路傍の石仏から女人救済の世界を垣間見る ~千葉県北西部・その他 (original) (raw)
“龍女は仏に成りにけり などかわれらも成らざらん
五障の雲こそ厚くとも 如来月輪隠されじ”
---作者不詳の今様歌謡 「梁塵秘抄」に収録
↑は後白河法皇が編んだ今様歌謡集「**梁塵秘抄**」に収録されている歌。
当時の流行歌謡にどっぷりはまっていた後白河法皇がそれを後世に残すべく(?)編纂したことによって本来なら時代の移り変わりとともに忘れ去られるはずだった当時の流行歌の数々が現代の我々も楽しむことができる、という「奇跡の歌集」。
後白河法皇という人物、賛否両論(かなり”否”寄り?)があって評価がなかなか難しいのですが、タダ者ではない感覚の持ち主だったのは間違いないようです(単なる変わり者?/笑)。
この歌は前にもちょっと取り上げたことがあるのですが、女性たちの成仏における強い決意を示した内容となっております。「龍女」とは法華経に登場する竜王の娘、8歳にして成仏に成功した女の子のことです。歌意は↓のような感じでしょうか。
「法華経において女である龍女も仏になることができた。ならばわれわれ女性も成仏できないなどということがあるだろうか。たとえ仏への道の妨げとなる五障が立ちはだかろうとも、我々に宿っている仏性は月の輪のごとく光を放って隠されることはない」
前回の投稿でまさに今様歌謡が流行していた時代に生きた建礼門院徳子(1155-1213?)も後世に龍女になぞらえられていたことについて紹介しました。そしてこれも前回の投稿で「平家物語」に出てくる彼女の詠んだとされている歌(実際には平家物語の作者の創作と考えられていますが)歌について取り上げてみました。
そこでは歌に出てくる「雲居の月(雲がかかった月、みたいな意味)」という表現について「自分を仏の世界と隔てるもの」のような意味が込められているのではないか?という見解を披露してみました。そして今回の今様歌謡ではやはり雲が「五障の雲」という表現で「仏と自分を隔てるもの」という意味で使われています。
こちらの場合は非常にポジティブというか「成仏の妨げ?だからなんじゃい!乗り越えたるわい!」とばかりの怒涛のエネルギーに満ちあふれている内容になっていますが。
ちなみに「五障(ごしょう)」とは女性が生まれながらにして背負っている障害のことで、「仏陀、帝釈天、転輪聖王、梵天王、魔王」の5つの存在になることができないとされています。仏陀になれないわけですから、成仏もできない、浄土にも行けないということになる。これが現代では仏教の男尊女卑的な面としてよく強調されたりもします。
法華経ではこの五障の考えをベースとしつつも、龍女は(男性に変身する変性男子を経ることによって)成仏に成功したよ、というエピソードが記されています。女性でも成仏できる、という見方もできますし、男に変身しないと成仏できないので結局女性は成仏できないことを証明してしまっている、という見方もできる。じつに微妙なエピソード。
今様歌謡はそんな龍女の成仏を女性でも成仏できる証拠とポジティブな見方でとらえたうえで詠んでいることになりますね。
この五障が日本でよく言われるようになったのは平安時代に入ってからと考えられています。仏教が日本に入ってきた当初(6世紀)はこうした考え方や今回の記事のテーマとなる「女性は生まれながらにして罪深い存在」という考え方はほとんどなかったらしい。なにしろ記録上で日本で最初に出家した人は女性の善信尼ですし。
しかしこの考えは平安時代から広がるようになり、文学作品にも取り上げられるようになることで広く世間に定着していったと考えられています。平安時代と言えば女流文学華やかなりし時代としておなじみですが、その文学作品が女性蔑視感を定着させてしまった可能性もあるわけです。
なんとも皮肉な話ですね。
この五障のコンセプトによって女性は罪深く、成仏するのが難しい存在である、という考えが広く定着したのが建礼門院徳子、そして今様歌謡が流行した平安後期だと考えられています。
この今様歌謡はそんな世の女性観に対して敢然と叛意を示したプロテストソング、といったところでしょうか。
今様歌謡にはこうした反骨心や歌い手の生々しい感情を伝える歌がけっこう見られ、わたくしのようなロック好きが見ていると「いや~、ロックだなぁ」と感じることもしばしば。クラシック作曲家の吉松隆氏(大河ドラマ「清盛」のオープニング曲を担当した人でも有名)なども「これは中世のプログレッシブ・ロックだ!」と評していました。
そんな古代後期から中世前半に定着した女性観を踏まえた上で話は一気に江戸時代へと飛びます。
