『メアリーの総て』 刻まれた名前 (original) (raw)

ハイファ・アル=マンスール監督、エル・ファニング、ダグラス・ブース、ベル・パウリー、スティーヴン・ディレイン、トム・スターリッジ、ベン・ハーディ、メイジー・ウィリアムズ、ジョアンヌ・フロガット出演の『メアリーの総て』。2017年作品。PG12。

1814年、ロンドンに住むメアリー・ゴドウィン(エル・ファニング)は継母(ジョアンヌ・フロガット)と折り合いが悪く、一時実家を離れて父(スティーヴン・ディレイン)の友人たちのもとに移る。そこで知り合った詩人のパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と惹かれあうが、パーシーにはメアリーに言っていないことがあった。メアリーは父の反対を押し切ってパーシーとともに生きることを決心する。

映画の内容について述べますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

以前、映画館でポスターを見かけて、エル・ファニングの主演作品ということで気になっていました。

エル・ファニングはここ何年もコンスタントに映画に出演していて日本でも何本も公開されてますが、僕が彼女の出演作を観るのは2016年の『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』以来2年ぶり。主演映画はこれが初めて。

今年はお姉さんのダコタ・ファニング主演の『500ページの夢の束』もやってたし(今回と同じ劇場でした)、ファニング姉妹のそれぞれの主演作品を同じ年に観ることになりました。

カワイイ(^o^) 右側はクレア役のベル・パウリー

これはSF小説の祖ともいわれる『フランケンシュタイン(フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス)』の作者メアリー・シェリーの実話に基づく物語。

お馴染みの“フランケンシュタインの怪物”誕生のいきさつが描かれるんだけど、ただ観る前に、主人公メアリーと詩人でのちに結婚するパーシー・シェリーとの不倫の愛が描かれるということを知って、果たして興味が持てるテーマや題材なのか自信がなかった。

もう年の瀬だし、今、映画館から出てきてボンヤリしてしまうような映画を敢えて観たいとは思わなかったので、結構迷ったんですよね。

でも、監督が僕の2014年のベストワン作品だった『少女は自転車にのって』のハイファ・アル=マンスールということなので、その部分に大いに惹かれて鑑賞。

『少女は自転車にのって』は監督の故郷サウジアラビアを舞台にした現代劇で、今回の『メアリーの総て』の舞台はイギリスで英語の作品だし、時代は19世紀の初め頃。この2本の監督作品にどのような共通点があるのだろう、と思っていたんだけど、『メアリーの総て』で描かれる1814~18年というのは今から200年前でフランス革命が起こって間もない頃。ほんの少し前までナポレオンがいて、『レ・ミゼラブル』で描かれていた物語と同時代でもある。日本なら江戸時代後期。葛飾北斎や滝沢馬琴が活躍していた。もはや時代劇とか歴史物の範疇。

今なお多くの創作物のモデルにもなっている『フランケンシュタイン』がそんなに昔の小説であることも意外だったけど、ここでパーシー・シェリーによって提唱される「自由恋愛」という考え方や、あるいはメアリーの父親で無神論者の無政府主義者だったウィリアム・ゴドウィン、夫と同じく作家で、その著書の中で女性の権利を主張した母親のメアリー・ウルストンクラフトなど、当時としてはかなり先鋭的な思想の持ち主だった両親のもとで育ったメアリーの家庭環境がなかなか新鮮だった。

ちなみに、メアリーの父ウィリアム・ゴドウィンを演じるスティーヴン・ディレインは、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』でチャーチルと対立するハリファックス卿を演じていた人。

ウィリアムは最初はその物腰や表情が陰気な雰囲気だったが、娘たちにけっして乱暴な口をきくことはなく、メアリーのことをいつも静かに見守り、彼女に「自分の声を探せ」と大切な言葉をかける。

実家にいた頃にメアリーが書いていた文章をウィリアムが「すべてが誰かの物真似」とダメ出しする場面などは、多くの創作者がたどる最初の段階でもある。自分の声、自分の表現、自分の文章を生み出せ、と。

メアリーは両親の影響もあって(母親のウルストンクラフトは娘のお産が原因で亡くなっていたが、メアリーは母の著書からその思想を学んでいた)「結婚」という制度にさえ疑問を感じている。

のちに彼女がパーシー・シェリーとともにとった、当時だけでなく現代においても問題視されるだろう行動の原因の一端がうかがえて興味深かった。やがて彼女は父が忠告したように、その行動に伴う“結果”を身をもって経験する。それは自分が苦労するだけでなく、娘や自分以外の他者を犠牲にするものでもあった。

「自由」や「権利」を持ち出す時、どうしてもそのために誰かが酷い目に遭う可能性も生まれる。どこまでが許される「自由」や「権利」なのか。それは人が生き続ける限り問われ続けることでしょう。

