西田幾多郎 (original) (raw)

西田 幾多郎

1943年2月撮影
生誕 (1870-05-19) 1870年5月19日日本の旗 日本加賀国河北郡森村[1]
死没 (1945-06-07) 1945年6月7日(75歳没)日本の旗 日本神奈川県鎌倉市
時代 20世紀の哲学
地域 日本哲学
学派 京都学派西田哲学
研究分野 倫理学形而上学存在論認識論実存主義
主な概念 場所的論理絶対無絶対矛盾的自己同一
影響を受けた人物 アンリ・ベルクソンウィリアム・ジェームズアリストテレスメーヌ・ド・ビランイマヌエル・カントアルトゥル・ショーペンハウアーゲオルク・ヘーゲルジョサイア・ロイスエトムント・フッサールセーレン・キェルケゴール ゴットフリート・ライプニッツ その他多数
影響を与えた人物 田邊元西谷啓治久松真一和辻哲郎三木清戸坂潤九鬼周造梅原猛他多数
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哲学の道(春)

哲学の道にある歌碑

西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日明治3年4月19日〉 - 1945年昭和20年〉6月7日)は、日本哲学者京都学派の創始者。学位は、文学博士京都大学論文博士1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。

東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。

経歴

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加賀国河北郡森村[1](現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となった『善の研究』(弘道館、1911年1月)は、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。

哲学への関心が芽生えたのは石川県専門学校(のちの四高、石川県金沢市)に学んだときのことである。ここで古今東西の書籍に加え、外国語から漢籍までを学んだ。金沢出身の数学の教師であり、のちに四高校長などを歴任した北条時敬は、彼の才能を見込んで数学者になるよう強く勧めた。また、自由民権運動に共感し、「極めて進歩的な思想を抱いた」という。だが、薩長藩閥政府は自由民権運動を弾圧し、中央集権化を推し進める。そして彼の学んでいる学校は、国立の「第四高等中学校」と名称が変わり、薩摩出身の学校長、教師が送り込まれた。柏田盛文校長の規則ずくめとなった校風に反抗し学校を退学させられるが、学問の道は決して諦めなかった。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。故郷に戻り教職を得るが、学校内での内紛で失職するなど、在職校を点々とする。

自身は苦難に遭ったときは海に出かけることで心を静めたという。世俗的な苦悩からの脱出を求めていた彼は、高校の同級生である鈴木大拙の影響で、に打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。この時期よく円相図(丸)を好んで描いていたという。その後は、哲学以外にも、物理・生物・文学など、幅広い分野で、学問の神髄を掴み取ろうとした。京都帝国大学教授時代は18年間教鞭を執り、三木清西谷啓治など多くの哲学者を育て上げている。

太平洋戦争中の晩年、国策研究会において佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏についてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという。

1945年(昭和20年)6月2日、神奈川県鎌倉市極楽寺姥ケ谷の自宅書斎で尿毒症による発作を起こし、その5日後に死去[2]。北鎌倉の東慶寺で葬儀が行われた。法名は曠然院明道寸心居士。その際、鈴木大拙は、遺骸を前に座り込んで号泣したという。

ゆかりの場所など

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年表

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栄典

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位階

勲章

思想

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西田の哲学体系西田哲学と呼ばれる。

論文『場所』(1926年)が発表されると、当時新カント学派であった左右田喜一郎はこの論文に独特な性質の思索と哲学史上の新しい意義を見出し、「西田哲学」と呼んだ。この呼称が西田の思想の展開とともに学会・思想界に流布し定着した。 — (「岩波 哲学・思想辞典」1208ページ20行目〜24行目より引用[10]

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした[11]。その思索は禅仏教の「の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される**絶対矛盾的自己同一**論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教学での用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。

西田の哲学は自身による独創的な哲学である。明治初期に西洋哲学を取り入れることで始まった日本の哲学の歴史の中で、西田によって初めて日本固有の体系を持つにいたった哲学である[11]。 西田は思索を進めるに際して、純粋経験についてはジェームズベルクソン、自覚についてはフィヒテカント、意識についてはフッサール、場所についてはプラトンアリストテレス等の哲学や哲学の手法を参考としながらも、東洋の善を中心とした考え方を取り入れた[12]

西田哲学が難解な理由は、西田哲学が表面的には非常に抽象的で純粋な論理的思考だけで、物事を認識しようとしているように見えることにある。また、西田の使う用語が特異で具体的なイメージがわかないことも原因である。しかし、西田哲学を難解さの最も大きな理由は、西田哲学は近代西洋哲学の二元論・対象論理的な思惟様式とは根本的に異なっていることにある。西田哲学は意識的自己の立場からではなく、行為的自己の立場から出発することにある[13]。世界を外側から客観としての世界を眺めるのではなく、西田は世界の内側から世界の構成要素として行為する自己というものをとらえようとする。主体的自己の立場から物を見る主観主義を採用せず、主体的自己が消失したところから物を見ていこうとする絶対的客観主義の立場に立っていた。それが行為的直観ということである。このような違いが一般に理解困難とされる理由である[13]

