千年の日本語を読む【言の葉庵】能文社: 己れを捨てて、茶になる。[目利きと目利かず 第三回] (original) (raw)
己れを捨てて、茶になる。[目利きと目利かず 第三回]
茶の湯の目利きとは、「捨てる」こと。この考察を、茶書からいくつかの実例と引用文を交えながら進めたいと思います。少しボリュームがありますので、前編、後編に分けてお届けする予定です。
中世の日本の精神文化は、そのほとんどが「道」という概念により裏打ちされています。
「道」とは、一生求め続け、たどり着いては離れ、達成しては捨てる。果てしない道どりを行く、そのこと自体をさしています。茶の湯で、この「道」を最も遠く、深く踏み込んでいったのが、茶聖千利休。最初に、その辞世の句を見ます。
人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺
提る 我得具足の一太刀 今此時ぞ 天に抛つ
天正十九年二月二十八日、太閤秀吉より切腹を命ぜられ、自刃。享年七十。死の三日前、堺の自邸でしたためた遺偈です。句の前半は、不生不死の大用を、後半は超仏越祖の風光を示すものといわれ、「祖仏共殺」は、祖も仏も、すべて逢う者を殺し尽くして初めて解脱を得るという『臨済録』中の言。
「吾這宝剣」もしくは、「我得具足の一太刀」は、天下の茶頭としての栄達、そして一世を風靡し、四百年後の今も興隆を誇る侘び茶の大成を己れひとりの力で成しえたことをさす。これら一切合切、今天に抛ち、捨てて、利休は初めて真実の茶となるのです。ちなみに、利休の斎号は「抛筅斎」といいました。
茶器の鑑定のみならず、茶の湯という芸道は、これを構成するすべての事象に「目利き」が深くかかわります。作法・礼法、進退を含む点前、茶葉・水の吟味、茶室・露地の造作、主客振り、数寄談義、社交、時候などなど。利休高弟、山上宗二は上の意味での広範囲な目利きを「目明き」と定義し、
「茶の湯道具はいうに及ばず、いずれの品であっても見たままに善悪を見分け、人の誂え物を殊勝に好むことがまず第一」
であるとしています。(『山上宗二記』)また、目利きをはじめ創意・志などの必要条件により、茶人を三種に区分けする。
一.茶の湯者: 目利き、茶の湯の上手、茶匠にて渡世する者
二.数寄者: 名物を所持せず、胸の覚悟・創意・腕前のそろった者
三.名人: 唐物所持、目が利き、茶の湯が上手。さらに道の志が深い者
茶の湯者とは松本珠報、篠道耳、数寄者とは粟田口善法、名人とは鳥居引拙、武野紹鷗である、としています。(『山上宗二記』)これらは、利休・宗二の前の世代の茶人とその評価。宗二にとって、師利休はむろん別格です。
それでは、茶書にみられる利休の「目利き」の例をいくつか見ていきましょう。まず、茶道具そのものと茶室造作など、外面にあらわれる「目利き」とは。
1. 利休は、柚の色づくを見て口切を催し、古織は、樅のわか葉の出ずる比、風炉の茶の湯よし、と申されき。(『茶話指月集』)
2. 休、「手水鉢の前の捨石は、下人が目を閉がせ、ごろたを物にいれて、からりと捨てさせ、外へころびたるを杖にて直し、そのまま置くがよし。わざと捨つれば悪しし」という。(『同』)
3. 利休、盛阿弥が棗のよしあし見分くること、いく度試みにだませみせてもちがわざるを、人みな感じ侍る。(『同』)
4. 古人は、露地の水打ちかげんを吟味したり。たとえば口切の時分は、客の入りに、一つの飛び石、三分の一程干上がりたるをよしとす。(中略)くぐり口の石の一つは、ぬらさぬが故実にて有る也。(『同』)
5. 休、「数寄に出だす道具は、栗に芥子をまぜたるように組み合わするが巧者也」といいし。(『同』)
6. 三斎へ鶴の包丁所望申したれば、易称して後、
「まな板の格好少し低く見え候はいかに」
と問う。斎、厨の者に御吟味あれば、
「このごろ定法のまな板ふるび候て、上を一分ばかりしらげ候」
と申す。その時三斎手をうってのたまうは
「とかく目剣とこそ存ずれ」。(『同』)
7. ある時利休、道安の所へ茶の湯にまいられ、露地にて同伴の人へ、
「飛び石のうち一つ一寸高けれども、亭主知らぬそうな」
と笑いけるを、道安内にて聞きつけ
「われも日頃さ思いつる」
とて、中立ちの間に、そと直し置きしを、休、後の入りに立ち止まり、
「この石直したやらん、低くなりたる」
という。その高低のくわしきを、人感じ侍りし。(『同』)
8. 利休は、静かなる数寄道具を好みて、気疎き(豪華な)物を愛せず。妻木といえる所持の茶入も飴ぐすりの一色にて侍るよし、みたる人のものがたり也。(『同』)
9. 名物の掛物を所持するものには、床の心得がいる。横長の掛軸で上下の寸が足りねば、床の天井を下げる。縦長で床にあまるほどならば、天井を上げてよし。別の掛物の時、具合が悪くても一向気にする必要もない。秘蔵の名物にさえ格好がよければ、それでよいのだ。(『南方録』)
次に作法、心得など茶人の姿勢に対する内面的な「目利き」の例をあげてみる。