恋愛や結婚の自由さえないサウジアラビアの現実を描いた『少女は自転車にのって』の監督が、「自由恋愛」の名の下に行なわれるいくつもの破廉恥な振る舞いに込めたものとは。恋愛や結婚、性にまつわる既存のモラルやルールを取っ払ったら、そこには何が残るのだろうか、という試み。

「自由恋愛」というのは、ここでは要するに気が向くままに誰とでも恋愛してセックスすることで、結婚も人を縛りつけるものとして拒否する。それはまたなかなか虫のよすぎる考え方でもある。一見「男女平等」を推し進める進歩的な考えのようでいて、多くが女性に一方的に負担を強いることになるのは歴史が証明している。

どんなに理屈をこねても、妊娠・出産すれば肉体的にも精神的にも女性の方が大変な思いをするのだし、事実、メアリーも含めた何人もの女性たちがそのためにつらく苦しい経験をしている。

義妹のクレアは詩人のバイロン卿(トム・スターリッジ)の子を宿したにもかかわらずその愛を得られず、メアリーの前で「私、失敗しちゃった」と涙を流す。腐れ貴族のバイロンだけでなく、既婚者でありながら妻と娘を捨ててメアリーと駆け落ちした挙げ句、クレアとも平気で同衾するパーシー・シェリーも相当のクズだ。

それでもメアリーは自分の選択を「後悔しない」と言い切る。それは彼女たちの犠牲となった者の側から見れば“居直り”ともとれるが、これは現代でもたびたび俎上に上がる芸術家とか表現者、クリエイターなどと呼ばれる人々の肩にかかる社会的、道徳的な責任の問題とも直接繋がるし、芸術家でなくても生身の人間が生きていくうえで誰かを愛したり相手から心が離れたりすること、それで誰かを傷つけたり人によっては命を失わせることだってあるのだから、ここで描かれているのはアーティストだけの問題じゃない。

では、すべての人が貞淑で誠実で誰も傷つけず問題も起こさずに生きていけばよいかといえば、多分そんな世の中は窮屈でつまらないだろう。堪えられない人々が続出するに違いない。世の中の大半の芸術作品や娯楽作品も姿を消すはずだ。残酷で冷たく汚い、そんな人間が美しいものを生み出すこともある。

ちょうど格闘家の闘いが人の人生を戯画化したものに見えるように、芸術家というのも彼ら自身が人々の人生を極端にキャラクター化して面白い「物語」として生きてみせる存在といえる。

人間は「正しさ」だけでは生きていけない。過ちを犯し、後悔して生き方を改める者もいるだろうが、後悔も反省もせずに暴走し続けて悲惨な最期を遂げる者もいる。最後まで痛い目にも遭わずに大往生する者も。さまざまにユニークな人生があり、そこから「ドラマ」も生まれる。

パーシー・シェリーを信じて彼を愛し、一人の女性を死に至らしめ、その幼い娘から父を奪ったメアリーは、パーシーの無責任さや無思慮で思いやりに欠けた行動に傷つけられ、貴族の親から勘当されて収入のない夫のせいで幼い娘さえも失う。まるで因果応報のような展開。

だが、その経験からあの『フランケンシュタイン』は生み出されたのだった。パーシーとの出会いがなければ、かの名作は誕生しなかった。

ここにはもうモノを生み出す者の「業」としかいえないものがある。「良い」か「悪い」かだけでは判断できない。

この映画を「不倫を美しいもののように描いている」と批判している人がいたけれど、それだけでこの作品を「許せない」と斬って捨ててしまうと、多くの名作さえもそのような倫理的な「善悪」でジャッジしてしまうことになる。それはもったいないだろう。

僕は少し前に観た『ビブリア古書堂の事件手帖』で、やはり不倫の愛が描かれていたのに苛立ちを感じて批判しました。

だけど、やってることはこの『メアリーの総て』のヒロインも同じようなもんなんだよね。『ビブリア~』で作家志望の不倫男が憧れていた太宰治なんて、まるでパーシー・シェリーの真似をしてるみたいなクズ野郎(彼もまたおのれのナルシスティックな美学と欲望のために幾人もの女性たちを道連れにしている)なのに、なぜこちらには腹が立たないのか。

それはクズな男のクズっぷりもしっかり描き、しかしその一方でその才能ある男に惹かれる女性の心理も説得力をもって描いていたから。パーシーには、「こういうイケメンのクズって、居る」というリアリティがあるのだ。そしてまた、彼に詩人としての才能がなかったら、果たしてメアリーは彼に本気で心を奪われただろうか。

太宰治本人と太宰に憧れる作家もどきの男との違いと同様に、才能の有無が決定的な違いをもたらすのだ。これは特に芸術の世界では残酷な事実である。

パーシーは芸術家としてすでに世間に認められていたし(そのわりには経済的にいつもギリギリなのが不思議なのだが)、だから彼が本の序文を書くことでメアリーは世に出ることができた。