お寺へ行くと江戸時代に作られた石仏をしばしば見かけますよね? あるいは路傍にひっそりとたたずんでいる姿を見る機会も。こうした石仏を求めてあちこちを巡り歩くのを楽しみにしている方もいらっしゃると思うのですが、その中によく如意輪観音が多く見られます。これはとくに東日本に特徴的らしく、関東在住のわたしはあちこちで実際に見る機会を得ており、とくに東京に近い千葉県北西部に多い印象です。
↓の画像は千葉県印西市で撮影してきたものです。ちなみに以前この地に伝わる源頼政の伝説について投稿したこともあったりします。
如意輪観音は仏さまの中ではかなり有名な部類に入りますが、お寺の本尊になるような立派な像となるとそれほど数は多くないように思えます。少なくとも阿弥陀如来や同じ観音菩薩のバリエーションである聖観音、千手観音、十一面観音などに比較すると「マイナーな」存在と言えるでしょう。なのに石仏となると俄然割合が高くなる。
どうして如意輪観音が多く作られたのか? 理由に関しては諸説ありますが、おそらく当時の社会における女性観、とりわけ女性の罪業観や不浄観が関わっていると思います。平安後期に定着した「女性は生まれながらにして成/仏が難しい業を背負っている」というコンセプトが時代の経過とともにさらにエスカレート/肥大化して女性は生まれながらして罪業を背負っているとか、不浄な存在である、といった意識が持たれるようになっていたようです。
よくいう「赤不浄(月経の血のケガレ)」「白不浄(出産時の血のケガレ)」「黒不浄(死によって生じる不浄)」のうち2つが女性と密接にかかわっている。
そんな女性不浄観をかなり露骨に示しているのが日本三大霊山のひとつ、立山の信仰を図で示した「**立山曼荼羅**」です。
↓は富山県の立山博物館の公式サイトにある立山曼荼羅を使って立山信仰を説明したページのURLです。お手数ですがちょっと目を通してみてください。
江戸時代に全国規模で大きく流行したこの信仰ではまさにこのページで行われているような形で立山曼荼羅図を使った布教活動が全国各地で積極的に行われていたそうです。ページのタイトルにもある「絵解き」というやつですね。
非常に美しい景観でも知られる立山は恐ろしい空間とも考えられており、ここには「地獄がある」と考えられていました(立山地獄)。現在でも「地獄谷」と呼ばれるエリアがよく知られていますね。
この立山信仰では女性の罪業観・不浄観が強く押し出されており、立山曼荼羅には月経や出産時に女性がもたらす「血のケガレ」によって落ちる「**血の池地獄」や子どもを産むことができなかった女性が落ちる「石女地獄**」といった現代人の感覚ではありえない世界が描写されています。
上記の立山博物館のページで3枚目に掲載されている画像をご覧ください。この図の左半分に血の池地獄と石女地獄が描かれています。女性たちが血の池に使っている異様な光景。
立山信仰ではこうした女性の罪業観・不浄観を煽り立てる一方でその苦しみから女性を救う「女人信仰の地」として大きな人気を博した面も持ち合わせています。現代的な視点ではこういうのを「マッチポンプ」と言うと思いますが(苦笑)。
この立山博物館の紹介ページでは女人救済の場としての部分は強調されている一方で女性が落ちる地獄についてはまったく説明されていないんですよね。立山の女人救済の面を強調するなら女性の地獄観についてもきちんと向き合う必要があると思うのですが。
この過度な女性の不浄観は中世に広く普及した「**血盆経(けつぼんきょう)**」という10世紀頃に中国で作られたとされる「偽経」の影響を大きく受けていると考えられています。この経典は「血のケガレによって不浄の身となった女性を救済するため」という位置づけを持っているのですが、それがかえって「女性はケガレた身」というコンセプトを世間に植え付ける結果をもたらしてしまったらしい。
こうした当時の状況を踏まえたうえで改めて立山博物館の紹介ページ、先ほどの地獄を描いた上から3番目の画像をご覧ください。左側の上部に女性たちが血の池に頭部だけを残してどっぷり浸かっている「血の池地獄」の上にその女性たちに向かって仏さまが救いの手を差し伸べようとしている様子が見てとれます。
この仏さまこそ立膝をついて座る特徴的な姿をした如意輪観音です。
もうひとつ、こちらも中世~近世にかけて広く普及した熊野信仰の普及のために作られた「**熊野観心十界曼荼羅**」も見てみましょう。↓は兵庫県立歴史博物館の公式サイトでこの曼荼羅について取り上げられたページ。こちらは女性を巡る地獄観を正面から扱った内容になっていますね。
