、問題はこれらは膨大な数のIDとPWを組み合わせてようやくログインできる代物だということだ*3。またそれだけ煩雑でありながら、本当のところ認証としてどこまで強いのかといえば正直微妙であり、世界中の会社やPFはマルウェア、フィッシングなど様々な攻撃手段を介した流出リスクに相当に晒されている。

web3によるログイン・認証というのは、かなり頑強なKYC(know your customer 顧客認証 *4)を組み合わせた、web3のウォレットシステムによって認証/ログインを図ることでweb1/2やリアル空間のイベントすら入れるようになるということだ*5。PWフリーの世界が生まれうるということであり、便益としてはとてもクリアだ。

web appはわかりやすいと思うので、イベントの場合をより具体的に言えば、ブロックチェーンやデジタルアイデンティティ、NFTなどのWeb3の要素を活用して、イベント参加者の身元確認やチケット所有の検証を行う方法であり、典型的には以下のようなプロセスを取る。

  1. デジタルチケットの発行: イベント主催者は、ブロックチェーン上でユニークなデジタルチケットを発行。これらはNFTとして作成され、各チケットは譲渡可能でありながら、独特な所有権の記録を持つ。
  2. チケットの購入と所有: 参加者は、これらのデジタルチケットを購入し、自分のデジタルウォレットに保管。ブロックチェーン上でのトランザクションを通じて、チケットの所有権が確実に記録される。
  3. イベント入場時の認証: イベント当日、参加者はそのデジタルチケットをデジタルウォレットから提示。イベントスタッフはブロックチェーン上でそのチケットの有効性を確認し、入場を許可する。

このシステムは、既存のシステムでは困難なチケットの転売防止、偽造防止、参加者データの安全な管理など、追加的な利点を提供することもできる。このようなシステムは、イベント参加の透明性とセキュリティを高めるために有用だが、課題としては、実装には特定の技術的な知識とインフラが必要であり、参加者がデジタルウォレットやブロックチェーン技術に慣れていることも前提となる。

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これを踏まえた上で、現状と今後についてどう思うか聞かれたので、僕から答えたのは、こういうことだった。

昨今、社会インフラレベルの変革になっているAI/LLMに比べれば確かに1/100ぐらいしか話題になっていないが、web3の価値にはかなり本質的な部分がある。

とはいえ1の用途がガンガンに日本に立ち上がる時は相当に政情不安で、通貨に対する信用がなくなるときなので、あまり望ましいときだとは思えない。政情不安な国の人達の場合、これらを保持するアカウントの保持率は相当に高い。Statisticaによれば 、2023年段階で日本での保有率は6%だが、ナイジェリアやトルコでは47%だ。ただ、そういう状況が万一発生したら、日本でも当然みんな一斉に持ち始めるだろう。

3は本当はぜひ進んでほしいが、b.tokyo/CoindeskのイベントすらQRコードの世界であり、自民党web3 PT*6でなげこみに行かれているメンバーでもwalletでリアル会場に入ろうとしている姿を見たことがない(そういう受付をしているイベントがまだそもそも殆ど無い)ことを考えればまだまだ相当に遠い気がする。まずはweb1/web2側でのログイン刷新から進むべき。

本丸は2。志を形にすることができるという意味で大変に尊い。Market capによる価値創造は、web3以前に生まれたすべての価値創造システムの中でもっともΔ環境負荷/Δ価値創造が小さいと思われるが*7、それよりも環境負荷が低い可能性が高い。Cryptoのような莫大な計算も要しない。前エントリで書いた通り、地球との共存は我々にとって必須であり、同時に経済の流れを止めないためにはこのトリックはかなり大切になる可能性が高い。


安宅和人「“残すに値する未来” を考える」環境省 中央環境審議会 (April 1, 2022)