人が人に恋をする理由は無数にあるだろうけど、激情を呼び起こすためにはそこに憧れやハッとさせられる「何か」が必要だと思うんです。それがあれば人は今ここから飛翔する。

パーシーの独りよがりな主義や何ものにも邪魔させないようなあくなき「自由」の希求は、きっとメアリー自身が求めていたものなのだ。それは映画の前半で描かれている。彼女は実家の本屋の店番に飽き飽きしていた。そこは自分の居場所ではないと感じていた。メアリーにとってパーシーは、彼女をいつも叱責する父の後妻から自分を救い出してくれる王子様に見えたのだ。

しかし、映画は夢を見ていた一組の男女の、その後の「現実」も見せる。パーシーはメアリーが想像していたような理想の男性ではなかった。

憧れた男への失望。そこですべてが破綻してしまう可能性もあった。だがメアリーはそこから起死回生の復活を遂げる。

これは危機に陥ったある一組の男女の蘇り、「一度死した者の生き返り」を描いた物語だったんですね。まさしくフランケンシュタインの怪物の誕生だ。

そのキーワードとなったのが「自分の声」。メアリーは父の言葉の通り「自分の声」を探し求め、ようやく見つける。それは彼女の18年間の人生が凝縮された物語だった。

「自分の声」とは、自分の文体であり、自分の物語のことでもある。

『ビブリア~』の太宰の真似して作家ごっこをしていた男には「自分の声」がなかった。だからそんな奴の不倫の話などつまらないのだ。つまらない男に惚れた女の物語も何も描かれていなかったし。

誰かの真似事は「もどき」に過ぎない。凡人には凡人なりの、観客の心に響くまた別のドラマがあるのだと思う。

メアリーはおそらく両親の作家としての才能を受け継いでいた。そういう意味では彼女は恵まれていたが、しかしその才能を開花させたのは彼女自身の経験と、その痛みや苦しみまでも作品化してしまう静かな狂気と熱情だった。

自分の物語を書きたい、という強い自己表現の欲求。パーシーとの駆け落ちもそのためにあったと言ってしまってもいいかもしれない。

見事『フランケンシュタイン』を書き上げたにもかかわらず、どの出版社に持ち込んでも性別や年齢を理由に断わられてしまうことへの苛立ち。

事実婚の相手であるパーシーによる代筆まで疑われる始末。

若い女性だと思って無礼な対応をした出版社の年配の男性にメアリーがぶつけた怒りは、残念ながら200年後に生きる女性たちの共感を得るもののようだ。

若い女に絶望や苦悩は表現できないと思っているのですか?と。

劇中で『フランケンシュタイン』は「若い女性には相応しくない内容」と言われるが、女性たちがホラーや愛憎劇が大好きなのは今や常識。あるいはそんなことはわかっていて、それでもそういうものを「女の名前」で出版したくなかったということか。

今年の「あいち国際女性映画祭」で運営側のお偉いさんの男性がスピーチで「この受賞作品はまさか女性監督が撮ったとは思われないほど大変完成度が高く…」などと口走った、というツイートを見かけたのですが、もしその発言が事実だとしたら(裏は取れていないが)あまりに情けない。メアリー・シェリーが抱いた怒りと悔しさ、その原因となった偏見は現在も脈々と受け継がれている。

後半に急に女性の権利の問題がクローズアップされだしたような印象も受けるが、前半で亡き母ウルストンクラフトが書いた著書をメアリーが読んでいたし、パーシーとの言い争いもそうだったように、『フランケンシュタイン』を書き上げた時に彼女は「自分の声」を見つけたのだ。

メアリーはパーシーに強い口調で「あなたに理想や希望の何がわかるの?」と問う。

それまではパーシーに振り回されるようにして生きてきたメアリーが「自己主張」して、夫が「出版社を紹介する」と言っても断わって自分の力で見つけようとする。

この時、作家“メアリー・シェリー”が誕生したのだった。死んでいた者に魂の炎がともった。

恥ずかしながら僕は彼女が書いた小説『フランケンシュタイン』をちゃんと読んだことがなくて、ボリス・カーロフが演じた有名なユニヴァーサル映画のモンスターや『怪物くん』で「フンガー」としか言わないデカブツのイメージがどうしても強いんだけど、原作の“フランケンシュタインの怪物”は知能が高く、読書もするし言葉も話す。

1994年のケネス・ブラナー監督・出演、ロバート・デ・ニーロ主演の映画『フランケンシュタイン』を劇場公開時に観ましたが、映像化されたものの中ではあの映画が原作にもっとも近いようで。