上から4番目、最後の図。ここでも如意輪観音が血の池地獄に落ちた女性に救いを差し伸べようとしている如意輪観音の姿が描かれています。ページの説明にもあるように差し出している手にあるのば血盆経です。こちらはいわゆる「熊野比丘尼」による絵解きで全国各地に紹介されていったとされるものです。女性が女性の地獄観を紹介し、そのイメージを定着させていく…これもちょっと皮肉な感じでしょうか。
こうして見ていくと路傍の石仏に如意輪観音が多く見られる理由がかなり見えてきます。女性の救済を願って作られ、建てられたものなのでしょう。
ちなみに上記の印西市で撮影した石仏の近くにはその名も「熊野神社」もあったりします。そんな場所に如意輪観音が多く見られるのは上記の熊野歓心十界曼荼羅の影響でしょうか?
しかも千葉県北西部で見られる如意輪観音には「女人講」のために建てられたと思しき如意輪観音像をよく見かけます。↓は八千代市で撮影したものです。
台座に「女人講中」と書かれています。
「女人講」とは女性だけで集まって祈りを捧げる場/機会のことです。これは一般的に毎月(旧暦の)19日の夜に行われていたらしく、石仏にも「十九夜講中」などの形でそのことが記されていることがあります。↓の画像、像の向かって右側に「十九夜」と刻まれているのが見えますでしょうか? 先程挙げた像(上から2番目)にも見ることができます。↓の画像では38人が参加していたことが「講中三十八人」から見ることができます。なかなかに大規模ですよね。
夜にみんなで集まって祈りを捧げる習慣と言えば庚申信仰が有名ですが、女性だけが集まる女人講では庚申信仰ではなく観音信仰に基づく集まりが多かったらしい。そして観音さまの縁日は毎月18日。縁日の翌日の19日にひっそりと行ったために「十九夜講」となった。
そこではしばしば死後に地獄に落ちてしまうようなケガレを背負った自分たちを救済してもらおうと女性たちがみんなで如意輪観音に祈りを捧げていたと考えられています。「女人講」の文字が記された如意輪観音像はその証である、と。
ではなぜ千葉県の北西部にこのような如意輪観音像や女人講の痕跡が多く残されているのでしょうか?「たまたま残った」可能性ももちろんありますが、わたしはそれ以外の理由もあると考えています。
それはバースコントロールのための子どもの間引きの問題。
豊臣秀吉によって実行された太閤検地によって(当時の)日本の生産力が数値化されることになりました。当時の総石高が約1850万石。人間ひとりが1年間生きるのに必要とされる石高が約1石と見られていることから当時の人口は1500万前後ではないか、と考えられています(ただし諸説あり)。
それが天下泰平の世の江戸時代に入ってから人口&石高が急増、百数十年後の18世紀前半、徳川”暴れん坊”吉宗の時代には人口が3000万人を超えていたとも言います。
収穫高は増えているのに設定された年貢の額はあまり変わらなかったので実質税率がどんどん低下、新井白石の時代には3割を切っていたらしい。これが吉宗の増税策や「米将軍」と呼ばれるようになった一因にもなっています。
しかしこれがピーク、その後人口増加がピタっと止まって100年以上、幕末くらいまで人口がずっと横ばい状態になります。
理由に関しては諸説あり、当時の技術力による開墾・開発が行き着くところまで行き着いてこれ以上人口を抱え込むことができなくなった、気候が寒冷になって生産力そのものが低下した(実際その後飢饉が頻繁に起こるようになる)、などがよく挙げられます。
ただしこの人口の横ばい状態は自然に起こったわけではなく、明らかに生活を維持するためのバースコントロールが行われていた。しかも当時のバースコントロールとは避妊ではなく中絶や間引きがメインだった。
人口抑制を目的とした間引きの場合、女の子が優先的に排除されます。たとえばある共同体において1年間に100人の子どもを作ろうと思った場合、男は1人いれば可能ですが、女性は100人必要になる。ですから男の子を減らしても人口抑制に効果がない恐れがある一方、女の子を減らせば確実に人口を抑制・減らすことができます。
そう、ある地域の人口は出産可能な女性の数によって決まる。
人口を増やすという観点から見れば女性の方が「価値が高い」と見ることができるのに対して、人口抑制を強いられる厳しい環境では逆に女性の命の価値が低くなってしまうという皮肉。
これはどうやら人類が集団生活を営むようになって以来、長い間続けられてきたものらしい(そう、現在でも実施されているところがおそらくあるはず)。
こうした考えも女性の地位を下げると同時に女性に罪の意識を植え付けていく結果をもたらしたのでしょう。自分たちが生きていくために自分たちが生み出した子どもを殺さなければならなかった、そんな罪の意識をもっぱら女性たちが背負うことになっていたのではないか?