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現在の僕らの抱えている問題の多くは、ある種のコモンズ問題だという見方ができる。昨日書いた「地球との共存」問題にせよ、「人口調整局面のしのぎ方」にせよそうだ。この絡みで2年ほど前、孫泰蔵さんと安田洋祐さんとの間でかなり盛り上がった話をここで少し共有したい。

kaz-ataka.hatenablog.com

コモンズ(Commons)というのはみんなの共有資産というような意味で、道や公園、役所、空気や海・川などは典型的なコモンズだ。個人が土地を持っていると言ってもそこで何をやってもいいということはなく、かつてのカルト集団のように謎の施設を立てて毒ガスなどを製造し始めたりすることは当然のことながら許されない。静かな街で爆音でスピーカーで奏でることももちろん許されない。景観的に破壊的なものを立てることも、外に見える限り許されない。そういう意味では個人所有の土地すらコモンズ的な性質がある。

とはいえ、海辺を見るとよく分かるが、コモンズで起きやすいのは、誰も見ていないから何をしてもいいというか、ゴミなどを平然と捨てたりする行為だ。864年の貞観噴火*8が生み出した富士の樹海(青木ヶ原樹海)も産業廃棄物(産廃)の不法廃棄問題が話題になって久しい。

コモンズの悲劇(tragedy of the commons)はこうやって起きる。Wikipedia的には「牧草地のような有限で貴重な資源を多くの人々が自由に利用できるようになると、彼らはその資源を過剰に利用するようになり、その価値を完全に破壊してしまうことになる。自制することは個人にとって合理的な選択ではない。もし自制すれば、他の利用者に取って代わられるだけである」ということだ。

en.wikipedia.org

「この回避をなんとかpunishment(罰金、刑、犯罪公開など)による抑制をミニマムでやれないだろうか?」というのが、ここで答えを出すべき問いだ。

ここにDAOとtokenのしくみは生きる可能性がある。これまでのコモンズのように誰でもというより、クラブ的な利用ということにし、これまでのコモンズのようにタダ乗り可能なのではなく、多少の目こぼしはあるが原則タダ乗り不可な領域に持ち込めるのではないか、ということだ。貢献をインセンティブにする仕組みとして回すことによって、自発的により良い空間を作っていく動きが広がり、コモンズの価値が維持されてしかるべきということだ。そのためにはコモンズの価値を可視化し、それをrewardとしてトークンを発行していく仕組みがいるが、その設計さえうまく行けば、どんどんと良くなる空間価値をうまく作っていけるのではないだろうか?これを僕らは暫定的に「シン・コモンズ」と呼んでいる。


資料:安宅和人 tweet 3:07 AM · Feb 13, 2022

実はそれをこの2年あまり、風の谷を創る運動論で検討しているがまたおいおいと紹介していこう。

ps. 本登壇についてかなりまとまった記事が上がったのでご紹介したい (as of 12/27/2023 17:58)
www.coindeskjapan.com


出雲・稲佐の浜(令和5年 神在月
Inasa-no Hama (Inasa Beach) in Izumo, Japan during Kami Ari Zuki (The Month of the Gods' Presence) in 2023.
1.4/50 Summilux ASPH, LEICA M (Typ 240)

もうかれこれ4~5か月前、旧知である新メディア"Pivot"の佐々木紀彦さんと竹下隆一郎さんから熱烈なご相談があり、9 quesitonsという番組に出たことがあった。70分1本勝負で一気に収録したが、そこで僕が言ったことの一つは「みんなAIの話ばかりをしすぎている。人類にとって大きな2つの課題があり、それをこそ解決すべきであり、AIだとかデータはそのためのツールとして使うべきだ」という話だった*1

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その二つの課題とは「人類と地球との共存」と「人口調整局面のしのぎ方」だ。

2001年の911の直後しばらくは人類の抱えている最大の課題は明らかにテロだったと思うが、20年あまり経ったいま、我々が深刻な脅威だと捉えているのはパンデミック地球温暖化だ。この2つは当然前者の「地球との共存」問題そのものであり、それに伴う気象災害の甚大化、それに伴う植生の変化、農作物栽培の困難化などもすべて「地球との共存」問題と言える。