ブラナーの『フランケンシュタイン』の日本でのキャッチコピーは「なぜ造った」だったが、デ・ニーロ演じる“フランケンシュタインの怪物”は創造主であるフランケンシュタインに涙ながらに言う。「名前さえつけてくれなかった」と。この世に生み出しておいて、どうして愛してくれなかったのか。

死体から怪物を造り出しながらその醜さを見て“我が子”を捨てたヴィクター・フランケンシュタインとは、妻子を捨てて結果的に作家“メアリー・シェリー”の誕生に寄与したパーシー・シェリーであり、これはその「怪物」=メアリーが最後に自分の「名前」を得る物語でもある。

19世紀当時は女性の作家は匿名や変名で作品を出版することが多かったそうで、『高慢と偏見』の作者ジェーン・オースティンや『ジェーン・エア』『嵐が丘』のブロンテ姉妹、ジョージ・エリオット(本名メアリー・アン・エヴァンズ)なども生前は本人たちの名前では本が出せなかった。なるほど、そういう時代だったのか、と。

だからこそ、夫のパーシーが若くして事故死したのちに『フランケンシュタイン』の第三版で“メアリー・シェリー”という本名が記されたのは本当に画期的な出来事だったのだ。

この映画は『メアリーの総て』というなんだか意味ありげなようで実はあまり内容とも関係がないフワフワした邦題(『イヴの総て』からだろうか。『イヴの総て』の原題は“All About Eve”なので、ほぼ直訳なのだが)にされてしまっているけれど、原題はそのものすばり“Mary Shelley(メアリー・シェリー)”なので、邦題の方もそのままにすべきだったと思います。

だって、これは映画の最後についに主人公が自らの名前を取り戻す話なのだから。映画が語っていた、もっともキモの部分を取りこぼしている。

以前、『リリーのすべて』(原題は“The Danish Girl”)という邦題の映画もあったけど、「~のすべて」と付けておけばなんとなくそれっぽく聴こえるから付けた“雰囲気タイトル”にしか思えないんですよね。とても安易。

劇場パンフレットには原題が

『フランケンシュタイン』の作者はパーシー・シェリーでもなければメアリー・ゴドウィンでもない。メアリー・シェリーなのだ。それは死体を繋ぎ合わせて造られた“フランケンシュタインの怪物”のことであり、彼女が自分自身の意志で勝ち取った名前だった。

これは責任や覚悟についての映画でもある。作家とは業の深い生き物。自分の人生すら作品にしてしまう。そして自らの名前でその責任を負う。

名前はアイデンティティにかかわる重要なものだし、それをないがしろにされるのは自分の存在を無視されているのと同じことだ。名前を獲得するために闘った人々がいたということ。

この映画には、メアリー以外にも「自分の名前」のことで苦悩した者がいて、それはバイロン卿の別荘で行なわれた「ディオダティ荘の怪奇談義」でバイロンの侍医として登場したポリドリ医師。

彼はこの時に得た着想から怪奇小説『吸血鬼』を書くが、彼の作品とは認められずに長らくバイロンが執筆したものだと思われてきた。そしてポリドリは20代で自殺する。

彼もまた名前を奪われた者だったのだ。

出番は多くはないが、ポリドリはメアリー・シェリーの影のような存在として描かれている。ポリドリにはポリドリのまた別の物語があるのだろう。

ポリドリを演じているのは大ヒットして現在も公開中の『ボヘミアン・ラプソディ』でクイーンのメンバーの一人、ロジャー・テイラーを演じていたベン・ハーディ。『ボヘミアン~』ではキレながらコーヒーメーカーを投げつけようとしたり裏声で「ガリレオ、ガリレオ~♪」と唄ったりコメディリリーフのようにノリの軽い演技を見せていたけど、この『メアリーの総て』では一転してシリアスで生前はメアリーのようになれなかった気の毒な男性を好演。

歴史に埋もれていった多くの人々がいて、忘れ去られていった数々の作品がある中で、メアリー・シェリーの名前も『フランケンシュタイン』も今もなお記憶され続けている。

それがどんなに凄いことなのか、映画を観終わってあらためて実感しています。

そして偉大な作品を生み出したその女性は聖女でも悪女でもなく、人も傷つけ苦悩しながら「書くこと」を手に入れて生きた、一人の生身の人間だったということ。

エル・ファニングはほんとに素敵でした。

マレフィセント』や『トランボ』以来、僕はずっと彼女の歴史物を観たいなぁ、と思っていたので、それがかなったし、映画の内容も素晴らしいものだったから嬉しい。

今年は『フランケンシュタイン』が出版されてちょうど200年目の年。

あの時代から何が変わり、何が変わっていないのだろう。

一人の女性作家の姿を通して、さまざまなものが見えてくる映画でした。

現代のサウジアラビアから19世紀の英国まで、前進し続ける女性を描くハイファ・アル=マンスール監督の次回作も楽しみにしています。

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