10. さる方の朝茶の湯に、利休その外まいられたるが、朝嵐に椋の落葉ちりつもりて、露地のおもてさながら山林の心地す。休あとをかえりみ、
「何もおもしろく候。されど亭主無効(無能)なれば、はき捨てるにぞあらん」
という。あんのごとく、後の入りに一葉もなし。その時、休、
「そうじて露地の掃除は、朝の客ならば、宵に掃かせ、昼ならば朝、その後は落ち葉のつもるも、そのまま掃かぬが巧者なり」
といえり。(『茶話指月集』)
11. さる田舎の侘び、休へ金子一両のぼせて、
「何にても茶の湯道具求めて給われ」
と也。休、
「この金にて残らず白布を買いてつかわす」
とて、
「侘びは何なくても茶巾だにきれいなれば、茶は飲める」
とぞ、いいやりける。(『同』)
12. ある時、利休の所にて茶の湯過ぎて後、蒲生殿、千鳥の香炉所望あり。休、無興の体にて香炉を取り出だし、灰を打ちあけころばし出だす。幽斎、
「清見潟の歌の心にや」
と御申し候えば、休、気色なおり、
「いかにも、さように候」
との返事なり。順徳院御百首の中に、
清見がた 雲もまよわぬ浪のうえに 月のくまなるむら千どり哉
このこころは、
「今日の茶の湯おもしろく仕舞いたるに、なんぞ無用の所望かな」
と思わるるより、群千鳥を香炉に比したるべし。すべて何事も興の過ぎたるは悪しし。こと足らぬ所に風流余りある。(『同』)
上の利休のエピソードは、幽斎いうところの「目剣」、常人離れした眼力=目利きの実例を示すとともに、外面、内面のいずれの目利きにおいても既成・固定概念を「捨てる」ことが、いかに肝要であるかを教えてくれます。
1.では暦ではなくその年の自然の移り変わりに催事の時期を読み、2.では無作為の作意を実践。8.では過剰を廃し、9.では基準を逆転させ、11.では対象を置き換える。
茶の湯の名人の目利きとは、世上多くの人の「こうであろう、こうあるべし」をまず疑い、自信をもって「捨てる」ことにあります。上の例は、今までのやり方、行き方を捨てる見本。そして、従来の名物=唐物を捨てる。
「そうじて茶碗でいえば、唐茶碗はすたれた。当世は高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗ばかりである」(『山上宗二記』)
唐物に限らず、珠光以来の前代の名物の多くが、価値を再吟味の上、目利きにより捨てられます。山上宗二記では、実に三十品以上の名品・名物が「すたれた」「当世はいかが」と、もはや評価されません。
次に、わが師を「捨てる」。
「三十より四十一までは、わが考えを出す。四十より五十までは、師とは西東、全く反対のやり方で万事なす」(『同』)
「茶の湯の師と袂を分かった後、すべての分野の上手を師とする心がけをもつ。(中略)端々の所作までをも、名人の仕事を茶の湯と目明きの手本とするのだ」(『同』)
そして、究極には己れをも全く捨て去り、裸一貫=無一物の境地へと還って行く。
「珠光は八十にして逝去。雪の山か。宗易の茶の湯も、はや冬木である。凡人には無用の域」(『同』)
ここに至って、茶の湯の目利きは、もはや利くべき対象物を捉えず、「利休」の居士号の意、「名利共に休す」こととなります。既成概念を捨て、名物を捨て、師を捨て、己れをも捨て去る。目利きがあらゆるものを捨て、侘びへと向かう時、他に捨てるべき何が残るというのでしょうか。
【日本文化のキーワード】バックナンバー
・第五回 位
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2006年03月30日 16:25
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トラックバック時刻: 2006年03月30日 20:56
気疎き物・・・昔の日本語は、字の持つ意味だけでなく、推測しやすいというか、心に感じた感じ方を言葉におこしているようで、意地らしいですね。
投稿者 風庵亭主 : 2006年04月05日 07:25
風庵さま
いつもコメントありがとうございます。
「気疎きもの」の注、「豪華なもの」は、山上宗二記参考資料の平凡社「東洋文庫」訳注によったのですが、本来の意味は「いとわしい・うとましい」で、今の言葉でいえば「うざい」にあたるのでしょうか…。
それでは文意がとおらないので東洋文庫訳者は辞書の6,7番目にある唯一の肯定的な意味「すばらしい」から着想して、「豪華な」と訳したものとおもわれます。
古くは徒然草にも見られる古語の「気疎い」は、もともと中国地方東部の「キョートイ=こわい」と関連する方言だそうです。
いずれにしろ利休は、仰々しくこってり仕上げたものを「気疎い」と感じ、評価しなかったのであろう、ということだけは確かなようですね。
古語は本当に味わいもあり、由緒をたどるとおもしろい物です。
投稿者 庵主 : 2006年04月05日 21:54
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