日本で「少子高齢化」と言われている話は後者の話で、これはかつて拙著『シン・ニホン』で触れ、更に以前ブログでまとめた通り、豊かさに伴うなかば必然的な話であり、複数の論理的な理由によって全世界的に進んでいる話でもある。世界の先進国でこの問題を多かれ少なかれ抱えていないところはほぼいない*2。1960年には6近かったインドの特殊出生率は昨年2.1を割り、2を割るのは時間の問題だ。一人っ子政策を取ったChinaを除き、大半の主要国はずっとゆっくりと下がってきたので、この低下はChina以外のどの主要国よりも速いスピードの可能性がある。

kaz-ataka.hatenablog.com

Total fertility rate in India, from 1880 to 2020 (from Statistica)
https://www.statista.com/statistics/1033844/fertility-rate-india-1880-2020/

(なお、ウクライナとロシア、パレスチナイスラエルのような地域間の紛争はどうなんだと言われるかもしれないが、どの時代もある程度はあるので時代性のある問題ではなく、人類にとって慢性的な問題と言える。)

これらの2つのグローバル課題はある種のレジリエンス問題に集約される。

「地球との共存」問題は、最大限の温暖化抑制の努力をすることは必須と言えるが、本当に正直に目の前にある事実を向かい合うと、当面の間、オーバーシュートして深刻化することがほぼ確実だ。

これについては、全体としての経済成長を少しは行うなかで*3、経済活動の中で抑制努力をする割合が徐々に増えていき、抑制効果が上がっていくというような簡単なモデルを作っただけでほとんど明らかといえる。抑制努力をしなければそれが長引くだけであり、それはちょっと受け入れがたいので僕らは全力で頑張ろうとしている、というのが今の状態と言える。

抑制努力とは、一人あたりの環境負荷環境負荷/人/年)を下げることであり、それは結局、活動量を減らすというより、経済活動、新しい富あたりの環境負荷環境負荷/Δ富)を劇的に下げることを意味している。内燃機関のモーター化、暖房のヒートポンプ化、青色ダイオードによる光源の消費電力抑制、データセンターの機械学習による消費電力抑制などはすべてこの流れにあることはいうまでもない。

つまり、野生とのぶつかり合いを大きな根源とするパンデミックはより起きやすくなり、温暖化に伴う熱波や巨大な台風、高波の発生は起きやすくなる。その結果、作物は不作や壊滅的な打撃を受ける可能性は高まり、夏の高温乾燥に伴う山火事は増え、植生の変化に伴い森の一時的な荒廃と新しい気温や降雨条件に伴う遷移が進む。また、気温が上がることに伴い木々の呼吸量が上がる一方、光合成の量は頭打ちするため森のCO2吸収量は減る*4。これが更に相乗的に温暖化を進める。

この状態でも人類は生き延びる必要があり、これはまさにレジリエンス課題そのものと言える。レジリエンスは、変化に対する対応力であり、復旧力という意味だ。レジリエントな存在としてはゴムをイメージしてもらえたらいいのではないかと思う。押しても戻り、歪んでも戻る。押したぐらいでは壊れない。頑強なものは壊れるが、レジリエントなものは壊れない。

ちなみに国家強靭化ということばがあるが、このもともとの言葉はNational Resilienceだ。数年前、国のデジタル防災未来構想WGの検討で知り*5、翻訳の違和感が相当にあったことをよく覚えている。

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人口調整局面問題については、これまでのG7国の人口の変遷がどのようなものであったのかを見てみることから始めてみよう。1800年を起点に考えるとイギリスの人口は約5.5倍に増え、日本は約4倍に増えた。移民国家アメリカは50倍以上に増えた。この人口増大はかつてマルサスやローマクラブが警鐘を鳴らした通り、人類史上相当に歪(いびつ)なものであり、「人類の地球に与える環境負荷 = 人口 x 一人あたりの環境負荷」というシンプルな数式に基づけば、これが「地球との共存」問題の本当の元凶の一つと言える。もちろん一人あたりの環境負荷が爆発的に上がってきたことのインパクトは大きく、その問題も上述の通り同時に解決するべきではある。

これを見て思うのは、おそらく人類は200年あまりかけて増えてきた人口を、同じぐらいの時間をかけて産業革命前の値に戻す人口調整局面にあるのではないか、ということだ。それまで以上に一時的に下がる可能性もないとは言えないが、長らく続いてきたレベルに戻れば流石に安定し始めるのではないだろうか。(これはそれなりに検討が必要であり、ある程度まで来る前に手を打ち始める必要があるが、地球との共存問題が当面喫緊のため、この状況改善に寄与するこのトレンド自体は今はめくじら立てるべきではないと考える。)