一方、田辺元高橋里美などから西田哲学はあまりにも宗教的であり、実践的でないという批判がなされた[12]

西洋のものとしての論理を相対性として批判的に包摂する西田が与する東洋的なものとしての背理への、省察の深さは評価するべきだが、しかし同時に、それが、先の大戦で日本が軍国主義的に「東洋共栄圏」構想を進めるのを担う形で「世界新秩序の原理」で展開したということの問題も、見据えて吟味しておくべきである。西田の、論理を離れつつ絶対とするもの(=背理)に就く姿勢が向かう必然の先に、それがあったということがないのかどうか。

デビッド・A・ディルワースは西田の作品分類を行った際、この著には触れていなかったが、西田幾多郎は、その著書【善の研究】にて―経験・現実・善と宗教―について触れており、その中で思想・意志・知的直観・純粋な経験に思いをはせることが最も深い形の経験と論じている。この著書の主テーマは‘すべての経験において調和を渇望する東洋の英知の真髄[14]に基づいている。

名言

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家族

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その他

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西田幾多郎を取り上げたTV番組

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タイトル 放送日
佐伯啓思×西部邁 二人の思想家が語る! 「無」の思想【その1】 2014年1月11日
佐伯啓思×西部邁 二人の思想家が語る! 西田幾多郎の苦難の人生による「悲しみの哲学」と「無の思想」【その2】 2014年1月18日

著作・主な論考

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編集委員:小坂国継竹田篤司藤田正勝クラウス・リーゼンフーバー

編集委員(第2次版):安倍能成天野貞祐和辻哲郎山内得立務台理作高坂正顕下村寅太郎

選集

『西田哲学選集』<全7巻別巻2>、燈影舎、1998年、上田閑照監修、大橋良介野家啓一

別巻1は伝記、2は研究・文献目録。他に燈影舎では「西田幾多郎哲学講演集」「寸心日記」を刊行

『西田幾多郎論文選』 書肆心水

『西田哲学を読む』 大東出版社 - 小坂国継による詳細な注釈・解説

文庫判

『西田幾多郎哲学論集』〈I・II・III〉、上田閑照編、岩波文庫、1987-89年

Iは以下8編、各・下記を所収。

IIは以下5編

IIIは以下5編

直筆ノート

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2015年、西田直筆の大学ノート50冊や約250点のメモが見つかった。紙同士が貼りつくなど保管状態は悪かったが、除湿やクリーニングを経て、京都大学や金沢大学石川県西田幾多郎記念哲学館などにより著作との関連など分析が進められた。これらのうち「宗教学講義ノート」「倫理学講義ノート」は2020年に岩波書店の全集別巻として刊行され[16](前述)、他はデジタルアーカイブとして公開されている[17]

参考文献

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以下は関連資料

資料・研究文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 回想伝記に、上田久『西田幾多郎の妻』(南窓社、1981年)
  2. ^ 西田静子「父」、上田弥生「あの頃の父」を収録。
  3. ^ 生い立ち - 明治43年の『善の研究』成立まで。
  4. ^ 以後昭和20年に没するまで。
  5. ^ 第1部の伝記を文庫化、第2部は西田哲学研究。

出典

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  1. ^ a b 概要・ごあいさつ 石川県西田幾多郎記念哲学館(2021年5月15日閲覧)
  2. ^ 『朝日新聞』 1945年6月9日
  3. ^ 「哲学の道」探訪 歩いてみよう!西田幾多郎ゆかりの地 - かほく市
  4. ^ 「哲学者 西田幾多郎の旧居解体 一部、京大などで保管」毎日新聞』2016年6月8日(2021年5月15日閲覧)
  5. ^西田が晩年を過ごした稲村ヶ崎の自宅跡”. 鎌倉経済新聞 (2021年6月25日). 2024年5月16日閲覧。
  6. ^ 水上勉『破鞋 雪門玄松の生涯』(岩波書店 1986 のち同時代ライブラリー)。
  7. ^官報』第627号(昭和4年2月2日)
  8. ^ 『官報』第1244号「叙任及辞令」1916年9月21日。
  9. ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日
  10. ^ 廣松 1998, p. 1208.
  11. ^ a b 下中 1971, p. 1048.
  12. ^ a b 廣松 1998, p. 1209.
  13. ^ a b 小坂 2009, pp. 125–126.
  14. ^ ミルチャ・イトゥ 序文『Nishida Kitarō's An Inquiry into the Good』英羅訳版「西田 幾多郎 善の探求」 240頁より引用, 2005, Braşov, Orientul Latin Publishing House (ISBN 973-9338-77-1)
  15. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、361頁。ISBN 4-00-022512-X
  16. ^ 【風紋】西田幾多郎のノート公開 息づく知的格闘の跡日本経済新聞』朝刊2021年5月10日(社会面)2021年5月15日閲覧
  17. ^ 西田幾多郎ノート類デジタルアーカイブ(2021年5月15日閲覧)
  18. ^ a b c d e 博士論文書誌データベース

関連人物

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弟子

京都学派四天王

関連項目

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外部リンク

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日本語

英語

動画

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