いわば「血のケガレ」に加えて「死のケガレ」を背負いこむ形に。赤・白・黒の不浄全てを背負うことになったのではないか?
そんな苦しみを和らげ、救済してくれるのが如意輪観音であったようです。
そしてそんなバースコントロールを強いられる環境がもたらす女性の罪の意識や苦しみは千葉県北西部ではとくに強かったのではないか?と思われます。この地域は江戸時代に入って積極的な干拓・開発事業が行われました。利根川を中心とした大規模な治水事業も。
まさに人口のピークに達した享保年間から開始された印旛沼干拓事業などがその代表的な例としてあげることができますが、この地域は事実上の首都となった江戸にもほど近いエリア。このエリアではおそらく江戸初期の100年間で移住者も含めて人口の増加が急激に進んでいたのではないでしょうか。
千葉県の東側になりますが、歴史上有名な「椿海」の干拓事業が江戸初期の100年間に行われ、約50平方キロメートルの湖が地図&歴史上から姿を消しています。
こうした急激な地域の拡大・成長は右肩上がりの状況ならよいのですが、横ばい&停滞状況になってしまうとたちまちいろいろな問題が露呈する危険性を秘めています。現在の日本がまさにそうで、戦後の開発が右肩上がりの成長を前提に行われてきたためにそれを維持するのが難しくなってしまっていますよね。
人口が「自然に」少しずつ増えていった地域ならともかく、開拓と移住によって急激に増えていった地域ではそうした問題が露呈しやすく、しかも問題が深刻化しやすかったのではないか? ある段階で増えすぎた人口を抱え込めないような状況に陥ってしまい、その対策として間引きによるバースコントロールを行わざるを得ない圧力がこの地域に重くのしかかってきた。
そして自分たちが生きていくために苦しみや罪の意識を背負いこむことになったこの地の女性たちは如意輪観音への信仰に頼り、また女人講の形で女性同士が集まることで慰め合う機会に救いを見出すようになった…
…なにやら話が重苦しくなってきましたが、現地の如意輪観音像を見ているとそんな状況を想定したくなります。
なお、千葉県北西部の我孫子市には先述した血盆経の信仰を現在に伝える貴重な資料と伝統が現在まで残されています。↓はその資料を紹介する千葉県の公式サイトのページ。
千葉県(当時の下総)だけに留まらずかなり広い範囲に信者を持っていたらしい。皮肉にも女性の罪業観・不浄観が重くなりやすい地域ゆえに女性救済の地として広く信仰を集めるようになった、ということなのでしょうか。
千葉県に限らず現在あちこちで見ることができる石仏に刻まれた刻銘を見ると享保年間以降のものが大半を占めています。これは単に「それ以前のものは古くて残りにくかった」だけでなく、環境の変化で増えすぎた人口を抱えきれなくなった当時の社会状況が反映されたものではないか、と思います。死者の冥福を祈り、無事息災を祈り、さらに自らの罪の救済を祈った人たちの切実な願いがこれらの石仏にはこめられているように思えるのです。
こうした歴史を振り返りながら路傍の石仏を見ればまた見方が変わるというか、言い方はよくないのかもしれませんが、より楽しみが増すように思えます。有名なお寺にある「美術的に優れた」仏像にはない価値を見出すことができるはず。
なお、以前に「かつて如意輪観音と弥勒菩薩が同体の仏と見なされていた」ことを書いたことがあります。↓もしよかったらご一読いただければ嬉しいです。
今年(2024年)の大河ドラマの影響もあってかなりホットなスポットと化している滋賀県大津市の石山寺。本尊は如意輪観音ですが、かつては弥勒菩薩の信仰の地としても知られていたらしい。
で、この上記の投稿でも少し触れましたが、有名な法隆寺に隣接した奈良中宮寺の本尊は「伝如意輪観音像」と伝える「半跏菩薩像」です。↓は中宮寺の公式サイト