ただ、この人口調整局面ではかなりの深刻な問題が大量に噴出する。それは例えば、会社がほしいと思った人の数が取れないということから始まり、僕が「風の谷検討」でよく見ている疎空間*6であれば、郵便局や役所のような基本機能すら人がいなくて維持できなくなるという問題でもある。もっと深刻には、道や橋梁だとか上下水道、食料供給の要である灌漑網、電力網、ゴミ収集と処理のような社会の基盤をなすインフラがこれまでのようには維持できなくなるということであり、あまりまくる家だとかビルの廃屋の処分すらやる余力がなくなるということでもある。森も荒れ果て、田畑も荒れる。既存の生産年齢人口の生み出す余剰で回すことを前提としているヘルスケアシステムや年金機構も回らなくなる。

これをどのように少しの人口で回せるようにするか、この過剰インフラ問題をどのように解決するかが極めて深刻な課題として全世界的に噴出する。それが先程のべた地球との共存問題が深刻化する中で起きる。これについての答えを誰が出せるかが大きな課題であり、これもまさにレジリエンス問題であると言える。

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岸田首相の掲げられた「新しい資本主義」の本質は「環境負荷の下がる経済成長」であるべき、とかつて本ブログでも書き、環境省の審議会でも訴えたが、以上を踏まえるとそれでは足りない、刷新すべきだということになる。「新しい資本主義」の本質は「環境負荷が下がる経済成長」であるとともに、「レジリエンス力を高める経済成長」であるべきだ。

(参考)
kaz-ataka.hatenablog.com

安宅和人「残すに値する未来を考える」中央環境審議会総合政策部会(June 30, 2023)
https://www.env.go.jp/council/content/i_01/000144270.pdf

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このところ、週に何度か登壇、もしくは取材を受けることが続いているが、毎回聞かれることが一つある。それは「AI、特にLLM(large language model 大規模言語モデル)の世界において、グローバルな巨大なプレーヤーたちがガンガン進める中で日本がなにかやれることはあるのか、日本はどうしていったらいいのか」という問いだ。

あまりこの話に馴染みのない方のために簡単にまとめておくと、AI/LLMの世界には、China勢を除くと現在3+1の大きな勢力がある。

  1. OpenAI & Microsoft(MS)陣営
  2. Google(Alphabet) & DeepMind陣営
  3. Meta陣営
  4. xAI陣営

OpenAIはGPT、そのアプリであるChatGPTの開発会社として皆さんご存知だろう。Windows/Officeを抱えるMS社は一兆円以上のコミットメントをし、共存する強大なパートナーだ。Copilotの推進も急激に進めている。

openai.com

AlphaGoをうみだしたスーパーブレイン集団のDeepMindGoogle陣営に加わって久しい。彼らはアミノ酸配列から、相当精度でタンパク構造を予測するAlphaFoldを数年前に発表(ノーベル賞複数個ぐらいの価値があってもおかしくない)。様々な分野に大きく影響を与え、膨大な計算力をこれまで要してきても精度が上がらなかった天気を、わずか1分で10日先までかつてないほどの精度で予測するGraphCastを先日発表。また最近、深層学習の力で全く知られていない数百万の物質も予測した。Google自体もBardを驚くべきスピードで立ち上げたことは多くの人がご存知のとおりだ。最近では多少物議を醸したGemniというマルチモーダルなモデルも打ち出している。

deepmind.google

Facebookinstagramという巨大なsocialプラットフォームで知られるMeta社は、ヤン・ルカン(Yann André LeCun)氏というAI界のグルの一人を抱えているが、今年、Proprietaryで非オープンなAI/LLMモデルの世界にLlama2という名のオープンソース型のGPT3.5程度のモデルを発表。なんと7億人の月間アクティブユーザ(MAU)までの会社、サービスはローカル端末でも自由に使って良いというゲームに一気に振り込んだ。結果、界隈ではカンブリア紀の大爆発みたいな状況で盛り上がっている。

