予感とは、体の叫び (original) (raw)

2024年10月号掲載

毎日新聞契約記者/藤原章生

この夏、お盆休みの長い山登りでちょっとした事故に遭った。50cm四方、厚さ20cmほどの岩が左頭上から落ちてきて、その下を歩いていた私は瞬時に左足を引っ込めたが間に合わず、足先に激しい痛みを覚えた。「ガッ」と一撃された感じだった。声が出ないほどの痛み、という表現があった気もするが、数メートル前 にいた仲間、マッチャンこと松原憲彦は「声を聞かなかった」と言うので、声をあげなかったのだろう。だが、痛みは存外味わったことのないものだった。

足先が切れたような感覚があった。すぐに地下足袋と軍足を脱ぐと、前に向かって声をかけた。「おーい、足、やられた!」。マッチャンは重いリュックを水際に置くと、空身で登り返してきた。

私の足は小指から中指にかけて赤く腫れあがっていた。近くにあった雪渓で患部を冷やし、そのあと、沢の水に長くつけた。折れてはいないようだが痛みの激しさ、足の厚みが倍になるほどの炎症から、激しい打撲と思われた。下山後、 整形外科で診てもらうと、人差し指の付け根にヒビが入っていた。

北アルプスの白馬北方稜線にある朝日岳から流れ落ちる恵振谷(いぶりだん) でのことだった。黒部川の源流だ。

断念しがたい私たちは、まだ先に行けるかもしれないと、その場に1泊したが、翌朝も腫れはひどくなるばかりで、仕方なく、来た道を2日がかりで引き返した。

17歳で始めた沢登りで骨折するのは2度目だが、足のけがは初めてだった。1度目は10年ほど前、奥多摩の水根沢で滝を登っているときに右手の甲に落石を受け、やはりヒビが入った。

母数が少ないのでなんとも言えないが、今回は事故前、明らかな予感があった。

6日間を予定していた今回の沢登りは、計画を温めてきたマッチャン、それに随行する私にとって大事なものだった。この山行のために彼と私は2度、泊りがけの訓練山行を終えており、私個人はそれ以外にも初夏にかけて4回山に登っている。体力をつけるためだ。

事故は山行2日目、沢登りが始まるしょっぱなで起きた。

その朝、野宿した沢の源流から下り始めた私はあまりいい気分がしなかった。足元の石を見定めながら源流をザクザク歩き、大きめの岩や段差が出てくると、もっとも歩きやすいルートを瞬時に選んで水の中や水際のブッシュを掴んで下りていく。

普段やっている、なんてことのない行為が異常に疲れる。体力ではなく、嫌気がするという感じだ。あれほど楽しみにしていた夏の沢の初日である。しかも登りではなく下りから始まる。本来なら意気揚々としているはずなのに、1時間がすぎ休憩したころには、やる気がかなり失せていた。この日の行程は短く、あと、4時間も歩けば泊まり場にたどり着く。なのに、その4時間はひどく長く思われた。

次に歩き出すと沢は次第に広くなり、岩の大きさもゴロゴロと大きなものになっていった。

マッチャンとの話題で出た登山家2人のカラコルム、K2での滑落死のことから、私はこんなことを脈絡もなく考えていた。そう言えば、タレントのイモトアヤコが遭難したひとり、中島健郎についてXで嘆いていたな。かなり悲しんだろうな。それにしても彼女はなぜあんなに太く眉を描くのだろう。

太い眉はマッチョの象徴? 高倉健も眉が太かったのか? 健さんと同じ役を演じた阿部寛も眉が濃かったか? そう言えば、2人とも割と寡黙で背が高いな。「不器用な男」を演じているし。ああいうのが日本の男像か。戦時になってああいうのが上官になって、もてはやされたら嫌だなあ。イモトが眉を濃くするのは一種、マッチョに対する揶揄なのか。

誰もがそうだろうが、黙々と歩いているとき、私の中にこんなふうに脈絡もなく考えが流れている。そして沢の左岸から右岸へ移ったとき、こう考えた。

K2とはスケールもレベルも何もかも違うけど、この沢でだって死んでもおかしくはない。いや死ななくても岩の下敷きになることは十分ある。でも、ここで岩の下敷きで死んだら(配偶者は)悲しむだろうな、イモト以上に。

すぐ先の右手に小さな雪渓があり、写真を撮ろうかと思ったが、先を急ごうと思ってやめた。マッチャンはすぐ先を歩いている。現場は高さ2mほどの岩がV字状 に縦に割れた段差で、下りるのにさほど難しくはないので、私は前を向きながら岩に手をやり下りていった。その一瞬また考えた。ここでも岩の下敷きは十分あり得る。

その直後、音というよりも風圧のようなものが先にきて、それを察知した私は左足を引っ込めたが、激痛が走った。落ちてきた岩に私が触れたのかどうか記憶は曖昧だ。おそらく軽く触れたせいで落ちたのだろう。

朝からの嫌な感じ。歩く気がしないやる気のなさ。疲れ。直前の岩崩れのイメー ジ。危険予知とも言えるが、いろいろな事故や事故もどきを経験してきた中で、これほどはっきりとした予感はかつてなかった。

ダウラギリで会ったスペインの登山家、2019年11月当時80歳のカルロス・ソリアが「老いたら、とにかく日々、自分の体に聞くことだ。自分の中の声を聞くことだ」といった話を滔々としてくれたことがあった。

あの朝の予感は、私自身の体の叫びだったのだろうか。もう先に行かないでくれという。

●近著

『差別の教室』(2023年5月17日発売、税込1,100円、集英社新書)