見た目はどう見ても**弥勒菩薩の半跏思惟像**ですが、如意輪観音として信仰を集めてきた。これも弥勒菩薩と如意輪観音の同体化によるものでしょう。
おもに中世以降に弥勒菩薩の信仰が一般人の間に広まった背景には「弥勒菩薩が世の中を一新して人々を救済してくれる」という考え方があったようです。もともと弥勒菩薩は56億7000万年(一説によれば5億7600万年)後に現れて人々を救済してくれる仏さまですが、「そんな遠い未来と言わずにすぐに来てください」みたいな考えが広がっていたみたいですね。戦乱・混乱の時代における人々の願いに応えてくれる仏さまだったのでしょう。
この「人々の苦しみを救ってくれる」弥勒菩薩と「女性の苦しみを救ってくれる」如意輪観音が同体として扱われるようになっていったのもごく自然なことだったのかもしれません。
とくに中宮寺は尼寺、その本尊は聖徳太子の母親をイメージしているとも伝えられています。となると「弥勒菩薩=如意輪観音」が進んでいく過程でもともとの弥勒菩薩から如意輪観音へと変化していったと考えられます。もっとも同体視されたわけですから実際には「変わった」とは言わないわけですが。
美術の分野ではこの像を「弥勒菩薩像」として紹介されることもありますが、仏像とは単なる美術品ではないわけですから、これはあくまで「伝如意輪観音像」です。少なくとも弥勒菩薩として紹介する場合でもこの事実をきちんと伝える必要があると思います。
さらに江戸時代には富士山信仰、いわゆる「**富士講」が盛んになりますが、その立役者の一人が「食行身禄(じきぎょうみろく)」こと伊藤伊兵衛(1671-1733)。彼は男女平等思想**、さらには四民(市民じゃなくて士農工商の四民)平等を掲げて布教活動を行っていたと言われていますが、そんな彼が「身禄(みろく)」と名乗ったのも弥勒菩薩の万民救済と如意輪観音の女性救済の両方を目指そうとしたからではないかと思います。
富士山は現在世界遺産ですが、「自然遺産」ではなく「文化遺産」として認定されています。この認定はこの食行身禄と彼の理念を引き継いだ多くの人たちの信念があってこそですから、当時の人々の如意輪観音による女人救済も含めた一般人たちの信仰の力はやはり無視できないと思うのです。
↓は千葉県八千代市にある高津山観音寺で撮影した女人講の石仏たち。すぐお隣に藤原時平の娘を祀る非常に珍しい(後日紹介するつもりです)高津比咩神社があるお寺ですが、庚申塔が多く残されていることでもちょっと知られています。
↑これが一番新しい像。
↑どちらも赤ちゃんを抱いています!
↑向かって右が一番古いもの。
↓は観音寺の山門。曹洞宗の寺院です。
すべてが如意輪観音の姿をしているわけではありませんが、やはり如意輪観音らしい立膝をついたものが大半を占めています。一番古い仏像には「延寶(えんぽう)」年号の刻銘が見られます。具体的な年次は見づらくて確認しがたいのですが、延寶(1673-1681)年間なのは確か。石仏にしてはかなり古い部類、日本全体でまだ深刻なバースコントロールが迫られるようになる前、ということでしょうか。あるいはこの地域ではひと足早くこの問題が表面化していたのかもしれません(あくまで推測)。
そして何よりも素晴らしいのが一番新しい像。刻銘が平成26年(2014)。おそらくまだ存続している!
これを知ったときにはちょっと感動しました。
最後までお読みいただきありがとうございました。最後に恒例(?)のわたくしKindle出版している電子書籍の宣伝をさせてください。
やっぱりできるかぎりアピールする機会をもたないと誰の目にも留まらずに埋もれてしまいかねませんので😅なにとぞご容赦を。
普段の投稿を同路線、「神・仏・妖かしの世界」を題材にした創作小説(おもに伝奇・幻想・ファンタジー系)です。
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