ai.meta.com

そこに横から殴り込んできたのが、Elon Musk氏率いるxAIチームで、ElonのカリスマによりDeepMind, OpenAI, Google Research, Microsoft Research, Tesla, the University of Torontoからの才能が集まったチームにより立ち上がり、11月にわずか4ヶ月ほどでGPT3.5相当のモデルを発表した。いずれXの有料ユーザにサービスが公開されると推定される。(xAIについては取材している人自体が気づいていないケースが多い。。)

x.ai

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この4陣営がいる中で僕らはどうしたらいいのかというのが、僕が繰り返し受け続けている問いだ。

これについて僕が答えているのは、こんな話だ。*7

このデファクトを巡るゴジラキングギドラみたいな戦いに、世界の最前線で僕らが参加できるかといえば、日本にはその体力(大量データ、計算基盤、札束、年単位で戦える持久力)と最前線レベルの才能を十分に集めたプレーヤーは残念ながらいない。仮に体力があったとしても、xAIがやってきたように希少な世界トップレベルの経験を持つ才能を限られたグループから集めて戦う必要があるが、その求心力をもつ場やプラットフォーム(PF)もない。*8


from State of AI Report Compute Indexより (as of 12/23/2023)

かつて大量データ (big data) は新しい時代の原油だという話があった*9。今も大量データはLLMのような新しいAIを育てていることから分かる通り、それほど間違っている訳では無い。同様に、この新しく生まれているインフラ、LLMもあたらしい原油というか社会インフラの一つのように思う。なぜなら、人間が自分たちが最も馴染みのある知的生産のツールである自然言語で計算機と直接やり取りできることの価値は図りしれず、今後の社会はLLMを前提で動く可能性が高いからだ。

ただ、原油がないと僕らが食っていけないかといえばそれは全く違う。80年ほど前、僕らの国も文字通り「原油」がないために実に厳しい戦争を行い、そして完全に敗戦した。だが、その後、この国の歴史上、最もと言っていいレベルで発展した。原油を得たからか?そうではない。日本は一度も石油メジャーの一角に絡むこともできないままで、いまでも原油を抑えているのは石油メジャー、サウジアラムコなどのままだ。ではなぜ繁栄に成功したのかといえば、この国が生み出した多くの起業家たち、商品やサービスたちが、全世界的に本当に大切な課題解決をしたからだ。

世界の人にaffordableで安全安心なクルマを届け、世界の人に正確でaffordableな時(とき)を届け、世界の人に優れた音声と画像を届けた。東アジアの女性たちに安心して寄り添ったunderwearや、美しくありつづけるための武器(cosmetics 化粧品)を届けた。

これからも同じだ。原油レベルのインフラを仮に僕らが持てなくとも、世界的に大切な課題をしっかりと解決していく、そのために新しい技術やインフラを使い倒す、それが僕らに求められていることであり、それこそが世界に対して僕らが貢献していく道なんじゃないか、ということだ。

僕らはリアルワールドのリアルな課題にちゃんと向き合って、新しい様々な技術を使って解決していくべきであり、これは以前から話をしている「物魂電才」の話そのものと言える。リアル(実)に向かい合うという意味で、「実魂電才」というべきかもしれない。

先に述べた通り、リアルにこれから来る地球との共存、人口調整局面のしのぎ方というレジリエンス課題は相当に明確だ。

僕が子供の頃、毎日、再放送で見ていたアニメに『宇宙戦艦ヤマト』という作品があった。災厄系のヒーロー物語は多いが、これらの作品を見ながら、これほど強烈な状況の世界に生まれていたら、自分たちもヒーロー、ヒロインになれたのに、と思っていた子供は少なくないはずだ。それの1/1000ぐらいかもしれないが、今まさにそれに近い世界が来ている。

僕らが羽ばたける世界はいま十分に広がっている。

ps. 先週書いたブログエントリ通り、LLMはGUIやマルチタッチスクリーン(スマホほか)と同様、全く新しい知的生産のインフラと考えるべきものであり、その周りで大きな変化と富を生み出す可能性が高い。かつてSteve Jobsが新しい発表をするたびに僕らが固唾をのんで見守ったように、OpenAIやDeepMind/Google、Metaらが発表する内容を楽しみに待ちつつも、その上で新しい仕掛け方を考えていくのが、ほとんどのプレーヤーにとって生産的なのではないだろうか?

kaz-ataka.hatenablog.com

ps2. 本ブログの続き的なエントリを書きました (12/30/2022)。かなり重要な話をしているのでこちらも良かったらどうぞ。

kaz-ataka.hatenablog.com


Summilux 1.4/50 ASPH, Leica M10P @Chinkokuji Temple, Munakata, Japan

昨日のLLM(large language model 大規模言語モデル)議論の続きをもう少し書いてみようと思う。

kaz-ataka.hatenablog.com

DS協会のスキル定義委員会ではIPAと協働し、2年に一度、データサイエンティストのスキル標準を見直し、改訂版を発表している*1。今年は奇しくも改訂年だったのだが、この春、わずか数ヶ月前に華々しく登場したChatGPTを目の前にしつつ、生成AI領域においてデータ×AIプロフェッショナル(データサイエンティスト DS)の場合、求められるスキルはどうかわるのか、という議論を随分とした。


データサイエンティスト協会 10thシンポジウム スキル定義委員会発表資料(2023年10月20日)

生成AIは、音声や顔画像のような情報の識別を行うAIではなく、学習した結果を使って、与えた情報に近しい情報を紡いで、形、言葉、音楽などを生み出すAIのことだ。LLMだけでなく、Deepfakeを生み出したGAN*2や、拡散モデルに基づき様々な言葉をイメージにしてくれるmidjorney, DALL·E 3などもそれに当たる。

ちなみに随分以前(7年前)のブログエントリで書いた通り、AI(artificial intelligence 人工知能)はあくまでイデア*3であり技術では定義されていない。判断を伴う情報処理を自動化したものはすべてAIであり、10年近く前に松尾豊先生と話した記憶があるが、サーモスタットですらある種のAIと言える。機械学習(LLMを生み出した深層学習もその一つ)や自然言語処理技術がなくてもAIなのだ。とはいえ完全に自動化されると人はAIと呼ばなくなる傾向がある。テスラに乗ると、リアルタイムで周囲のクルマ(車種タイプも)やポールを認識していることに驚くが、これとてもまもなくAIだと誰も言わなくなるだろう。DeepLも驚異的な翻訳力を誇るが、自動翻訳、機械翻訳と呼ばれるだけでAIという人は遠からず少なくなると思われる。

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話を戻そう。僕ら、スキル定義委員会、の結論は、プロのDSにとって生成AIが使えるかどうかはイシューではなく、企画する力、作り・実装する力こそ問われるものになる、従来のDSスキルに加え、AI利活用スキルというべきものが必要になる、というものだった。ほとんどだれでもつかえるのが生成AIの特徴だからだ。詳しくは発表資料を見て頂ければと思うが、一部抜粋しておこう。




データサイエンティスト協会 10thシンポジウム スキル定義委員会発表資料(2023年10月20日)

(なお、プロに求められるAI利活用力のメインである「企画する力、作り・実装する力」は相当にディープであり、背景理解の上、ビジネス課題、あるいは夢を形に落としていく力が求められる。たとえばイーロンみたいなワイルドで面白い創業者がやってきて、色々夢を語ったときにそれを形にするイメージが持てるかということだ。ほとんどの人にないarchitect的なスキルだが、こここそが事業やサービスを形にする肝であることは明らかだ。その上で、当然のことながら、各モデルをfine-tuningを含めて利活用でき、on-goingで状況がどんどんと変わる中、技術、倫理、推進課題を現場で解決していく力も必須と言える。具体的には、上のリンク先、及び、本稿の最後にリンクのあるスキルチェックリスト、タスクリストをご参照)

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したがって、ほとんどの人にとってもLLM*4が使えるかどうかはイシューではない。Promptingと呼ばれるChatGPTへの指示の出し方についての特集記事が、コンビニに並ぶ雑誌でもよく組まれているが、ある種の茶番とも言える。言葉であれば、誰だってそれなりに使えるに決まっているからだ。その上、使い方自体をChatGPTに聞けばそれなりに教えてくれる。*5

曖昧にしか指示ができない人と、ちゃんと指示できる人の違いが、またしてもここで問われている。結局人にものを頼むときと同じ問題がここでも生まれているということだ。空気を読んで行動しろよ、というような日本的な振る舞いというか行動規範と、この言語化による指示出し(prompting)は相当に乖離しており、LLMの登場により、ついに言語化能力があまり高くないと思われる方々の言葉にする力が高まる時が来ているという見方もできる。

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人間の知性は概ね、言葉のハンドリング能力、ビジュアル化能力、何かを形にする手の力、その言葉やイメージを生み出し、使えるだけの世の中、心の中の深い理解力(知覚)に基づいている。6年半前、ハーバード・ビジネス・レビュー(DHBR)の知性の核心についての論考でまとめた通り、情報は外から入ってきて、処理され、出ていくが、このinputとoutputをつなぐ部分がいわゆる情報処理だ。これを俯瞰すると、知性とはなにか、という問いについての答えはかなりシンプルで、情報処理におけるインプットとアウトプット(I/O)をつなぐ力と言い換えることができる。このように定義している人は自分以外あまり見たことがないが、これはフラットに見ると否定し難いだろう。

知性の核心は知覚にある DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文

その中身を見れば、感覚のような外部情報を体感できるものへの変換からはじまり、対象、コンテキスト、論理の理解と言うべきかなり高度な情報処理が連なり、また並行して相当のレベルまで起きる。これらは総合して「知覚」というべきものであり*6、そこが情報処理、すなわち、知性というべきものの大半を占める。実際のところ、LLM、自動走行の前提となるcomputer visionも含め現在の人工知能のすごさの大半は「知覚」部分の強さによるものだ。



安宅和人「これからの人材育成を考える」令和5年3月24日
文部科学省 今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会(第3回)

話を戻すと、人間の場合、その「知覚」は知的体験、人的体験、思索体験の3つによって生み出される、というのがその時の論考のかなりかいつまんだ議論の背骨だった。より詳しくこの議論に触れられたい方には、直接『シン・ニホン』の該当箇所、もしくはオリジナルであるDHBRの論考を読んで頂ければと思う。

シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成 (NewsPicksパブリッシング)

この言葉にする、という部分は知覚のアウトプット行動に当たる。言葉にする中で、僕らがふわっと感じた何かがある種のシンボル化され、なにか実体化する。まずは疑問を言葉にすることからでいいのだが、いずれなにか得体のしれないことをうまく言葉でつかもうとする瞬間があるだろう。

我々が知性を感じる行動、あるいは知的だと考える行動の一つに、知覚するが適切な言葉が与えられていないなにかに言葉を与える行動があるが、まさにそれだ。小説家は常にこれで勝負しているわけだが、市井の僕らの周りの面々も次々に試みている。「エモい」「まったり」といった言葉ナシで、これらの意味を人に伝えることは可能だろうか、相当に難しいはずだ。これらの言葉を生み出した人たちは偉大だ。

月並みな言葉でしか話せない人と、その人なりの言葉で話せる人の違いが、まずはその人なりの知覚の有無にあることは明らかだが、実はその上で、この感じている何かを何らかの表現として形にする力の差にもあること、この経験値が知覚そのもののレベルに相当の影響を与えていることに気づいている人は少ない。

先の論考では、知覚を磨く上で大切なことの一つとして、言葉になっていないものが世の中の大半であることを認めること、そして感じたことを言葉でも絵でもいいからアウトプットすることと書いたのだが、まさにそれが今求められていると思うのは気のせいではないだろう*7

ps. 半年以上、ほぼ毎週の熱烈な議論と、各スキル定義委員のかなりの時間投下を経て生まれたスキルチェックリスト ver.5とタスクリスト ver.4はこちら
www.datascientist.or.jp

なお、これらをDS協会10thシンポジウムで発表した時(2023.10.20)の動画はこちら。
www.youtube.com